進撃の巨人・自由論

わたしは自由であるか。自由とは何なのか。深堀りすれば自由の謎が解けるマンガもあるかもしれない。

0.4 自由と「毒親」 ~ 自由の哲学入門書として読む『進撃の巨人』

 

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嘘つきに、裏で「あいつは嘘つき」と言われていた。

「笑ったものか… アクビしたものか! こいつは迷う、迷うッ!」 

 

さて、前記事はこんな話でした。

  • 壁内人類を脅かす巨人たちは、自由と相克する「運命」の象徴。
  • 運命にあらがう自由は、マキャベリストの自由。マキャヴェリにとって、自由は善悪に優先する。マキャベリズムとは、人間らしく自由であるために、あえて非人間的になる覚悟。ここに自由のダークサイドが現れる。
  • 『進撃』のマキャベリストはアルミンとフロックだよね。(でもアルミンのロールモデルであるエルヴィンと、フロックが希望を託すエレンとは、どっちもマキャベリストではない?) 

 

ひきつづき、積極的自由のダークサイドを見ましょう。

理想的な自由のために他人の自由を否定する、いわば「毒親」的自由が、今回のテーマです。

 

情念への隷従

積極的自由=「人間らしい自己決定の状態」とは、わたしやあなた、すべての個人がそうあるべき状態です。

でも、だからといって、人間はつねに自由=自己決定の状態にいるわけではありません。

わたしは小腹が空いたから、吉野家で牛丼を食べる。松屋のカレーもいいけど、今日は吉野家で大盛りつゆだくかな。

これは、哲学的に見て、自由な自己決定と言えるでしょうか? 答えはノー。

空腹に駆り立てられることは、自己決定ではありません。生理的欲求という動物的=非人間的な要因に動かされているにすぎないのです。 

あなたは吉野家の牛丼を食うか、松屋のカレーを食うかを自由に選べるけど、でもそれは自由と呼ぶに値しません。

わたしがアルミンっぽく、あえて人間らしさを捨て、冷酷非情な判断をすることは、それもある意味で人間らしい自由な行為です。

でも、わたしはアルミンっぽく、あえて人間らしさを捨て、松屋のカレーよりも吉野家の牛丼を選ぶことはできない。牛丼よりもカレーを食べるために「おれは人間をやめるぞ! ○ョ○ョーーッ!!」なんて、ナンセンスの極みです。どちらも食欲という動物的欲求の充足にすぎません。

 

ではここで、軍事国家マーレで迫害されるエルディア人に目を移しましょう。

エルディア人は明らかに自由ではありません。自由を奪われています。

グリシャの父(主人公の祖父)いわく、エルディア人は「根絶やしにされてもおかしくない立場」だけど、あえて生きることを許されている。だから逆らってはいけない。娘をマーレ当局者に虐殺された後だというのに、彼は息子にそう教え諭します。

彼は外面的に服従を強いられているだけでなく、魂それ自体において、マーレの巨大な権力に屈服しています。

「犬さながら」に、恐怖という情念に駆られて、息子に卑屈な従順さを説く彼のふるまいには、人間的な自由と誇りのカケラも見られません。

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86話「あの日」

 

ただ欲望を満たすことも、ただ恐怖を避けることも、人間らしい自己決定ではなく、情念に駆られた動物的行動でしかない。それは情念への隷従であり、そこに自由は存在しません。

そして自己支配を欠く状態に慣れた人間には、みずからその状態を脱し、自由になろうとする気概すら湧き起こらないのです――自己卑下が板についた奴隷であろうと、いつもお腹いっぱいの暴君であろうと。

 

積極的自由の理想と「毒親」 

それでは、みずから自由になろうとせず、人間らしくあろうとしない人間たちは、どうすれば自由になれるのか? 

「自由はいいものだよ」と知ってもらうために、できることがあるかもしれません。

でも、それでもダメなら? 自由になってもらわなくてよいと放っておくか、さもなくば、自由になるべく強制するか

こうして、積極的自由=「人間らしい自己決定」の理念は、自由とは対極であるはずの強制の正当化に転じうるのです。

 

グリシャを見ましょう。

「犬さながら」の父親に、そして世界に、幼くして絶望し、やがてエルディア復権派に誘われ、その指導的メンバーとなれるほど熱心に、そして熱狂的に、地下活動に努めるようなったグリシャ。

彼は子をさずかり、どんな親となったか?

