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自分が自由だと思い込む奴隷
あけましておめでとうございます。
あとひと月くらいですが、よろしくお願いします。
それでは本題に。
哲学者のなかには、奴隷という言葉を使って、俗世の価値観を揺さぶろうとする人がよくいます。
「あなたは自分が自由だと思っているが、実は○○の奴隷である」という具合に。
専制君主は誰にでも命令できる権力をもっているが、しかし自分の欲望の奴隷である、とかね。
あるいは、こういう言い方もあります。
――あなたは善悪を知り、正しいことに従っていると思っているみたいだけど、ほんとうは自分がどれほど愚かで罪深いか分かっていない。
――あなたは無知と罪の奴隷である。
こんなこと言われても、平穏な人生を送る人には「えーなにそれイミフ。壺でも売りつけたいの?」ってカンジでしょうね。
しかし、不安や波乱のなかを生きている人ほど、こういう言い方には心を揺さぶられてしまうのではないでしょうか。
『進撃』でも、そんな呪わしい言葉に囚われてしまったキャラがいます。
しかも、作中屈指の型破りで自由奔放な「我が道を行く」系のキャラが。
いうまでもなく、あの巨人博士、ハンジ・ゾエ分隊長あらため団長のことです。
役者としてのハンジ
ハンジさんが呪いの言葉をかけられたのは、第56話「役者」でのこと。
過去記事で、このサブタイが指すのは女王の役目を押しつけられるヒストリアだけではなく、状況しだいでどんな汚れ役ですら引き受ける覚悟のリヴァイでもあると指摘しました。
でもそれだけではありません。この話の「役者」とは、ザ・汚れ役の中央憲兵団所属憲兵サネスをも、そして、ニックの復讐と中央憲兵団が隠し持つ秘密を明らかにするためにサネスを拷問したハンジさんをも、指しているのです。
※ 併せ読みがオススメ
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実際、ハンジさんもまた、なかなかの役者です。
調査兵団に秘密の一端を告げた司祭ニックが殺されたとき、ハンジさんは現場を見て、ニックが拷問を受けたこと、現場をおさえた中央憲兵団が下手人であることを、瞬時に見抜きました。
それだけでなく、中央憲兵サネスの恫喝にのっかって、かれをうまく口車にのせ、被害者ニックがウォール教関係者だと中央憲兵がもともと知っていたことを、サネスの口から暴露させます。
そのうえで「捜査よろしく」とかれらに現場を任せる風を装いつつ、キレッキレの切れ味鋭い捨て台詞を残していったのです。
下手人には「それなりの正義と大義があったのかもしれない」が「悪党共」は「必ず私の友人が受けた以上の苦痛」を味わうことになるだろうと(52話)。
このシーンを読むと、いつも筆者はハンジさんに感心してしまうんですよね。
地位を笠に着て、自分のことを恫喝してくる相手に対して、うまく相手を自分の土俵に引き込み、うっかりボロまで出させて、さらにはどぎつい捨て台詞で「売られたケンカは買ってやる」宣言を堂々と謳いあげ、かつ最終的にはきっちり反撃するという。
ホレボレしますね。半沢直樹より痛快です(半沢直樹、観てないけど)。
ハンジさんみたいに自分も機転のきく人間になりたいなー、と思わされます。
とはいえ、悪人相手にタンカ切ってスッキリ、では話は終わらず......。
善き目的と悪しき手段
その後、エレンたちを追跡してきた中央憲兵サネスとラルフを、調査兵団は逆に捕えることに成功。
囚われのサネスを、ハンジさんとリヴァイは拷問します(55話)。
主人公サイドが拷問をやるというエグさの割には、悪漢サネスにとって因果応報だと感じることができるからか、それほど読者はエグさを感じないかもしれません(筆者も初読ではそうでした)。
でも、やっぱりよく考えるとエグいですよね、これ。
たしかにそれは、ニックの復讐でもあったでしょう。
ハンジさんとリヴァイは、とりあえず有無を言わさずサネスの爪をはがし、顔をなぐりました。
ニックが受けた責め苦をサネスに返すためにです。
つまり下図のようなシーンと同じなわけですね。
この点にかぎれば、サネスは自分の行いの報いを受けたとも言えます。
しかし第二に、やはりこの拷問は、中央憲兵団が隠し持っているはずの秘密を引き出すための拷問です。
調査兵団の利益のために、ハンジさんたちは拷問という汚い手段を選んだのです。
たしかに調査兵団の存続は、かれら自身だけではなく、人類全体の利益にかかわることです(少なくともかれらはそう考えました)。
