進撃の巨人・自由論

わたしは自由であるか。自由とは何なのか。深堀りすれば自由の謎が解けるマンガもあるかもしれない。

2.3.b 「特別なわたし」の自由またはファウスト的自由 (下) ~ マキャベリズム・ロマン主義・実存的自由

 

「上」からお読みください。 

unfreiefreiheit-aot.hatenablog.com

 

ファウスト的自由 ~ 崇高な瞬間を体験するために

この世界に「特別なわたし」が実現される崇高な瞬間を追い求める、ロマン主義的エゴイスト、またはファウスト的自我。

そういうファウスト的な存在にキースはなりそこねた一方で、エレンはそのような自我から解放され、等身大の自己を引き受けられるようになりました。

エルヴィンに戻ると、誰にでも特別な存在として認められているかれは、しかし外面的な名誉のために戦っているのではありません。

エルヴィンを駆り立てるのは、みずからの存在意義そのものに等しい願望、すなわち、壁外に人類が生存していることを王政は隠しているという、かれと父親が考えた仮説の正しさを証明してみせる夢です。

 

このエゴイスティックかつロマンティックな夢は、ウォールローゼ内での巨人出現事件をきっかけに、にわかに現実味を帯びます(51話)。

突如出現した巨人たちの正体は、事件と同時に無人となったラガコ村の住民たちであるということを、村に残されたあらゆる痕跡が示しています。

だとすれば、壁外をさまよう無垢の巨人たちもまた、もともとは人間であったかもしれない。

だとすればまた、人間を巨人に変える超常的な力が、つまり人類を魔法のように操る力が存在するとしても不思議ではない。

こうしてラガコ村の事件は、この奇妙な壁内文明が、そのような力をもつ者によって計画的に作られたことを示唆している。

並外れた洞察力をもつエルヴィンは、ここまでのことを瞬時に見通しました(この推論を、のちにかれは55話でピクシスに開陳することになります)。

その瞬間、このファウスト的自我の体現者は、無意識に笑みを浮かべていました。

そのさまを目の当たりにしたリヴァイは、このときはじめて、エルヴィンが戦う本当の理由をおぼろげながらに察したのです。

f:id:unfreiefreiheit:20210808170520j:plain

f:id:unfreiefreiheit:20210811210302j:plain

51話「リヴァイ班」

 

だからリヴァイは、壁内人類の命運をかけたシガンシナ区奪還作戦の直前、エルヴィンを試します。 

片腕を失ったかれは壁内で勝報を待つべきであって、何が起きるか分からない決戦の地に居るべきではない。だからエルヴィンの足の骨を折ってでも、かれの作戦参加を断念させる。そうリヴァイは脅したのです。

これに観念したエルヴィンが、ようやく口にした本心。

「この世の真実が明らかになる瞬間には 私が立ち会わなければならない」

そのことが「人類の勝利より」大事だと、あえてエルヴィンは認めました(72話)。

f:id:unfreiefreiheit:20210808161329j:plain

72話「奪還作戦の夜」

 

このエピソードから、エルヴィンの「夢」がたんなる真理の発見以上のなにかであることが判明します。

かれにとっては、部下たちが戦いに勝利し、グリシャの地下室から世界の真理を持って帰ってくるのでは意味がありません。 

ほかでもない、かれだけが気づいていた真理を、かれ自身の手によって掘り起こしてみせる、その至高の瞬間を、みずから体験しなければならないのです。

したがって、エルヴィンの、このロマン主義的エゴイストの究極目的は、ファウストが「時よ止まれ、汝はなんと美しい」という感嘆の声で言い表した崇高な内的経験に等しいもの、すなわち、究極的充実の瞬間を生きることに違いありません。

 

崇高な内的体験を追い求め、ファウスト的な渇望に突き動かされて生きること。

このロマンティックかつエゴイスティックな生の様式を、ファウスト的自由と、ためしに呼んでみることにしましょう。

 

究極の選択を前にしたファウスト的自由

ついに、シガンシナ区を奪い返そうとする調査兵団と、エレンを奪い去ろうとする巨人たちとの、最終決戦の舞台へ。

比較的小型の巨人にすら危なっかしい戦いを迫られる、わずかな熟練兵士の生き残りと大多数の新米兵士たち。調査兵団の明らかな弱体化。この最終局面に至るまでに、どれほど多くの仲間たちが命を散らせたことか。

この気づきがエルヴィンに、みずからのファウスト的渇望の直視を促します。

訓練兵時代、かれは父親から受け継いだ仮説を、仲間に語って聞かせていました。

ところが調査兵団に入ると、かれは「なぜか」その話をしなくなります。

ほんとうは、エルヴィンは知っていました。その理由は、自分の夢が、人類のために命を捧げる仲間たちとは共有できない、ひたすら私的な夢であるからだと。

...イヤ...違う

なぜかではない 私は気付いていた

私だけが自分のために戦っているのだと

他の仲間が人類のために すべてを捧げている中で......

私だけが... 自分の夢を見ているのだ (76話)

 

だから「人類に心臓を捧げよ」という兵士の宣誓は、エルヴィンにとっては、仲間や自分を騙すでしかありませんでした。

自分自身の夢のために、仲間の命を「博打」に投げ込むためのでしかありませんでした。

そう気づいていながらエルヴィンには、自分の夢が、グリシャの地下室に眠る世界の真実が、どうしても気になって仕方がない。

そうやって 仲間を騙し 自分を騙し

築き上げた屍の山の上に 私は立っている 

...それでも 脳裏にチラつくのは 地下室のこと (76話) 

f:id:unfreiefreiheit:20210808170542j:plain

76話「雷槍」

 

こうして、いまやこのファウスト的自我は、究極の選択を迫られつつあります。

調査兵団指揮官としてのわたしと、ロマンティックで孤独な夢追い人としてのわたしとの、どちらのわたしを貫くべきかという選択を。 

 

ところで『進撃』と『ベルセルク』を両方読んだ読者は、このエルヴィンの独白から「蝕」の一場面を連想せずにいられないでしょう。

鷹の団団長グリフィスもまた、似たような選択肢を迫られます。夢に破れた悲劇の人間として終わるか、それとも夢をあきらめないために残る仲間を犠牲に捧げて人間を超越するかという。

そんなグリフィスの精神的自画像は、無数の屍を積み上げたのに、それでも夢の高みには届かない、そういう孤独な少年でした。 

f:id:unfreiefreiheit:20210808170555j:plain

 

仲間の屍を踏みこえて夢に向かう、鷹の団団長と、調査兵団団長。

両者の類似性は言うまでもなく明らかです。

まあ『進撃』の作者・諌山は『ベルセルク』に影響されたことを公言しているようですので、両作品に似ているシーンがあるのは当然なのですが(他にもいくつか類似点がありますし)。 

でも、問題はこの先。

二人の団長の、二人のロマン主義的エゴイストの選択は、正反対のものでした。

 

みずから悪魔になったファウスト

まずは鷹の団団長を見てみましょう。

「自分の国」を手に入れるという夢の実現まであと一歩というところで、グリフィスは失脚し、再起不能の傷を負わされ、絶望の底に沈みました。

まさにそのとき、悪魔とも天使ともつかない奇怪でグロテスクな霊たちが降臨し、グリフィスに選択せよと働きかけます。

かれら「欲望の守護天使」は、運命に弄ばれる人間に、人間を超越するための魔力を与えてくれるというのです。

その代償として「天使」たちが契約相手に要求するのは、その者にとって大事な、かけがえのない他の人間たちの命を「捧げる」という宣言。

f:id:unfreiefreiheit:20210812044915p:plain

   

こうしてグリフィスは、仲間か夢かの、人でありつづけるか、それとも人ならざる存在と化すかの、二者択一を迫られます。

かれが選んだのは、夢でした。

かれが選んだのは、仲間とともにある人間としてのわたしではなく、孤独なロマンティストとしてのわたし渇望するエゴイストとしてのわたしそれを満たすためには人間性すら捨てられるほど激しい人間的欲望に狂いもだえるわたしでした。

f:id:unfreiefreiheit:20210812102322p:plain

 

仲間を「捧げる」と宣言したグリフィスは、悪魔メフィストフェレスと契約したファウストそのもの。

たしかに、契約の相手は悪魔ではなくて「欲望の守護天使」を名乗る妖しい霊たちである、という違いはあります(そもそも『ベルセルク』には、天使も悪魔もなく、人間と超自然的な諸存在とがいるだけなのですが)。

しかしこの「天使」たちは、むしろ「悪魔」メフィストフェレスよりもはるかに狡猾です。

満たされない感性をもて余す知的に早熟な青年をたぶらかすメフィストフェレスは、契約相手の欲望を満たすかわりに、かれを地獄に引き込みたいのですが、しかしその試みには最終的に失敗します。

ところが「欲望の守護天使」たちは、契約相手の青年がその天才的偉業にもかかわらず破滅に至るのを見届けてから、絶望の淵にある青年のもとに降臨したのです。

しかも「天使」たちは、契約相手を騙して陥れたかったのではなく、かれを救済し、仲間に引き込みたかったのです。

そのかぎりで、かれらは契約相手グリフィスにとっては、ほんとうに「天使」だったのです。

こうしてグリフィスは、メフィストフェレスよりはるかに狡猾な悪魔あるいは天使と契約して、自分の「夢」のために、みずからを悪魔あるいは天使(第五の天使フェムト)に変えたのでした。

 

......脇道にそれすぎましたね。『ベルセルク』の考察ブログじゃないんだぞっていう。

ポイントは、グリフィスはみずから悪魔となったファウストである、ということです。

かれはファウスト的自由を貫き、みずからを崇高さへの意志と化した結果、人類の一員であることを放棄し、文字通り人ならざる存在へと姿を変えたのでした。

 

