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第一に、なぜエレンの過去干渉は過去を改変しないのでしょうか?
第二に、それにもかかわらず、エレンが過去に干渉することには、いったいどんな意味があるのでしょうか?
第一の疑問を、ここでは解き明かしてみましょう。
タイムトラベルと過去への干渉
ところで『進撃』は、タイムスリップや過去干渉モノのフィクションとしては、かなり異色な作品といえます。
なぜなら、過去に干渉できるくせに、過去をまったく改変しないからです。
そういう系の作品はふつう、未来を変えるために過去を操作するものだと相場が決まっているものではないでしょうか。
タイムトラベルといえばドラえもんですが、なぜ22世紀のセワシが先祖のび太にドラえもんをよこしたのか?
子孫の代まで返せない借金を作ってしまうという、のび太の将来を軌道修正するためですよ(知らない方はウィキペディアでも読んでもらえれば)。
某サイヤ人の王子の息子もそうですよね。
主人公が病気で死んだあと、超つよい人造人間に地球を滅ぼされるという未来を変えるためタイムスリップし、未来に存在する特効薬を過去の主人公に与えたわけです。
(でもそのせいで、かれが干渉しなかった時間軸と干渉した時間軸とが分岐したわけですが。)
ちょっとひねりが効いているものだと、たとえば映画『バック・トゥ・ザ・フューチャー』。
過去にタイムスリップしてしまった主人公は、父親と母親が出会うはずの場面で自分が母親に出会ってしまいます。
過去のかのじょに惚れられてしまった主人公は、このままじゃ自分の存在がなくなってしまうと慌て、過去の父親の恋路を手伝ったわけです。
それでも主人公が未来に帰ってくると、かれが過去に干渉したおかげで、父親は自身に満ちた性格になっており、子供の頃の夢まで叶えていて、家庭も明るくなった、というオチ。
あと、タイプスリップ装置を作った博士も死なずに済む未来になったしね。
この作品でも、けっきょくは過去への干渉により未来が変化したのです。
こういう過去干渉モノにありがちな展開への皮肉を効かせた作品で、これも映画だけど『バタフライ・エフェクト』なんていうのもあります。
この作品の主人公は、想いをよせる幼馴染の女の子の人生を自分のせいで狂わせてしまい、それを悔いるあまりタイムスリップ能力に目覚めます。
でも、過去をどういじくっても、幼馴染はかならず何かしらの不幸に陥ってしまう。
ついに主人公は、自分が幼馴染の人生に介入するかぎり、かのじょに幸せは訪れないのだと悟ります。
かれが選んだ最後の手段は、幼いうちにかのじょと絶交することでした。
その結果、二人の人生はまったく交差しなくなります。
そのかわりに、ある日、主人公は街中で、順風満帆なライフコースを辿っているようすの幼馴染の姿を見かける、というのがエンディング。
この作品の教訓は、もしタイムスリップできたとしても、過去に干渉したところで未来を都合よく変えるなんて不可能だろう、ということ。
でも、そうはいっても主人公は、幼馴染が不幸になる未来だけは変えることができたのです――かれが望む未来は、つまり、かのじょが自分とともに幸福に生きる未来は実現できなかったにせよ。
つまり何がいいたいかというと、筆者の知るかぎり、現在を変えるために過去を改変することのない過去干渉もののフィクションは、一つも存在しないということです。
そんな作品は『進撃の巨人』だけなのです。
(筆者が知らないだけの可能性はもちろんあるので、誰か知っていたら教えて!)
諸行為の因果の無限に複雑な連鎖
ジークが掌握していたはずの「始祖」の時間操作能力を、乗っ取ったエレン。
さらにかれは、始祖ユミルをたらし込みと心を通わせ、ついに「始祖」の力をジークから奪取します。
しかしそれでもエレンは、過去に干渉する力でもって、過去をそうあったとおりにしか決定しません。
どうしてなのか?
どう過去に干渉したところで「地鳴らし」実行の決断を迫られる状況は避けられなかっただろうと、そうエレンは悟っていたのでしょう。
「地鳴らし」をやるか、すべてを諦めるかの二者択一しかなく、それ以外の「ルート分岐」は不可能だと、そうエレンは理解していたのでしょう。
なぜエレンに「ルート分岐」がありえないのか。
第一の理由は、設定です。つまり「始祖」の能力の限界です。
「始祖」には時間すら飛び越えて何でもできるとはいえ、その力が及ぶ対象は「ユミルの民」エルディア人に限定されています。
このことだけでも、エレンが過去に干渉したところで「地鳴らし」を決断しなければならない状況を避けられなかっただろうことの、じゅうぶんな理由になります。
もちろんエレンにとっても、最善の解決とは事態の平和的解決であり、パラディ島の真意を世界が理解することでした。
でも、世界各国の意志決定者たちをそう仕向けるために、エルディア人にできることなどあったでしょうか。
パラディ島の外ではどこでも、エルディア人は脅威と見なされ、迫害の対象でした。
唯一、特権的地位をもっていたタイバー家にすら、そんなことはたぶん不可能だったでしょう。
それでは、エルディア帝国時代のエルディア人を操作して、かれらが権勢を失わないように導けばよかったのか。
それが「始祖」掌握後のエレンにはできたかもしれませんが、しかしそれは、歴史をまったく異なるものに書き換えることを意味したでしょう。
エレン自身はおろか、そもそもパラディ島の社会が存在しなかったことになったでしょう。
自分の存在を否定することをエレンが選択しえないのは、言うまでもありませんね。
それに、フロックやかつてのグリシャと違って、エレンには「エルディア帝国再興」を大義として掲げる気など、さらさらなかったでしょうし。
第二に、もし過去を変えられたとしても、都合よく望みどおりの結果を作り出すなんて可能なのか? という問題があります。
前記事で紹介した映画『バタフライ・エフェクト』は、この問題に対して「不可能」という答えを提示したわけです。
考えてもみてください。
わたしの行為に反応して、無数の人々が無数の行為をする。
同じように、誰かの行為に反応して、わたしと他の無数の人々が行為する。
それらの相互作用をつうじて、ある結果が、ある未来が生まれる。
状況がしばしば帯びる必然性とは、そういう無数の行為の相互作用がもたらす帰結でしかないのです。
必然的な未来とは、無数の行為の諸結果がもたらす一結果、あるいは諸結果の諸結果の諸結果の諸結果の......一結果なのです。
それなのに、変更されるべき過去の行為と、変更したいと望む未来の結果とのあいだに介在する、無数の諸結果を望みどおりに操作することなどできるでしょうか?