というのも、調査兵団を排除し現状を維持することを望んでいるらしい王政は、現状維持のためには、巨人のさらなる侵入すら意に介さない様子だからです。
したがって、調査兵団の敗北は、人類全体が王政によって破滅への道を強いられることに等しいでしょう。
他方で、調査兵団が生き残り、さらにかれらが壁内世界の真理を発見することは、たしかに人類全体の利益にかかわることです。
しかし、拷問という手段の残酷さ、非人道性は、いかなる目的によっても相殺されるものではありません。
(実は、この点について学問的意見が完全に一致しているわけではありません。とはいえ、例外的な拷問肯定論すら、無条件の拷問否定論による厳しい批判を受けていることは留意すべきです。)
とはいえ、ハンジさんたちが目的のために手段を選ばなかったことへの批判は、わたしのような一介の読者をまたずして、すでに作中人物が、つまりサネスがおこなっています。
ノリノリで拷問をしているように見えるハンジさんとリヴァイを(何割かは演技なのでしょうが実際ノリノリです)、サネスは挑発します。
抵抗できない相手をいたぶるのは楽しいだろう? 「もっと俺で楽しんでくれ!!」と。
自分もまた「正義のため」と思えば「気分が高揚」し、嬉々として拷問にいそしんだものだと。
つまり、ハンジさんたちがやっていることはサネスと変わらないぞ、と。
しかもサネスは、ハンジさんたちに揺さぶりをかけるためだけにそう言ったのではありません。
ハンジさんたちの暴力がサネスの暴力と同じものだというのなら、つまりそれはサネスが自分自身の暴力を身に受けているに等しいのです。
そのことをサネスは悟っています。だから、かれはこう続けたのです。
俺は この壁の安泰と...
王を...信じてる...
俺達のやってきたことは...間違っていないと...信じたい... ...けど...
こんなに痛かったんだな...俺を嬲り殺しにしてくれ... それが...俺の
血に染まった... 人生のすべてだ (55話)
この様子をみてハンジさんたちは、拷問でサネスの口を割ることはできないと察知したわけですね(52話でリヴァイが「拷問でしゃべるやつは爪一枚でしゃべる、しゃべらないやつは全部はがされてもしゃべらない」という理論を唱えていましたし)。
かのじょらのプランB、つまり仲間のラルフにでっちあげの裏切りのセリフをしゃべらせる作戦は、みごと図に当たり、心が折れたサネスは秘密を暴露しました。
ハンジさんにとっては、しめたものです。
拷問を装いつつも、ほんとうはニックが受けた拷問の報いをサネスに与えてやっただけ(歯一本くらいは余計に多いけど)。
しかも実際にかれに口を割らせたのは拷問ではなく、敵たちのあいだに裏切りを誘発する、かのじょの知略だったわけです。
つまり、サネスの言は的外れであり、ハンジさんたちはサネスと同じ手段はとらなかったと、少なくともかのじょ自身はそう信じられるわけです。
ハメられて口を割ったのは自分だと知って、がっくりとうなだれるサネス。
狙いが図に当たり「ざまあみろ!! ばーーーーーーか!!」と反撃完了の勝どきをあげるハンジさん。
そんなかのじょの去り際にサネスがかけた一言は、ご存じのとおり。
こういう役には多分順番がある...
役を降りても... 誰かがすぐに代わりを演じ始める...
どうりでこの世からなくならねぇわけだ...
がんばれよ... ハンジ... (56話)
繰り返しになりますが、サネスに言わせれば、ハンジさんたちはかれがふるってきた暴力を、かれ自身に返したにすぎません。
つまり、信じる正義のために手を血に染めるという同じ汚れ役を、かのじょらは別の陣営において引き受けたという、それだけのことなのです。
だから、このときサネスは、苦し紛れの反撃としてではなく、自分の敗北をすなおに受け入れつつ、心に浮かんだことをそのまま、ただ率直に伝えただけなのでしょう。
だからこそこのセリフは、今後のハンジさんにとって、呪いの言葉として効いてくるのです。
なぜハンジは呪われたか
皆さん、どう思いますか?
上記のとおり、ハンジさん自身は、サネスとは別の手段でかれに反撃したつもりなのでしょう。
その一方でサネスは、かれの拷問者としての役割をハンジさんたちが自分の前で演じてみせたのだと、ズバリ率直に感じたのです。
どちらが正しいのか?
筆者は、サネスのほうが真実を言い当てていると思います。
ハンジさん自身が、あれは拷問ではなくニックの復讐だったと考えていたとしても、あれはれっきとした拷問です。
なぜハンジさんたちは、ラルフを使った裏切り誘発の策略を、先に使わなかったのか?