ファウスト的自由を諦めたファウスト

調査兵団の団長は、悪魔となったファウストたる鷹の団団長とは、反対の選択肢をとりました。

夢なかばにして終わる人間としてのわたしを選んだのです。

 

「獣の巨人」の投石により、全滅の危機に立たされた調査兵団

せめてエレンとともに退却するよう迫るリヴァイに対してエルヴィンは、どうせ死ぬなら任務を放棄し、最期にグリシャの地下室を見に行きたいという願望を、正直に吐露します。

弱音を吐くエルヴィンの表情に、あのクレイジーな博打打ちの冷静沈着な覇気は、みじんも見られません。

すぐ目の前にある「夢」を諦められないと、腕をわなつかせるエルヴィン。

でも、そんなかれの背中には、無数の視線が注がれています。死んだ調査兵団の仲間たちの、両の瞳から。

かれらは「捧げた心臓がどうなったか知りたいんだ」――そのように感じるわたしは「子供じみた妄想」を頭のなかで描いているだけなのだろうか。

そうエルヴィンは自問し、リヴァイの様子を窺います(80話)。

f:id:unfreiefreiheit:20210808203612j:plain

f:id:unfreiefreiheit:20210808203624j:plain

80話「名も無き兵士」

 

一見すると、ここでエルヴィンは何も選んでいません。ただ逡巡しているだけです。

しかし、ほんとうはすでに選び終えていたのでしょう。あとは、それを口にするだけだったのでしょう。 

代わりにそれを言葉にしてくれたのはリヴァイでした。

「俺は選ぶぞ」。そう宣言したうえで、かれはエルヴィンに伝えます。

「夢を諦めて死んでくれ」と。「獣の巨人」は「俺が仕留める」と。

それがエルヴィン自身の選択であったことは、かれの心のつかえが取れたような、諦めと安堵が相半ばする表情から見てとれます。

f:id:unfreiefreiheit:20210808203635j:plain

80話「名も無き兵士」

 

この場面には、メフィストフェレスはいません。

リヴァイはエルヴィン(=ファウスト)をたぶらかす悪魔ではなく、かれ自身の決意をかわりに言葉にする役を演じただけです。

かれらの周囲に現れた仲間たちもまた、エルヴィン(=ファウスト)の意志を操る力などもたない、もの言わぬ死者にすぎません。

エルヴィン自身は、究極的充足の瞬間を追い求めるファウストですが、かれはとっくの昔に「メフィストフェレス」との契約を済ませていたはずです。

かれにとってのメフィストフェレスは、おそらく自分自身だったのでしょう。その孤独な夢を実現することに自己の全存在意義を見出す、そのような自分自身だったのでしょう。

 

ゲーテの描いたファウストは、究極的充実を体験するために悪魔の助けを借りたにもかかわらず、最期は神と、かつての恋人グレートヒェンの霊とによって許され、救われます。

しかし『進撃の巨人』版ファウストたるエルヴィンにとっては、悪魔メフィストフェレスもまた自分自身であり、したがって、かれに最終的にもたらされるべき救済もまた、神でも悪魔でもない自分自身から受け取るしかないのです。

地下室に隠された真理を見ることを、みずからの存在意義の究極的実現の瞬間を、あの「時よ止まれ、汝はなんと美しい」という感嘆をもらす瞬間を、みずから諦めたエルヴィン。

夢とともに、ファウスト的自由をも放棄したエルヴィン。

でも、この自由をエルヴィンは、諦めと屈服のなかで放棄したのではなく、もっと価値のある自由のために、かれが人間としてそう認めざるをえない自由のために放棄したのでした。

ファウストの魂は救済されましたが、エルヴィンの魂はどうなったでしょうか。それはもうすこし後で考察することにしましょう。

 

unfreiefreiheit-aot.hatenablog.com

 

2.3.a 「特別なわたし」の自由またはファウスト的自由 (上) ~ マキャベリズム・ロマン主義・実存的自由

 

unfreiefreiheit-aot.hatenablog.com

 

ロマン主義と非モラリズム

アルミンはマキャベリストを目指しながら、エルヴィンはエゴイズムを貫きながら、二人とも根本的にはある種のロマン主義者であったという点から、考察を再開しましょう。 

かれらの行動原理には、二つの要素があります。

ひとつはロマン主義

もうひとつは非モラリズム(amoralism)。

ただしアルミンの場合、かれのロマン主義と非モラリズム(マキャベリズム)は外的な関係、すなわち目的と手段の関係にしかありません。

それにたいしてエルヴィンの場合、かれのロマン主義と非モラリズム(エゴイズム)とは内的な、切っても切れない関係にあったと言えます。

 

この点をふまえつつ、筆者は次のような仮説を立ててみようと思います。

実存主義とは、非モラリズムを通過した先においてしか到達できない、価値ある自由または倫理的自由を追い求めるロマン主義である、と。 

この構図によって『進撃』を読み解くことで、アルミンやエルヴィンが実演した自由の本質を見抜くことができるのではないかと考えます。

 

ファウスト的自我または「特別なわたし」

ロマン主義と非モラリズムの妖しい関係、ロマン主義者に対して非モラリズムが放つ誘惑の香りは、近代文学の古典的テーマと言えるでしょう。

ここで筆者が想定しているのは、ゲーテの『ファウスト』です。

生の有限性を嘆き、人間の生が経験しうる全てを知りたいがために悪魔メフィストフェレスと契約した、あのファウスト博士の物語です。

books.shueisha.co.jp

 

ファウストが体現するのは、経験の名において、世界のすべてを支配するまで飽き足らない、ロマンティックかつエゴイスティックな自我です。

平凡な人間たちはおろか、学知を究め尽くしたエリートたちすら知らない、人間に到達可能なかぎりもっとも崇高な生の充実を体験すること。

そのような経験に、ファウストは激しく、狂おしく渇いています――そのために俗世の善悪を顧みず、一切のためらいもなく悪魔と契約するほどに。

かれに究極的な充実を味あわせようとしてメフィストフェレスが提供するのは、きわめて私的な愛の喜びと苦しみから(グレートヒェン)、古代ギリシアの神話的世界の追体験をへて、一国の主になることにいたるまで、多種多様で落差の激しいもろもろの経験です。

恋をすることや君主になること自体ではなく、それらにおいて得られる内的体験の強さや深さが、いやむしろ、その特別さ、その固有性、その単独性こそが、ファウストにとって重要なのです。

f:id:unfreiefreiheit:20210808150630j:plain

悪魔との契約――フランツ・ジム(F. Simm)による『ファウスト』挿絵

 

このファウスト的自我、自己を「特別なわたし」として実現しようとする自我、極めつきのロマン主義者かつエゴイストであるような自我。

まさにエルヴィンの自我はこれと同じものであるとは言えないでしょうか。

ファウスト的自我とは、わたしだけに許された特別で崇高な瞬間を追い求めて、世にいう善悪から離れ、わたしにとっての善へとかならずや至るであろう道を孤独に歩みつづけていく、そのような旅人です。

旅人はかならずや苦難と挫折に直面することでしょう。

しかし、まさにそのような苦痛と絶望の体験は、究極的な自己充足に到達するために払わねばならない代償なのであって、むしろ旅人が目指す崇高な体験の構成要素をなしているのです。

 

ファウスト的自我のなり損ねとしてのキース

「特別なわたし」に到達するための苦難の旅として、自分自身を生きること。

このロマンティックな自我の旅の、なんと魅力的なことでしょう。

しかしこの魅力は、人を欺くものでもあります。「特別なわたし」になる素質のない者に、それがあると思い込ませてしまうかもしれないのです。

そう、調査兵団の指揮官エルヴィンの前任者であった、キース・シャーディスのように(71話)。

 

自分を「特別なわたし」と信じようとするキースの欲求は、当初は無自覚なものでしたが、壁の外からやってきた男、エレンの父グリシャ・イェーガーの一言をきっかけに、自覚的な信念へと押し上げられます。

巨人と戦う勇敢な調査兵団を、グリシャは「特別な」「選ばれし」者と呼んだのです。 

f:id:unfreiefreiheit:20210808094909j:plain

f:id:unfreiefreiheit:20210808094927j:plain

71話「傍観者」

 

でも残念ながら、グリシャの言葉はキースを虚しい思い込みに誘うだけでした。

まあ、かれには素質がなかったですね。

比較的高い戦闘能力のほかに取りえがなかったことや、リーダーにふさわしい指導力や判断力を欠いていたことだけが問題ではありません。

キースは自己の特別さ、非凡さ、偉大さを信じているくせして、ふさわしい自己評価の尺度や指針をもたず、それをありきたりな世間の評判に委ねていたのです。

自分が高みに立っていると感じるために、キースは凡庸な俗人を見下すことしかできませんでした

真に特別な才能をもつ人間には、自己確認のために他人を見下す必要などないでしょう。エルヴィンがそんなことをしたでしょうか?

