進撃の巨人・自由論

半分は哲学の解説ブログ、半分は作品の考察ブログ(最近は3:7くらい)。

5.2.a 罪の奴隷となったハンジの自己解放 (上) 〜 自由になることと人間であること

 

unfreiefreiheit-aot.hatenablog.com

 

自分が自由だと思い込む奴隷

あけましておめでとうございます。

あとひと月くらいですが、よろしくお願いします。

 

それでは本題に。

哲学者のなかには、奴隷という言葉を使って、俗世の価値観を揺さぶろうとする人がよくいます。

「あなたは自分が自由だと思っているが、実は○○の奴隷である」という具合に。

専制君主は誰にでも命令できる権力をもっているが、しかし自分の欲望の奴隷である、とかね。

あるいは、こういう言い方もあります。

――あなたは善悪を知り、正しいことに従っていると思っているみたいだけど、ほんとうは自分がどれほど愚かで罪深いか分かっていない。

――あなたは無知と罪の奴隷である。

こんなこと言われても、平穏な人生を送る人には「えーなにそれイミフ。壺でも売りつけたいの?」ってカンジでしょうね。

しかし、不安や波乱のなかを生きている人ほど、こういう言い方には心を揺さぶられてしまうのではないでしょうか。

 

『進撃』でも、そんな呪わしい言葉に囚われてしまったキャラがいます。

しかも、作中屈指の型破りで自由奔放な「我が道を行く」系のキャラが。

いうまでもなく、あの巨人博士、ハンジ・ゾエ分隊長あらため団長のことです。

f:id:unfreiefreiheit:20211218130812j:plain

53話「狼煙」

 

役者としてのハンジ

ハンジさんが呪いの言葉をかけられたのは、第56話「役者」でのこと。 

過去記事で、このサブタイが指すのは女王の役目を押しつけられるヒストリアだけではなく、状況しだいでどんな汚れ役ですら引き受ける覚悟のリヴァイでもあると指摘しました。

でもそれだけではありません。この話の「役者」とは、ザ・汚れ役の中央憲兵団所属憲兵サネスをも、そして、ニックの復讐と中央憲兵団が隠し持つ秘密を明らかにするためにサネスを拷問したハンジさんをも、指しているのです。

 

※ 併せ読みがオススメ

unfreiefreiheit-aot.hatenablog.com

 

実際、ハンジさんもまた、なかなかの役者です。

調査兵団に秘密の一端を告げた司祭ニックが殺されたとき、ハンジさんは現場を見て、ニックが拷問を受けたこと、現場をおさえた中央憲兵団が下手人であることを、瞬時に見抜きました。

それだけでなく、中央憲兵サネスの恫喝にのっかって、かれをうまく口車にのせ、被害者ニックがウォール教関係者だと中央憲兵がもともと知っていたことを、サネスの口から暴露させます。

そのうえで「捜査よろしく」とかれらに現場を任せる風を装いつつ、キレッキレの切れ味鋭い捨て台詞を残していったのです。

下手人には「それなりの正義と大義があったのかもしれない」が「悪党共」は「必ず私の友人が受けた以上の苦痛」を味わうことになるだろうと(52話)。

f:id:unfreiefreiheit:20211222074009j:plain

52話「クリスタ・レンズ」

 

このシーンを読むと、いつも筆者はハンジさんに感心してしまうんですよね。

地位を笠に着て、自分のことを恫喝してくる相手に対して、うまく相手を自分の土俵に引き込み、うっかりボロまで出させて、さらにはどぎつい捨て台詞で「売られたケンカは買ってやる」宣言を堂々と謳いあげ、かつ最終的にはきっちり反撃するという。

ホレボレしますね。半沢直樹より痛快です(半沢直樹、観てないけど)。

ハンジさんみたいに自分も機転のきく人間になりたいなー、と思わされます。

 

とはいえ、悪人相手にタンカ切ってスッキリ、では話は終わらず......。

 

善き目的と悪しき手段

その後、エレンたちを追跡してきた中央憲兵サネスとラルフを、調査兵団は逆に捕えることに成功。

囚われのサネスを、ハンジさんとリヴァイは拷問します(55話)。

 

主人公サイドが拷問をやるというエグさの割には、悪漢サネスにとって因果応報だと感じることができるからか、それほど読者はエグさを感じないかもしれません(筆者も初読ではそうでした)。

でも、やっぱりよく考えるとエグいですよね、これ。

 

たしかにそれは、ニックの復讐でもあったでしょう。

ハンジさんとリヴァイは、とりあえず有無を言わさずサネスの爪をはがし、顔をなぐりました。

ニックが受けた責め苦をサネスに返すためにです。

つまり下図のようなシーンと同じなわけですね。

この点にかぎれば、サネスは自分の行いの報いを受けたとも言えます。

f:id:unfreiefreiheit:20211223075031j:plain

 

しかし第二に、やはりこの拷問は、中央憲兵団が隠し持っているはずの秘密を引き出すための拷問です。

調査兵団の利益のために、ハンジさんたちは拷問という汚い手段を選んだのです。

 

たしかに調査兵団の存続は、かれら自身だけではなく、人類全体の利益にかかわることです(少なくともかれらはそう考えました)。

というのも、調査兵団を排除し現状を維持することを望んでいるらしい王政は、現状維持のためには、巨人のさらなる侵入すら意に介さない様子だからです。

したがって、調査兵団の敗北は、人類全体が王政によって破滅への道を強いられることに等しいでしょう。

他方で、調査兵団が生き残り、さらにかれらが壁内世界の真理を発見することは、たしかに人類全体の利益にかかわることです。

 

しかし、拷問という手段の残酷さ、非人道性は、いかなる目的によっても相殺されるものではありません。

(実は、この点について学問的意見が完全に一致しているわけではありません。とはいえ、例外的な拷問肯定論すら、無条件の拷問否定論による厳しい批判を受けていることは留意すべきです。)

 

とはいえ、ハンジさんたちが目的のために手段を選ばなかったことへの批判は、わたしのような一介の読者をまたずして、すでに作中人物が、つまりサネスがおこなっています。

ノリノリで拷問をしているように見えるハンジさんとリヴァイを(何割かは演技なのでしょうが実際ノリノリです)、サネスは挑発します。

抵抗できない相手をいたぶるのは楽しいだろう? 「もっと俺で楽しんでくれ!!」と。

自分もまた「正義のため」と思えば「気分が高揚」し、嬉々として拷問にいそしんだものだと。

f:id:unfreiefreiheit:20211222081730j:plain

55話「痛み」

 

つまり、ハンジさんたちがやっていることはサネスと変わらないぞ、と。

しかもサネスは、ハンジさんたちに揺さぶりをかけるためだけにそう言ったのではありません。

ハンジさんたちの暴力がサネスの暴力と同じものだというのなら、つまりそれはサネスが自分自身の暴力を身に受けているに等しいのです。

そのことをサネスは悟っています。だから、かれはこう続けたのです。

俺は この壁の安泰と...
王を...信じてる...
俺達のやってきたことは...間違っていないと...

信じたい... ...けど...
こんなに痛かったんだな...

俺を嬲り殺しにしてくれ... それが...俺の
血に染まった... 人生のすべてだ (55話)

 

この様子をみてハンジさんたちは、拷問でサネスの口を割ることはできないと察知したわけですね(52話でリヴァイが「拷問でしゃべるやつは爪一枚でしゃべる、しゃべらないやつは全部はがされてもしゃべらない」という理論を唱えていましたし)。

かのじょらのプランB、つまり仲間のラルフにでっちあげの裏切りのセリフをしゃべらせる作戦は、みごと図に当たり、心が折れたサネスは秘密を暴露しました。

 

ハンジさんにとっては、しめたものです。

拷問を装いつつも、ほんとうはニックが受けた拷問の報いをサネスに与えてやっただけ(歯一本くらいは余計に多いけど)。

しかも実際にかれに口を割らせたのは拷問ではなく、敵たちのあいだに裏切りを誘発する、かのじょの知略だったわけです。

つまり、サネスの言は的外れであり、ハンジさんたちはサネスと同じ手段はとらなかったと、少なくともかのじょ自身はそう信じられるわけです。

 

ハメられて口を割ったのは自分だと知って、がっくりとうなだれるサネス。

狙いが図に当たり「ざまあみろ!! ばーーーーーーか!!」と反撃完了の勝どきをあげるハンジさん。

そんなかのじょの去り際にサネスがかけた一言は、ご存じのとおり。

こういう役には多分順番がある...

役を降りても... 誰かがすぐに代わりを演じ始める...

どうりでこの世からなくならねぇわけだ...

がんばれよ... ハンジ... (56話)

f:id:unfreiefreiheit:20211222073955j:plain

56話「役者」

 

繰り返しになりますが、サネスに言わせれば、ハンジさんたちはかれがふるってきた暴力を、かれ自身に返したにすぎません。

つまり、信じる正義のために手を血に染めるという同じ汚れ役を、かのじょらは別の陣営において引き受けたという、それだけのことなのです。

だから、このときサネスは、苦し紛れの反撃としてではなく、自分の敗北をすなおに受け入れつつ、心に浮かんだことをそのまま、ただ率直に伝えただけなのでしょう。

だからこそこのセリフは、今後のハンジさんにとって、呪いの言葉として効いてくるのです。

 

なぜハンジは呪われたか

皆さん、どう思いますか?

上記のとおり、ハンジさん自身は、サネスとは別の手段でかれに反撃したつもりなのでしょう。

その一方でサネスは、かれの拷問者としての役割をハンジさんたちが自分の前で演じてみせたのだと、ズバリ率直に感じたのです。

どちらが正しいのか?

 

筆者は、サネスのほうが真実を言い当てていると思います。

ハンジさん自身が、あれは拷問ではなくニックの復讐だったと考えていたとしても、あれはれっきとした拷問です。

なぜハンジさんたちは、ラルフを使った裏切り誘発の策略を、先に使わなかったのか?

それはサネスの口を割らせるのに有効ではないと考えたからに、間違いないでしょう。

 

サネスが信念に従う人間であるとすれば、たとえラルフの「裏切り」を知っても、まだ少しも痛めつけられていない状態で、いっきに心が折れてしまうかどうかは疑わしい。

逆に、かれが特権に守られた小悪党にすぎないなら、それこそ「爪一枚」だけで、すすんで秘密を暴露すると申し出るだろう。

そう考えるのが合理的でしょうし、そうだとすれば、あの拷問はやっぱり必要だったのです。

ラルフを利用する作戦は、プランBでなければ意味がないものだったのです。

 

――自分が正しいと信じる目的のために、自分は忌まわしい拷問に手を染めた。

——その点で、自分はサネスと同じである。

このことは、ハンジさん自身も、心の底ではよく分かっていたはずです。

だからこそ、あの呪いの言葉を投げかけられた直後、すでにかのじょは、物にやつあたりせずにはいられないほど苛立っていたのです。

だとすれば、サネスの言葉がハンジさんにとって呪いとして効くのは、かのじょがこのことについて、やましさを、つまり良心の痛みを感じているからなのです。

f:id:unfreiefreiheit:20211223085720j:plain

56話「役者」

 

おそらくリヴァイなら、同じことを言われても、そんなに動じなかったでしょう。

かれのほうがスラム上がりだから肝がすわっているし、汚れ役にも慣れている、という事情もあります。

しかしそれよりも、リヴァイは「たえず決断を改める」ことを恐れないという、とことん実存主義的な覚悟をそなえている点で、誰よりも抜きんでているからです(くりかえしになりますが 1.4.a を参照)。

だからリヴァイは、この件で自分の決断にもとづいて拷問をしたということに、いっさい言い訳をしないでしょう――他人だけではなく、自分に対しても。

あれはニックの復讐だったと、リヴァイは自分に正当化してみせたりはしないでしょう。

 

ハンジさんも調査兵団幹部として、かなり肝がすわっていることは間違いありません。

しかしこの件では、ニックの復讐という口実によって、サネス自身への因果応報を代行しているという口実によって、良心の痛みを軽減させようとしている節が、かのじょには見受けられます。

――自分は拷問者である、でも自分はサネスとは違うと信じたい。

サネスの言葉を呪いとして意味づけるのは、このようなハンジさん自身の心の葛藤なのです。

 

「罪の奴隷」

以前にも引用したことがありますが、新約聖書にはこんな言葉があります。

「すべて罪を犯す者は罪の奴隷である」(ヨハネ福音書 8: 34)。

 

※ 併読がオススメ

unfreiefreiheit-aot.hatenablog.com

 

使徒ヨハネが書き残したイエスの言葉によれば、人を自由へと導くのは「真理」である。

真理を知らない者は、何が正しいかを分かっていないから、つまり無知ゆえにこそ、罪を犯してしまう。

だから罪とは、自分を支配できていない、自由ではないことの証であって、真理を知らない人は「罪の奴隷」にすぎない。

そういうわけです。

 

ここでいう罪や無知とは、一般的な意味での軽率さや愚かさではなく、強い意味で「真理を知らない」ことを指します。

ハンジさんが正義だと信じていること、すなわち、壁内世界と巨人の真実を明らかにすることが人類のためになるという信念を、確実に正しいと保証してくれるものはありません。

もし王政との対決において、ハンジさんたち調査兵団にこそ正義があると皆が認めたとしても、状況が変われば、正義は兵団から離れていくかもしれないのです(現にそういう展開になります)。

真理を知らないとは、そして無知が人を「罪の奴隷」にするとは、そういうことです。

 

あるいは「運命の奴隷」という言い方もできそうですね。

運命を変えるどころか、それを予見することすら人はできない。

だから人間とは「運命の奴隷」にすぎず、ハンジさんもまた「運命の奴隷」である、と。

 

※ 「運命の奴隷」とは、なにかの文学作品や哲学書にもありそうなフレーズですが、たぶんジョジョが初出で、他の元ネタはないと思います。

f:id:unfreiefreiheit:20211220053037p:plain

 

しかしながら、どれほど状況が変化しても変わらない永遠の真理なんて、存在するのでしょうか。

もしあったとしても、それに人間は到達できるのでしょうか。

答えが否だとすれば、わたしたちは、あの卓越した劇作家シェイクスピアマクベスに語らせた、嘆きの長台詞を復唱し、虚無感に身を浸すしかないのかもしれません。

すべての昨日という昨日が照らし出したのは、

塵と消えゆく愚か者ばかり。

消えろ、消えろ、束の間のともしび!