自由のために、エルディア人がマーレへの隷従から解放されるために、子の自由を否定する親になったのでした。「グリシャ 毒親 」で検索。

極めつきは、このシーンでしょうか。毒親っぷりがカンストしてます。

まだ幼い子に、自由のための体制内潜伏活動を強い、自己犠牲をいとわない献身を強いる父親。

当局の捜査の手が迫っていることを知っている子は、なんとか親を思いとどまらせようとしているのですが、鉄の意志の毒親には通用しません。

父親は「どうして... ダメなんだ...」と、うつろな暗い目で独り言ち、思い通りにならない子(=思い通りにならない世界)を否定します。 

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114話「唯一の救い」

 

子に与えられた名はジーク(Sieg)。ドイツ語で「勝利」の意。日本語で言えば「かつとし」くんですね。

ジークは生まれながらに、復権派の勝利、つまり自由の獲得という親の希望を託された。

しかしこの希望は、ジーク自身を苦しめ、彼の人間らしい願望(たとえば、親に認められ愛されたいという)をがんじがらめに縛る鎖でしかなかった。

親が望む「エルディア人の自由」のために、子の自由は否定されつづけたのです。

クサヴァーさんという心の支えがなければ、ジークは毒親の支配から、ついぞ解放されることはなかったでしょう。

 

どうして自由の大義が「毒親」を生むのか

ここで毎度ながら、バーリン先生からの一言。 

その無知の状態においては意識的に抵抗しているもの〔=自由〕を、かれらは実際には目指している。......ひとたびこの見地をとったならば、わたしは人々の現実の願望を無視し、かれらの「真の」自我をかたって、かれらの「真」の自我のために、彼らを脅し、抑圧し、拷問にかけることができることになる。

バーリン「二つの自由概念」

グリシャの父のような、体制に心底屈服したエルディア人は、「壁の外」に出てはならないと言う。

しかしグリシャが知っている、エルディア人の「真の」歴史を、彼らは知らない。だから、自分たちを抑圧する体制は、正しいことをしていると思い込んでいる。あるいは、そう自分を信じさせている。

だがグリシャからすれば、彼らの「壁の外」に出ることへの恐怖、自分たちには自由がなくて当然という信条は「無知の状態」によって支えられているにすぎない

他方でグリシャには、なぜ「壁の外」に出てはいけないのか、なぜ「壁の外」を見たかった妹が惨殺されねばならなかったのか、それがどうしても納得できない。

なぜ自由を求めた代償が犬の牙によるなぶり殺しなのか、どうしても彼には納得できない。

人間だれしも「壁の外」に出ることを「実際には目指している」はずだ。そのようにしかグリシャには思えない。

だから彼は、自分の子に、エルディア復権派のイデオロギーを詰め込んだ。人間だれもが「実際には目指している」ことを子が望むように。子もまた自分と同様に「壁の外」に出たいと望むように。

 

こうしてグリシャは毒親となります。

しかし、彼が子を支配したのは、利己主義からではなく、ほかならぬ民族の自由という大義のためでした。

彼の妹は「壁の外」に出て、飛行船を見たかった。なぜそのために殺されねばならない? なぜ妹のささいな自由の報いが、残酷な死でなければならない?

この怒りは、利己主義とは無縁なもの。

すぐれて人間らしい感情であり、人間の普遍的自由が理不尽に否定されることへの、人間らしい憤りです。

この怒りは、グリシャの魂が自由であることの証拠です。

ところが、まさにこの人間らしい自由への渇望こそが、グリシャを毒親にしてしまったのです。

 

自由のような、価値ある目標のために、他人の自由を圧殺すること。

これは文字通りの親子関係のみならず、教師と生徒の関係でも、上司と部下の関係でも、そして政治指導者と大衆との関係においてすら生じうることです。

だから哲学や倫理学においては、これをパターナリズム保護者主義(Paternalism 文字通り訳せば「父親主義」)と呼びます。

〔カントによれば〕「保護者主義(Paternalism)は想像しうるかぎり最大の専制である」。なぜならそれは、人間を自由な存在ではなく、自分にとっての材料であるかのように扱うからだ。

バーリン「二つの自由概念」

保護者主義は、ある意味で、暴君による専制よりもやっかいです。

それは悪意よりも善意をもって浅ましい利己主義よりも独善的な利他主義をもって、他人を支配するからです。 

じゃあ善意の支配は悪意の支配よりマシかというと、ぜんぜんそんなことはないわけですね。グリシャは、我が子がどれだけ苦しみを訴えても聞く耳もたず、でしたから。

パターナリストは、もっともタチの悪い支配者にすらなりえるのです。

それこそ「自分が『悪』だと気づいていない... もっともドス黒い『悪』だ...」とディスられてしまうような。 

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0.3 積極的自由の光と影 ~ 自由の哲学入門書として読む『進撃の巨人』

 

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積極的自由の光と影

干渉されずに自己決定できる「権利」としての消極的自由にたいして、積極的自由とは、自己決定の「状態」に達することであり、そこには自由が人間を人間的たらしめる理想的な状態であるという含意もあります。 

「人間賛歌は「自由」の賛歌ッ!!」

現代人は消極的自由の発想に慣れているが、しかし『進撃』のテーマは積極的自由ではないだろうか、というのが前回の話。

 

しかし、この自由観には光と影とがあります。

まずは光の部分から。

この自由は、個人の権利をこえた、人間の普遍的な目的として、崇高な光を放ちます。

ひとは、自分が人間らしくあるために、われ人間なりと証明するために、命をかけた闘争に挑むことすらあります。

ふたたび次のシーン。

 