そのうえ、自分はいずれ名誉を手に入れるだろうという根拠に乏しい信念は、意中の女性(後にエレンを産んだカルラ)にモテたいという満たされない願望の、屈折した表現でもあったのです。うーん、この俗っぽさ。

ちょっとキースのダメダメっぷりには弁明の余地がありません。

f:id:unfreiefreiheit:20210808094940j:plain

71話「傍観者」

 

そんなキースは挫折すべくして挫折します。

成果の上がらぬ遠征帰りに、自分の無根拠な虚栄心を呼び起こした男と結婚してしまった意中の女性が、赤ちゃん連れで現れて「死ぬまで続けるんですか?」なんて言葉をかけてきた日には、そりゃあ、涙目になって女性に「手当たり次第男に愛想を振りまき酒を注いで回るしか取り柄の無い者」なんて暴言でも吐いてなきゃ、風前の灯の自尊心を保てませんよ。

まあそのセリフで、自分の器の小ささをさらに際立たせてしまうのですけれど。

f:id:unfreiefreiheit:20210808095003j:plain

71話「傍観者」

 

たしかにキースは、自由を渇望する勇敢な兵士でした。

たしかにキースは、自分の信念を実現しようとして命を懸けることができる人物でした。

でも、命を懸けること自体は、個人の非凡さや偉大さの証明ではありません。

むしろ死を恐れぬヒロイズムですら、ときとして自分をだます「ごまかし」になりうるのです。

 

若き日のサルトル、一介の文学者として名を挙げたばかりの時期にドイツとの戦争に駆り出されたサルトル、自己を一世紀遅れでこの世に生を享けたロマン主義文学者とみなすサルトルは、このことを鋭く洞察し、駐屯地でしたためた日記に書き残しました。

......ドラマの時が過ぎ去ってしまい、たえず死のことを考えながらみじめったらしく生きねばならなくなったとき、ヒロイズムの昂揚の一つ一つが結局のところ、自分を安心させるなんらかの無邪気な方法を隠しもつ、ごまかしとなるのだ。......戦争は存在の正当化として役立ちうる。戦争は「そこに在ること」(être-là 現存在)の重さを軽減し、その言い訳となるのだ。いまや、死もやはりその重さを軽減されるということがわかる。少しも正当化されることなくただ生きるだけ、ということはそれほど難しいのだ。

サルトル『奇妙な戦争』1939/11/30

わたしとは何の支えも後ろ盾もなくそこに在る実存でしかないことを、そのことが人生にもたらす重みを、勇敢さやヒロイズムは、かえって軽減してしまうのだとサルトルは見抜きました。

死の恐れすら自分を自分から遠ざけてしまうほどに、人が実存的自由を全面的に引き受けながら生きることは難しいのです。

 

「特別なわたし」から「人間賛歌ッ!!」へ

こんなにもダメダメっぷりが過ぎる元指揮官に、ハンジさんがマジギレするのも仕方がありません。

しかしエレンは、キースの痛い思い出話を聞いて、むしろ納得ができました。

巨人化という特別な能力をもつ自分は、しかし実際には「特別でもなんでも」なく、ただ「特別な父親の息子」だったにすぎない。

そのことが「はっきりわかってよかった」と、エレンは言います(71話)。

f:id:unfreiefreiheit:20210808095028j:plain

71話「傍観者」

 

エレン自身も、巨人化の能力に開眼した当初は「オレって特別、畜群はオレの足をひっぱるな」的な、ニーチェ的超人風の慢心に半ば染まっていたのですが(1.1)、でもその慢心はレイス家騒動において、一度、決定的に打ち砕かれていたのでした(1.4.b)。

こうして、キースとは違って早いうちに欺瞞的な虚栄心から脱出できたエレン。

そんなかれにキースは、かつてカルラがかれに与えた祝福の言葉を伝えます。

特別じゃなきゃいけないんですか?
絶対に人から認められなければダメですか?
私はそうは思ってませんよ 少なくともこの子は...
偉大になんてならなくてもいい 人より優れていなくたって...
だって... 見て下さいよ こんなにかわいい
だからこの子はもう偉いんです
この世界に 生まれて来てくれたんだから (71話)

f:id:unfreiefreiheit:20210808095046j:plain

71話「傍観者」

  

こうしてエレンは、自分が特別でなくても、かけがえのない祝福された存在なのだと感じることができたのです。

生まれて来た時点で満点なんだよ~!

www.kadokawa.co.jp

 

カルラの祝福は、某ペンギンさんが現代人に与えてくれる、ストレスフルな日常を耐え忍ぶ自己肯定のための励ましとは、同じようでちょっと違うものです。

エレンにとって、母からの祝福は、それ以上のものでした。

それは、すべての人間がそれぞれに特別な存在であること、そしてそれこそが人間の自由の根本条件であることを、エレンに気づかせてくれたのです。

その証拠に、このエピソードを境に、あの常軌を逸したフリーダム・ファイターであるエレンは、急に少年漫画の主人公っぽいセリフをぽんぽん言い出すようになります。

だからオレ達は 自分にできることを何か見つけて

それを繋ぎ合わせて大きな力に変えることができる

人が人と違うのはきっと こういう時のためだったんだ (72話)   

f:id:unfreiefreiheit:20210808095057j:plain

72話「奪還作戦の夜」

 

そして、以前にも引用した「人間賛歌は自由の賛歌ッ!!」ですね。 

オレにはできる ...イヤ オレ達ならできる
なぜならオレ達は 生まれた時から 皆 特別で 自由だからだ(73話)

こんな殊勝なセリフをエレンが吐けるようになったのは、母の祝福により、ファウスト的自我への執着から解き放たれたからです。

キースとは異なり、素質のない人間を騙し込むファウスト的自我への妄執から、エレンは手遅れになる前に脱却することができました。

しかしそれは、かれが一度は俗世のモラリズムに反抗し、そして「特別なわたし」という思い込みに身を浸してみなければ、決して到達しえなかった心境なのです。

 

unfreiefreiheit-aot.hatenablog.com

 

2.2 エルヴィンがマキャベリストではない理由 ~ マキャベリズム・ロマン主義・実存的自由

 

unfreiefreiheit-aot.hatenablog.com

 

マキャベリストのようでマキャベリストではないエルヴィン

マキャベリスト・アルミンがロールモデルとする、調査兵団の指揮官エルヴィン・スミス。

記事 0.3 で予告しておきましたが、かれは実のところマキャベリストではありません。

正確に言えば、エルヴィンはマキャベリストとしてふるまうことができますが、しかしかれの行動原理はマキャベリズムとは違うものなのです。

 

そもそもエルヴィンをマキャベリストとして評価しているのはアルミンであって、他の兵士たちはもっとシンプルに、かれを類まれな才覚をもった、全幅の信頼を置くべき指導者として称えています。

「女型の巨人」捕獲作戦においてエレンやジャンは、作戦のために犠牲となった者の多さゆえに、エルヴィンはもっといい方法がとれたのではないかと疑いますが、作戦を知らずに危険に晒された当の上官たち、少なくともリヴァイ班の面々は、エルヴィンへの揺るがぬ信頼を表明しています(27話)。

 

あと一歩のところで女型に証拠隠滅を許してしまった(実は逃がしてしまった)調査兵団

この一件でエルヴィンは、巨人化の初心者エレンを基準に敵の能力を推定していたことの誤りを認め、次のような教訓を引き出します。

「最善策にとどまっているようでは 到底 敵を上回ることはできない」。

「すべてを失う覚悟」で挑まなければ「人類は勝てない」(27話)。 

f:id:unfreiefreiheit:20210806030701j:plain

f:id:unfreiefreiheit:20210806030720j:plain

28話「選択と結果」

 

決断の速さ、視野の広さ、そして冷徹さにおいて抜きんでたエルヴィンの判断力は、リヴァイ班のエルドらの型にはまった判断との対比において、際立たせられています。

再来襲する「女型」を前に、エルドは当初の判断を変えることなく、エレンの力に頼らずかれを逃がすことを「最善策」と称します。このシーン、かれらの有能な指揮官の「最善策じゃーアカンわ」というセリフとの対比で、これじゃダメだ感が強調されすぎて、かわいそうなくらい(27話)。

それ以前にも、エルド、グンタ、オルオの、エレンが訓練中に巨人化に失敗したことにかえって安心している様子が、未知の事態にたいするかれらの臆病さを示していました(25話)。

かれら先輩兵士は、その戦闘能力の優秀さにもかかわらず、未知のものごとや経験則をこえる事態には、型にはまった対処や保守的な反応しかできないのです。そのことが災いして、かれらはみな「女型」に殺されてしまいました。

f:id:unfreiefreiheit:20210806063634j:plain

f:id:unfreiefreiheit:20210806030729j:plain

28話「選択と結果」

 

まさにマキャヴェリが述べるとおり、運命の変化に応じて大胆になれない「慎重な者」たちが破滅したのです。再び引用しましょう。

......慎重な者は、人が大胆にふるまうべき困難なときに、どうすればいいか分からずに破滅してしまう。だが、時宜を得て身の処し方を変えるなら、幸運が失われることはないだろう。

マキャヴェリ君主論』第25章 

f:id:unfreiefreiheit:20210821062245j:plain

 

エルヴィンはといえば、かれは「女型」捕獲作戦の失敗から引き出した教訓を、その後、とんでもないやり方で実践に移しました。

ライナーたちにさらわれたエレンを奪還するため、自分たちをエサに引きつけた無垢の巨人たちを「鎧の巨人」にぶつけるという、クレイジーきわまりない作戦を、即興的に実行したのです。

f:id:unfreiefreiheit:20210806082900j:plain

48話「誰か」

 

しかも、突撃する一団の戦闘に立つエルヴィン自身が、もっとも勇敢で向こう見ずであることを見せつけます。

かれは巨人に喰いつかれながらも「進め!!」と号令を発するのをやめず、ついには片腕を喰いちぎられながらもベルトルトに一太刀浴びせ、エレンを救出してしまいました。 

f:id:unfreiefreiheit:20210806083016j:plain

f:id:unfreiefreiheit:20210806083033j:plain

49話「突撃」

 

「博打打ち」としてのエルヴィン

もはやエルヴィンの作戦は「目的のためには手段を選ぶな」とか「あえて悪をなせ」とか、そういう倫理的にどうこうの域をこえています。

敵の想像の上を行くために、どれほど常軌を逸したクレイジーな作戦を思いつくかが勝負なのです。

そんなかれの行動原理を、マキャベリズムと呼ぶことは適切でしょうか?