人生など、歩きまわる影法師、哀れな役者に過ぎぬ。

今こそわが出番なりと、舞台の上で大見得切って、

もったいつけてみたところで、次の瞬間には声も聞こえぬ。

人生とは、うつけ者の語る物語。

響きわたるわめき声や怒鳴り声、

だが意味ある言葉は一つもない。

シェイクスピアマクベス』第5幕 第5場

 

人間はみな「哀れな役者」。

自分の出番が終わってしまえば「次の瞬間には声も聞こえぬ」。

そして、かれらが出演するのは「意味ある言葉は一つもない」ニヒリスティックな不条理劇。

 

「罪の奴隷」として、不条理劇の舞台に放り込まれたハンジさん。

抗いがたい運命に直面して、かのじょもまたマクベスのように達観するしかないのでしょうか。

あるいは、この不条理劇にはまだ意味を与える余地が残されているのでしょうか。

 

unfreiefreiheit-aot.hatenablog.com

 

 

5.1 「待っていたんだろ 二千年前から 誰かを」 ~ 自由になることと人間であること

 

自由でなければ人間ではない?

こんにちは。

おふざけでエレヒスネタを投稿した前後から、妙にPV数が伸び出して、ちょっと色々な意味でビビっている小心者の筆者です。

そうはいっても、これが最終章。なにかあっても書き逃げすればいいもんね。

 

さて、けっきょくのところ自由とは何か?

哲学的意味での自由とは、ひとことで言えば、ズバリこれです。

人間らしく」生きること。

このブログを読んでいただいた皆さまには、もはや説明するまでもないでしょう。

え、よく分からないですって?

そこはどうにか「心」で理解してもらえれば!

f:id:unfreiefreiheit:20211218215542j:plain 

 

......はい、すみません、ちゃんと説明します。 

これまでに紹介してきた哲学者たちの見解はさまざまでしたけど、ある一点では共通しています。

人間は自由であってこそ真に人間らしい、自由でなければ人間的ではない、と考えるのです。

たとえばカントは、みずからの情念に振り回される人を、暴君に支配された人民のように「他律的」な存在とみなしました。

ニーチェは、自由な強者たりえない大衆を「畜群」と蔑みます。

サルトルの場合には、人間は自由でないことができないのですが(自由の刑)、それでも、みずからの存在の偶然性=自由を認めたがらない人はいます。そういう人々を、サルトルは「卑怯者」と呼んだのでした。

 

※ 併読がオススメ

unfreiefreiheit-aot.hatenablog.com

 

unfreiefreiheit-aot.hatenablog.com

 

unfreiefreiheit-aot.hatenablog.com

 

じゃあ逆に、自由ではない人間って何?

非人間的な人間ってこと? 人間扱いしてくれないの、ひどくない?

そう、ひどい話ですね。でも、極論すればそういうことです。

自由を失った人間とは? 人間以下の人間とは?

そう、すなわち奴隷です。

 

奴隷とは、人間でありながら人間性を否定され、人間でありながら財産すなわちモノのように扱われる存在。

しかしながら奴隷は、それでも人間であるのではないでしょうか?

そして人間であるなら、つまり自由であるはずではないでしょうか?

ひょっとすると、奴隷であることと自由は、かならずしも矛盾しないのかもしれません。

実際、哲学者のなかには、奴隷という在りかたのなかにこそ自由にかんする一片の真理が含まれている、と考える者がいるのです――あとでこの記事に登場する観念論の大家のように。

 

さて『進撃の巨人』には、このテーマを考察するための題材にふさわしいキャラクターがいます。

そう、奴隷でありながら神格化または悪魔化され、神格化されながらも奴隷でありつづけた少女、始祖ユミルです。

f:id:unfreiefreiheit:20211204215442j:plain

120話「刹那」

 

かのじょは「二千年前から」待っていました。

かのじょを解き放ってくれる「誰かを」待っていました。

そんな始祖ユミルにとって、自由とは何を意味するのでしょうか?

 

巨人をこねあげる奴隷

時はさかのぼり、作中世界の2000年前。

現実世界でいう古代ゲルマン人のような見かけの人々が、戦争に明け暮れていました(122話)。

戦士たちが村を略奪し、家を焼き、逃げ惑う者を突き殺し、降伏した者を奴隷にしています。

約2000年後とはまた違った意味で、それは「辛くて厳しいことばかり」の世界でした。

そんな世界で、幼くして奴隷にされた一人が、あのユミルでした。

f:id:unfreiefreiheit:20211204220411j:plain

122話「二千年前の君から」

 

この世界では、奴隷には言葉を話す必要も権利もないと考えられていたようです。

だから、新たに奴隷になった人々は舌を切られています。

何のためかは分かりませんが、ひとつ言えるのは、舌を切られ会話できないことにより、奴隷はつねづね、人間以下の身分にあることを思い知らされただろうということです。

言葉とは、そして言葉を正しく順序立てることで表現される理性(ロゴス=言葉・理性!)とは、まさしく人間を人間たらしめる当の能力。

それを奪われるということは、人間性を徹底的に否定されることを、象徴的に示しています。

 

例外なく舌を切られたユミルも、そして「豚を逃がした」犯人としてかのじょを指さす他の奴隷たちも、ひとことも発しません。

かのじょの主人フリッツ王は、かのじょを愉しんで殺すための標的にしたのでした。

ところが――なぜか大樹の根本に広がる湖に落ち、そのなかにいた脊椎だけで動いているような気持ちわるい何かに、とりつかれたユミル。

突如、かのじょは巨人に姿を変えたのでした。

f:id:unfreiefreiheit:20211218221121j:plain

122話「二千年前の君から」

 

巨人になったら、もう怖いものなんてなさそうなもの。

ところがユミルは、フリッツ王の奴隷のまま留まり、王いわく「道を開き 荒れ地を耕し 峠に橋をかけた」のでした。

どれほど大きな貢献を、巨人ユミルの労働から、フリッツ王たちは受け取ったことでしょうか。

かれらの部族「エルディア」の発展は、絵面からも明らか。

森のなかの一集落の村長(むらおさ)が、いまや、ずいぶん立派なお召し物と宮殿をおもちではありませんか。

f:id:unfreiefreiheit:20211204220421j:plain

f:id:unfreiefreiheit:20211204220432j:plain

122話「二千年前の君から」

 

労働だけでなく、やがて戦争兵器にも使われるようになる巨人ユミル。

ローマ軍っぽい出で立ちのマーレ軍を圧倒し、エルディアに勝利をもたらします。

さらには「褒美」に「我の子種をくれてやる」とか言い出したキモいエロ主人の意向に従い、ユミルは王の子を産みます。

 

しかし、それでもユミルの地位は奴隷のままでした。

恨みをもつ配下(マーレの刺客かなにか?)に襲われ危機一髪のフリッツをかばい、心臓を一突きにされ死にゆくユミル。

かのじょが世を去る瞬間にすら、フリッツがかけた言葉は「我が奴隷ユミルよ」でした。

 

さらにフリッツは、巨人を失いたくない一心で、ユミルの死体(背骨)を三人の娘に食わせるという暴挙に出ます。ウェッ!

なぜかそれが成功し、以来、死んだ能力者の背骨を食うことで、巨人の能力は継承されるようになりました。

 

その一方で、死後のユミルは、無時間的な精神世界にひとり囚われつづけています――作中用語でいう「道」ですね。

無限に広がる土と、巨人の継承関係を反映して枝分かれしていく光の大樹だけがある世界で、奴隷ユミルはいつまでも労働を続けます

かのじょがこねあげる土人形のひとつひとつが、巨人となって現世に送り出されるのです。

f:id:unfreiefreiheit:20211218084056j:plain

122話「二千年前の君から」

 

現世の人間たちに神格化されたり悪魔化されたりしている、始祖ユミル。

しかし現実には(という言葉を使うのもヘンですが)、生前も死後も、かのじょは従順な奴隷でしかなかったのです。

 

主人と奴隷の弁証法

奴隷は、自由とは相容れません。

しかし同時に、ある意味では、奴隷とは自由の哲学的原理にかかわるテーマでもあります。

人間には自由人と奴隷の二種類があるという考え方は、人間はみな生まれながらに自由だという考え方とは相容れません。

それだけでなく、奴隷の存在を認めるかどうかは、自由の概念そのもの、すなわち、何をもって自由と呼ぶかという点についても違いを作り出すのです。

 

自由の概念は、人間精神の現実のありかたとともに、歴史のなかで変化し、発展していくもの。

そのように自由を把握した哲学者といえば、あの人しかいません。

あの観念論の大家、あるいは自己意識の哲学者、すなわちヘーゲル(1770-1831)です。

 

ヘーゲルの主著『精神現象学』には「主人と奴隷の弁証法」と呼ばれる一節があります。

かれによれば、外界を知覚するだけでなく「自分」という概念をもつようになった人間――これを「自己意識」と呼びます――を、他の人間との関係に(つまり社会に)移すとき、まずはじめに起きることが、主人と奴隷への分裂です。

f:id:unfreiefreiheit:20211219091227j:plain

 

ヘーゲルいわく、自分という概念をもったばかりの「自己意識」は「それぞれに」つまり他人から断絶した個としてのみ自立的な形態」をとる。

そして個としての意識は、同時に「生命というあり方のうちに……沈み込んだ意識」でもある。

この段階では、わたしが自由であることは、各人の意識のなかでしか真理になっていません。

というのも「ほーらこれがわたしの自由な意識ですよ」と、自己意識を取り出して見せることなんて、できませんからね。

それが「生命というあり方」(つまり身体)のうちに「沈み込んだ意識」という規定の意味です。

 

さて、そうなると各人は、みずからの自由を客観的に実現するためには、みずから「意識がどんな現実の存在とも......結びついていないこと」を示さねばならないと、ヘーゲルは続けます。

つまり、わたしが独立した「自己」であることは「生命とすら」結びついていない真実なのだと証明するのです。

では、どうやって?

命をかけることによってのみ、自由が確証される」。そうヘーゲルは述べます。

つまり戦争に赴くことによってです。

 

わたしが自由であることを他人に認めさせるには、自分が死を恐れない意識であることを証明しなければならない。

ヘーゲルによれば、ここが自由人と奴隷との運命の分かれ道。

死を恐れる者は、命をかけることを避けるために、戦士たちに屈服するしかありません。

こうして、恐怖する自己意識は、自由な戦士たる主人のために労働し、奉仕する存在、すなわち奴隷となります。

 

労働する意識の自由

しかし、ヘーゲルの「主人と奴隷の弁証法」のクライマックスはここから。

奴隷はただ労働するのではなく、主人のために労働します。

他方で主人は、もはや自分のために労働する必要がありません。生命を維持するために必要な労苦は、すべて奴隷に任せて、その成果を享受(消費)するだけでいいのです。

このことが、自由の概念における逆転をもたらします。

 

まず奴隷のほうでは、主人のために作ったモノを、自分では消費しません。

そういう意味で、奴隷の労働の産物は、奴隷じしんにとって「自立的」なものとして現れます。

主人は間接的に、奴隷を介してモノへと関係する。……奴隷は労働をくわえて、モノを加工するだけである。……主人は、モノと自分とのあいだに奴隷を差しはさむことで、ただひたすらモノの非自立性とだけ結びつき、モノを純粋に享受する。ところが、モノの自立的な側面については、主人はこれを奴隷に委ねる。

ヘーゲル精神現象学』「自己意識の自立性と非自立性――主人と奴隷」

 

他方の主人は、他人が作り出したモノを消費するだけの主人は、もはや「自分だけで存在する」という自立的存在ではなくなっています。

言い換えれば、いつのまにか主人の意識は非自立的なものになっています。

 