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73話「はじまりの街

 

ところで、記事 0.1 で述べたように、消極的自由の理念は、干渉や束縛がないことを重視する一方で、人間らしさを損なう状態、たとえば極度の貧困のせいで悲惨な生き方を強いられる問題については、無関心です。

しかし積極的自由の理念においては、たとえば貧困も問題となるのです。

貧しくても、人間らしく生きることはできる。口ではそう言えるでしょう。

でも、極度の貧困のなかでは、動物的な欲求を満たす以上の時間的および精神的な要求をもつことは難しい。

あるいは、貧しさをスティグマ化する風潮(貧しい家庭出身の子が学校で、身なりに目をつけられいじめをうける、みたいな)のなかで、周囲の否定的評価を内面化してしまうと、自己尊厳が、自己決定に耐えうる安定した精神が、育たないかもしれない。

だとすれば、だれもが自由であるためには、貧困や、貧しさを貶める文化を、改革しなければなりません。

 

こうして積極的自由は、自由を阻む状況を積極的・能動的に変えようとする態度を促す、理想あるいは希望となるのです。

 

しかしながら、人間らしくない状態とは何か?

これは観点によって、さまざまに解釈できてしまいます。

 

ふたたび引用すると、壁の中から出られなくても「メシ食って寝てりゃ生きていける」けど、それはエレンに言わせれば「まるで家畜」(1話「二千年後の君へ」)。 

ここでエレンが言いたいことは、幸福に生きること自体の否定ではない。

自分たちが無慈悲な運命(壁外の巨人)に支配されているのに、そのことから目をそむけ、その日、その日の幸福に満足していることは、自由の放棄だ、という意味です。

ここでは、自由と運命の相克が問題となっていると見るべきでしょう。

 

運命への挑戦。これもまた、人間の自由を証明する崇高な闘いであります。

しかしながら運命とは、人間の意志には左右されないからこそ運命と呼ばれるのです。

どうすれば人間は運命から自由になれるのか?

 

積極的自由とマキャベリズム

ところで、運命に対する人間の自由を考えた思想家といえば、マキャヴェリ(1469-1527)です。 

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/e/e2/Portrait_of_Niccol%C3%B2_Machiavelli_by_Santi_di_Tito.jpg/220px-Portrait_of_Niccol%C3%B2_Machiavelli_by_Santi_di_Tito.jpg

 

マキャベリズムといえば、目的のためには手段を選ばない冷酷無情な政治主義、といった意味あいが連想されるでしょう。

それは間違いではないのですが、しかしマキャヴェリの眼目がどこにあるかを理解しなければならない。

彼の『君主論』は、平和な時期に王冠を継いだ世襲の君主ではなく、イタリア戦争期の動乱のさなか、その権勢が不安定な国の玉座に就いた、新興の君主に捧げられたものでした。

新興の君主が、どうすれば荒れ狂う運命に対して権勢を維持し、その不可解な力から自由であることができるかを、マキャヴェリは説こうとしたのです。

この世の事柄は運命と神によって支配されているので、……世事には齷齪(あくせく)しても仕方なく、むしろ成行きに任せておいたほうが、判断としては良い……。

だがしかし、私たちの自由意志が消滅してしまわないように、私たちの諸行為の半ばまでを運命の女神が勝手に支配しているのは真実だとしても、残る半ばの支配は、あるいはほぼそれぐらいまでの支配は、彼女が私たちに任せているのも真実である、と私は判断しておく。

 マキャヴェリ君主論』第25章

 

わたしたちは自分の行為を、まあ半分くらいは支配できる。

じゃあ逆境のなかにある新興の君主は、どうしたらいいの?

答えは、あえて非人間的な手段を使う術を知れ、です。 

......君主たる者には、野獣と人間とを巧みに使い分けることが必要である。

......君主は......可能なかぎり善から離れず、しかも必要とあれば断固として悪のなかにも入っていくすべを知らねばならない。

マキャヴェリ君主論』第18章

 

ここでマキャヴェリは「可能なかぎり善から離れず」と言います。

彼は善悪がどうでもいいと称するのではなく、人間的な手段ではうまくいかないときは、いつでも非人間的な手段にスイッチせよと主張しているのです。

君主あるいはその権勢=国家(lo stato)が、運命の支配に抗して、自由であるために。

こうして、正しい意味でのマキャベリズムは、自由は善悪に優先する目的だから、あえて悪をなせ、と人に命じるのです。

 

ここで問題となっているのもまた積極的自由です。つまり、自己支配の状態としての自由です。

ただしマキャベリズムにおいては、自由をめぐるジレンマが現れます。

目的は、人間を人間的たらしめる自由=自己支配の状態に達すること。

しかしそのための方法には、人間を野獣たらしめる非人間的手段さえもが含まれる。

運命に抗して、自由=人間的であるためには、状況次第で、人間性を捨てねばならない

それがいやで、人間性を失いたくないというなら、状況次第では、人間らしい状態=自己支配としての自由を放棄することに甘んじるしかない。

自由と人間らしさが、いつのまにか両立しなくなるのです。

 

『進撃』のマキャベリストといえば ......