 

この問題に答えを出すためには、エルヴィンの卓越した指導力の本質に目を向ける必要があります。

すなわち、かれみずからそう称するところの「博打打ち」というエルヴィンの性分のことです。

f:id:unfreiefreiheit:20210809153513j:plain

53話「狼煙」

 

エルヴィンが自他共に認める「博打打ち」であることは、王政との対決のなかで強調されます。かれのばくちの極めつけは、レイス家が真の王家であるという仮説にもとづくクーデター計画でした(55話)。

さらには、王政が自己保身のために人類を切り捨てるだろうことや、それを見て兵団組織は反旗を翻すだろうことを半ば予見、半ば期待して、ウォールローゼ崩壊の誤報を仕組むという、一世一代の大博打にエルヴィンは打って出たのです(61話)。

f:id:unfreiefreiheit:20210809153521j:plain

55話「痛み」

 

その類まれな頭脳を活用して、エルヴィンは乏しい状況証拠から導き出した仮説にもとづいて、次の判断、次の作戦を不断に導き出すことができます。

実際、王政編の「博打」だけでなく、前出のクレイジーな突撃作戦も、エレンをおとりにした知性巨人捕獲作戦も、それに失敗したあとアルミンの提案を採用してアニを捕えたこともすべて、エルヴィンにとっては一種の「賭け」でした。

仮説にじゅうぶんな裏づけがなくとも、エルヴィンは大胆に決断し、そしてほぼつねに狙いを達成してみせます。

かれの比類ない洞察力と判断力だけがなせる業なのでしょう。

 

調査兵団の兵士たちは、エルヴィンの指導力に全幅の信頼を置いています。

古参であればあるほど、かれを知れば知るほど、エルヴィンの指導力の本質が「博打」の才能であることに、仲間たちは気づくことでしょう。

それを分かったうえで、かれの並外れた才覚が勝ち札を引き当てることを信じて、兵士たちは自分でもすすんで賭け金をつぎこむのです。

そしてクーデターの成功に至り、ついには壁内人類全員が、立場に応じて程度の差はあれ、エルヴィンの壮大な「博打」に巻き込まれる運命となったのでした。

 

エゴイストとしてのエルヴィン

エルヴィンの「博打打ち」としての天性は、かれがマキャベリストというよりも、徹底的なエゴイストであることを証明しています。

アルミンによれば、エルヴィンは「100人の仲間の命」と「人類の命」の二者択一に国面すれば、ひるむことなく前者を「切り捨てる」ことができる、非情であるがゆえに有能であり人類に必要な指導者です(27話)。

しかしこの点では、アルミンの評価はとんだ見当違いを犯しているのです。

 

国家の安全とか「人類の命」とか、そういう高度な政治目的のために仲間の命を犠牲にできる非情というのは、たしかにマキャベリスト的な非情さでしょう。

しかしエルヴィンの目的は、政治的な目的でも大義でもありません。

ただひたすらに、かれは自分自身の目的を果たすために、自分自身の正しさを証明するために、自分の命を含めたあらゆる犠牲を払う覚悟を決めているのです。

すなわち、壁内人類は記憶を改ざんされてしまったが、実は今も壁外には人類が生存しているという、幼き頃に父が語った仮説――それをかれが秘密にしなかったせいで父が王政に抹殺される事態を招いてしまった仮説――を証明するために。 

要するに、エルヴィンはエゴイズムを貫こうとしているのです。

f:id:unfreiefreiheit:20210808095109j:plain

55話「痛み」

 

たしかにエルヴィンは、自分が「何百人」もの仲間を巨人に「食わせた」罪人だという自覚をもっています(51話、62話)。

このことは、かれが自覚的にマキャベリストとしてふるまっていることを示しているようにも見えます。

しかしそうではありません。

エルヴィンの判断は、大義のために仲間を犠牲にする判断ではなくて、自分自身の目的のために全額を投げ込む「博打」です。

そして、かれに従う調査兵団の全員が、不承不承に命令に従っているのではなく、かれの飛びぬけた博打の才能を信じて、エルヴィンの賭けに自分も乗っかっているのです。

いわば兵士ひとりひとりが、エルヴィンの賭け金に自分の命を上乗せして「ベット」を宣言していると言えましょう。

こうしてエルヴィンのエゴイズムは、むしろ調査兵団の結束力の要になっているのです。

 

ロマン主義的エゴイストとしてのエルヴィン

エルヴィンのエゴイスティックな本質を作中で言い当てたのは、兵団組織のトップにしてエルヴィンの同類、ザックレー総統(a.k.a. 美の巨人)でした(62話)。  

クーデター実行直後、エルヴィンはザックレーに問いかけます。「なぜこちらの険しい道を選んだのですか?」と。

どれほど腐敗しきった王政といえども、その延命の「術(すべ)」によって人類の半分でも救えるなら人類絶滅よりはマシだから、やはり覆すべきではなかったかもしれない。

そう述べながらもエルヴィンは「人よりも... 人類が尊いのなら...」と、含みのあるひとことを付け加えます。

このへんですでに、同類ザックレーにはピピンときているのでしょうね。

エルヴィンとは「私と同様に人類の命運よりも個人を優先させる」奴なのだなと。  

f:id:unfreiefreiheit:20210806082910j:plain

f:id:unfreiefreiheit:20210809154932j:plain

62話「罪」

 

「人類」よりも「人」こそが尊いというかれらの考え方は、功利主義として特徴づけることができます。

功利主義の哲学者ベンサム(1748-1832)は『統治論断片』で、政府の唯一の正当な目的とは「最大多数の最大幸福」であると述べました。

この有名なスローガンは、数量的に比較可能な個々人の利益の総和こそが、社会の利益であるという前提のうえに立てられています。

社会の利益とは何であろうか。それは社会を構成している個々の成員の利益の総計にほかならない。

ベンサム『道徳および立法の諸原理序説』(中央公論『世界の名著38』所収)  

f:id:unfreiefreiheit:20210806075654j:plain

 

エルヴィンやザックレーは、こういう考え方には反発しているようです。

エルヴィンという個が生き永らえ、任務をまっとうして名声を得ることと、何十万、何百万もの人間が死を免れることで得られる幸福とを比べれば、後者のほうが圧倒的に大きいことは言うまでもありません。

しかし、そういう数量的な比較では測れない、なにかもっと価値があると自分が信じるものを、エルヴィンやザックレーは目的としています。

 

では、功利主義に抗して、「最大多数の最大幸福」に反発して、エルヴィンが追求する価値とは何か。

それは前述のとおり、かれの父の仮説を証明することですが、それをエルヴィンは「夢」と呼びます(62話)。 

こうして、無類の「博打打ち」エルヴィンの根っこにあるロマン主義が顔を覗かせます。

f:id:unfreiefreiheit:20210806082919j:plain

62話「罪」

  

ただしエルヴィンの夢は、かれをロールモデルと仰ぐアルミンのそれのような、冒険者的な好奇心をくすぐる詩情あふれる夢ではありません。

人類はみずからの自由のはく奪について無知であったという、ある意味では救いようのない真理を証明することに、エルヴィンは執念を燃やしてきたのです。

この執念は、どこから来るのでしょうか。

おそらく、この真理を証明することは、エルヴィン・スミスという存在の唯一無二の価値を証明することに等しいという信念からでしょう。

エルヴィンの人生は、世界の真理というよりも、自分自身こそが「真理」であるということを証明するための、巡礼の旅なのです。

 

なんてエゴイスティックなけばけばしさに彩られていることでしょうか、エルヴィンのロマンティシズムは。 

なんてロマンティックな甘美さを漂わせていることでしょうか、エルヴィンのエゴイズムは。

かれのような人物類型を、ロマン主義的エゴイストと呼ぶことにしてみましょう。

 

こういうタイプのキャラとして把握してみると、調査兵団団長エルヴィンって、ある別の有名なファンタジー作品の傭兵団長と、かぶって見えてこないでしょうか。

別作品ですが、たまには目線なしで生きましょう。

「生まれてしまったから しかたなくただ生きる......... そんな生き方オレには耐えられない」。

ダークファンタジー漫画の代名詞『ベルセルク』より、ごろつき傭兵団から出発して「自分の国」を手に入れるという壮大な夢を追う、ロマンティックで英雄的なエゴイスト、グリフィスです。

f:id:unfreiefreiheit:20210822171400p:plain

 

『進撃』の作者・諌山も『ベルセルク』には影響を受けたようですしね。

そして、もし調査兵団団長の「夢」と、鷹の団団長の「夢」とに似通った部分があるとすれば、両者が到達した結末を比べてみることにも、きっと意義があるでしょう。

最後に、R.I.P. 三浦建太郎

 

unfreiefreiheit-aot.hatenablog.com

 

(追記)『ベルセルク』のグリフィスとの比較は、この記事でやりました。

unfreiefreiheit-aot.hatenablog.com

 

2.1 「何を捨て去れば変えられる?」 ~ マキャベリズム・ロマン主義・実存的自由

 

導入――自由と非モラリズム

積極的自由の観念によれば、自由とは善いもの、すなわち、人間がそうあるべき自己決定の状態です(0.2)。

しかしながら、自由こそ何にも代えがたい至高の善であるのに、世に言う道徳的な善悪は、人間を束縛し、その自由を制限しているようにも見えます。

ほんとうに自由は道徳的意味で「善い」ものと言えるのでしょうか。

 