ひとつの事実は、諸行為の因果の無限に複雑な連鎖が生み出したものなのです。
この連鎖を余すところなく認識し、この連鎖を計画どおりに変更することが、人間の限られた知性にとって可能でしょうか?
もしタイムスリップができるようになったとして、あなたはゲームやラノベの「ルート分岐」のように、現実の歴史のなかに計画的に「ルート分岐」を作り出すことができるでしょうか?
その点を考慮しつつ「道」に広がる光の大樹を見ると、その無数の枝分かれが、諸行為の因果の無限に複雑な連鎖を表現しているのかもしれませんね。
決定論と自由意志・再々論
この無限に複雑な連鎖を意味づけている哲学者として、ふたたびあの教父哲学者アウグスティヌスを見てみましょう。
かれによれば必然性(決定論)と自由意志は、神の「恩寵」が人間の自由意志を利用する、という関係にあります。
神の「恩寵」とは、世界と人間をどう動かすかについての、神の善き計画、くらいに理解しておいてください。
つまり神が人間たちの行為を決定している、ということです。
神が善き計画を実行しているはずなのに、なぜ世界にはこれほどにも多くの悪がはびこっているのか?
なぜキリストは磔(はりつけ)にされたのか?
そういう不平をいいながら、神を呪ったり、神が存在しないと信じたりする者たちに対して、アウグスティヌスは次のように説きます。
神は「悪しき者たちの心をすら利用する」のだと。
善き者たちを称え、助けるために、神が悪しき者たちの心をすら利用するということが、どう証明されるかを見よ! そうであればこそ、神はユダがキリストを裏切るよう仕向け、キリストをはりつけにするためにユダヤ人を用いたのである。そうすることで、どれほど大きな善を、神は信じようとする者たちに与えたことか!
アウグスティヌス「恩寵と自由意志について」
キリスト教によれば、たとえ悪しき者たちが預言者イエスの磔という結果をもたらしたにもかかわらず、イエスの磔は、人類に贖罪を、赦しを与えるために、神が欲したことなのです。
悪しき者たちは、必然性の、神の意志の、道具であったにすぎないのです。
しかしそのことは、人間たちが自由に意志することを打ち消さないと、アウグスティヌスはつけ加えます。
神がただなにかを作り出そうと欲するだけでなく、それを「人間たちを通じて」作り出そうと欲するかぎりにおいて、人間たちは自由であるのです。
かれらがそこにやってきたのは、自由意志からである。だがそれでも、かれらの魂をそう突き動かしたのは神なのだ。……全能の主は、人間たちを通じて作り出さんとするものを作り出すために、かれらの心のなかに意志の運動をすら生じさせることができる。
アウグスティヌス「恩寵と自由意志について」
この「神は人間たちを通じて」こそ、必然性(=「恩寵」)と自由意志が両立するという宗教哲学的命題を理解するためのキモです。
その神秘的なベールを剥ぎとれば、この命題が表現しているのは、すでに見た無限に複雑な連鎖の二面性であると理解できます。
この連鎖は、もし何もかも知ることができる絶対的存在がいれば、それを見通せるかもしれないが、しかし人間にはとうてい見渡しえない。
しかし同時に、この連鎖は人間たちの無数の行為の結果でしかない。
このことは、実存主義のことばづかいで言い換えることもできます。
すなわち、状況を望みどおりに変更する自由を人間はもたないが、それでも状況とは無数の人間がもつ無数の自由の産物でしかないのです。
状況を決定する、個々の人間には動かしがたい力――それを神と呼ぶのであれ、必然性と呼ぶのであれ。
しかしこの圧倒的な力は、それでも「人間たちを通じて」しか発動しえないのです。「人間の自由に逆らうことを、神はひとつもなしえない」(サルトル)
だから、必然性と自由とは、表面的には対立しているように見えるとしても、究極的には相互補完の関係にあるのです。
必然性は自由を必要とするのであり、自由は必然性を意味づけるのです。
そのことをエレンは、おそらく「始祖」の力を掌握したとき、悟ったのでしょう。
たとえ過去に干渉する能力をもったとしても、過去を「やりなおす」ことは不可能であると。
しかし、もしそうだとしても、エレンがたんに過去(→過去の未来としての現在)の改変を放棄しただけでなく、わざわざ、そうあったとおりの過去を選択したのは、なぜなのでしょうか?
そのせいで、エレンは「頭がめちゃくちゃになっちまった」とすら、親友アルミンに吐露していました (139話)。
なぜエレンは、あえて過去をそうあったとおりに決定したのか。
残る問題は、これです。
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