それでは、この正しい意味でのマキャベリズムを体現する、作中の登場人物とは誰か?

やはり、まずはアルミンを挙げるべきでしょうね。

何かを変えることのできる人間がいるとすれば 

その人は きっと... 大事なものを捨てることができる人だ

化け物をも凌ぐ必要に迫られたのなら

人間性をも捨て去ることができる人のことだ  

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27話「エルヴィン・スミス」

 

不可解な運命に抵抗する者は「化け物をも凌ぐ必要」に迫られて「人間性をも捨て去る」のだと、ここでアルミンは彼らの団長エルヴィンを擁護します。

正体不明の、巨人化能力をもつ壁内人類の敵(ここでは女型の巨人)を出し抜くため、団長は仲間の命をあえて危険に晒したのであり、それは正しいのだと、アルミンはジャンに説明します。

これ以上ないほど潔いマキャベリズム擁護。

 

この時以来、アルミンのロールモデルはエルヴィン団長になります。

正体を現したベルトルトに「ゲスミン」式精神攻撃を仕掛けるときも、彼が意識するのは片腕を失いながら指揮をとるエルヴィンの姿。 

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49話「突撃」

 

それでは、準主役であるアルミンがマキャベリストであるとすれば、『進撃の巨人』はマキャベリズムの書(マンガ)なのでしょうか?

マキャヴェリ的な自由を理想として掲げているのでしょうか?

筆者は、かならずしもそうではないと考えます。

作者・諌山は、マキャベリズムの「英雄的」側面のみならず、その暗い側面もまた、きちんと描き出しているからです。

この側面を体現するのは、やはり「イェーガー派」筆頭のフロックでしょうね。

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125話「夕焼け」

 

エレンという「悪魔」にすべてを賭けたフロック。

故郷パラディ島が、敵対する全人類という「運命」から自由となるために、島外の人類(と島内の「不安の種」)をみなごろしにする計画を、ちゅうちょなく推進するフロック。

彼もまたマキャベリストで、しかも冷酷無情というイメージに非常にぴったりくるマキャベリストです。

 

そうだとすれば、なぜ同じマキャベリストであるアルミンとフロックが、正反対の道(地鳴らしを止めるか、地鳴らしで人類みなごろしか)を選んだのか?

選んだ目的が違うだけで、両者が体現する自由は同じものでしかないのか?

この点は、そのうち、独立の記事を立てて考察してみることにします。このブログがそんなに長く続くかは知りませんが。

 

ついでながら、アルミンのロールモデルである、エルヴィン。

そして、フロックがその暗い希望を託した、エレン。

実は、彼らはどちらも、マキャベリストではありません。

彼らの行いを、自由と人間性とは両立しないという命題の根拠と見なす、アルミンやフロックがマキャベリストであるにすぎないのです。

そのことも、そのうち論じたいなあ。でも、そんなに続くかなあ、このブログ。

 

閑話休題。積極的自由の「影」については、まだ語りつくされていないので、その話は次の投稿で。

 

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0.2 積極的自由 ~ 自由の哲学入門書として読む『進撃の巨人』

 

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積極的自由

進撃の巨人』のテーマである「自由」について、前記事では、だいたいこんな風に論じました。

  • それは個を尊重する自由だが、かといって、わたしたちになじみ深い私的・消極的な自由(干渉されない・束縛されない自由)ではない。
  • それは部下としてのわたし、兵士としてのわたし、そういう外面的な地位や立場をすっ飛ばして、かけがえのない個としてのわたし自身に「お前の責任で自由に選べ」と迫ってくる、一見して寛大だけど、実は非常におっかない自由である。

じゃあ、どういう自由が『進撃』のテーマなのよ? という話になります。

それは消極的自由ではない。

ならば、消極的の反対ということで、積極的自由 positive freedom ではないかと見当をつける読者さんがいたら、勘がいい。

 

積極的自由とは何か。自分で自分を支配することです。

先のバーリンをふたたび参照すると、彼の定義によれば、積極的自由とは「自分自身の主人でありたい」という希望の実現であり、「さまざまの決定をいかなる外的な力にでもなく、わたし自身に依拠」させることなのです。 

これを消極的自由と対比してみましょう。

あれこれの目標を達成するための権利を干渉から守ることが消極的自由であるとすれば、積極的自由とは、自己支配という状態そのものを目標にすることです。

あれこれの行為を妨げられないことが消極的自由であるのにたいして、積極的自由とは、個別的な諸行為よりも持続的な状態を、自己支配のもとで活動しているという状態を指します。