この問いをめぐって哲学者たちがとる立場はさまざま。 

でも多数派は「究極的には自由と善は一致する」と考えます。

プラトンにはじまり、ストア派アウグスティヌススピノザ、カント、等々、18世紀までの哲学者はだいたい、この立場。よりマイナーな哲学者も含めれば、長大なリストが作り出せるでしょう。ホッブズですら、群衆を「リヴァイアサン」に統一することは、価値ある自由の確立であり、かつ「自然法」にかなう善でもあると考えています。

 

これに対して、少数派ながら「道徳より自由のほうが大事に決まってんじゃん」派がいます。

この立場にとっては、自由とは究極的には非モラリズムとしか両立しないもの、いわば「非道徳的自由」であります(英語でいえば amoral concept of freedom かな)。

これまで考察してきたニーチェ的(反)ニヒリズムは、明らかに非道徳的自由にくみする立場です。善悪とはまったく無価値な観念であり、無力な人間たちの失われた自由の埋め合わせでしかないと称するのですから(1.1 以降)。

その一方で、道徳をそこまでは強く否定せず、善悪に手段的な価値を見出すような非道徳的自由の立場もあります。それがマキャベリズムです。

マキャベリストは言います。善とは自由という目的のための一手段にすぎないと。だから、善きふるまいによって自由や権勢を維持するのが困難なときには、人はあえて悪をなす必要があるのだと。

  

進撃の巨人』において、このようなマキャベリスト的信念をはっきりと宣言するのはアルミンです。

でも、このマキャベリストは同時に、壁外世界を自由に冒険することへの甘い憧憬を抱くロマンティシストでもあります。

行動の指針としてのマキャベリズムと、行動の原動力としてのロマンティシズムとを胸に抱きながら、どのような自由をアルミンは実践するのでしょうか。

 

マキャベリストとしてのアルミン

マキャベリスト的な自由の概念については、すでに記事 0.3 で軽く論じましたが、ちょっとおさらいしておきましょう。

マキャヴェリ(1469-1527)によれば、平穏な時代の君主にとって領民に善良と慕われることは利益だが、荒れ狂う運命のもとではそうではありません。

しかし君主が優先すべきは、善く思われることではなく、みずからの自由と権勢を維持することです。それゆえに、君主には「可能なかぎり善から離れず、しかも必要とあれば断固として悪のなかにも入っていくすべ」を知ることが要請されます(マキャヴェリ君主論』第18章)。

つまり、善悪を忘れろというのではなく、善と悪とを道具的に使い分けられるようになれと、マキャヴェリは教えているのです。この教えをマキャベリズムと呼ぶことにしましょう。

この教えをアルミンは、調査兵団の指導者エルヴィンの卓越した指導力の秘訣として見出します。エルヴィンのように「何かを変える」ためなら「大事なものを捨てる」ことをためらわず、そして「化け物をも凌ぐ必要に迫られた」なら「人間性をも捨て去る」覚悟をもたねばならないというのです(27話)。

それ以降アルミンは、困難に直面するとき、エルヴィンの教えを想起しつつ自問するようになります。「僕の命と... 他に何を捨て去れば変えられる!?」と(49話)。

 

でも実は、アルミンはエルヴィンの影響とは関係なしに、なかなかのマキャベリストなんですよね。 

エルヴィン率いる調査兵団がクーデター画策をはじめた局面で、こんなことをするために兵団に入ったつもりはないのにと不満をもらす同期の仲間たちを尻目に、アルミンはこう独り言ちます。

でっちあげの事件で王政を悪玉に仕立てて民衆扇動を成功させりゃよくね? 民衆は騙されやすいんだから、と。

周囲がドン引きになっているのに気づき「なんちゃってね...」とお茶目な笑顔を見せるアルミン。

そんなかれに、エレンは「アルミンが陰湿で姑息なこと考えるのが得意なのは昔からだ」とフォローを入れてくれたのでした(55話)。  

なんだよコイツ、素でマキャベリストかよ。

f:id:unfreiefreiheit:20210806030741j:plain

f:id:unfreiefreiheit:20210806070642j:plain

f:id:unfreiefreiheit:20210806070731j:plain

55話「痛み」

 

しかもこのアルミンの表情、わー、なんだかキンクリのCDジャケットみたい。

f:id:unfreiefreiheit:20210806071141j:plain

完全に一致(ただし左右反転)

 

このアルミン版「ぼくのかんがえたさいきょうのクーデター」にもまた、マキャヴェリの精神がみなぎっています。

以下の一節をお読みください。

だから君主たる者は、ひたすら勝利し、権勢を保持するがよい。どんな手段もつねに誉れ高きものと正当化され、みなに称えられるだろう。なぜならば、大衆はいつでも外見やできごとの成り行きに心を奪われるものであり、そして世には大衆ばかりがいるのだから......。

マキャヴェリ君主論』第18章

www.chuko.co.jp

 

おふざけが過ぎました。 

まじめに説明すると、ここで重要なのは、アルミンはマキャベリズムをうわべで理解しているわけではないということ。

目的のために手段を選ぶなとか、リーダーには時として非情さも必要であるとか、そういうビジネスマン向け啓発書にでも書いてあるような薄められたマキャベリズムを、かれは復唱しているわけではないのです。

 

マキャベリズムの本質をなすのは、ちゅうちょなく非情な手段を選べという教え自体ではなく、その根拠をなす洞察です。

すなわち、運命の変転は、善悪の不動の法則や指針に従うことを許さない、という醒めた洞察です。

とりわけ平穏な時代には賢慮の表れである慎重さは、変化と困難のもとでは破滅を巻きかねません。だから、ときとして大胆さが必要になるのです。

......変化に順応するためにちょうどよい慎重さというものは、そうそう見つけ出せるものではない。人は自然の性向から逸脱することはできないし、それに従来それによって成功してきた方法というものは捨てがたいものだからである。それゆえにこそ慎重な者は、人が大胆にふるまうべき困難なときに、どうすればいいか分からずに破滅してしまう。だが、時宜を得て身の処し方を変えるなら、幸運が失われることはないだろう。

マキャヴェリ君主論』第25章 

つまり、たんに善悪をうまく使い分ける狡猾さを身に着けよということではなく、困難な判断を恐れない勇気と覚悟をもてという教えこそが、マキャベリズムの精髄なのです。

 

アルミンがエルヴィンから引き出した教えの本質もまた、そのような勇気と覚悟にあります。

人はときとして、確実な判断を引き出すためには不十分な情報量や、判断材料を揃えるためには不十分な時間の猶予のなかで、判断しなければならない。そうアルミンは言います(27話)。

あえて判断することを恐れてはならない。

そのためには、選択がもたらしうる結果に怖気づかず決断を下す勇気と、その結果がなんであれ引き受ける覚悟とを、もたねばならない。

それがアルミンのセリフの含意なのです。

f:id:unfreiefreiheit:20210806030649j:plain

27話「エルヴィン・スミス」

 

非情になりきれないアルミン

でもアルミンにはマキャベリストらしからぬ、非情に徹しきれない一面があります。

対人立体起動部隊の急襲から逃れるなか、窮地に陥ったジャンを助けるため、アルミンはちゅうちょせず人間相手に初めて銃の引き金を引きました。

その後、かれは自分が殺人を犯してしまった事実に涙し、嘔吐します。こうした方面でちょっと突き抜けちゃっている幼馴染たちのようには、アルミンは精神の均衡を保てなかったのです(59話)。

f:id:unfreiefreiheit:20210806072537j:plain

59話「外道の魂」

 

雷槍で「鎧の巨人」の頭部を吹っ飛ばしたときも、有無を言わさずかつての友人を殺したこと(実はライナーは脳を巨人本体に移して? なんとか生命維持していたけど)について、アルミンはかれらしく理詰めで言い訳をせずにはいられませんでした。 

f:id:unfreiefreiheit:20210806030852j:plain

77話「彼らが見た世界」

 

だからその直後、ベルトルトに最後の「交渉」をもちかけたときも、アルミンは本気で「交渉」しようと考えていたのでしょう――時間を稼いでベルトルトの気をライナーから逸らせておく狙いが同時にあったとしても。

実際そう見えたからこそ、エレンは「そりゃ一体... 何のマネだ?」と思ったわけです(78話)。

f:id:unfreiefreiheit:20210806030829j:plain

78話「光臨」

 

でもきっと、それも仕方ないのです。

アルミンはかわいいのですから。

マキャベリスト的な、あるいは「ゲスミン」的な一面もまた、かれのかわいさを引き立てるアクセントなのかもしれません。

「自分の大事なものを捨ててでも」という健気さ(女装)によってますます際立つアルミンの可憐さたるや、一人のおじさんを「大変」なことにしてしまうほど。

f:id:unfreiefreiheit:20210806072635j:plain

54話「反撃の場所」

  

ロマン主義者としてのアルミンと実存的自由

はい、またおふざけを入れてしまいました。すみません。

本題に戻ると、アルミンのマキャベリスト的ふるまいと、非情になりきれない側面とを、矛盾するものと見るべきではないでしょう。

かれが実践するマキャベリズム、すなわち「困難な判断を恐れない勇気と覚悟をもて」という教えは、あえて非情になることを要求するかもしれませんが、人間的な感情や願望そのものを忘れるよう強いるものではないのです。

 

実際、アルミンはマキャベリストである以上に、ロマンティシストです。

かれの幼少の頃からの夢は、そしてかれが調査兵団に入団した根本的な理由は、壁の外のどこかにある「炎の水」「氷の大地」「砂の雪原」を、そして「商人が一生をかけても取り尽くせないほどの巨大な塩の湖」を発見することです。

シガンシナ区奪還作戦の前夜、かれが自分を勇気づけるために語り出したのも、この見果てぬ夢でした(14話、72話)。

f:id:unfreiefreiheit:20210806030757j:plain

72話「奪還作戦の夜」

 

