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前記事はこんな話でした。
- 壁内人類を脅かす巨人たちは、自由と相克する「運命」の象徴。
- 運命にあらがう自由は、マキャベリストの自由。マキャヴェリにとって、自由は善悪に優先する。マキャベリズムとは、人間らしく自由であるために、あえて非人間的になる覚悟。ここに自由のダークサイドが現れる。
- 『進撃』のマキャベリストはアルミンとフロックだよね。(でもアルミンのロールモデルであるエルヴィンと、フロックが希望を託すエレンとは、どっちもマキャベリストではない?)
ひきつづき、積極的自由のダークサイドを見ましょう。
理想的な自由のために他人の自由を否定する、いわば「毒親」的自由が、今回のテーマです。
情念への隷従
積極的自由=「人間らしい自己決定の状態」とは、わたしやあなた、すべての個人がそうあるべき状態です。
でも、だからといって、人間はつねに自由=自己決定の状態にいるわけではありません。
わたしは小腹が空いたから、吉野家で牛丼を食べる。松屋のカレーもいいけど、今日は吉野家で大盛りつゆだくかな。
これは、哲学的に見て、自由な自己決定と言えるでしょうか? 答えはノー。
空腹に駆り立てられることは、自己決定ではありません。生理的欲求という動物的=非人間的な要因に動かされているにすぎないのです。
あなたは吉野家の牛丼を食うか、松屋のカレーを食うかを自由に選べるけど、でもそれは自由と呼ぶに値しません。
わたしがアルミンっぽく、あえて人間らしさを捨て、冷酷非情な判断をすることは、それもある意味で人間らしい自由な行為です。
でも、わたしはアルミンっぽく、あえて人間らしさを捨て、松屋のカレーよりも吉野家の牛丼を選ぶことはできない。牛丼よりもカレーを食べるために「おれは人間をやめるぞ! ○ョ○ョーーッ!!」なんて、ナンセンスの極みです。どちらも食欲という動物的欲求の充足にすぎません。
ではここで、軍事国家マーレで迫害されるエルディア人に目を移しましょう。
エルディア人は明らかに自由ではありません。自由を奪われています。
グリシャの父(主人公の祖父)いわく、エルディア人は「根絶やしにされてもおかしくない立場」だけど、あえて生きることを許されている。だから逆らってはいけない。娘をマーレ当局者に虐殺された後だというのに、彼は息子にそう教え諭します。
彼は外面的に服従を強いられているだけでなく、魂それ自体において、マーレの巨大な権力に屈服しています。
「犬さながら」に、恐怖という情念に駆られて、息子に卑屈な従順さを説く彼のふるまいには、人間的な自由と誇りのカケラも見られません。
ただ欲望を満たすことも、ただ恐怖を避けることも、人間らしい自己決定ではなく、情念に駆られた動物的行動でしかない。それは情念への隷従であり、そこに自由は存在しません。
そして自己支配を欠く状態に慣れた人間には、みずからその状態を脱し、自由になろうとする気概すら湧き起こらないのです――自己卑下が板についた奴隷であろうと、いつもお腹いっぱいの暴君であろうと。
積極的自由の理想と「毒親」
それでは、みずから自由になろうとせず、人間らしくあろうとしない人間たちは、どうすれば自由になれるのか?
「自由はいいものだよ」と知ってもらうために、できることがあるかもしれません。
でも、それでもダメなら? 自由になってもらわなくてよいと放っておくか、さもなくば、自由になるべく強制するか。
こうして、積極的自由=「人間らしい自己決定」の理念は、自由とは対極であるはずの強制の正当化に転じうるのです。
グリシャを見ましょう。
「犬さながら」の父親に、そして世界に、幼くして絶望し、やがてエルディア復権派に誘われ、その指導的メンバーとなれるほど熱心に、そして熱狂的に、地下活動に努めるようなったグリシャ。
彼は子をさずかり、どんな親となったか?