古代から啓蒙の時代まで、哲学者たちの関心事であった自由とは、たいていの場合、積極的自由なのです。アリストテレスしかり。ストア派しかり。マキャヴェリしかり。ルソー、カント、そしてヘーゲルしかり。

自己保存のために自然の自由を放棄すべしと説くホッブズやロックですら、消極的自由(私的権利)のみならず、積極的自由(自己決定の状態への到達)をも同時に論じたのです。

 

で、エレンが求めているのは、積極的自由、自己決定の状態としての自由です。

ウォールマリア奪還に向かう途上でエレンが回想した、自由への渇望の原体験を見てみましょう。

オレはずっと鳥籠の中で暮らしていたんだって気付いたんだ

広い世界の小さな籠で わけのわかんねぇ奴らから自由を奪われてる

それがわかった時 許せないと思った(73話)

 

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73話「はじまりの街

 

これが10歳にも満たないときですよね。

で、10歳になると、知り合いの飲んだくれのおじさんに、こんなこと言っちゃいます。

一生 壁の中から出られなくても...... メシ食って寝てりゃ生きていけるよ...

でも...それじゃ... まるで家畜じゃないか...(1話)

 

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1話「二千年後の君へ」

 

最低限の安全と物質的な生活条件が与えられていれば、私的な自由はとりあえず確保できます。つまり「メシ食って寝て」生きていくことが可能なのです。

でもそれは、自己決定、自己支配の状態ではありません。

巨人という「わけのわかんねぇ奴ら」のせいで押し込められた「鳥籠」のなかで「家畜」のように生きることでしかないのです。

(それにしても、いくら架空の物語とはいえ、こんなセリフを吐く10歳のガキがいるかいな......。 まったくリヴァイ評のとおり「本物の化け物」です。まあエレンは、その尋常でない自由への渇望を除けば、割と普通なキャラでもあるのですけど。)

 

さらには、エレンの原体験の回想が出てくる同じ73話、調査兵団がをウォールマリアに出発する前に、兵団は人類に「自らの運命は自らで決定できる」という希望を示せるだろうか、というナレーションが珍しくかぶされています(この作品はほとんどナレーションを使わない)。

この作品世界において追求されている自由が、積極的自由、つまり自己支配・自己決定の自由であるということを、なんてはっきりと示してくれたことでしょうか。

 

積極的自由は「人間賛歌ッ!!」

自己決定、自己支配。これは現実世界のわたしたちにとっても重要な価値ではないのか?

たしかにそのとおり。しかし問題は、わたしたちが自己決定を、積極的自由ではなく消極的自由というフレームで理解することに慣れている点です。

たとえば、DVを受けている女性がいるとする。彼女は配偶者によって、奴隷のように扱われている。100円単位の出費すら管理され、配偶者の気まぐれに合わせられなければ殴られる。彼女は、自己決定を奪われている。

でも現代社会では、この女性は、配偶者によって基本的人権を侵害されているから、自由ではないと理解されます。

もし彼女のことを、あるべき自由の状態に達していないから自由ではないと述べたとすれば、なに言ってんのコイツ、DV被害者を見下してんの? となりかねませんね。

消極的自由とは権利であり、積極的自由とは状態である。この区別は重要です。

 

自己決定とは、他人に干渉や束縛をされないことと同じではないか? 同じ自由を、別な言葉で言っているのにすぎないのでは?

ところがそうではないんです。

積極的自由とは(権利ではなく)状態であり、しかも人間存在の理想的状態として理解されてきたような自由なのです。

自由であるとは、人間らしい状態、人間にしか達しえない状態です。

エレン風にいえば「家畜」や「鳥籠」の鳥には享受できない状態なのです。 

ふたたびバーリンを引用しましょう。

だがわたしは......自然の奴隷ではないだろうか。あるいは、わたし自身の「制御できない」情念の奴隷ではなかろうか。......一方では支配する自我を、他方では服従させられるなにかを、みずからのうちに自覚することがないだろうか。

バーリン「二つの自由概念」

 

自分自身を支配する自我は、理性、良心、その他なんであれ人間的な能力を司る、自由な自我です。

他方、この自我によって統制されるものは、情念と呼ばれる、人間のなかの動物的な部分です。

前者が後者を支配できるのでなければ、わたしは人間らしく自由であることができません。

ここから、自分の欲望にあわせて恣意的に権力をふるう暴君は、情念の奴隷にすぎないという、ルソー的な君主政批判も出てくるのです。

 

別の作品になってしまいますが......