少年を待ち受ける未知の世界へのロマン主義的憧憬が、アルミンという人間の軸を、かれの初期衝動をなしています。

そのことはかれ自身が説明するとおり。

「自由を取り返すため」なら「力が湧いてくる」と言っていたエレンにたいして、アルミンは「僕は なぜか 外の世界のことを考えると 勇気が湧いてくるんだ」と返しています(72話、81話)。

f:id:unfreiefreiheit:20210806030952j:plain

81話「約束」

 

「超大型巨人」との決戦中のこの一幕は、幼少期からの夢を思い起こす点においても、巨人化したまま意識を失ったエレンを呼び起こすために剣を刺す点においても、エレンがはじめて巨人の力を試したトロスト区の戦いの再演です(13話、14話)。

しかしながら唯一の違いは、この二度目のシーンでアルミンは自分の命とともに「夢」を「捨てる」覚悟を決めていた、ということです。

ベルトルトが放つ灼熱に身を焼かれながら、それでもアルミンの決意は揺らぎません。

まだ離すな

エレンに託すんだ 僕の夢 命 すべて

僕が 捨てられる 物なんて これしか 無いんだ

きっと エレンなら 海に たどり 着く(82話)

f:id:unfreiefreiheit:20210806070459j:plain

82話「勇者」

 

ここでもアルミンは、マキャベリスト的教えに従ったのでしょうか。

むしろそれ以上のことをしたように見えます。ここでアルミンが示したのは、目的を達成するために非情に徹する覚悟ではなく、当の目的そのものを、すなわち自分の夢そのものをあきらめる覚悟なのですから。   

でもほんとうは、アルミンは夢を放棄したのではなく、夢を叶えることを親友エレンに託したのでした。

「きっとエレンなら海にたどり着く」と信じて、かれは命を捨てたのでした。

アルミンの夢は、かれが孤独に恋焦がれる夢ではなく、仲間と分かち合える夢仲間と交わし合える約束だったのです。

 

一見してマキャベリスト的な「大事なものを捨てる」覚悟。

この覚悟をもってアルミンは、自分の見果てぬ夢を親友に実現してもらうために命を捧げることを、かれ自身の判断で、自由に選びました。

この選択、この決断、この自由を、筆者はやはり実存的自由と呼びたくなります。

 

マキャベリストやニヒリストと同様、実存主義者もまた、道徳よりも自由が大事だと考えます。

しかし実存的自由は、決して非道徳的自由ではありません

実存主義者はニヒリストのように善悪を無価値と見なすことも、マキャベリストのように善を手段に引き下げることもしません。

むしろ実存主義者は、自由そのものの「善さ」を、自由それ自体の倫理的な価値を、みずからの自由な行為によって作り出そうとするのです。

 

アルミンがみずから決死の作戦を思いつき、みずからを奮い立たせ、みずからを犠牲に捧げたこと。

これを自由として称えることは、見ようによっては、うさんくさい自己犠牲の美化かもしれません。

しかし、この作戦をアルミンが誰にも強いられることなく、かれの原動力であるロマンチックな夢のためだけに親友と交わした崇高な約束のためだけに、みずから選んだということは、しっかりと描かれているように思います。

これを実存的自由と呼ぶことは、可能でも妥当なことでもあるでしょう。

アルミンはマキャベリスト的教えに従いながら、ロマン主義的な衝動に突き動かされて、実存主義的な自由の境地に達したのだと言えます。

 

unfreiefreiheit-aot.hatenablog.com

 

 

文献一覧

当ブログで参照した哲学書などの一覧です。ご参考までに。 

0 自由の哲学入門書として読む『進撃の巨人』 

1 ニヒリズムと実存的自由 

2 マキャベリズム・ロマン主義・実存的自由

3 本来の自己を選ぶ自由

4 わたしの内なる声としての自由

 

 

※ なお、当ブログでは『進撃の巨人』などマンガ作品を「引用」しています。ブログ運営者としては、著作権の侵害に当たらない「引用」の範囲内で使用しているつもりです。一応、当ブログはたんなる趣味のために運営されており、一銭の利益も発生していませんし、今後に営利化するつもりもありません。 

 

 

1.5 リヴァイに託された「夢」としての自由 ~ ニヒリズムと実存的自由

 

unfreiefreiheit-aot.hatenablog.com

 

なぜ実存主義者はニヒリストよりも理想主義者になるか

決断することをためらうな、だが同時に、自分の判断が次の瞬間には誤りになることをつねに覚悟せよ――これがリヴァイの生きざまから抽出される教えです。

ところで、この教えは、見ようによってはニヒリズムを感じさせるかもしれません。

「何が正しいかは分からない」「悔いの残らないほうを選べ」と価値判断を留保し、真理や善悪について最終的、確定的な判断を下すことを許さないのですから。 

でも、そのような指摘はリヴァイには当たりません。

かれは世界の不条理をよく知っていますが、しかし「この世に信じられる価値なんてない」というニヒリスト的な諦めには、みじんも囚われていません。

むしろこのことは、人間は自由ではないことはできないという実存主義的な真理を、リヴァイが身体感覚のレベルで理解していることの表れなのです。

 

実存的自由の極致たるリヴァイ。

実際のところかれは、ニヒリストどころか、その根本において理想主義者であります。

ここでいう理想とは、各人がでたらめに、好き勝手に選ぶ価値ではなく、倫理的要請を帯びた価値誰もがそれを選ぶべきと見なされた価値を指します。

リヴァイが他の調査兵団古参兵士とともに追い求める自由は、世界に実現されるべき崇高な価値としての自由です。この自由は「選ぶべき」理想としての輝きと重みをそなえています。

 

ここで疑問が生じます。

「自分で選ぶ」ことを徹底する実存主義者は、誰に強いられるわけでもないのに、なぜ「選ぶべき」理想を選び取る(ことがある)のでしょうか?

まったく偶然的にたまたま選ぶのでしょうか、それとも、なにかによって価値のある選択を促されるのでしょうか?

この問いに答えるためには、リヴァイや調査兵団の理想を、かれの育ての親、ケニー・アッカーマンの「夢」と比較してみることが有益でしょう。

f:id:unfreiefreiheit:20210728082652j:plain

65話「夢と呪い」

 

ケニーの虚無感と「夢」

リヴァイの理想主義的側面は、彼の育ての親たるケニー・アッカーマンが率いた対人立体機動部隊との対比において、鮮明となります。

ケニーとその部下たちが体現したのは、世界は無意味で不条理なのだから自分が善いと信じたいものを追求すればいいという、価値相対主義的なニヒリストの信念でした。

ケニーの部下たちがすれっからしのニヒリストだからこそケニーの夢に惹かれたということは、すでに論じたとおり(1.2.b)。

それだけではなく、彼らを惹きつけたケニーの夢そのものが、かれのニヒリスト的な達観に由来するものでした。

 

暴力において誰にも負けないことを信念の源としていた若かりし頃のケニーは、壁の王であり「始祖の巨人」をもつウーリ・レイスに敗北しました。

この敗北が、というよりは、圧倒的暴力で自分を屈服させておきながら、平伏して(アッカーマン一族迫害の)許しを乞うたウーリとの出会いが、ケニーの価値観の動揺をもたらします。

ウーリの友となったケニーは、圧倒的強者であるウーリが運命への受動的服従を説き、病に伏せるのを見て、自分には窺い知れない内面的な苦しみを抱えていることを察しました。

ウーリが世を去り、その力が王族の娘フリーダに継承されたことで、ケニーの心には、ウーリの力を自分が継いだらどういう心境に達するのか知りたい気持ちがこみ上げます。

こうしてケニーは「始祖の巨人」の力を奪うという「夢」を抱くに至ったのです(69話)。

  

この夢は、かつてのケニーの「強い者が正しい」という価値観が崩壊したあとの空虚を埋めるものです。

かれ自身が巨人の前には無力であっただけでなく、もっとも強大であるはずの「始祖」継承者ウーリですら無力であったと知って、ケニーは虚無感に襲われたことでしょう。

でも、ウーリはなにかを知っていた。そのなにかは次の継承者に引き継がれた。

その何かを自分自身の目で見ることで、ケニーは心の空虚をふたたび満たすことができると期待したのです。

  

いな、むしろケニーの虚無感は、かれの宿痾(しゅくあ)であったと言うべきかもしれません。

かれの価値判断の尺度は、若かりし頃から一貫して、それが「面白い」かどうかでした(65話)。

それを信じれば、ただ生きるのではなく、意味のある生を生きていると感じられるのではないかという期待が、ケニーを突き動かしてきたのです。

つまり、キルケゴールがいうところの、人間の生それ自体の「危険」すなわち生が無意味であると知ってしまうことが、もとよりケニーには耐えがたかったのです。

f:id:unfreiefreiheit:20210728082700j:plain

65話「夢と呪い」

 

そんなケニーは死に際に、自分の「夢」がどこから出てきたのかを思い出しながら「みんな何かに酔っぱらってねぇと やってらんなかったんだ...」と達観しました。

これはつまり、何を求めるかはどうでもよい、人が生きるためには欲すべきもの、信じるべきものをもつことが必要なのだ、という教えです。

そしてケニーは、リヴァイにも問いを投げかけます。「お前〔を酔わせるもの〕は何だ!? 英雄〔としての名誉〕か!?」と(69話)。

つまり、かれはこう言いたいのです。

「お前の目指すものは俺とは違うようだが、でも本質的には俺と同じものを、つまり「何かに酔っぱらって」いる状態を欲しがっているのだろう?」と。

「お前もまた、自分が善いと信じたいものを求めているだけのニヒリストなのだろう?」と。

f:id:unfreiefreiheit:20210724073021j:plain

f:id:unfreiefreiheit:20210724073035j:plain

69話「友人」

  