それはサネスの口を割らせるのに有効ではないと考えたからに、間違いないでしょう。
サネスが信念に従う人間であるとすれば、たとえラルフの「裏切り」を知っても、まだ少しも痛めつけられていない状態で、いっきに心が折れてしまうかどうかは疑わしい。
逆に、かれが特権に守られた小悪党にすぎないなら、それこそ「爪一枚」だけで、すすんで秘密を暴露すると申し出るだろう。
そう考えるのが合理的でしょうし、そうだとすれば、あの拷問はやっぱり必要だったのです。
ラルフを利用する作戦は、プランBでなければ意味がないものだったのです。
――自分が正しいと信じる目的のために、自分は忌まわしい拷問に手を染めた。
——その点で、自分はサネスと同じである。
このことは、ハンジさん自身も、心の底ではよく分かっていたはずです。
だからこそ、あの呪いの言葉を投げかけられた直後、すでにかのじょは、物にやつあたりせずにはいられないほど苛立っていたのです。
だとすれば、サネスの言葉がハンジさんにとって呪いとして効くのは、かのじょがこのことについて、やましさを、つまり良心の痛みを感じているからなのです。
おそらくリヴァイなら、同じことを言われても、そんなに動じなかったでしょう。
かれのほうがスラム上がりだから肝がすわっているし、汚れ役にも慣れている、という事情もあります。
しかしそれよりも、リヴァイは「たえず決断を改める」ことを恐れないという、とことん実存主義的な覚悟をそなえている点で、誰よりも抜きんでているからです(くりかえしになりますが 1.4.a を参照)。
だからリヴァイは、この件で自分の決断にもとづいて拷問をしたということに、いっさい言い訳をしないでしょう――他人だけではなく、自分に対しても。
あれはニックの復讐だったと、リヴァイは自分に正当化してみせたりはしないでしょう。
ハンジさんも調査兵団幹部として、かなり肝がすわっていることは間違いありません。
しかしこの件では、ニックの復讐という口実によって、サネス自身への因果応報を代行しているという口実によって、良心の痛みを軽減させようとしている節が、かのじょには見受けられます。
――自分は拷問者である、でも自分はサネスとは違うと信じたい。
サネスの言葉を呪いとして意味づけるのは、このようなハンジさん自身の心の葛藤なのです。
「罪の奴隷」
以前にも引用したことがありますが、新約聖書にはこんな言葉があります。
「すべて罪を犯す者は罪の奴隷である」(ヨハネ福音書 8: 34)。
※ 併読がオススメ
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使徒ヨハネが書き残したイエスの言葉によれば、人を自由へと導くのは「真理」である。
真理を知らない者は、何が正しいかを分かっていないから、つまり無知ゆえにこそ、罪を犯してしまう。
だから罪とは、自分を支配できていない、自由ではないことの証であって、真理を知らない人は「罪の奴隷」にすぎない。
そういうわけです。
ここでいう罪や無知とは、一般的な意味での軽率さや愚かさではなく、強い意味で「真理を知らない」ことを指します。
ハンジさんが正義だと信じていること、すなわち、壁内世界と巨人の真実を明らかにすることが人類のためになるという信念を、確実に正しいと保証してくれるものはありません。
もし王政との対決において、ハンジさんたち調査兵団にこそ正義があると皆が認めたとしても、状況が変われば、正義は兵団から離れていくかもしれないのです(現にそういう展開になります)。
真理を知らないとは、そして無知が人を「罪の奴隷」にするとは、そういうことです。
あるいは「運命の奴隷」という言い方もできそうですね。
運命を変えるどころか、それを予見することすら人はできない。
だから人間とは「運命の奴隷」にすぎず、ハンジさんもまた「運命の奴隷」である、と。
※ 「運命の奴隷」とは、なにかの文学作品や哲学書にもありそうなフレーズですが、たぶんジョジョが初出で、他の元ネタはないと思います。
しかしながら、どれほど状況が変化しても変わらない永遠の真理なんて、存在するのでしょうか。
もしあったとしても、それに人間は到達できるのでしょうか。
答えが否だとすれば、わたしたちは、あの卓越した劇作家シェイクスピアがマクベスに語らせた、嘆きの長台詞を復唱し、虚無感に身を浸すしかないのかもしれません。
すべての昨日という昨日が照らし出したのは、
塵と消えゆく愚か者ばかり。
消えろ、消えろ、束の間のともしび!
人生など、歩きまわる影法師、哀れな役者に過ぎぬ。
今こそわが出番なりと、舞台の上で大見得切って、
もったいつけてみたところで、次の瞬間には声も聞こえぬ。
人生とは、うつけ者の語る物語。
響きわたるわめき声や怒鳴り声、
だが意味ある言葉は一つもない。
人間はみな「哀れな役者」。
自分の出番が終わってしまえば「次の瞬間には声も聞こえぬ」。
そして、かれらが出演するのは「意味ある言葉は一つもない」ニヒリスティックな不条理劇。
「罪の奴隷」として、不条理劇の舞台に放り込まれたハンジさん。
抗いがたい運命に直面して、かのじょもまたマクベスのように達観するしかないのでしょうか。
あるいは、この不条理劇にはまだ意味を与える余地が残されているのでしょうか。
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