「人間賛歌は「勇気」の賛歌ッ!!」 ここに、まさに自己支配の自由=人間らしい状態という理想が掲げられています。

人間は、恐怖という情念をコントロールして強大な敵に立ち向かうための、自我をもっている。だから人間には、勇気という概念がある。

彼が対峙する屍生人(ゾンビ)は、勇気を知らない。情念に動かされるだけの、自由ではない存在。だから、どんなに強くても「ノミと同類」なのです。

  

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『進撃』にも『進撃』流の 「人間賛歌ッ!!」があります。

やはりウォールマリア奪還作戦導入の、73話から。

オレにはできる ...イヤ オレ達なら できる
なぜならオレ達は 生まれた時から 皆 特別で 自由だからだ(73話)

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73話「はじまりの街

 

ここでエレンは、自分は特別な存在だという驕りを捨て、しかし自己卑下からも脱しています。

そういう精神状態で、「オレたち」はみな生まれながらに特別で、自由だから、ウォールマリア(ここでは自由の象徴)を取り戻すことができると、自分を鼓舞します。

人間はみな、生まれながらに自由であり、自由であるからこそ人間です。

 

壁内人類は巨人の侵入に脅かされているので、ほんとうは「生まれた時から......自由」ではない。

でもここで言っているのは、そういうことじゃないです。

調査兵団が自由への希望をもち、人間の誇り高さを失っていないということ自体、すでに彼らが人間らしい自己決定=積極的自由の状態にあることの証拠なのです。

だから「オレたちにはできる」し「オレ達は......自由」なのです。 

(つづく) unfreiefreiheit-aot.hatenablog.com

 

0.1 自由の哲学入門書として読む『進撃の巨人』

 

自由の物語

マンガ『進撃の巨人』が4月に完結しました。

で、みなさん、あのキャラがああなった、こうなったとか、結末がよかったとか、期待外れとか、そういう感想ばかり言いあっています。

ちょっとした作品批評を含んだ記事を見ても、なんだか浅いコメントしか見当たりませんね。現代社会の「閉塞感」をうんたらかんたらとか、史実をうまく盛り込んでなんたらかんたらとか。

 

みんな、ちゃんと『進撃の巨人』読みました?

主役のエレンがあんなにがんばって「自由」「自由」って主張してきたのに、なんで自由を掘り下げないかな?

なんなら作者の諌山が、人類に「自らの運命は自らで決定できると 信じさせることができるだろうか」なんて、壮大なナレーション入れていらっしゃいますよね? それ読んだら、自由がテーマの作品なんだな、そう読んでみるか、ってなりません? 

 

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73話


もっと言えば、この作品は、エレンだけが自由を求めている話じゃないんです。主要キャラみんなが、どうやって自由になれるかという試練をくぐり抜けているんです。

ミカサも、アルミンも、ジャンも、ヒストリア(これは分かりやすいか)もそうです。

ライナーも、アニも、ベルトルトもそうです。

 

もしそう読めないとしたら、理由は一つ。たったひとつの単純(シンプル)な答え。

あなたは「自由」をよく分かっていないのです。 

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煽ってるんじゃあ、ございやせんよ。

この作品は、哲学的な自由の諸理念を表現してみせているのだ、と言いたいだけです。

 

哲学的自由論の実演として『進撃の巨人』を読む

古代から現代に至るまで、さまざまな哲学者が、自由とは何かについて、ああでもない、こうでもないと、議論を繰り広げてきた。

進撃の巨人』は、そういう多種多様な、しかも、しばしば相競合する哲学的自由論を、ファンタジックながらもリアリスティックな物語に仮託しながら、きわめて印象的かつ効果的に実演している。

 

かねてより筆者は、そう感じていました。

で、作品が完結したので読み直してみたところ、自分の読み方は正しいと確信したのです。

でも、今のところだれもそういうことは言っていない。だったら先に書いちゃおうと、このブログを立ち上げました。

(ほんとうは『進撃』の自由観を深堀りしようとする論稿も散見されるんですけど、ちょっと筆者はどれにも納得できなかったという意味です。)

 

読解の方法について、あらかじめ断っておきます。

第一に、本ブログでは『進撃の巨人』1-139話しか題材にしません。スピンオフ、ファンブックなどの類は、いっさい除外します。作品それ自体のみを、さまざまな哲学的自由論と照らし合わせながら考察します。

第二に、作者・諌山があれそれの哲学書を下敷きに本作品を描いたとか(違うと思うけど)、彼がかれこれの思想をもっているとか(論じる気にはなれない話題だけど)、そういうことはいっさい推測しません。作者の意図には還元されない、作品世界それ自体を、そしてそれだけを、考察の題材にします。

 

消極的自由

筆者としては、アリストテレスアウグスティヌスマキャヴェリホッブズ、ルソーやカント、さらにはマルクスニーチェサルトルまで引っ張り出して、自由の物語としての『進撃の巨人』を多角的に解きほぐすつもりであります。

語れることは、当分尽きないくらいはある。アニメ版の最終クールの放映が始まる頃までは多分イケる。

しかし最初に示しておくべきは、どんな自由の理念が『進撃の巨人』にはないのか、という点でしょう。

 

 『進撃の巨人』のテーマに含まれない自由、それは 消極的自由 negative liberty です。

消極的自由とは何か? この語を定義したのは、20世紀の哲学者、というより思想史家のアイザイア・バーリン(1909-97)でした。彼が消極的自由と呼ぶのは、次のような意味の自由です。 