「真に崇高なこと」に誓って 

しかしケニーは、この価値相対主義的ニヒリストは、ロッドからくすねた巨人化の薬をリヴァイに託して死にました(69話)。

この行為は、ケニーが自分の「夢」をリヴァイに託したことを表現しています。

しかしこの「夢」は、かれが憲兵団の部下たちに見せた「酔わせる」ための「夢」ではありません。

ケニーは「夢」がなければつまらないとニヒリスティックにうそぶきながらも、ウーリとの友好をつうじて、自分が真に欲すべきなにかがあることを、ばくぜんと感じ取っていました。

ついぞ自分自身では発見できなかった真に価値あるものを、かわりに見つけてほしいと、そういう意味での「夢」を、ケニーはリヴァイに託したように見えます。

つまり、ケニーもまたほんとうは、ニヒリズムの先にたどり着きたかったのです。

ケニーもまた実のところは、自分にとって意味があるだけではなく、ほんとうに意味があるものとは何なのかを知りたかったのです。 

f:id:unfreiefreiheit:20210728084026j:plain

69話「友人」

 

そして、ケニーに「夢」を託されたリヴァイは、真に価値があるとかれが信じるもののために、すなわち人類の解放という理想のために、戦いつづけてきた人物です。

リヴァイは「何が正しいかは分からない」と言いながら、壁の外にある「真の自由」をいつか人類は獲得できると信じて、戦いつづけてきたのです。

エレンの「地鳴らし」開始により壁外人類滅亡の瀬戸際となった段階においてすら、この理想をリヴァイはあきらめていません。 

そのようなリヴァイの心情は、自分の役目はもう終わっているかもしれないと感じつつも、かつて夢を語りあった古参の仲間たちと同じ眼をしたアルミンを、エルヴィンの代わりに助けたことに後悔していないと独白するシーンに、よく表現されています(136話)。

f:id:unfreiefreiheit:20210718215818j:plain

f:id:unfreiefreiheit:20210718215828j:plain

136話「心臓を捧げよ」

 

何が本当に正しいかは分からないと認める冷徹さ。

自分の判断を絶対視しない謙虚さ。

そして「たえず決断を改める」ことのできる強さ。

こうした特徴をそなえたリヴァイの尋常ならざる精神力は、一本の軸によって、すなわち、かれの心のもっとも奥深くから湧き上がる「夢」によって支えられていたのです。

キルケゴールのいう「誓約」を、リヴァイは胸に抱いていると言えるでしょう。

「自分にとって価値がある」だけではなく「真に価値がある」と信じられるような理想を追い求めるからこそ、リヴァイは「真に偉大な崇高なこと」のために全力を尽くしつつ、同時に、自分が「役に立たぬ下僕」かもしれないという不安のなかを生き抜くことができるのです。

よきこと、真に偉大な崇高なことは、ひとたびこれを見きわめた人に対して、いわば誓約をさせるのである。……善きことは人間を高めるとともに、謙虚にもする。すなわち、よきことは人間に全力をあげるように要求し、しかも人間が自分の持つすべてをつくして行動した場合でさえ、それでもなお、役に立たぬ下僕と名づける権能をその手許にとどめているのである。

キルケゴール 『四つの建徳的講話』

* 併せ読みがオススメ

unfreiefreiheit-aot.hatenablog.com

 

エレンの孤独な決断

ところで主人公エレン。かれはリヴァイの一番弟子といえる立場にいます。

リヴァイの部下たちはかれに絶大な信頼を寄せていましたが、しかしかれの自由観をよく理解していたとは言えません。

その点、エレンは挫折を繰り返しながらも、リヴァイの「選べ」をかれなりに深く理解するようになりました。

リヴァイの実存的な自由観にもっとも深く影響され、そのぶんだけリヴァイを(恐れつつも)リスペクトしていたのがエレンなのです。

f:id:unfreiefreiheit:20210810054743j:plain

51話「リヴァイ班」

 

だからエレンは、マーレで単独行動をはじめ、レベリオで民間人を踏みつぶしながら戦ったあと、合流したリヴァイに「地下街で腐るほど見てきたクソ野郎」 と同じツラしているぞと言われたときには、さすがにハッとさせられた様子でした。

なんだかんだエレンは、リヴァイにこう言われたのがショックだったろうと思います(105話)。

f:id:unfreiefreiheit:20210727130502j:plain

105話「凶弾」

 

リヴァイは状況しだいでは拷問でも殺人でもちゅうちょなく実行する人物ではあれど、人を無差別に巻き添えにするような武力攻撃を実行することは「クソ野郎」の所業と感じずにいられない、ということがここで判明します。

おそらくかれは、たんに人を殺したことではなく、無差別に殺したこと、つまり「なにも知らない」者すら自分たちの目的のために巻き添えにしたということに、嫌悪を感じたのでしょう。

それを某ギャングのいう「吐き気をもよおす邪悪」と感じたのでしょう。 

f:id:unfreiefreiheit:20210728084417j:plain

 

でも、ここはあえてエレンを擁護してみます。

というのも、エレンが壁外人類みなごろしという選択肢に至ったことは、エレンなりにリヴァイの教えを反すうしながら「自分で選ぶ」という倫理的態度を貫こうとした結果とも言えるからです。

 

エレンによるリヴァイへのリスペクトっぷりがもっとも明確に表れているのは、シガンシナ区での決戦後、フロックとの口論のシーン。

「アルミンではなくエルヴィン団長が生かされるべきだった」と、なかなか反論しがたい主張を突きつけられた、なじみの104期生一同。

みずから「フロックが正しい」と同意を表明するアルミンを、エレンはリヴァイそっくりの口ぶりで諭します(リヴァイ自身が柱の陰で聞いていますしね)。

「オレにはわからないな 正しい選択なんて」と。

「未来は誰にも分からないはずだ」と。

そしてアルミンの夢、すなわち「炎の水」や「氷の大地」や「砂の雪原」を見つけるという夢を思い出させ、アルミンの目をかすかに潤ませます。

そして「きっと壁の外には 自由が――」と言いかけた、そのとたん。

かれの脳裏には、犬に食い殺された父の妹の無残な姿がよぎります。

急に険しくなるエレンの表情(90話)。

f:id:unfreiefreiheit:20210701085415j:plain

f:id:unfreiefreiheit:20210701085424j:plain

f:id:unfreiefreiheit:20210701085432j:plain

90話「壁の向こう側へ」

 

壁の外に出たとしても、自由という報いは得られない。そのことをただ一人、巨人保有者間の記憶伝達によって、生々しく悟ってしまったエレン。

もはやかれは「自由」を、調査兵団の仲間たちが理想とするものと同じ「自由」としては共有できません。

したがってまた、かれのもっとも親しい仲間とすら共有できない不安と、エレンは孤独に直面せざるをえないのです。

 

これ以降、調査兵団の決断を共有することは、エレンにとっては「臆病」を意味することになってしまいます。

つまり「壁の外には自由があるはず」という期待に固執することは、エレンにとってはどうしても「決断を改める」ことをしない「臆病」にしかならないのです。

 

でもそれでは、この期待を放棄するかわりに、どんな判断が導き出されるのか。

壁の外の敵は「全部殺す」べきという結論しかないのか。

美しい海に到達し、束の間の自由を享受する仲間たちは、エレンの問いかけの深刻さを推し測りえず、ただ戸惑うしかありません。

f:id:unfreiefreiheit:20210701111100p:plain

f:id:unfreiefreiheit:20210701111112p:plain

90話「壁の向こう側へ」

  

その後数年間、エレンは孤独のなかで「決断を改める」ことをめぐる内面的葛藤を経験します。

それでも結局、敵にみなごろしにされるか敵をみなごろしにするかの二者択一以外に、選択肢は見つからなかった。

だから、エレンは「悔いが残らない方を自分で選ぶ」しかなかったのです。

 

(「ニヒリズムと実存的自由」おわり)  

 

1.4.b 不安を生き抜くことの倫理 (下) ~ ニヒリズムと実存的自由

 

「上」から読んでね! 

unfreiefreiheit-aot.hatenablog.com

 

「敢然として決断をなさい」

決断すること。

何にも動じずに欲することを為そうとする「力への意志」になること。

「残酷な世界」に、ニヒリズムに対抗するには、そのような鋼の意志へと自己を化すしかない。

この力強い反ニヒリスト的信念は、世界が不条理であればあるほど、無力な人間たちをもてあそぶ運命の力が強ければ強いほど、説得力をもつでしょう。

だからこそ、かつての仲間をみなごろしにしようと決めたベルトルトや(78話)、壁外人類をみなごろしにしようと決めたエレンは(139話)、すべてが仕方なかった、そうする以外になかったと言いながらも、同時にそれは自分の意志で決めたことだと宣言したのです。

 

そのようなエレンやベルトルトの「決断」と、いま考察しているリヴァイの「決断」との本質的な違いとは何でしょうか?