かくして、ヘーゲルは次のように言うことができるのです。

真に自立的意識であるのは、奴隷の意識である」。

というのも、いまや奴隷は、自己意識が外界において実現されるのを見ることができるのですから。

はじめは意識の内部にしか存在しなかった自己の「自立性」が、労働をつうじて、モノの世界において、客観的に表現されるのを奴隷は見るのですから。

……形成する行為は、同時に個別性をそなえている。……いまや労働においては、自立的存在がみずからの外部に出てきて、持続的なものの境位に入る。こうしたなりゆきで、労働する意識は、自立的存在を自分自身として直観するに至るのだ。

ヘーゲル精神現象学』「自己意識の自立性と非自立性――主人と奴隷」

f:id:unfreiefreiheit:20211219060330j:plain

ヘーゲル精神現象学』初版本(1807年刊)

 

さて、労働する自己意識の「自立性」または自由とは、かつての命がけで争う自己意識の自由とは、質的に異なるものです。

戦争する意識の自由は、かれ(まず間違いなく男性でしょう)に服従し奉仕する他者の存在を、つまり奴隷を基礎としています。

労働する意識の自由は、その生産物をつうじて表現されるのであって、他人の服従を必要としません

ヘーゲルは、ここから一足飛びに普遍的な自由(最高度の自由)へと話を移すわけではありませんが、それでも普遍的自由の基礎となるのは後者、すなわち労働する意識の自由なのです。

 

始祖ユミルの「媒介」としてのエレン

しかし問題は、労働をつうじた奴隷の意識の自立化という構図が、始祖ユミルに当てはまるかどうかということ。

強大な巨人の力を手に入れたにもかかわらず、さらには死してなお、かのじょは奴隷としてフリッツに奉仕しつづけました。

計り知れないほど長いあいだ労働しても、数えきれないほどの数の土人形をこねあげても、ユミルの意識は自立化せず、かのじょは奴隷のままです。

とすると、ヘーゲルの「主人と奴隷の弁証法」は、絵空事でしかないのでしょうか。

 

二つの点に留意すべきでしょう。

一つに、ヘーゲルの話は、人間精神の大きな歴史的変化には当てはまる話であっても、個々人の意識においてかならず生じる過程とはいえないだろう、ということ。

それこそ二千年のスケールで見れば、古代から近代にいたるまでに、労働する意識の自立化はたしかに達成されました。

しかし個人のレベルで、ヘーゲルのいうように労働をつうじて奴隷の意識は解放されるのだ、とはいえません。

そういう奴隷もなかにはいるかもしれませんが、多くの奴隷にとっては、客観的にも主観的にも、奴隷の境遇を脱するのは困難でしょう。

 

もう一つに、これは始祖ユミルの特殊な事情ですが、かのじょは人間の力をもってではなく、人間を超える力をもって、つまり巨人として、主人に奉仕したのでした。

ただの奴隷であれば、労働をつうじて、自分が自立した人間であることを証明できるかもしれません。

しかしながら、始祖ユミルの労働はかのじょが人間であることを証明してくれないのです。

自分自身を人間として認めることが、それだけが、始祖ユミルにはできないままなのです。

 

だからこそ、エレンの言葉は始祖ユミルに届いたのでしょう。

エレンはユミルに、隷従と奉仕の「終わり」を宣言しました。

f:id:unfreiefreiheit:20211218084106j:plain

122話「二千年前の君から」

 

ユミルのことを「奴隷じゃない 神でもない ただの人だ」と、エレンは断言してくれました。

f:id:unfreiefreiheit:20211204221713j:plain

122話「二千年前の君から」

 

ユミルがずっと「誰かを」待ち続けていたことを、エレンは見抜きました。

f:id:unfreiefreiheit:20211204221731j:plain

122話「二千年前の君から」

 

このことはすなわち、始祖ユミルが、労働という行為だけによっては、みずからの個としての「自立性」を意識しえなかったということを意味します。

労働の対象に自分自身を見ることではなく、それ以上のなにかが、始祖ユミルには必要だったのでしょう。

そして、かのじょが求めていたものを得るための、いわば「媒介」の役割を果たしたのが、エレンだったのでした。

 

始祖ユミルを自由にしたものは、いったい何だったのか。

かのじょや、作中の他の「奴隷」たちは、いかにして人間へと復帰しえたのか。

それを哲学的に解明することが、本章の課題です。

始祖ユミルにくわえて、ハンジ、ジーク、ミカサ、ファルコ、そしてエレンが題材となるでしょう。

 

unfreiefreiheit-aot.hatenablog.com

 

 

補論 エレヒス実在説に関する哲学的一考察

 

この記事はネタなので、あまり真に受けないでね!

 

序言

第4章がここまでヒストリア推しになってしまったのは予定外。

かのじょのエピソードは、書いているあいだの新たな発見が特に多くて。

第2章のエルヴィンもそうだったけど、それ以上ですね。

(筆者が好きなキャラは、ジャンとハンジさんなんですが。)

 

ここまで長々とヒス推ししちゃったので、どうせなら地雷ネタも踏み抜いちゃいますか。

ええ、そうです。作品終盤でヒストリアは誰と子供を作ったのかという、あの荒れまくった話題のことです。

夫のサスペンダー君なのか、密会していたエレンだったのか。

これを判定することは、つまるところ、公式カプはエレミカなのかエレヒスなのかを決めることと同義であると、多くの読者が考えたようです(それは思い込みに過ぎないのですが)。

それゆえにでしょう、多くの人がネット上での不毛な争いに身を投じたのでした。

 

あれなんですけど、みんなもうちょっと冷静になりましょうよ。

だってあれ、作者・諌山のイタズラじゃないですか。

ラストでエレミカ両想いが判明しようがしまいが、あの夜、ヒストリアとエレンがその場の勢いで致してしまった可能性(あくまで可能性であって確定事実とは言っていない)は打ち消せないように描写しているんですよ。

そのへんのフォローは(連載中はおろか単行本でも)一切なしで作品を終わらせちゃったんですから、諌山は確信犯なのです。

エレミカ勢とエレヒス勢の争いは、まったくもって諌山の手の平の上なのです。

いやーほんと性格悪いなー作者。

 

哲学する者は、表層的な対立の図式そのものに批判の光を当てねばならない。

というわけで、本当の二者択一は、これだッ!

「エレミカはあった、エレヒスはなかった」説 vs. 「エレミカもエレヒスもあった」説

作者・諌山は、どっちとも取れる解釈の余地を残しています。

筆者は、後者の可能性が高いと思っていますが。

 

え、もし後者なら、エレンがクズ野郎になっちゃうじゃないかって?

エレヒスがあった可能性を認めるだけで、プラトニックなエレミカ・エンドが汚されてしまうじゃないかと考える読者さんたちは、とっても純情です。

でも男って、たとえ本命のコを想い続けていても、他の悪くない仲のコといい雰囲気になれば流されてしまう、愚かな生き物ではないでしょうか。

ね、女たらしのサルトル先生!

 

参考記事。

筆者の方のことはよく知りませんが、サルトルに「オラオラ系の無頼派哲学者」は、ちょい盛りすぎかな。かれはオラついてるわけでは......(笑)。

せいぜい「ナンパと性癖自己分析が趣味の露悪家哲学者」くらいのほうが合っている気がします。(かえってこのほうがヒドい?)

diamond.jp

 

エレヒス不在説の記憶論的証明

※ 以下、小見出しもネタなので、あまり真に受けないでね!

 

エレヒスが実現していなかった可能性を、先に検討してみましょう。

まず見たいのは、エレンの回想中の、ジークに「ミカサの気持ちに応えてやりなよ」的な話をふられたシーンです。

そこでエレンは「長くて4年しか寿命がないオレじゃミカサちゃんを幸せにできない」(意訳)と言いつつ、なぜかヒストリアとの密会を思い出しています

私が... 子供を作るのはどう?

いやー、このかぶらせ方はヤバいでしょ!

エレンがミカサの気持ちに応えられないのは、余命が少ないだけだからじゃなくて、あの夜、勢いにまかせてヒストリアと致してしまったことの後ろめたさも理由なんでしょう! この浮気もんがぁ!

f:id:unfreiefreiheit:20220109205333j:plain

130話「人類の夜明け」

 

......と思った人は少なくないのでは?

でも、むしろこれ、あの夜には二人のあいだに何もなかったことの示唆と見たほうが自然な気がします。

だって、ここでヒストリアとヤッてなかったとすれば、エレンはどうみても童貞ですよ? 逆にヤッていたとしても、これが初体験ですよ? (ゲスムーブ失礼。)

だとすれば、本当に二人がヤッていたなら、エレンの脳裏には艶めかしい夜の記憶がこびりついているはずなのです。

でも、そういう記憶はかけらも出てこない。

なーんだ、やっぱりヤッてないじゃん!

つまりこのシーンには、エレミカ派の皆さんはむしろ安心していいのです。

 

......と言いつつも、やっぱりエレヒスあった説のほうが有利だと筆者は考えます。

いまさら筆者が指摘するまでもないですが、出産は数か月後と兵長が言いながら(112話)、その直後にヒストリアは産んでるんですもんね(134話)。

やっぱりお二人は、致してしまったのではないでしょうか。

『進撃』が掲載されていたのは少年誌ですし、作者のスタイルからしても、この場面にかぎらず露骨に性的なシーンは描写しないようにしているみたいです。

だから先のシーンでは、エレンはほんとうは艶めかしいベッドシーンも込みで思い出しつつ、ミカサに後ろめたさを感じていたのかもしれません。

 

エレヒス実在説の関係論的証明

※ くれぐれも小見出しはネタなので......(以下略)

 

妊娠の時期の問題を抜きにしても、エレヒス致してしまった説は、なんともありそうな話です。

ヒストリアとエレンの関係性を考慮すると、二人は後腐れのない一夜限りの関係を結んでしまってもおかしくないように思えるのです。

二人のお互いへの感情は、王政編以後、互いに悪からず思いあっている、といったところ。

エレンのほうでは恋心にまでは行ってないでしょうけど、それじゃあヒストリアの感情はどうかというのは別の話。

 

当初は色恋沙汰に疎かった少年エレン(マルロと同列)は、記憶が蘇るからという理由で何度もヒストリアの手を握りにいってしまうという、少女マンガの天然ジゴロ系イケメン男子みたいな距離の詰め方をしていました(70話)。

さらには、キヨミにジークの「地鳴らし」利用計画を伝えられたあと、エレンがただ一人、ヒストリアをかばった、あの一件(107話)。

ジークの計画によれば、ヒストリアとその子孫は代々、巨人を継承せねばなりません(ジークが隠していた真の「安楽死」計画でも、この点は変わらない)。

これを受け入れると即答するヒストリア。兵団上層部はみな、気まずそうに押し黙りつつも、まあそうしてもらうしかないわな、という面もち。

そんななか、エレンだけが立ち上がり「あらゆる選択を模索する」ことを提案したのでした。

泣きそうな表情のヒストリア。

カプ厨でなくても、これにはヒストリア→エレンの波動をビンビン感じてしまうところ。

f:id:unfreiefreiheit:20211108092713j:plain

107話「来客」

 

それを明確な恋愛感情とまで見なせるかどうかは別として、ヒストリアのエレンへの感情が、エレンのかのじょへの感情よりは大きくなっていったであろうことは、推測に難くありません。

もちろん他方で、ミカサのエレンへの感情をヒストリアは(というか友人は誰でも)知っていたでしょうし、それに公での立場の違いもありますから、ヒストリアは特別な感情をエレンにもったとしても、それを行動に移そうとは思わなかったでしょうね。

......あの密会のようなシチュエーションがなければ。

 

エレヒス実在説の実存論的証明

ヒストリアとエレンの共通点として、他人への思いやりや好意をもつ場合にも、決して相手に依存しないということが挙げられます。

この二人は、精神的に成長した結果、相手の自由を尊重しつつ、みずからの自由と責任において他人を思いやることができるようになりました。

何が言いたいかというと、エレンがみずからの自由と責任にもとづいて「地鳴らし」をやると決めたとき、ヒストリアは結局かれの意志を尊重しつつ、みずからの自由と責任にもとづいてエレンの子を身ごもることにしたのではないかと。

 

あの密会でエレンは、レイス家と同じ犠牲の道をヒストリアに歩ませることは絶対に受け入れられないと言い切りました(130話)。

ただしその意味は、ヒストリアだから救ってあげたいということではありません。

ヒストリア自身が自己犠牲を受け入れようが受け入れまいが、エレン自身の倫理観にもとづいて納得できない、という意味です。

エレンの行動の理由は、あくまで自分自身にあります。

 

ところで、なぜエレンは、同期の友人のなかでは(イェレナとの密談を手引きしたフロックを除けば)ヒストリアにだけ真意を告げたのか?

それも主要には、実際的な理由からでしょう。

つまり、連れてきたジークを兵団がすぐにヒストリアに継承させる可能性を、すでにエレンは念頭に置いていたのでしょう。

そうなればエレンの決断そのものがムダになります。

だから、それを避けるようヒストリアには備えてもらう必要があったのでしょう。

少なくともその程度には、ヒストリアを自分の計画に巻き込むしかないと分かっていたから、エレンはヒストリアと密会したのだというのが真相だと考えられます。

 

当然ながらヒストリアは、エレンの「地鳴らし」という代案を思いとどまらせようとします。いくらなんでも人類大虐殺なんて、良心が許しません。

でも、それはエレンも分かっています。そのうえで、ヒストリアを共犯にしなければならない。

だからエレンは、かれの行動がヒストリアに重荷を負わせるものではないと知らせるために、うまいことを言います。

ヒストリアは「あの時オレを救ってくれた 世界一悪い子」じゃないかと。

f:id:unfreiefreiheit:20210919212837j:plain

130話「人類の夜明け」

 

つまりエレンは、こういうことが言いたいのでしょう。

――あのとき、お前はお前自身の理由でオレを救ったではないか?