自由のために、エルディア人がマーレへの隷従から解放されるために、子の自由を否定する親になったのでした。「グリシャ 毒親 」で検索。
極めつきは、このシーンでしょうか。毒親っぷりがカンストしてます。
まだ幼い子に、自由のための体制内潜伏活動を強い、自己犠牲をいとわない献身を強いる父親。
当局の捜査の手が迫っていることを知っている子は、なんとか親を思いとどまらせようとしているのですが、鉄の意志の毒親には通用しません。
父親は「どうして... ダメなんだ...」と、うつろな暗い目で独り言ち、思い通りにならない子(=思い通りにならない世界)を否定します。
子に与えられた名はジーク(Sieg)。ドイツ語で「勝利」の意。日本語で言えば「かつとし」くんですね。
ジークは生まれながらに、復権派の勝利、つまり自由の獲得という親の希望を託された。
しかしこの希望は、ジーク自身を苦しめ、彼の人間らしい願望(たとえば、親に認められ愛されたいという)をがんじがらめに縛る鎖でしかなかった。
親が望む「エルディア人の自由」のために、子の自由は否定されつづけたのです。
クサヴァーさんという心の支えがなければ、ジークは毒親の支配から、ついぞ解放されることはなかったでしょう。
どうして自由の大義が「毒親」を生むのか
ここで毎度ながら、バーリン先生からの一言。
その無知の状態においては意識的に抵抗しているもの〔=自由〕を、かれらは実際には目指している。......ひとたびこの見地をとったならば、わたしは人々の現実の願望を無視し、かれらの「真の」自我をかたって、かれらの「真」の自我のために、彼らを脅し、抑圧し、拷問にかけることができることになる。
バーリン「二つの自由概念」
グリシャの父のような、体制に心底屈服したエルディア人は、「壁の外」に出てはならないと言う。
しかしグリシャが知っている、エルディア人の「真の」歴史を、彼らは知らない。だから、自分たちを抑圧する体制は、正しいことをしていると思い込んでいる。あるいは、そう自分を信じさせている。
だがグリシャからすれば、彼らの「壁の外」に出ることへの恐怖、自分たちには自由がなくて当然という信条は「無知の状態」によって支えられているにすぎない。
他方でグリシャには、なぜ「壁の外」に出てはいけないのか、なぜ「壁の外」を見たかった妹が惨殺されねばならなかったのか、それがどうしても納得できない。
なぜ自由を求めた代償が犬の牙によるなぶり殺しなのか、どうしても彼には納得できない。
人間だれしも「壁の外」に出ることを「実際には目指している」はずだ。そのようにしかグリシャには思えない。
だから彼は、自分の子に、エルディア復権派のイデオロギーを詰め込んだ。人間だれもが「実際には目指している」ことを子が望むように。子もまた自分と同様に「壁の外」に出たいと望むように。
こうしてグリシャは毒親となります。
しかし、彼が子を支配したのは、利己主義からではなく、ほかならぬ民族の自由という大義のためでした。
彼の妹は「壁の外」に出て、飛行船を見たかった。なぜそのために殺されねばならない? なぜ妹のささいな自由の報いが、残酷な死でなければならない?
この怒りは、利己主義とは無縁なもの。
すぐれて人間らしい感情であり、人間の普遍的自由が理不尽に否定されることへの、人間らしい憤りです。
この怒りは、グリシャの魂が自由であることの証拠です。
ところが、まさにこの人間らしい自由への渇望こそが、グリシャを毒親にしてしまったのです。
自由のような、価値ある目標のために、他人の自由を圧殺すること。
これは文字通りの親子関係のみならず、教師と生徒の関係でも、上司と部下の関係でも、そして政治指導者と大衆との関係においてすら生じうることです。
だから哲学や倫理学においては、これをパターナリズム、保護者主義(Paternalism 文字通り訳せば「父親主義」)と呼びます。
〔カントによれば〕「保護者主義(Paternalism)は想像しうるかぎり最大の専制である」。なぜならそれは、人間を自由な存在ではなく、自分にとっての材料であるかのように扱うからだ。
バーリン「二つの自由概念」
保護者主義は、ある意味で、暴君による専制よりもやっかいです。
それは悪意よりも善意をもって、浅ましい利己主義よりも独善的な利他主義をもって、他人を支配するからです。
じゃあ善意の支配は悪意の支配よりマシかというと、ぜんぜんそんなことはないわけですね。グリシャは、我が子がどれだけ苦しみを訴えても聞く耳もたず、でしたから。
パターナリストは、もっともタチの悪い支配者にすらなりえるのです。
それこそ「自分が『悪』だと気づいていない... もっともドス黒い『悪』だ...」とディスられてしまうような。
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