リヴァイもまた、状況しだいではどんな役割でも、人の道を外れたことだって、引き受ける心の準備ができています。

そう宣言しただけでなく、現に中央憲兵のサネスを拷問しましたし(55話)、対人立体機動部隊に襲われたときにも容赦なくサクサクと憲兵たちを殺しました(58話)。

いずれの場合も、そもそも相手が自分たちを拷問する側・殺す側なので、読者視点ではさほど嫌悪感もなく読めるのですが、作中で「普通の人」の視点に立つジャンたち(あの幼馴染トリオは皆どこかしらヤバいので除外)からすると、ちょっとリヴァイにはついていけないなと感じてしまうのが自然です。

 

しかし、リヴァイはただの「ちゅうちょなくヤバい判断ができる人」ではありません。

たえず変転する不可解で不条理な運命に屈しない覚悟を表すものとして、リヴァイの心構えは、反ニヒリスト的信念と共通するといえましょう。

しかしリヴァイには、エレンやベルトルトには見られないような、ある種の冷静さ、慎重さが、いうなれば謙虚さがあります。

いつでも決断を下す覚悟とともに、そのような自己の判断を絶対化せず、条件が変われば別の判断が正しいと認めるための――キルケゴール風にいえば「たえず決断を改める」ための――心の備えが、つねにリヴァイはできているのです。

 

このキルケゴール的決意、このキルケゴール的信念は、一回きりのドラマチックな決断ではなく、決断することをやめないことの決断を意味します。

それは「決断の軛(くびき)を投げすて」ることではなく、この「軛」にすすんで自己を拘束し、逃れられない決断の連続を生き抜こうと格闘することを意味するのです。

……敢然として行ないなさい。あなたはあなた自身とあなたの決断に対して不実であった。……敢然として、あなたは改めて決断をなさい。決断は再びあなたを力づけ、神を信頼するようにさせるにちがいない。……敢然として決断をなさい。あなたは決断の軛(くびき)を投げすて、……鎖を解かれた囚人のように、自分の自由を自慢している。このあなたの誇りこそ臆病であることを理解する勇気をもちなさい。

キルケゴール 『四つの建徳的講話』  

このキルケゴール的決断を、仮に、決断主義的な信念決断主義的な決断、とでも呼ぶことにしましょう。 

f:id:unfreiefreiheit:20210701131534j:plain

  

決断主義的な決断の倫理

キルケゴール的・反決断主義的な決断は、ある意味では、ニーチェ的・反ニヒリスト的信念のそれよりもはるかに厳しい要求を課すものといえます。

それは、たった一度の決断のうえに自己の信念を安住させることを許さないからです。

「臆病」であること、すなわち、みずからの鋼の意志、不動の信念にすべての判断を委ねてしまうことを、それは許さないのです。

 

「ザ・決断」こそが人間性を決定するという信念に、人は高揚します。

それと比べると、あなたが何者であるかを左右するのはあなた自身の無数の決断であるという教えは、あまり魅力的ではありません。

そんなことを言われれば、人はときに困惑や、不快感すら覚えるでしょう。

とくに、何かを決意したばかりの人にそんなことを言えば、その人は間違いなく戸惑いを露わにするでしょう。

「次はためらわずに敵を殺す」と肚を決めたその瞬間、リヴァイに「何が本当に正しいかなんて俺は言っていない」「お前は本当に間違っていたのか?」と問いを投げられ、思わず馬が鳩が豆鉄砲をくらったような顔になった、ジャンのように(59話)。 

f:id:unfreiefreiheit:20210701085200j:plain

59話「外道の魂」

 

対人立体機動部隊による襲撃のなか、ジャンの逡巡が彼自身や仲間を危うくした。

だからジャンは人を殺す覚悟をもつべきだ。

でもだからといって、任務のためや仲間のためという理由が、つねに人殺しを正当化するとは限らない。

結局のところ、何が正しいかということは、誰かの命令や、自分の一度きりの判断に頼るのではなく、その都度、自分で考えるしかない。

――リヴァイが言いたかったのは、こういうことでしょう。

かれはここで、かつてのエレンに対する「お前が選べ」と本質的に同じことをジャンに言ったわけです。

でも、今まさに「人を殺す覚悟」を決めたジャンは、リヴァイの意図が理解できずに困惑するばかりでした。

 

この一幕は、自分の判断の正しさを信じると同時に、その正しさは次の瞬間にはもう失われているかもしれないと予期することが、どれほど難しいかを物語っています。

しかしこの困難な精神的態度こそ、不安を生き抜こうとする意志を源泉とする、決断主義的な決断に固有の倫理的態度なのです。

(でもまあ、翌朝偵察に来て捕虜にされたマルロとヒッチの件で、ジャンはリヴァイの教えを自分なりに理解し、実践に移すことができたのですけどね。リヴァイの意見に付和雷同せず、ジャンがマルロは信用できるという自分の直観を信じたおかげで、リヴァイ班は中央憲兵団への反撃の機を掴むことができました。)

  

プロフェッショナリズム

不安を生き抜こうとする意志は、慎重さと大胆さ、臆病さと勇敢さ、謙虚さと高慢さを、どちらも兼ね備えた意志でなければならないでしょう。

そのような意志は、ある種のプロフェッショナリズムとして表現されることもあるでしょう。

怖気づかず、かといって自分を過信することもなく、所与の状況に的確に対応し、目標と達成しようとする態度、とでも定義しておきましょう。

10パーセントの才能+20パーセントの努力+30パーセントの臆病さをもって、残る40パーセントの運を味方に引きつけるという、某スナイパーの精神ですね。 

f:id:unfreiefreiheit:20210728065211j:plain

 

この某スナイパーのセリフの含蓄深さは、やはり「30パーセントの臆病さ」に見出されるべきでしょう。

才能の倍、努力することが成功の秘訣だ、という凡庸な教えなら誰でも言えそうですが、さらには、抜きんでた才能と積み重ねられた努力の合計に匹敵する「臆病さ」または慎重さを備えるべし、と東郷氏は言っているのです。

それほどの慎重さがあってはじめて、自分の能力(合計60パーセント)は運に勝ることができるというのです。

この「臆病さ」が、キルケゴールのいう「臆病さ」ではなく、むしろ逆に、かれのいう「決断」を基礎づける慎重さであることは、もはや説明するまでもないでしょう。 

 

そういうプロフェッショナリズムをリヴァイがもっとも印象的に発揮するのは、ミカサとともに「女型の巨人」に敗北したエレンを救出するシーンです。

エレンを救おうと女型を攻撃しながらも、冷静さを欠き、危なっかしいミカサ。

かのじょに合流したリヴァイは、かれを慕う四名の班員たちの無残な躯(むくろ)を目のあたりにしながら、女型に追いつきました。

自分を非難するミカサが、軍事法廷でかれを睨みつけたエレンの幼馴染であることに気づいたリヴァイは、一瞬、ミカサすら怯ませるような冷たい無表情に沈むも、次の瞬間には、その目に決意の光を宿らせています

エレンを救うことだけを目標に、女型を攻撃する二人。

リヴァイはエレンを見事救出するだけでなく、かれに圧倒される女型を見て、いまならやれると早まったミカサを、あわや返り討ちというところでかばってすら見せました。

目標を遂げて戦場から撤退しながら、かのじょにリヴァイがかけた言葉は「作戦の本質を見失うな」です(30話)。 

30話「敗者達」

 

リヴァイが一瞬見せた、人をぞっとさせるような無表情。

状況に応じて次の判断を迅速に引き出そうとする思考の急速さが、そして仲間を失ったことで沸き起こる悲しみ、怒り、後悔を押し殺す冷徹さが、そこから読み取れます。

しかし次の瞬間、すでにリヴァイは、次になすべきことに全意識を傾けています。

かれの判断は、女型を殺すのはあきらめるという、かれの実力を考えれば控えめなものでした。

しかし実際、リヴァイにも劣らぬ実力者のミカサが、女型に返り討ちにされかけたのでした。リヴァイの慎重さには十分、根拠があったのです。

こうして、かのじょの血気に逸った行動との対比で、リヴァイのプロフェッショナリズムが際立ちます。

怒りに身を任せることも、自分の力を過信することもなく、リヴァイはエレン救出という、状況が許容するかぎりの最善の目標を成し遂げたのです。

 

※ 併せ読みがオススメ

unfreiefreiheit-aot.hatenablog.com

  

「決断は再びあなたを力づける」

とはいえ、プロフェッショナリズムだけが反決断主義的な決断の表現というわけではありません。

不安を生き抜こうとする決断、決断を改めることを恐れない決断は、無力感にさいなまれる者を力づける決断でもあるのです。

 

自分の巨人化能力は父が王家から奪ったものだが、その能力は王家の手になければ真価を発揮しないとロッド・レイスに告げられたエレン。

かれは巨人から人類を守る力が自分のせいで失われたのだと解して「いらなかったんだよ、オレもオレの親父も」と絶望し、ヒストリアに自分を喰って巨人の力をあるべき場所に戻してくれと嘆願しました(65話)。

ヒストリアがロッドに従うことをやめ、そして仲間たちが助けにきた後も、エレンは絶望から立ち直れません。

みずから巨人化したロッドのせいで洞窟の崩壊がはじまり、このままでは岩に潰されて全滅という窮地のなか、ふたたびリヴァイはエレンに「選べ」と迫ります。

この問いかけに触発されてエレンは、かれがはじめてこの言葉を投げかけられた「女型の巨人」来襲の場面を思い出し、もう一度だけ自分の力を信じて抵抗することを選びます(66話)。

f:id:unfreiefreiheit:20210724054121j:plain

f:id:unfreiefreiheit:20210724054134j:plain

66話「願い」

 

きっとこのときエレンは、かれ自身の選択のせいで旧リヴァイ班の仲間を失った苦しい記憶を、あのとき自分が戦っていればという悔恨とともに想起したことでしょう。

この悔しさに鼓舞されて、エレンは絶望の底に沈みこむ前に、もう一度だけ「悔いなき選択」をしたのでした。 

正しい決断をすべきだったという悔恨が、エレンをキルケゴールのいう「臆病さ」から、すなわち、ふたたび決断せんとする意志を挫く絶望から、かれを救ったのです。

「敢然として、あなたは改めて決断をなさい。決断は再びあなたを力づけるにちがいない。」

 

unfreiefreiheit-aot.hatenablog.com