オレのためではなくて、お前自身のためにそうしたんだろう?

それと同じように、オレはオレ自身の理由で、オレ自身のために、オレ自身の自由と責任において、この選択肢を正しいと信じ、実行する。

だから、お前はオレの意志を変えることはできないし、そのことでお前に責任はない。

それはお前にもよく理解できるはずだ。

......ここまでの意味が込められているはずです。

だってエレンは、ヒストリアを単なる「悪い子」ではなく「オレを救ってくれた」悪い子だと思い起こさせたのですから。

 

上の一言によって、エレンの意志がもはや誰にも曲げられないことを、ヒストリアは悟ったはずです。

だからかのじょは、もはやエレンを説得しようとはしませんでした。

そのかわりに、自分から「じゃあ エレン」と切り出し、そして「私が...子供を作るのはどう?」と提案したのです。

これは、エレンの意志が変わらないことに納得したという表明であり、そして同時に、エレンと密かな共犯関係を結ぶ(=「獣」継承を回避する行動をとる)ことの表明であると理解できます。

 

エレヒス実在説の間主観的証明

しかしながら、それだけでヒストリアの気持ちは済んだのでしょうか?

たしかにエレンは、自分の選択の責任がヒストリアにはないことを告げましたが、そうはいっても、かれの意向を汲んで行動してほしい(=「獣」継承の回避)という含みをもたせていました。

だからエレンの意向を尊重するとすれば、けっきょくヒストリアはエレンの計画に一枚噛むことになります。まったく無罪放免というわけにはいかない。

そこで考えたいのは、はたしてヒストリアは、エレンに一方的に押しつけられた意向に従うだけで、黙っていられるようなキャラだったか? ということ。

 

ヒストリアを共犯に巻き込もうとしているのに、かのじょには責任がないかのように称するエレン。

水臭いヤツでもあり、ある意味ズルいやつでもある。

そんなエレンのふるまいに、ヒストリアが感情を揺さぶられたとしても不思議ではありません。

ましてや、エレンに対するヒストリアの感情がエレンのそれとは不釣り合いに大きくなっていた、という先の見立てが正しかったとすれば?

しかもこの密会は、ヒストリアにとってはエレンとの今生の別れになるかもしれないのです。

エレンが思いつめた末に決断したことが見て取れるとすれば、かれにもう生還する気がないのではないか、これ死亡フラグなんじゃね? と、そうヒストリアが勘づいてもおかしくありません。

 

そうだとすれば、ヒストリアの感情が次のように動くのは、大いにありそうなことではないでしょうか。

――わたしがほのかに特別な感情を抱く相手の男はいま、自分の意志を貫こうとしており、しかもどうやら生きて還ってこないつもりである。

計画を告げることで、わたしを巻き込んでおきながら、わたしには責任がないかのように男はいう。

かれの真意はどうあれ、客観的に見れば、それがわたしを犠牲にしないための行動なのは間違いない。

だが、ここまでしてくれるにもかかわらず、男はわたしを、とくに重要な存在とは思っていないという口ぶりである。

いったい何なんだテメエは!

わたしの気持ちをどうしてくれるんだ!

一方的に自分の都合だけ押しつけて去ろうとするな!

お前が自分の都合を押しつけるなら、こっちもそうしてやる!

わたしの気持ちを一晩だけ受け入れろ!

異性の幼馴染のことは今夜だけは忘れとけ!

......みたいな。

f:id:unfreiefreiheit:20211108152529p:plain

 

こういう風にヒストリアの感情が動き、エレンを誘ったとして、かれはそれを受け入れてしまったのか?

ほんとうにミカサちゃんが好きなら、貞操を守ってみせろ! というのは正論ですが、けっこう仲良しのかわいいコが一夜限りの秘密の関係だからと話をもちかけてくれば、エレンくんも心が揺さぶられちゃうでしょうね。

そもそもエレンは、ヒストリアの心の負担を軽減しようとしながら、けっきょくはかのじょを自分の計画に巻き込んだ、つまり自分のワガママを通したのです。

だとすれば、それに目をつぶってやるかわりに、こっちのワガママも聞けとヒストリアに言われてしまえば、エレンには抵抗する術はないでしょう。

 

だとすればサスペンダー君は、昔ヒストリアをいじめていたことへの後ろめたさをつけこまれて、ヒストリアの妊娠の事情をカムフラージュするために協力させられたわけです。

そんなサスペンダー君にかわいそうなこと、ヒストリアはしないだろうって?

いや、やるでしょこの人なら。

それにまあ、いっしょに暮らしているうちにサスペンダー君が誠実な人間だと実感すれば、ヒストリアもかれに相応の愛情はもつでしょうし、二人目以降はちゃんとサスペンダー君とのあいだに作るくらいの度量はあるんじゃないですかね。

f:id:unfreiefreiheit:20211108154115j:plain

139話「あの丘の木に向かって」

 

そういうわけで、エレヒス実在説はさまざまな角度から見て「さもありなん」だと、筆者は感じています。

......なんだか途中から、二次創作の短編小説みたいになっちゃったね。

でもまあ、なぜエレンはヒストリアだけに計画を告げたのかの部分までは、わりときちんとした作品考察になっているのではないかと。

 

結語に代えて

エレミカ派のみなさん、どうか怒らないでくださいね。

別に筆者は個人的趣向としてエレヒス推しというわけではありません。

それに、もしエレヒスが実在していたとしても、それは決してエレミカを否定することにはならないのです。

たとえエレンが密会の夜、勢いで「偶然」ヒストリアと致してしまったとしても、きっとサルトルが言ったように、エレンにとってはエレミカこそが「必然の関係」なのです。

......というのがオチということで。

f:id:unfreiefreiheit:20211117072549j:plain

 

 

4.6.b 娘の父殺し (下) ~ わたしの内なる声としての自由

 

unfreiefreiheit-aot.hatenablog.com

 

父殺しの物語

ついにヒストリアは「自分の使命」を「自分で見つけ」ました(68話)。

それは、ただお飾りの王位に就くことではなく、旧「壁の王」の体制と思想をみずからの手で否定し、新しい体制と時代の象徴としての王になることです。

それはまた、一個の実存としてのヒストリアにとっては、かのじょが強いられてきた長い自分探しの旅を終わらせることでもあったはずです。

すなわち、自我形成の試練を最終的に克服するために、自分が始めた「親子喧嘩」(68話)に決着をつけるべしと、かのじょは自分自身に命じたのです。

f:id:unfreiefreiheit:20211104111959j:plain

68話「壁の王」

 

こうして見ると、ヒストリアの使命または試練は、フロイトのいう「父殺し」(英:patricide、独:Vatertötung)に当てはまることが分かります。

このことには非常に興味をそそられます。

というのも、エディプス・コンプレックスや「去勢不安」の話がそうであったのと同様に、この「父殺し」もまた、男を標準として作られた、男のための自我形成の筋書きであるからです。

つまり、息子ではなく娘が「父殺し」をつうじて自我を確立するというのは、フロイトがまったく想定していなかったプロットなのです。

実際、現代の映画やらマンガやらの大衆向けフィクション作品でも、やはり「父殺し」や「親子喧嘩」をつうじた自我形成のドラマを演じるのは、たいてい父親と息子です。

(そういうことがたくさん書いてあるらしい本、筆者は未読 ↓)

www.kinokuniya.co.jp

 

上の文献は、かなり広い意味で、すなわち、象徴的な意味において父親を乗り越えることも込みで「父殺し」と言っているようです。

しかしフロイト自身は、神話や文学作品のような架空の題材においてではあれ、文字通り「父を殺す」ことを問題にしています。

父を殺したから何なのかというと、このできごとが人間を、粗野な暴力と欲望の世界から、文化と法の世界へと引き入れるのだというのです。

フロイトによれば、父親の排除をあきらめた幼い息子は、父親との同一化をつうじて規範を内面化します(超自我としての父親)。

ところが逆に、もし息子がじゅうぶんに強く育って父親の排除に成功したとしても、殺された父親は、こんどは罪悪感の源泉として息子の自我に入り込み、やはり息子の超自我または内なる規範と化すというのです。

つまり、父を殺すことをつうじて、逆説的にも息子は父と同一化します。

f:id:unfreiefreiheit:20211018081053j:plain

オイディプスの父殺し(ジョゼフ・ブラン作)

 

『トーテムとタブー』

上記のようなことをフロイトは、たとえばドストエフスキーの小説について論じています。

www.kotensinyaku.jp

 

しかし以下では、有史以前からの古い道徳規範である近親性交タブーに迫った『トーテムとタブー』を取り上げてみましょう。

同書でフロイトは、原始人類の名残りをもつと見られる世界各地の諸民族が、トーテム信仰と近親性交タブーという二つの共通点をもつことに着目します。

トーテム信仰とは、ある親族集団が、なんらかの動物や植物を共通の崇拝対象(トーテム)としてもつことを指します。一般にトーテムは、一族の祖先と結びつけられています。

近親性交タブーは、説明するまでもなく古今東西、普遍的に見られる禁忌です。

共通のトーテムをもつ集団は、近代家族よりも広い親族集団であって、しばしば実際の血のつながりは薄いものの、それでも同族間の性交や結婚はタブーとされます。

 

トーテム信仰と近親性交タブーには関連性があるという見解を証拠づけたうえで、さらにフロイトは、トーテム動物が通常は神聖不可侵でありながら、周期的に生贄にもされることに注目します。

一族の個人がトーテム動物を屠殺するのはタブーなのに、それを集団で殺害し、食べ尽くすことは祝祭なのです。

このことから、フロイトは想像を飛躍させます。

トーテム動物は、一族の祖先たる「原父」の代替物なのではないかと。

かつて原初の父は、不可侵の存在でありながら、一族の息子たちによって殺されたのではないかと。

ふだんは不可侵であるトーテム動物を生贄とする祝祭は、この原父殺しを象徴的に再現しているのではないかと。

honto.jp

 

フロイトの想像する原父殺しとは、こういうお話です。

想像上のもっと原始的な共同体において、一人の暴力的な父が、一族における全ての女を独占していた。

成長した息子たちは、同族の女性たちに手をつけることを許されず、一族から追放された。

息子たちは、この暴力的な父を恨むとともに、かれに憧れ、かれに羨望を抱き、かれに取って代わりたいという望むようになった。

こうして、ある日「追放された兄弟たち」は、父親を殺すために「共謀」した。

かれらは「父を殴り殺し、食べ尽くし、父の一族に終焉をもたらした」のである。

トーテム集団の祝祭は、この粗暴かつファンタジックなできごとの象徴的再現にほかならない。

暴力的な原父(げんぷ)は、息子たちにとって羨望されも畏怖されもする模範像であった。そこでかれらは、食べ尽くすという行動によって父との同一化をなしとげ、父の強さの一部を自分たちのものにしたのだった。おそらく人類最初の祝祭であるトーテム饗宴は、この記念すべき犯罪行為の反復であり、記念式典なのであろう。

フロイト「トーテムとタブー」第4節 『フロイト全集12』所収

f:id:unfreiefreiheit:20211117083551j:plain

トーテムポール

 

ところが、父を殺し、その力を取り込もうとして父の骸を食い尽くした息子たちは、父と同じように女を独占し、欲望を満たすことができなくなったと考えられます。

なぜか。

憎悪も敬愛もしていた父親を殺したことに、かれらは「後悔」と「罪責」を感じたはずだからです。

あたかも殺された父親が、生前より強力な権威者となったかのよう。

それゆえに息子たちは、神聖不可侵のトーテムを崇拝することで罪悪感の解消を試みるとともに、同族の女性との性交をひきつづき禁忌と定めたのでした。

父を排斥し、自分たちの憎悪を満足させ、父との同一化の欲望を実現してしまったあと......後悔とともに罪責の意識が発生した。死者はいまや、生きていたときよりも強くなったのである。......息子たちは、父の代替物であるトーテムの殺害を不法と公言することにより、自分たちの行為を撤回し、自由に手を出せるようになった女を諦めることで、その行為の果実を断念した。

フロイト「トーテムとタブー」第4節 『フロイト全集12』所収 岩波書店

 

こうして人類は、原初的な宗教意識(祖先崇拝)と文化的規範(近親性交タブー)とを作り出したのだと、フロイトは想像します。

「原父」への「反抗」と「罪責意識」との葛藤こそが、集団としての人間に対して「超自我」を、すなわち、掟を、禁忌を、善悪の観念を、彼岸の世界における存在への崇拝を、つまるところ文化を、人間に与えたというのです――エディプス・コンプレックスに置かれた幼児に対してと同じように。

www.fischerverlage.de

 

娘の父殺し

こうして「父殺し」とは、粗暴な力と欲望に駆り立てられる男たちを、法と文化の世界に導き入れる儀式ということになります。

しかしヒストリアが、そういう儀式としての「親子喧嘩」に挑み、父を殺し、その地位を奪い取ったというのは、明らかに正しくありません。

フロイトの物語における「息子たち」とは違い、ヒストリアは父が独占していた享楽を奪い取ろうとしたわけでもないし、父と自己同一化したわけでもありません。

かのじょが王位に就いたのも、父親の地位を奪ったわけではありません。むしろロッド家は、みせかけの王政を影で操る統治者でしたが、むしろヒストリアの即位は、そのようなレイス家の支配の否定を意味します。

ヒストリアの「親子喧嘩」は、この「娘の父殺し」は、フロイトの物語と何が違うのでしょうか?

