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「理解するのをあきらめない」こと
もう一つの調査兵団スピリットがあります。
これは、とくにその団長に求められる「資質」でした。
すなわち、ハンジさんのいう「理解することをあきらめない姿勢」です(132話)。
たしかに、すくなくとも最後の三代の団長、すなわちエルヴィン、ハンジ、そしてアルミンは、方向性は違えど、みな「理解することをあきらめない」探究心にあふれたリーダーです。
かれらはみな、どんなに困難な状況においてすら、恐怖に対処するために思考を硬直させはしませんでした。
つねに成功したわけではないにせよ、どこかに別の道がないかと、つねに模索することをやめませんでした。
この姿勢、この態度、この意志こそ、調査兵団の「自由の翼」を導くのにふさわしい意志だといえます。
大同団結と「壁」を越えることの違い
そのような調査兵団長という大役を引き継いだアルミンは、この「理解することをあきらめない態度」によって、エレンがそう希望を託したとおりに「壁の向こう側」に到達することができました。
まず、始祖ユミルによって引き込まれた「道」の世界で、あきらめずに機転をきかせることにより「始祖の巨人」に逆転勝利する糸口をつかみました(136, 137話)。
そして「始祖」打倒後には、巨人が消滅した世界において、エルディア人が生き残る道を切り拓くことに成功したのです(139話)。
ここでは後者、すなわち「始祖」打倒直後、ミュラー長官たちマーレ残兵による生存したエルディア人のみなごろしをアルミンが回避した件を、考察してみます。
これ、さらっと流されているけれど、この作品のテーマにかかわる重要な場面だと筆者は思うのです。
まず背景として考えたいのは、このマンガの終盤の展開。
対立していた諸勢力が共通の敵を前に団結するという、少年漫画の王道のような流れ(ラディッツを前にした孫悟空とピッコロみたいな)になったことに、賛否両論ありましたね。
『進撃』らしからぬ、ありがちで安易な展開だという趣旨の反発がよくあったような気がします。
まあそうっちゃそうなんですが、でも、そういう表面的なプロットだけで『進撃』の物語構成を評価するのはもったいないんじゃないかな。
この作品では、共通の敵を前に団結することは、あくまできっかけでしかありません。
そのきっかけの先にこそ、登場人物たちが彼我(ひが)の溝に、隔たりに、あるいは「壁」にぶちあたる場面が出てきます。
126話以降の流れ、とくにライナーのほしがりジャンとライナーの一件や、コニーたちとイェーガー派との殺し合い、といったできごとのことです。
それを乗り越えていくのがどんなに苦しく辛いことかを、本作はかなりうまく描けているのではないでしょうか。
要するに、この作品の最終的な教訓は、大同団結すれば争いは克服できるということではなくて、それがどれほど困難なことであっても「壁の向こう側」をめざすしかないということなのです。
たしかに序盤のエレンは、敵さえ同じなら一丸になれるという発想には「欠伸が出」るとあきれていました(13話を参照)。
しかし終盤の展開は、そういう安易な大同団結は不可能であること、それでもこの不可能を追求するしかない場合があることを、描く試みだったとみるべきでしょう。
恐怖という最後の「壁」を越えて
そして、この困難な課題を達成するために必要なのが、調査兵団スピリットのもう一つの表現である「理解することをあきらめない態度」です。
人間どうしの「壁」を越えるためには、理解することをあきらめてはならない。
こう要約すると、なんだか誰でもいえそうな凡庸な教訓にみえますね。
でも、これを実践してみせることは、口でいうほど容易ではないのです。
とくに、他者への恐怖と不信が善意の人間をすら支配するような状況においては。
最終決戦の舞台であるスラトア要塞の司令官ミュラー。
かれもまた、愚かしい憎しみの「壁」を乗り越えたいと意志していました(134話)。
レベリオ区から列車で逃れることができた生き残りのエルディア人と遭遇したときには、かれらと協力して事態を打開しようとミュラーは望んだのでした(138話)。