ふつうには、他人によって自分の活動が干渉されない程度に応じて、わたしは自由だと言われる。……あなたが自分の目標の達成を他人によって妨害されるときにのみ、あなたは政治的自由を欠いているのである。

バーリン「二つの自由概念」

 

要するに、消極的とは「干渉されない」「束縛されない」という意味です。したいことを「してはならない」と束縛されなければ、またしたがって、したくないことを「やれ」と強制されなければ、わたしは自由なのです。

なお「政治的自由」とは、法的に保障される自由という意味に理解して、差支えありません。

 

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わたしたちが日常的に慣れ親しんでいるのは、このような自由観でしょう。バーリンもこれを、自由の「ふつう」の意味あいと見なします。 

移動することを禁止されている人は、自由ではありません。人間は移動することができますから。

親が許可しない友人と遊べない子供は、自由ではありません。子供はみずからの判断で友達を作ることができますから。

愛し合っているのに、家族の都合や社会の偏見や法律(とくに同性愛者について)のせいで結ばれない二人は、自由ではありません。二人は共同生活を築くことができますから。

強盗に「カネを出さないと殺す」とナイフを突き出されて売上金を渡すコンビニ店員は、自由にカネを出すのではありません。もともと他人の理不尽な命令に従う理由はありませんから。

 

では、強盗することは自由か? というのも実行犯には、カネを脅し取るという目標があり、それを達成するための十分な能力(腕力、知力、度胸)もあり、他方で実行の効果的な妨げはなかったのです。だから形式的には、強盗もまた自由な行為です。

だからといって、強盗のような行為もまた束縛されるべきではない、とあえて唱える人はほとんどいないでしょう。放任されるべき行為と、束縛されるべき行為とは、区別されねばなりません。

したがって、自由な行為と制限または禁止されるべき行為との線引きが、消極的自由をめぐる問題となります。

 

では、どこに線を引くか。どこに自由の限界を設けるか。

近代的な自由主義リベラリズム)において広く受け入れられているのは、J. S. ミル(1806-73)のいわゆる危害原理です。 

文明社会で個人に対して力を行使するのが正当だといえるのはただひとつ、他人に危害が及ぶのを防ぐことを目的とする場合だけである。

ミル『自由論』 

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つまりミルが言いたいのは、他人に危害を加えるような自由でないかぎり、どのような自由も放任されねばならないということです。

なお上記のバーリンは、ミルを消極的自由の最重要の哲学者と見なしています。現代リベラリズムの古典であるロールズ『正義論』も、ミルの危害原理を前提としては受け入れています。

 

こうして、他人に危害を加えないという条件で、わたしがやりたいことにどんな干渉も受けないということが、消極的自由(その純粋形)ということになります。

この「干渉からの自由」には、二つの重要な含意があります。

第一に、自由が個人の権利の問題になるということ。

消極的自由の本質は、私的な、個人主義な自由です。自分自身にかかわり、他人の権利を理由として法的に禁じられないことであれば、個人はそれを行う権利をもつのです。

ここから、わたしたちが慣れ親しんでいる自由観が出てきます。法律で禁じられていないことを、わたしは行う権利があり、だからそれを行うことはわたしの自由である

 

第二に、他人や法律によって干渉されるからではなく、たんにわたしが行おうと思っても実行できないことは、自由の欠如ではないということ。

わたしには重力に逆らう自由がないということは、言っても意味がないのです。

さらにバーリンにいわせると、たとえば貧乏だからパンが買えないという話は、個人の自由が不当に干渉されるという話とは区別しなければなりません。

  

命令に従う自由?

さて、ここからが本題です。

上述のような消極的自由は、『進撃の巨人』ではほとんど扱われないのです。

わたしたちが慣れている「束縛されない自由」「私的自由」「権利としての自由」は、この作品のテーマではない。むしろ、それとは異質な自由が問題となるのです。

この作品が、自由を主題としているのに、この主題については表層的にしか読まれていないことの理由は、おそらくここにあるのでしょう。

 

ここで、女型の巨人に追跡されるリヴァイ班の場面を例にとりましょう。

追跡を阻止しようとする兵員たちが次々と女型の巨人に殺されるなか、リヴァイはこのまま全速力で前進せよと命令、しかしエレンは命令に逆らってでも巨人に変身して迎撃しようとしました。

その瞬間、リヴァイは「やりたきゃやれ」と言い放ち、判断をエレンの自由に委ねたのです。

「悔いが残らない方を自分で選べ」。25話の、説明不要の名シーンですね。

 

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25話「噛みつく」

 

結局、エレンは「仲間を信じて、命令に従う」を選びます。 

彼は自由に選択したのか? しかり。

しかしながら、自由に選ぶ権利を行使したとはいえない。

いわば、命令にたいして自由に服従したのです。

それに従うか従わないか自由に判断する余地を残すような命令は、命令とはいえません。だから、命令にたいする自由な服従というフレーズは、自己撞着を起こしているように見えます。

でも、ここでのエレンの選択は、命令にたいする自由な服従としか表現のしようがありません。

 

リヴァイの意図を考えてみましょう。

何が正しい決断かは誰にも分からない、だから自分で納得できる判断をしろ。そうリヴァイは言いました。

これは、どっちを選んでもいいよという意味なのか? 束縛を免除しているのか?