 

第一に、フロイトの筋書きにおいては、父殺しの結果として超自我(掟)が獲得されるのに対して、ヒストリアの父殺しは、超自我(掟)による抑圧を克服することだったのです。

ヒストリアがクリスタをやっていたあいだ、父ロッドはかのじょの超自我でした。

別人を演じることでのみ、お前は生き延びることを許される――闇夜で一度会っただけの父親が与えたこの掟は、その後のヒストリア=クリスタの人格そのものを規定する超自我の命令となりました。

ヒストリアに「優しい女の子」という型を与えたのはフリーダでしたが、この型にかのじょを押し込めたのは父親ロッドだったのです。

フロイトのいう超自我は、弱すぎても強すぎても、人格の健全な発展を妨げます。ヒストリアの場合、かのじょの自我に対する超自我の支配は強すぎたと言えるでしょう。

 

そして、自分を見失ったヒストリアの前にふたたび現れた父親は、またもやかのじょを「優しい女の子」(この場合は「よい娘」)の型に押し込め、その優しさにつけこもうとしたのでした。

しかしついに、そのような父親のもくろみをヒストリアは拒否しました。

生身の父親の命令を拒否することによって、同時にかのじょは「優しい女の子」という型から自己を解放し、超自我(=内面的な掟としての父親)による抑圧をも克服したのです。

f:id:unfreiefreiheit:20210918214126j:plain

f:id:unfreiefreiheit:20210918213335p:plain

66話「願い」

 

第二に、フロイトによれば父殺しは「息子たち」に罪の意識をもたらすのに対して、ヒストリアの父殺しは、父親自身にはついぞ達成できなかった自己解放の代行でありました。

前の記事(4.5.c)で述べたように、ヒストリアの自己解放は、かのじょの鏡であったユミルやフリーダの解放を代行することでもありましたが、それに留まらずヒストリアは、父ロッドをも解放したのです。

 

フリーダだけでなく、ロッドもまた運命の囚われ人でした。

かれ自身すら、レイス家の自滅的な平和思想を実現するための道具でしかないということを、ロッドは受け入れていました。

でも、ほんとうはロッドもかれなりに苦しんでいたのです。

「初代王の思想」には屈しないと言っていた娘が、実際に「始祖の巨人」を継承した瞬間、その思想をも引き継いでしまったことを思い出し、一瞬、遠い目をしたロッド(64話)。

f:id:unfreiefreiheit:20210919212640j:plain

64話「歓迎会」

 

当初のフリーダの意志は、もともとはロッド自身の意志でもありました。

かれ自身が「初代王の思想」に疑問を抱いていたのです。それを克服すべく、みずから巨人を継承しようとすらロッドはしていました。

ところが、その役目をかわりに引き受けた、同志であったはずの弟ウーリが、けっきょく「初代王の思想」に屈してしまったのです(66話)。

f:id:unfreiefreiheit:20211107094251j:plain

66話「願い」

 

さらにはウーリから巨人を継いだフリーダもまた「初代王の思想」を共有するのを目の当たりにして(68話参照)、ロッドは運命への抵抗を完全に諦めたのでしょう。 

自分の役割は「祈りを捧げる」ことのみ――そうロッドはヒストリアに告げました。

自分自身がそうしたように、ロッドはヒストリアに対しても、運命への忍従を強いようとしたのです。

これを拒否し、自分を運命から解放したヒストリア。

それに対して、もはや後戻りできないロッドはみずから巨人になるしかありませんでした(66話)。

f:id:unfreiefreiheit:20211107094231j:plain

66話「願い」

 

エレンを食べるどころか、壁内を破壊しながら彷徨うしかない、無意味な怪物になり果ててしまったロッド。

もはや人間には戻れない父親と「お別れ」することを、ヒストリアは決意します(67話)。

父殺しを決意した娘は、この戦いを「自分の運命に決着をつけ」る戦い(67話)と、自分がはじめた「親子喧嘩」(68話)と意味づけました。

でもそれだけではありません。

それを娘はあらかじめ知っていたわけではありませんが、それは父親を運命から解き放ち、救済することでもあったのです。

父親をその自滅的な平和思想とともに葬り去ることによって、娘は父親がなしとげられなかった務めを代わりに引き受けたのです――壁内人類の解放という務めを。

 

父親を斬った瞬間、娘の意識に流れ込んだ父親の記憶(68話)。

これを知ることで娘は、父親自身により放棄された父親の志をも、かのじょ自身の解き放たれた願望のなかに取り込んだのです。

f:id:unfreiefreiheit:20211018080226j:plain

68話「壁の王」

 

だからヒストリアは、自分の意志で動いているのかどうか分からないまま「この壁の真の王」として名乗りを挙げました。

「本当に...自分の意志で動いているの?」

でも「こうやって流されやすいのは間違いなく私...」

そう心のなかで独りごつものの、ヒストリアは決して「流されて」いるのでも、自分を見失っているのでもありません。

かのじょ自身の心からの願望と、父親が心の奥底に押し殺してしまおうとした願望とが、一つに混ざり合ったのです。

運命に屈したくないという心の叫びを、ヒストリアは自分自身のみならず、フリーダやロッドのものでもあった心の叫びとして実行に移したのです。

f:id:unfreiefreiheit:20210919212714j:plain

68話「壁の王」

 

自分自身を救った「女神様」

こうしてヒストリアは「父殺し」をなしとげ「壁の王」になりました。

しかしかのじょは、自滅への道を「運命」として強いる、壁内人類の「掟=超自我」ではありません。

尊厳を否定されて苦しむ人々への共感に突き動かされる、ヒストリアはそんなルソー的「良心」を象徴する存在になったのです。

そのことを「牛飼いの女神様」という愛称は表しています。

f:id:unfreiefreiheit:20210919212725j:plain

70話「いつか見た夢」

 

この「女神様」は、ユミルがクリスタを揶揄して呼んだような「女神様」ではありません。

後者の「女神様」は、かつてユミル自身もまたそうであったような、自己犠牲的な存在でした。

しかし、いまやヒストリアが達成したのは、自己犠牲ではなく自己解放です。

 

本質的に「男の意識」によって形成された「女神様」。

それは近代のさまざまなフィクション作品において現れる、典型的な女性像です。

物語世界においてかのじょたちは、特別な魅力を付与され、あるいは人知をこえた特殊な能力をそなえています。

ところが、その特別な魅力、その特殊な能力のせいで、かのじょたちは身を滅ぼしてしまうのです。

そういう「女神様」たちが、悲劇的結末を回避し、ただの人間に戻ることもあります。

でもその場合には、男の助けを借りねばなりません。さもなくば破滅です。

かのじょたちは、自分で自分を救済できないのです。

 

たとえば、以前の記事(2.3.a および 2.3.b を参照)で取り上げた『ファウスト』のグレートヒェンなんか、まさに典型的ですね。

ファウストが無力なせいで、グレートヒェンは発狂し、身を滅ぼしてしまいます。

 

ファンタジーやSF系のアニメ・マンガ作品においても、そういう「女神様」的な女性が出てくるのは定番ですね。

ニュータイプとか。

f:id:unfreiefreiheit:20210920073448j:plain

 

某、空から降ってくるジブリアニメのヒロインとか。

f:id:unfreiefreiheit:20210920073458j:plain

 

やはり何度か取り上げた某ダークファンタジーのヒロインも、本質的には同じ役回りといえます。

f:id:unfreiefreiheit:20210920073508j:plain

 

自滅か、他者(=男)による救済か、どちらかしかない「女神様」。

しかしヒストリアは自力で、そんな役回りから自己を解放しました。

いや、まったく独力でそうしたのではないって?

たしかにそのとおり。

でも、かのじょに精神的な励ましを与えたのもまた、女性でした(ユミル)。

主役で男のエレンなど、むしろヒストリアに助けてもらったくらいですしね、命だけでなく精神的意味でも。

男に助けられなくても、自分で自分を解放できる、ヒストリアはそういう「女神様」になれたのです。

 

自己を解き放ち、みずからの自由な良心にしたがう「牛飼いの女神様」。

「父殺し」を成し遂げ、自分自身の両脚で王位に立つ娘。

そんなヒストリアは、あの「男の意識」が形成した「女神様」とは異なる、新たなヒロイン像を表現していると言えるでしょう――これが男の作者が考えたキャラというのも、また面白いところですが。

 

(「わたしの内なる声としての自由」おわり)

 

 

以下はネタなのであまり真に受けずに読んでもらえれば。

unfreiefreiheit-aot.hatenablog.com

 

4.6.a 娘の父殺し (上) ~ わたしの内なる声としての自由

 

unfreiefreiheit-aot.hatenablog.com

 

なぜヒストリアは女王になったか

王家の巨人を取り戻し、その身に「神」を宿せという、父親ロッド・レイスの要求を拒否したヒストリア。

「女性らしさ」とともに自己犠牲の美徳を受け入れてしまったと思いきや、実際のところヒストリアは、苦しみに苛まれていた先代「壁の王」フリーダとは、異なる道を選びました。

ところがかのじょは、けっきょくは「壁の王」になります。クーデターを成功させた兵団の意向に従い、新たな体制の君主という役割を引き受けたのです。

 

もちろん読者はみな知っているように、ヒストリアは心の声をふたたび押し殺したのではなく、むしろ自分の心に従ってそうしたのです。

問題は、なぜそうしたのかということ。

自分自身を取り戻したヒストリアは、なぜ女王になることを選んだのでしょうか?

 

回答: 「自分なんかいらない」と「泣いて」いる人たちを助けたい、という願望を叶えるため。

これが理由の一つであることは確かです。てか、エレンがそう言っていますしね(70話)。

せっかく権力の座に就くんだから、ほんとうにやりたいこと、やるべきことは実現してやろうと。

そういう意気込みでヒストリアは、降って湧いたような新しい役割を、自分自身の心からの願望や信念と一致させたわけです。

f:id:unfreiefreiheit:20210919212725j:plain

70話「いつか見た夢」

 

しかしながら、女王になって何をするかは、ヒストリアにとって副次的な理由でしかありません。

ヒストリアにとっては、王位に就くこと自体が重要だったと見るべきです。

そのことが、かのじょの実存にかかわる決定的な意味を帯びたのです。

どういうことか? 

ヒストリア自身が称するように、それは「初めて」の「親子喧嘩」だったのです。

この「親子喧嘩」を、ヒストリアは長い自分探しの旅の最終目的地に定めたのです。

でも私... これが初めてなんです 親に逆らったの...

私が始めた親子喧嘩なんです (68話)

f:id:unfreiefreiheit:20210919212623j:plain

68話「壁の王」

 

「親子喧嘩」を、父殺しをつうじた、アイデンティティの獲得。

なんてフロイト的な響きでしょうか。

そう、ヒストリアにとって「壁の王」になることは、フロイト的な自我形成の試練を通過することだったのです――ただし、フロイト自身は想定していなかったようなかたちで。

 

内なる父親=規範としての超自我

精神分析学の親玉フロイト(1856-1939)は、近代人の精神病の秘密を、幼少期の家族生活のなかに見出しました。

幼児の親との関係は、個人の自我形成に決定的な影響を及ぼしますが、それをフロイトは、リビドー(原初的な性エネルギー)という概念によって説明します。

幼児のリビドーと聞くと、おぞましく感じられるかもしれませんが、思春期以降の人間の明確な性的欲求とは異なる、いまだジェンダー的な意味体系によって加工されていない身体的快楽と考えればいいでしょう。

f:id:unfreiefreiheit:20211018092735j:plain

ふろいとてんてー

 

フロイトによれば、はじめ幼児は、自分の身体の統一的イメージをもたないまま、みずからの諸部位(おもに口、肛門、ペニス)にリビドーを感じています。

この状態から、自分自身の統一されたイメージを、ひいては自他の区別をもつ、より発達した自我への移行は、どのようにして達成されるか?

それは両親の、とくに父親の権威を、幼児が自我に「投影」することによってだと、フロイトは言います。

つまり、自分をしかりつける親のまなざしや声を、自我のなかに取り込むということですね。

この内なる父親内なる規範自我における自我を超えるものを、文字通り「超自我」とフロイトは名づけます。

自我に投影された父親または両親の権威は、自我のなかに「超自我」の核を形成する。

フロイトエディプス・コンプレックスの崩壊」『エロス論集』所収 

 

超自我は、どういう風に確立されるのか?