ところが、そんな善意の人間ミュラー長官をさえも恐怖のとりこにしまう惨劇が、一瞬にして起こります。
エレンの「始祖」から出てきた、うねうねした「有機生物の起源」だかなんだかによって、生き残りのエルディア人がみな巨人にされてしまったのです(138話)。
かれらはマーレ兵には目もくれず、光るうねうねを知性巨人たちから守るために崖を降りていきました。
しかし巨人化の衝撃や、それによる建物の崩壊のせいで、マーレ兵士には負傷者が、ひょっとしたら死者すら出たことでしょう。
恐怖のあまりに態度を硬直させたミュラーらマーレ残兵は、巨人から人間に戻ったエルディア人たちに銃を向けます。
憎しみの応酬という愚行の再開を、かれらが望んでいるわけではありません。
「壁」を越えたいという善意を、かれらが忘れてしまったわけでもありません。
ただただ、心の底から怖いのです。
かれらと同じ姿をした眼前の人間たちが、またとつぜん人間を喰う怪物に変身し、襲ってくるかもしれないと、ただただ恐れているのです。
だからこそ、ミュラーは命令でも威嚇でもなく、ひたすらエルディア人たちに懇願したのでしょう。
かれらが巨人ではなく「人」であることを「頼む... 証明してくれ」と。
「今、ここで」それを証明してくれと(139話)。
だれも返答を見つけられない緊張に満ちた沈黙を、アルミンが破ります。
かれは武装を解きながら、臆することなく、穏やかに、かつ堂々と説き起こしました。
こちらがまだ巨人の力を有しているのなら
巨人の力を使って抵抗することでしょう
ですが銃口を向けられた今も無力な人のままであることは
我々が人である何よりの証明です
その言葉に反応し、警戒を解きはじめるミュラー。
かれの「君は...?」という問いかけに応えて、アルミンは高らかに名乗り出ました。
自分こそ、パラディ島出身でありながら「進撃の巨人」エレン・イェーガーを殺した者であると。
さりげなくアニをかばう右腕が、かわいいアルミンからイケメン・アルミンへの進化を象徴しています。
この説得で、エルディア人がもう巨人化の能力をもたないことが証明できているのかどうか、よく考えてみれば微妙です。
当人の意図に関係なく、外的要因(光るうねうねとかジークの「叫び」とか)によって、エルディア人たちはとつぜん巨人に変身してしまうことだってあるわけですから。
でもあの場面では、厳密な論理性は問題ではなかったのです。
むしろ、ミュラーたちマーレ残兵が囚われている不安と警戒心を解くことが、なによりも重要だったのです。
恐怖と不信こそが最後まで人間たちを隔てる「壁」であるということを、この場面でアルミンは見抜き、理解していたのでしょう。
だからかれは説得の内容だけではなく、その語り口、身振り、そして自分が相手と同じ立場にいると分かりやすく示したことをもって、ミュラーたちの恐怖を和らげることに成功したのです。
つまり、武器を捨て、両腕を開き、警戒心をみせず、穏やかに、かつ堂々と語ることによって。
そして、自分はパラディ島の側でありながら「地鳴らし」阻止を成し遂げたのだと、つまり自分はミュラーたちの側にいるのだと諭すことによって。
「始祖」打倒直後、エレンと「会った」記憶を「思い出した」アルミンは、そのおかげで、次になすべきことをはっきりと理解していました。
だからこそ、こうしてアルミンは堂々と「英雄」を演じ、ミュラーたちの警戒を解くことに成功したのです。
それは、あえて悪魔の役を引き受けた親友に報いるためでもあったはず。
そして、きっとこのとき、アルミンは悟ったことでしょう。
ミュラーとマーレ残兵に銃撃を思いとどまらせたものは、恐怖にまさる一つの欲求であったのだと。
恐怖という最後の「壁」の「向こう側」に人間を導いてくれるのは、他者を知りたいという欲求にちがいないのだと。
この欲求を、アルミンの言葉とふるまいは、ミュラーたちの心に呼び起こすことができたのです。
役割をまっとうした調査兵団
この場面で一番エモいと筆者が感じるのは、アルミンが立体起動装置を外したシーン。
その直前には、ミカサも去り際に立体起動装置を捨てましたね。
このシーンに、筆者はしんみりと感じ入ってしまいました。
ああ、ついに調査兵団は戦いを終えることができたんだなって。