否。命令に従うよう誘導しているのです。独断で動こうとしたエレンを冷静にさせ、独断を思いとどまらせるために、彼の選択を誘導するために、選ばせているわけです。

 

たしかに他の班員とは違い、リヴァイは頭ごなしに「黙って従え」とは命じませんでした。でもそれは、彼いわく、エレンが「本物の化け物」で、彼の「意識」を服従させることは不可能だと考えているから(これがまったく的確な評価と分かるのは後の話)。

つまり、どうにも手綱をつけられない馬を、どうにかうまく操るために、あえてリヴァイはそう言ったにすぎません。

しかもリヴァイは「俺にはわからない」と言いながら、この状況では自分の命令が最善であると確信していたはずです。

だって、この場面では彼だけが「女型」生け捕り計画を知っていたのですから。

 

しかしながら、リヴァイの言葉は「俺の言うことに従わないなら、後悔するぞ」というような、よくある脅し含みの誘導ではなかった。

逆です。

「悔いが残らない方を自分で選べ」と、つまり「俺は命令したが、しかし命令に従わないことだけでなく、従うことの責任も、お前が負え」と言ったのです。

命令に従うか従わないかの選択肢を、どちらにも重みをつけずに、ある意味ではまったくフェアなしかたで、エレンに差し出したのです。

 

「かけがえのないわたし」の自由と責任 

他方で、エレンの判断は、切迫した状況に、調査兵団という軍事組織の規律に、そして上官の発した命令によって、幾重にも縛られていたはずです。

しかし現実問題としては、エレンの意志は縛られていなかった。

兵団の規律や上司の命令でさえ、状況の制約という程度にしか、彼の行為や判断を縛っていません。

それは彼の精神性が、リヴァイいわく「本物の化け物」であったからですし、またそうでなくても、巨人化して応戦するという、じゅうぶんに有力な対抗手段を独り有していたからです。

それにもかかわらず、縛られない精神であるエレンは、リヴァイに覚悟を問われ、命令に従うことを、まさしく自由に選びました。 

 

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エレンの判断は縛られていない。では、それは私的な、消極的な自由という意味で、自由な判断なのでしょうか?

それは違うというべきでしょう。私的な判断であれば、その結果に影響されるのは自分や、せいぜいごく親密な人だけです。

しかしエレンは、組織の仲間の命に、ひいては組織の存続にかかわる、非常に重大な判断を背負わされました。

それにもかかわらずリヴァイは、組織の規律に服すべき一兵員にたいしてではなく、エレンという名の、この世に二つとない個性にたいして、自由に選べと呼びかけたのです。

 

ここで問題となっているのは、私的な自由ではない。

しかし、組織における個人の義務や責任でもない。

エレンという個性それ自体の、状況における自由な選択なのです。

 

これは、私的・消極的自由においてそうであるとの同じく、個の尊重です。

しかしリヴァイは、仲間全員の命がかかっているところで、お前自身が選べ、兵士ではなくエレンであるお前が選べと、そういうやりかたでエレンという個を尊重するのです。

一見すると寛大そうですが、その実、なんとすさまじく、おっかない「個の尊重」であることでしょう?

 

でも、それこそが、この『進撃の巨人』という作品世界における自由の意味である。そのように筆者には思えます。 

わたしが自由であるのは、外的な地位としての「わたし」(会社員でもバイトでも学生でも教師でもなんでもいい)がそう判断したからではなく、内なる「わたし」が、なににも代えられないわたし自身が、そう決めたからである。

そういう種類の自由こそが、この作品全体を貫くテーマなのではないか。

 ......だから、『進撃』の自由観は「新自由主義」と親和的、っていう話は、ちょっと皮相な気がするんだよなあ。

この作品の「世界観」は、ネオリベ=強者優位で弱者は搾取されるのみの競争原理を、たしかに連想させるかもしれない。でもその世界観はあくまで舞台背景でしかなくて、作品それ自体のテーマでは全然ないんだよね。

それにネオリベと呼ばれる自由の根っこにあるのも消極的自由、つまり私的な権利としての経済的自由だし。

koorusuna.hatenablog.jp

 

で、わたしたちになじみ深い私的・消極的な自由が『進撃』のテーマではないとすれば、この作品の自由を、どう名づけ、どう理解すればいいのか?

それは稿を改めて述べましょう。筆者の意欲が続けば、ですが。

(つづく) 

unfreiefreiheit-aot.hatenablog.com