幼児がリビドーを感じるしぐさを、親に咎められることによってです。

「オチンチンをいじるんじゃありません」と。

「お行儀悪いことをしていると、それを切ってしまいますよ」と。

そういう叱り方でなくとも、幼児が男性器をあけっぴろげに、または面白がって扱うことを、親はなんらかの言い方で咎めるもの。

f:id:unfreiefreiheit:20211018082632j:plain

大人はそれを咎めてしまう

 

フロイトによれば、このことは幼児に去勢不安を与えます。

いわゆるエディプス・コンプレックスも、この去勢不安をめぐって生じるものと説明されます。

リビドーを満たしてくれる母親との愛着を、父親は断ち切ってしまう。

しかし父親に反抗しても勝つことはできず、逆に制裁を、去勢を受けるかもしれない。

(ここでいう「去勢不安」とは、幼児特有の身体的な全能感を奪われることへの、ばくぜんとした恐れと考えてもいいかもしれません。)

 

それでは、この居心地悪い去勢不安から脱するために、幼児はどうすればいいのか。

一つの解決は、父親を排除することですが、もちろんそれは不可能です。

もう一つの解決は、父親に同一化すること、すなわち、自分には敵わない去勢されざる権威的存在を、自分自身の鏡とすることです。

かれのように生きれば、きっと自分も去勢されはしないだろう、というわけです。

 

こうして内なる父親が、つまり超自我が、いつしか幼児の自我に与えられます。

幼児の自我は、同一化をつうじて他者を取り込むことによって、法と掟の世界に、理性と禁忌の世界に、足を踏み入れるのです。

 

女児の自我形成

以上から分かるように、フロイトによる自我形成の筋書きは、オトコノコを標準とした物語です。

もともと男性器がない女児の自我形成においては、去勢不安のかわりに「男根羨望」が役割を演じるとフロイトは説明します。

つまり、自分にないものをもっている権威的存在としての父親に対して、女児は一定のコンプレックスをもつというのです。

しかしそれはフロイトによれば、去勢不安に襲われる男児のそれほど強力なものではありません。

そして、女児の相対的に微弱なコンプレックスは、権威の象徴としての父親ではなく、権威につき従う存在としての母親に同一化することで解消されるというのです。

女児においては去勢不安が取り除かれているために、超自我の形成と幼児的な性器体制の消滅のための強力な動機が欠けている。......自分を母親の位置に据え、父親に対して女性的な態度を示すという範囲を越える場合はほとんどないようである。

フロイトエディプス・コンプレックスの崩壊」『エロス論集』所収 

books.rakuten.co.jp

 

要するに、女児が獲得する「女性的な」自我は、男児のそれとは違って、弱い超自我によってしか制御されていないということです。

だから女性は、男性と比較して、情念に対する理性の支配力があまり育たず、自制心や克己心に乏しい、というわけです。

だから女性は、みずからの微弱な超自我の役割を補ってくれる外的権威に、つまり父や夫などの権威に服するのが自然である、というわけです。

 

このようにフロイトの自我論は、あきらかな偏見を、性差別を含んでいます。

ところがフロイト自身は、この違いは自然の性差にもとづくものであって、フェミニストが男女の平等を謳おうがどうしようもない不動の条件だと考えていました。

もしかれの言うとおりだとすれば、そもそも女性は父親に同一化したり、父親の権威的地位にとって代わろうとしたりする意欲を生来もたない、ということになってしまいます。

あるいは、かりにそういう意欲をもったとしても、権威的存在にふさわしい資質において、すなわち理性や法をつかさどる能力において、かならずや男性に劣るだろう、ということになってしまいます。

 

ヒストリアの超自我

そういうわけでフロイトの自我論は、科学的観点のみならず、文化的およびジェンダー的な観点からも批判されてきました。

そういう批判や論争の歴史を見る余裕はありません(筆者もよく知らないし、ブログのためだけに調べる気にもなれませんので)。

そのかわりに、二つの問いを立ててみましょう。

第一に、父親との同一化をつうじてしか、自我は十全に形成されないのか?

第二に、超自我(同一化をつうじて自我に取り込まれた他者)とは、リビドーに対する禁忌や、情念に対する理性としてしか、つまり自我の自然的・本能的部分に対する命令者としてしか、考えることはできないのだろうか?

ヒストリアのエピソードは、これらの問いに対する(唯一の、では決してないにせよ)一つの回答を示してくれることでしょう。

 

ロッド・レイスに丸め込まれそうだったころのヒストリアは、フロイトのいう「女性的」で「弱い」自我を、たしかに体現していたように見えます。

かつて自分を見捨てたくせに、自分に利用価値があると見るや甘い言葉をかけて近づいてくる、そういう利己的で疎遠な父親でしかないロッドに、それでもヒストリアは従順であろうとしました。

フロイト的構図に当てはめれば、こんな風に説明がつくでしょう。

父親が不在で、母親にも親としての役割を果たしてもらえなかったヒストリアは、安定した自我を確立できませんでした。

むしろそれゆえにこそロッドは、遅れて娘のもとに現れたくせに、かのじょの薄弱な自我につけ込んで、温情あふれる命令者としての父親の役割を、たやすく演じることができたのです。

しかもヒストリアは、呼び覚まされた記憶のなかのフリーダに同一化し、受動的美徳としての「女の子らしさ」をふたたび受け入れかけていました。

そのままヒストリアが父に従順な娘になってしまう可能性は、大いにあったわけです。

f:id:unfreiefreiheit:20210919105157j:plain

58話「銃声」

 

超自我としての父親が、ヒストリアの自我において不在だったことは確かでしょう。

でもかのじょは、それとは違う「超自我」をもっていました。すなわちユミルです。

遅れて外からやってきた命令者(父ロッド)の言いなりになろうとしていた、その瞬間にヒストリアは、かのじょの自我の一部となっていたユミルに、別のことを命じられたのです。

「お前... 胸張って生きろよ」と。

その意味を、このときヒストリアは完全に理解したのでした。

すなわち、それは自己を解放したいというユミル自身の願望であり、ひいてはフリーダの抑圧された願望、そして自分自身の真の願望であるのだと、ヒストリアは悟ったのです(4.5.c を参照)。

 

ヒストリアの自我におけるユミルを、かのじょの「超自我」と呼んでいいかどうかは、見解が割れるところでしょう。

超自我を厳密に、自己抑制や自己懲罰をつかさどる部分とするなら、別にユミルはそういう役割をヒストリアの内面において演じたわけではありません。

しかしながら、もし超自我を、もっぱら情念の支配者としてではなく、ルソーが情念から区別した内的感情の守護者や教育者としても理解できるとしたら、どうでしょうか?

まさにユミルは、そのような内面的守護者として、父に利用されるところだったヒストリアを救ったのだと言えます。

(そう考えると「超自我」よりも「自我理想」という用語のほうがふさわしいかもしれません。でもそうすると「超自我」と「自我理想」とは関連性があるのか、それともまったく別の精神的機能なのか――どっちの説もある――という、別の面倒な問題を扱うハメに陥るので、脱線は避けます。)

 

こうして自分を取り戻したヒストリア。

エレンがもつ「力」を巨人化したロッドに返してはならないとハンジさんたちに進言したあと、かのじょはエレンに言います。

あのとき自分は、ほんとうにエレンを喰おうと思っていたのだと。

しかもそれは使命感からではなく、父は正しい、ほかならない自分自身を父は愛し、認めてくれるはずだと、そう信じたかったからにすぎないのだと。

そんな愛も承認も、あの父親から得られるはずはなかったと悟り、一瞬、悲しみに表情を歪めるヒストリア。

しかしすぐに、力のこもったまなざしで、かのじょは言葉を継ぎます。

「でも もう... お別れしないと」と(67話)。

f:id:unfreiefreiheit:20210919212612j:plain

67話「オルブド区外壁」

 

みずからの使命を見つけたヒストリア

あの自滅的な承認願望をもった「女の子」は、もはやどこにもいません。

そこにあるのは、フロイトのいう男性よりも弱い自我しかもたない女性とは、似ても似つかないヒストリアの姿です。

かのじょは「自分の運命に決着をつけ」るため、上官の命令に逆らい、父ロッドの巨人との戦いに加わることを決断しました――あのこわーいリヴァイ兵士長にすら逆らって(67話)。

f:id:unfreiefreiheit:20211018102930j:plain

67話「オルブド区外壁」

 

さらには、かのじょを思いとどまらせようとするエルヴィン団長をも、ヒストリアは「自分の果たすべき使命を自分で見つけた」という理由で、逆に説き伏せようとします。

かのじょの使命とは、たんにお飾りの「壁の王」に担ぎ上げられるのではなく、旧い「壁の王」を、その思想とともにみずからの手で葬り、そのうえで自分が新たな王位に就くことです。

そのような決意に突き動かされるヒストリアの姿は、むしろそれを見た男の子(エレン)に、自分の弱さをまざまざと自覚させたのでした(68話)。

f:id:unfreiefreiheit:20211018121732j:plain

68話「壁の王」

 

もはやヒストリアに怖いものなし!

生前のリーブス会長の冗談に乗っかって、兵長をぶん殴ることだって朝飯前だッ!

f:id:unfreiefreiheit:20211018103424j:plain

69話「友人」

 

さすがヒストリア! おれたちにできない事を平然とやってのけるッ! そこにシビれる! あこがれるゥ!

f:id:unfreiefreiheit:20211117072719p:plain

 

こうして、みずからの使命を見つけたヒストリア。

かのじょに「自我の弱い女」とマウントをとることは、もはやどんな男にもできません(もちろん誰に対してであれ、そんなマウントをとるのは軽蔑すべきことですが)。

フロイトの想定とは異なるしかたで、つまり「去勢不安」をつうじた「男児」の自我形成とは異なるかたちで、ヒストリアは確たる自我を作り出し、自己の運命の主人になることができたのです。

 

そんなヒストリアとともに、われわれは上に立てた問いに対して、いまや次のように答えることができるでしょう。

回答1: 同一化の対象が父親であろうがなかろうが、自我は十全に形成されうる。

回答2: 同一化をつうじて確立される超自我とは、つねにもっぱら自我に対する命令者であるとはかぎらない。自我に取り込まれた他者は、わたしが何者であるかを告げ知らせるわたしの内的感情を守り、育むことにも寄与しうる。

 

unfreiefreiheit-aot.hatenablog.com

 

4.5.c ヒストリアの鏡 (下) ユミルとフリーダ ~ わたしの内なる声としての自由

 

unfreiefreiheit-aot.hatenablog.com

 

フリーダに同一化するヒストリア

幼少のヒストリアに強いられた「クリスタ・レンズ」という第二の人格。

それを規定していたのは、かのじょの異母姉フリーダによって無意識下に植え込まれた「いつも他人を思いやる優しい女の子」という模範であったことが判明しました。

しかし、フリーダ自身もまたそれに服していただろう「女性らしさ」の本質は、自己卑下と引き換えに他者の愛や承認を得ることをよしとする、受動性の美徳なのです。

 

時は移り、ユミルを失いアイデンティティの危機に陥ったヒストリアは、いつのまにやら「女性らしさ」のくびきにふたたび繋がれそうになっています。

かのじょに「クリスタ」の役割を押しつけた張本人、憎むべき存在であるはずの父ロッド・レイスとの再会の場面。

中央憲兵団によってエレンとともに連れてこられたヒストリアは、かのじょに謝罪の言葉をかけるロッドに抱きしめられました(58話)。

これだけのことで、かのじょの無意識に刷り込まれた「他人を思いやる優しい女の子」が揺さぶり起こされてしまったように見えます――自己卑下と引き換えの愛情だけで自分は満ち足りると思い込む、あの「優しい女の子」が。

f:id:unfreiefreiheit:20210919105157j:plain

58話「銃声」

 

そしてこの「女の子」は、あの「思いやり」に満ちた「女性らしい」フリーダの姿で、ヒストリアの潜在記憶から引き出されました。

フリーダがヒストリアに会っていたことを知った父ロッドは、ヒストリアに告げます。

すでにフリーダは殺された。かのじょがもっていた「始祖の巨人」を奪おうとした、エレンの父グリシャの手で。

だが「始祖」をつうじて継承される記憶のなかにフリーダは「生きて」いる、それをお前は取り戻し、かのじょに再会することができるのだ(63話)。

こうしてロッドは、フリーダが生前にヒストリアを気にかけていたことをうまく利用して、かのじょが巨人化してエレンを喰う使命を望んで受け入れるよう、たくみに誘導します。

 

父の狙いどおりに、フリーダに同一化しようと欲するヒストリア。

自分にとってのもう一つの「鏡」であった、記憶のなかの「姉さん」を取り戻したいと望むヒストリア。

この願望は、かのじょがまたもや「他人を思いやる優しい女の子」になろうとしていることを意味します。

フリーダという「鏡」に映し出された「女性らしい」女性の姿を、そうあるべき自分として、ヒストリアは受け入れようとしているのです――運命に従うことでのみ愛され、認められ、心の満足を得ようとする、あの受動性の美徳を。

 

父ロッドのもくろみをケニーに単刀直入に告げられても、ヒストリアはひるみません。

巨人になり、エレンを喰って「姉さん」を「取り戻」し、そして「この世から巨人を駆逐する」ことが「私の使命」なのだと、そうかのじょは宣言したのです(65話)。

f:id:unfreiefreiheit:20210919105249j:plain

65話「夢と呪い」

 