巨人が消滅しただけでなく、調査兵団がついに「理解できないものを理解しにいく」任務を完了したから、もう立体起動装置は必要なくなったんだなって。
だから、謎だらけの怪物と「残酷な世界」に生身の人間が立ち向かう物語は、もうほんとうに終わりなんだなって。
【2023.11.8 追記】
この点、アニメ版最終話での諌山のネーム変更を考慮すると、解釈が変わりますね。
・ミカサが立体起動装置を外すシーンは描かれなかった。
・アルミンが立体起動装置を外すシーンは、アングル変更で、たんに武装解除している印象になった。
・数年後、アルミンらが平和大使として船でパラディ島に向かうシーンで、アルミンが自分たちをなおも「夢見がちで諦めの悪い」調査兵団だと呼んでいる(ついでに元マーレ戦士ライナーがジャンとコニーにひけを取らないドヤ顔をしている)。
これらの点から、アニメ版のアルミンたちは「地鳴らし」完遂阻止により調査兵団としての使命を終えて別の役割を引き受けたのではなく、今も「調査兵団」スピリットを抱きながら巨人なき後の世界で人類解放のための戦いをつづけている、と解釈できます。
【追記おわり】
見えない「壁」でみずからを囲う島
しかし調査兵団の最後のリーダーは、巨人との戦いのかわりに、世界の命運にかかわる新たな使命を背負うことになりました。
巨人なき世界に残る「壁」を乗り越えることです。
三年後。
かれらの故郷パラディ島には、あの失われた三重の壁のかわりに、見えない「壁」がそびえ立っています。
世界への恐怖と不信という、かたちはないのに、かつての壁よりも高くて堅牢かもしれない「壁」です。
この新たな障壁に囲われた島で、多くの人々は、憎むこと、戦うことにのみ希望を見出している様子。
ある兵士など、祖国の自由という崇高な大義に、感極まって涙すら流しています。
でもその背後には、いまも変わらず脱力系キャラを貫いている、むかし見た誰かさんも。
自分だけは見失うなと教官に戒められた元新兵の胸には、どんな思いが去来していることでしょうか。
軍事パレードに湧く大通りの脇には、人だかりを横目にどこかへと歩いていく、見たことのある一家族の姿が。
かれらの向かう先であろう港では、島の女王が、国内外の要人を率いて、海からやってくる平和の使者を待っています。
この島は、自由を求めて、恐怖からの解放を求めて、拳を高く掲げます。
恐怖は「壁」であるとともに、人を閉じ込める「檻」でもあるのでしょう。
だとすれば、恐怖の対象が理解可能なものになったとき、人は恐怖から自由になれるのでしょう。
でもそのためには、恐怖に囚われた人たちの心に、理解しようとする意欲が生み出されねばなりません。
どうやら、島の全員が恐怖のとりこになっているわけではなさそうです。
そうだとすれば、恐怖という「壁=檻」を乗り越えられる可能性は、この島にもきっとあるのでしょう。
「自由を望まずにはいられない」人間であるために
実存の哲学者サルトルはいいました。
人間は自由でありたいと望むとき、他人の自由をも望まずにはいられなくなると。
それは、自分の自由を条件づけているのは他人の自由であるということをも、同時に人間は理解するからなのだと。
われわれは自由を欲することによって、自分の自由がまったく他人のそれに依拠していることを、他人の自由が自分のそれに依拠していることを発見する。......状況への参加が行われるやいなや、自分の自由と同時に他人の自由を望まずにはいられなくなる。
サルトル「実存主義とはヒューマニズムである」
でも実際問題として、人間がいつでも他人の自由を尊重するとはいえません。
もしそれが正しいとしたら、どうして戦争が、暴力が、抑圧が、現実の世界からなくならないのでしょうか。
不信と恐怖という「壁」によって、人間は理解できないものから自分たちを隔てようとします。
この不信、この恐怖は、やがて偏見や侮りへと発展することでしょう。
これこそ、文化的、宗教的、人種的、階級的などの、さまざまな差別が社会に根を下ろす理由なのです。
性差別さえも、理解できないものの隔離――「戦う性」が「産む性」に対してとった態度としてボーヴォワールが想定するもの(4.4.a を参照)――に由来するのかもしれません。