いくらなんでも、ちょっとチョロすぎませんかね、かのじょ。

自己肯定感が低いと他人に騙されやすいことを、ヒストリアは身をもって示しています。

このヒストリアちょろいよ! さすがフリーダの妹さん!

f:id:unfreiefreiheit:20211006124355j:plain

 

ヒストリアに自分自身を見たフリーダとユミル

ところが、ヒストリアをこんなチョロい性格にした元凶であるロッド・レイスは、まだ娘に対して隠しごとをしていました。

王家の手から「始祖の巨人」が離れていなければ、壁内に侵入してきた巨人を「駆逐」することもできただろうと言っておきながら(64話)、実際はそうなりません。

その理由は、初代「壁の王」の思想です。

人類が「巨人に支配される」ことが「真の平和」であるという初代の見解に、フリーダら「始祖」の継承者は、みな同意してきた。

いわば「始祖」を継承した王家の者は、世界の真実と、そして人類が生き延びるか滅ぶかを「定め」る権限とを委ねられた、さながら「神」のような存在になるのだ。

そう説明したうえで、ロッドは「神をこの世界に呼び戻」すことが「私の使命」だと打ち明けたのです(66話)。

f:id:unfreiefreiheit:20210919210836j:plain

66話「願い」

 

ロッドが隠しごとを弁明せざるをえなかったのは、ヒストリアが大事なことを思い出し、すんでのところで巨人化の注射を打つのをためらったからです。

まず、これから喰われようとしているエレンが抵抗しないさまを見て、ヒストリアは一抹のちゅうちょを感じました。

父グリシャが「始祖」を奪い、そのせいで人類は巨人に支配されていると嘘の混ざった情報を吹き込まれたため、エレンは自分の存在そのものが「いらなかった」のだと絶望し、ヒストリアに喰われる末路を受け入れてしまったのです。

そんなかれをヒストリアは、母親にネグレクトされていた幼少期の自分と重ね合わせます(65話)。

こうしてかのじょは、まずは自分の原体験、存在価値を否定される苦しさを思い出しました。

f:id:unfreiefreiheit:20210919212334j:plain

65話「夢と呪い」

 

それでもヒストリアは、ついに与えらえた自分の「使命」を果たそうとします。

しかし、腕に刺した注射針のかすかな痛みに触発されて、さらに別の記憶が蘇ります。

自分を見守ってくれた「姉さん」が、深い苦悩を抱えていたことを思い出したのです。

生前のフリーダには、ときおり「人が変わったみたいに」なって「私達は罪人だ」などと言い出し、それから「ひどく落ち込む」ということがあった。

それを思い出すとともに、フリーダの苦しみの意味すら、ばくぜんとヒストリアは察知しました。

「すべての巨人を支配する力」を、すなわち「始祖」をもちながら、フリーダや歴代の継承者たちが巨人と戦わなかった理由と、それは関係があるのではないかと――それでロッドは隠しごとを打ち明けざるを得なくなったわけです(66話)。

 

初代「壁の王」の思想にかんする父の説明と照らし合わせることで、ヒストリアには推測がついたでしょう。

あのフリーダの苦悩もまた、幼少期の自分や、眼前の絶望したエレンがこうむったのと同じ、存在意義を否定される苦しみだったのではないかと。

 

いやむしろ、父の説明をまたずして、ヒストリアはフリーダの苦しみの本質を直観的に悟ったように思われます。

そのことは、かのじょの意識がフリーダをユミルとかぶらせている描写から読み取れます――「子供の頃読んだ本の女の子」ではなく、ヒストリアの半身としてのユミルと。

幼いヒストリアに「柵の外に出るな」と、すさまじい形相で𠮟りつけたフリーダ。

自分に似た境遇をもつ少女が「優しい女の子」を演じているのを見て、苛立ちを隠せなかったユミル。

これらの場面は、なぜヒストリアの意識においてオーバーラップしたのでしょうか?

f:id:unfreiefreiheit:20211007060249p:plain

66話「願い」

 

フリーダとユミルに共通するのは、自己犠牲のみじめさ、自分の存在意義をみずから否定することの苦しみを、身にしみて知っているという点です。

初代「壁の王」のニヒリズムに納得していたはずのフリーダは、しかしその核心をなす徹底的な自己卑下に、ほんとうは苦しみ悩んでいたのです。

他方のユミルは、過去の自分がそのために人生を無益に終わらせた、あの自己犠牲の精神を初対面のヒストリアに見出し、苛立たされたのでした。

 

これらの場面には、もう一つの共通点があります。

どちらにおいても、相手がヒストリアを自分の鏡として見ていることです。

フリーダは、言いつけを守らず「柵の外」に出ようとしたヒストリアに、かのじょと同じように心の底では「柵の外」に出たいと望んでいる自分自身を見出し、その自分をやっきになって否定したのでしょう。

ユミルは、自己犠牲のほかに自分の存在意義を証明するすべをもたなかった過去の自分を、他人のために「いいこと」をしようとするヒストリアに見出し、その自分に苛立ちを覚えたのでしょう。

自己犠牲の運命を背負いつづけたフリーダと、それに逆らいつづけたユミル。

かのじょらは対極的でありながら、どちらもヒストリアを鏡として、苦悩する自分自身の姿を見たのです――存在意義を否定され、苦しんでいる自分自身を。

 

フリーダもユミルも、それまでのヒストリアにとっては、自分の「鏡」――鏡像的な自我形成における同一化の対象――でした。

しかしいまや、ヒストリアは悟ったのです。

かのじょたちもまた、ヒストリアの姿にかのじょたち自身を見たということに。

かのじょたちもまた、みずからの存在意義を、そうありたい自分の姿を見つけ出せず、苦しんでいたということに。

かのじょたちもまた、苦しんでいる自分自身を見るためには、それを映し出す「鏡」が必要だったということに。

 

フリーダ=ユミルに同一化するヒストリア

いまやヒストリアにとってフリーダやユミルは、かつてと同じ意味における「鏡」ではありません。

かつてヒストリアはユミルに、運命の重荷から自己を解放している、そうありたい自分を見出していました。

そして、たった今ヒストリアは、誰にも代われない使命を引き受け、みなに愛されていたフリーダのようになろうとして、父の言いなりになっていました。

しかしながら、そういう理想の自我として、なにも欠けるところのない自分として、ユミルやフリーダを思い浮かべることは、もうヒストリアにはできません。

かのじょたちの苦しみ、かのじょたちの欠如を理解し、かのじょたち心の叫びを聴き取ったからです。

かのじょたちの苦しみが、いまここにいる「わたし」の苦しみと同じであることに、この「わたし」の「内なる声」と同じであることに、気づいてしまったからです。

f:id:unfreiefreiheit:20210711102852j:plain

66話「願い」

 

しかしながら、この気づきこそがヒストリアに真の解放をもたらします。

あわれみ共感の作用をつうじて、ヒストリアはフリーダ=ユミルに同一化するのです――「理想のわたし」としてではなく、ありのままの人間=ありのままの「わたし」としてのかのじょたちに。

この共感、この同一化こそが、ヒストリアの「自然の声」「良心の声」なのです。

 

いまや選択の時。

ヒストリアに与えられた一つの選択肢は「お父さんが望む私の姿」を引き受けることです。

他者の期待に応えることによって自分の欠如を埋めようとする、自己犠牲的な、自己卑下的な「わたし」を演じ続けることです。

もう一つの選択肢は、ありのままの自分を、自分を見失っている自分を、それでも心の奥でなにかを叫んでいる自分を、引き受けることです。

 

いままさに発されようとしているヒストリアの心の叫びは、ユミルの心からの「願い」の共鳴にほかなりません。

「わたし」と同じ欠如に苦しんでいたユミル。

運命に復讐するため自由に生きると称しながら、自分のほんとうの存在意義を見出せずにいたユミル。

そのユミルは、かのじょが自分の似姿として見出した「わたし」=ヒストリアの心の解放を、それがユミル自身の救済であるかのように望んでくれたのでした。

「お前... 胸張って生きろよ」と、ユミルは心から願ってくれたのでした。 

それを思い出すことによりヒストリアは、ふたたびユミルによって解放されたのです――ただし今回は、そうなりたい「わたし」を映すユミルではなく、ありのままの「わたし」を映し出すユミルによって。

f:id:unfreiefreiheit:20210919212409j:plain

66話「願い」

 

父親の「望み」ではなくユミルの「願い」に、ヒストリアは応えました。

注射器を払い落とし、父を投げ飛ばして、かのじょは「これ以上... 私を殺してたまるか!!」と叫びました。

それはもちろん、ユミルの「願い」こそが、ヒストリアのほんとうの願望、ヒストリアの心の叫び、ヒストリアの「自然の声」でもあったからです。

f:id:unfreiefreiheit:20211007060035j:plain

66話「願い」

 

みずからの心の声に従おうとするヒストリアの勇気と能動性は、たんにかのじょの内からのみ湧きあがってきたのではありません

「わたし」の心が自由でありたいと叫ぶように、ユミルの心もそう叫んでいたし、そしてフリーダも心の底では同じ願望を抱いていたはず。

だとすれば「わたし」の解放は、ユミルの、そしてフリーダの解放でもある。

このような共感の作用をつうじて、ヒストリアはユミルやフリーダに同一化しました。

それによってヒストリアの「内なる声」「自然の声」は大きくなり、ついには自己犠牲と受動性を拒否する叫びとなったのです。

 

この叫びに突き動かされて、ヒストリアはエレンを救いにかけつけます。

「私は人類の敵だけど... エレンの味方」と言いながら。

「自分なんかいらないなんて言って 泣いてる人」がいれば「誰だって」助けに行くのだと言いながら。

フリーダを、そしてユミルを、心に浮かべながら。

f:id:unfreiefreiheit:20211006213801j:plain

f:id:unfreiefreiheit:20211006213809j:plain

66話「願い」

 

共感と自由

こうしてヒストリアの共感は、普遍的に拡張されました。

それは、あの自己犠牲的な「女らしさ」ではありません。

自己卑下を代償として与えられる愛や承認を目当てにした、あの受動的な利他主義ではありません。

なぜなら、それはルソー的なあわれみ、すなわち、自分が苦しむのと同じように苦しむ他の存在に対する自然の共感であるからです。

いまやヒストリアは、自分と同じように「自分なんかいらない」と「泣いて」いる他の人間たちを、自由に自分の心にしたがって、助けたいと欲しているのです。

 

ウルストンクラフトが「偽りの洗練」との対比で示した「能動的感性」や「肯定的美徳」と、それは呼ぶに値するでしょう。

ついにヒストリアが解き放ったかのじょの願望、かのじょの心の声は、あの「徳性の基礎」をなす「真実」を、すなわち、自己を気づかうのと同じように他者にも共感せずにいられない、かのじょの内的感性という「真実」を、源泉としているからです。

「ほんとうの正直さと純粋な感情をそなえた人に、あなたにはなってほしい」

「ただ真実だけが徳性の基礎なのです」

 

unfreiefreiheit-aot.hatenablog.com

 

4.5.b ヒストリアの鏡 (中) フリーダと「女の子らしい」少女 ~ わたしの内なる声としての自由

 

unfreiefreiheit-aot.hatenablog.com

 

「クリスタ」の鏡としてのフリーダ=始祖ユミル

精神分析の知見を借りつつ、自我の鏡像的形成という観点から、ヒストリアがユミルとの同一化をつうじて自己を解放する過程を、前記事で考察しました。

ひきつづき以下では、ユミルとの別離によりアイデンティティの危機に陥ったヒストリアが、別の「鏡」によって自己を再認識しようとする過程を見てみましょう。

それはかつて「クリスタ・レンズ」を作り出すことに一役買った「鏡」でもありました。

「鏡」の名はフリーダ・レイス。

当人が鏡に映った姿で最初に(エレンの記憶のなかに)現れた、真の「壁の王」にして「始祖の巨人」保有者であったフリーダです。

f:id:unfreiefreiheit:20210919204851j:plain

53話「狼煙」

 

作中ですでにフリーダは故人ですが、ヒストリアの回想をつなぎあわせることで、フリーダがヒストリア=クリスタにとってどんな「鏡」だったのかを読み取ることができます。

まず、ユミルと別れた直後、ヒストリアはエレンたち同期生に、もうクリスタは存在しないと、あれは「私が生きるために与えられた役」でしかなかったと宣言します。

重要なのは、その続き。かのじょは曖昧な記憶にもとづいて、こう言います。

クリスタという役の見本になったのは「たしか... 子供の頃読んだ本の女の子――だった... はず」と(51話)。

f:id:unfreiefreiheit:20210919104954p:plain

51話「リヴァイ班」

 

ちょっと分かりにくいですが、この「子供の頃読んだ本の女の子」とは、クリスタなる人物が登場する童話とかではありません。

あとで判明しますが、それは始祖ユミルについて書かれた本だったのです。

それを幼いヒストリアに読み聞かせたのは、古臭い言い方をすれば「庶子」であるかのじょに忍んで会っていた、レイス家の「嫡子」フリーダです。

始祖ユミルの人物像を、フリーダは「他者への慈しみにあふれる女性」へと単純化しました。「いつも他の人を思いやっている優しい子」というわけです。

 

世界は「辛くて厳しいことばかり」だから、ヒストリアは「みんなから愛される人になって助け合いながら」生きていかねばならないと、そうかのじょにフリーダは教え諭しました。

幼いヒストリアは、この教えを「おねぇちゃん」すなわちフリーダのようになることだと解釈します。

これは夢のなかで蘇った記憶であり、夢から覚めたヒストリアはすぐにそれを忘れてしまいます(54話)。

でも、この記憶はずっと、かのじょの無意識にしまわれていたのでしょう――フリーダの「始祖」の能力といえども、記憶をまったく消し去るほどの力はなかったのか、あるいはヒストリアの記憶を完全に消すことをフリーダが望まなかったからなのか。

f:id:unfreiefreiheit:20210919104917j:plain

54話「反撃の場所」

 

こうして幼いヒストリアの無意識下に、あの「いつも他人を思いやる優しい少女」という理想自我が潜り込みます。

その自我に名を与えたのは、かのじょの父親ロッド・レイスでした。

ことのあらましは次のとおり(52話、63話、65話を参照)。

グリシャにフリーダの「始祖」を奪われ、すべての子を殺されたロッドは、いまや「始祖」を継承できる自分以外で唯一の存在、ヒストリアを取り戻そうとしました。

しかし「妾の子」の存在を不名誉とみなした王政の使者(ケニーら中央憲兵団)によって、ヒストリアは母親もろとも殺されそうになります。

「始祖」を奪われたことを隠しておきたいロッドには、それを止めたい本当の理由が言えず、幼い女の子に情けをかけたいという口ぶりで、別人として生きることを条件に「見逃して」やろうと提案したのでした。

こうしてヒストリアは、クリスタ・レンズという名をロッドに授けられました。

f:id:unfreiefreiheit:20210919105038j:plain

52話「クリスタ・レンズ」

 

(ところで王政は、レイス家の「妾の子」が不名誉だから消そうとしたのだとは言いますが、たぶんそれ以上の理由があったのでしょう。つまり、ハリボテの権力であるオモテの王政は、ウラの支配者であるレイス家の外部に、秘められた真の権力である「始祖の巨人」を継承可能な存在がいるということ自体を、危険視したのかもしれません。筆者の推測ですが。)

 

自己犠牲的な「女性らしさ」

幼いヒストリアの鏡であった「いつも他人を思いやる優しい少女」を、いまやかのじょは自分自身の役割として、すなわち「いつも他人を思いやる優しいクリスタ・レンズ」として受け取っています。

とはいえ、フリーダが示した「他者への慈しみにあふれる女性」という模範と、ロッドが与えたクリスタ・レンズなる仮面とが一つになったこと自体は、偶発的な諸事情の結果でしかありません。

だから両者は、切り離し可能です。

つまり、クリスタ・レンズという仮面を放棄しながら、なおかつ「いつも他人を思いやる優しい少女」であろうとすることができるのです。

 

クリスタの仮面を捨てるかわりに、自分を見失ってしまったヒストリア。

もしかのじょが「子供の頃読んだ本の女の子」=昔会った「おねぇちゃん」を思い出せるならば、この「女の子」=「おねぇちゃん」を新たな「鏡」として、自我をかたどりなおし、アイデンティティを作り直すことができるのです。

そして実際、礼拝堂地下の神秘的空間で、父ロッドに促され「始祖」をもつエレンに触れたことをきっかけに、ヒストリアは意識下に眠っていたフリーダの記憶を取り戻しました(63話)。

ヒストリアはふたたび「鏡」を手に入れたのです。

f:id:unfreiefreiheit:20211006093648j:plain

63話「鎖」

 

なんということでしょう。

あのユミルと同じようにヒストリアもまた、始祖ユミルを自我のモデルとして与えられていたことがあったのです――この一致にヒストリアは気づきえないにせよ。

 

始祖ユミルという人物像をもって両者に示されたのは、他者に恵みや救いを与える女性という模範です。

そして、この模範が「女性らしさ」なるものを、すなわち、すべての女がそうあるべきところの理想を表象しているというならば、かのじょらの思いやりを受けるべき「人間」とは、すなわちということになります。

ユミルやヒストリアもまた、そういう種類の「女性らしさ」を体現するよう求められました。

すなわち、他の人間たち(究極的には男)のためにあることを自己の存在意義とする、そういう自己犠牲的な「女性らしさ」を。

(念のため、あらゆる種類の「女性らしさ」がそうであるとは言っていません。)

 

その一方で、両者に模範として与えられた始祖ユミルの人物像には、微妙だけど重要な違いもあります。

みなし児ユミルに与えられた「鏡」としての始祖ユミルは、奇跡の力によってエルディア人に恵みを与えたとされる、あの神話的少女そのものでした。

そしてユミルは、そういう神秘的な存在としての自己を犠牲に捧げたのです(89話)。

 

それに対して、フリーダが幼いヒストリアに「鏡」として示した始祖ユミルは、神話的というよりも訓話な人物像、つまり道徳の授業で選ばれる素材のような人物像といえます。

その「女の子らしい」少女は「いつも他の人を思いや」る「優しい子」だったので「みんなから愛され」ましたとさ、めでたしめでたし。

......という具合に、フリーダにおける始祖ユミルは、みなし児ユミルにおけるそれと比べても、あからさまに「女性らしさ」の形象として描き出されています(54話)。

「女性らしい」女性として、すなわち、みずからを「愛される」べき受動的存在たらしめることに価値を見出す女性として。

まさにそういう「女性的」規範に、かつてのクリスタ・レンズは忠実でした――男たちに「女神」とか「結婚したい」とか思わせる(24話)、まさに「みんなから愛される優しい女の子」としてのクリスタは。

f:id:unfreiefreiheit:20211006114200j:plain

24話「巨大樹の森」

 

フリーダ自身もまた「女性的」な思いやりに満ちた女性であろうと努めていたようです。

そのことは、レイス家所領の農民たちの評判から窺い知れます――調査兵団の報告によれば、フリーダは「よく農地まで赴いては領民の労をねぎらって回」り、それゆえに「誰からも好かれ」たので、領民はみな口をそろえて、かのじょを「この領地の自慢」と述懐したとのこと(62話)。

ただし、かのじょの「優しさ」「思いやり」は、ニーチェのいうニヒリスティックな「奴隷道徳」と両立するものでもあります。

それゆえに、同じ自己犠牲的な「女性らしさ」とはいっても、フリーダのそれは、かつてのみなし児ユミルのそれよりも、はるかに徹底的なものでありました。

 

思い出してください、フリーダを含む「壁の王」たちが「始祖」とともに受け継いできた虚無主義を。

自分は無価値であると自己卑下し、他者のために自己をどこまでも貶めてみせることにのみ価値を見出そうとする、あの破滅的なニヒリズムを。

そんなフリーダの「女性らしさ」は、かのじょが「罪深きエルディア人」に唯一許されたものと考える生き方と重なりあっています。

自己卑下をつうじて世界に許しを乞うべきエルディア人としての「わたし」。

自己犠牲をつうじて他者に愛されるべき女性としての「わたし」。

これらを同一の「わたし」として受け入れたフリーダは、徹底的な自己卑下をともなう自己犠牲的な利他主義を信念とすることでしか、自己確認を得られなかったのです。

 

そのような生き方を、あの「クリスタ」もまた無自覚に再演していたといえるでしょう。

自己犠牲をつうじて他者に愛されるべき「優しい女の子」と、自己卑下をつうじて世界(ただし壁内世界)に許しを乞うべき「妾の子」とを、同一の「わたし」として受け入れていたのが、クリスタという人格だったのです。

 

※ 併せ読みがオススメ

unfreiefreiheit-aot.hatenablog.com

 

「自然の声」と女性の内面的解放

フリーダの自己犠牲的な「女性らしさ」は、それ自体としては、現実世界に存在するものと変わりません――かのじょは貴族の長女としての生い立ちゆえに、それをより深く内面化したのかもしれませんが。

それはすなわち、女性の本来的美徳は、勇気や忍耐や決断力よりも感情の繊細さに、つまり他者(ほぼもっぱら男性)への気づかいや心配りに長けている、という観念です。

あるいは、自然の女性らしさとは受動性である、つまり男性に愛されることに女性の本来的価値がある、という観念です。

それは男尊女卑的な古臭い女性観ではありますが、いまでも珍しいものではなく、むしろ多くの人が程度の差はあれ受け入れているものです――男性はおろか、少なからぬ女性すらも。

 

このような女性観は、ある一点において「壁の王」の虚無主義や自己卑下とも共鳴します――すなわち、自己卑下と引き換えにしか他者の承認を期待することが許されない、という構図において。

この古臭い女性観によれば、女性の優越性が認められるのは「自然に女性らしい」美点においてのみです。

他方で、勇気や決断力など「男性らしさ」と同一視されがちな美点にかんしては、女性は白旗をあげて男性の権威に服さなければなりません。

あえて男たちの「自然的」権威に挑戦しようとする女は、男に疎まれ、憎む、さらには攻撃されるでしょう――男性の優位を否定する女性を嫌う、いわゆるミソジニーの制裁を受けるのです。

こうして女性は、自己卑下と引き換えに他者(男性)の承認を得ることを強いられます――たとえば客のおっさんに説教されるキャバ嬢がそう強いられているように。

結果として、女性は「女性らしさ」だけを、男性に好まれる資質としてのそれだけを、追求するようになるでしょう。

さらには「女性らしさ」に挑む女性を、みずからも嫌悪するようになるかもしれません。

f:id:unfreiefreiheit:20211006150505p:plain

 

ところで、本章のテーマである「内なる声としての自由」を唱える哲学者ルソーですが、かれは相当ねじくれた性格をしていただけでなく、かなり歪んだ女性観、現代でいえばモラハラ男がもっていそうな女性観に囚われていました。

「内なる声」「自然の声」に耳を傾けよと唱えたルソーは、女性に対しては「自然の声」にしたがって女らしくあれ、男に愛される女であれ、男を立てて男の美点を引き立てることが女の美点だと知れ、といった趣旨のことを言い連ねたのです(とくに『エミール』第5巻=日本語版下巻で)。

 

それでは、自己犠牲的な「女性らしさ」を克服するために、女性はルソーのいう「自然の声」など無視すべきなのでしょうか?

そうではないと示した哲学者・文学者がいます。

女性解放思想の一先駆者にして、小説『フランケンシュタイン』の作者の母、ウルストンクラフト(1759-97)です。

f:id:unfreiefreiheit:20210919103446j:plain

 

ルソーの教育論に含まれる女性蔑視を、ウルストンクラフトは正面切って批判しました。

かのじょいわく、ルソーとその支持者たちは、女子教育の目的を「男性を喜ばせる女性」を作ることに還元したのです(ウルストンクラフト『女性の権利の擁護』未来社)。

それにもかかわらずウルストンクラフトは、ルソーの哲学そのものは非常に高く買っていたのです。

ある文学作品において、かのじょはルソーを「感情という主題における真のプロメテウス」とさえ評しました(ウルストンクラフト『女性の虐待あるいはマライア』第2章)。

 

同じ文学作品の主人公が離ればなれになった娘に宛てた手紙の記述というていで、ウルストンクラフトは次のように書いています。

「俗にいう善良な女性」とは「偽りの洗練」を施された女性にすぎない。

かのじょたちがそなえる「優しさ」は「想像力の炎」を欠いており、そのせいで「能動的な感性」や「肯定的な美徳」を生み出しえない。

そう述べたうえで、ちょうどルソーが文明に対して自然の感情を擁護したのと同じ仕方で、ウルストンクラフトは「偽りの洗練」「心をもたない品のよさ」に対して、女性の「ほんとうの正直さ」「純粋な感情」を擁護したのです。

ほんとうの正直さと純粋な感情をそなえた人に、あなたにはなってほしい。心をもたない品のよさなど、徳性に反するものだと言わねばなりません。ただ真実だけが徳性の基礎なのです。

ウルストンクラフト『女性の虐待あるいはマライア』第10章

 

ここでウルストンクラフトは、いわばルソー主義をもってルソーの女性観に反駁(はんばく)しています。

本質的には受動性と自己卑下でしかないような「女性らしさ」を、ルソーのような男たちは自然的なものとして歓迎するが、それは実は人為的なもの、すなわち「偽りの洗練」の産物でしかないのだと。

そういう「心をもたない品のよさ」とは異なる、女性の「純粋な感情」は、きっと女性たちの「能動的感性」や「肯定的美徳」を基礎づけるはずであるのだと。

 

こうしてウルストンクラフトによれば、女性がみずからを自由にするには、自然なものと誤解された人為的な「女性らしさ」とは異なる、みずからの真に「純粋な感情」を解き放つ必要があります。

 

さて、ユミルという「鏡」を失ったヒストリアは、自己犠牲的な「女性らしさ」から、どうすれば自己自身を解き放つことができるのでしょうか。

ウルストンクラフトのいう「肯定的美徳」を、どうやったらヒストリアは獲得できるのでしょうか。

 

unfreiefreiheit-aot.hatenablog.com