こうして人間は、みずからを壁で囲うことを自由だと勘違いするのです。
それでも人間は、次のような存在でもあります。
人は、自分を欠如として発見することができる存在です。
みずからの無知を知り、この無知を超え出たいという欲求をもつことができる存在です。
つまり、人間存在とは「自己超出」(サルトル)なのです。
人間が理解できないものを恐れる存在であることも、また事実。
それを人間が偏見や憎しみや争いに発展させがちなのも、また事実。
しかしながら人間はまた、そのような恐れと憎しみを克服する可能性でも在るのです。
ほかならぬ自分自身を、人間は超え出るべき欠如として発見することができます。
そのとき、人はきっと、理解できなかったものを理解したいと欲するようになるでしょう。
人はきっと「壁の向こう側」が見たくなるでしょう。
人はきっと「自由を望まずにはいられなくなる」でしょう。
パラディ島に向かう船で、和平会談の成否を案じる使者たち。
しかし、使者の一人である最後の調査兵団長は知っています。
人間の憎しみとは、究極的には理解できないものへの恐怖だということを。
しかしながら、人間は恐怖にまさる他者への欲求をも抱きうる存在だということを。
だから、かれは仲間にいうのです。
人間の「争いはなくならないよ」と。
でも、それにもかかわらず、きっと「みんな知りたくなるはずだ」と。
かれら自身が憎しみという「壁」を乗り越え、他者とともに自分自身をも自由にすることができた、その「物語」を。
「壁」を作り出すのが人間ならば、その「壁」の向こう側に行きたくなるのも人間。
恐怖と憎しみにより反目するだけでなく、欲求と「物語」をつうじて結びつくことができるのも人間。
だとすれば、もし人類のあいだに「争いはなくならない」としても、それでも希望をもつべき理由が、それでも自由をめざすべき理由が、人間にはあるのです。
それゆえに読者は、フィクション作品のことではあっても、きっと願わずにはいられないでしょう。
ついに「壁の向こう側」を見ることができた若者たちの「物語」が、さらに多くの人々をして「自由を望まずにはいられな」くさせることを。
壁なき世界の幸せな子供たち
『進撃』最終巻の単行本カバーには、夕陽の射す丘でかけっこするエレンたち幼馴染トリオと、かれらに加わろうと丘を登る104期の仲間たちが描かれました。
みな、まだ罪を知らない子供たちの姿です。
丘の向こうに広がるのは、壁のない世界の光景。
憎しみと争いを象徴する壁など、まるで最初から築かれていなかったかのような、美しい世界の光景。
この心をうつ光景こそ、自由とは何かという問いに、この『進撃の巨人』という物語が最終的に出した答えではないでしょうか。
そう筆者には思えてなりません。
かれらがたたかったのは、大切な人であれ、名も知らぬ誰かであれ、他者のためでもあったでしょう。
でも同時にそれは、ほかのだれでもない、みずからの幸福な子供時代のためであったのです。
自分たちには許されなかった、幸せな幼少期のため。
でもほんとうは、幼い自分にも束の間、訪れたことがあるはずの、生を満たす甘美な瞬間のため。
そして物語の結末において、かれらは幸福な子供でありえた自分自身を救い出すことができたのです。
かれらの何人かは、たしかに死にました。
他の者たちも、大切な人を失い、罪に汚れたことで、子供のような無邪気な幸福からは永遠に追放されてしまったのかもしれません。
それでもかれらは「壁の向こう側」にたどりつくことができました。
かれらの行為の最終的な結果だけではなく、それに到達するまでの、かれらの意志、そしてかれらの罪さえもが、この結果に貢献したのです――エレンが犯した悪魔のごとき所業でさえも。
そのことによってかれらは、すべての人であり、かつ誰でもない「人間」の解放をなしとげました。
きっとそれは、幸福で自由な子供であったかもしれない自分を取り戻すことでもあったでしょう。
幸せな子供時代が、どうか「自由に値するようになる」という意志の源でありつづけますように。
幸せな子供時代が、どうか「自由を望まずにはいられない」という欲求の源でありつづけますように。
かれらにとっても、わたしにとっても。
(「進撃の巨人・自由論」おわり)