進撃の巨人・自由論

半分は哲学の解説ブログ、半分は作品の考察ブログ(最近は3:7くらい)。

5.8.b なぜエレンは過去に干渉するか、または時間の「状況」化 (中) 〜 自由になることと人間であること

 

unfreiefreiheit-aot.hatenablog.com

 

第一に、なぜエレンの過去干渉は過去を改変しないのでしょうか?

第二に、それにもかかわらず、エレンが過去に干渉することには、いったいどんな意味があるのでしょうか?

第一の疑問を、ここでは解き明かしてみましょう。

 

タイムトラベルと過去への干渉

ところで『進撃』は、タイムスリップや過去干渉モノのフィクションとしては、かなり異色な作品といえます。

なぜなら、過去に干渉できるくせに、過去をまったく改変しないからです。

そういう系の作品はふつう、未来を変えるために過去を操作するものだと相場が決まっているものではないでしょうか。

 

タイムトラベルといえばドラえもんですが、なぜ22世紀のセワシが先祖のび太ドラえもんをよこしたのか?

子孫の代まで返せない借金を作ってしまうという、のび太の将来を軌道修正するためですよ(知らない方はウィキペディアでも読んでもらえれば)。

 

サイヤ人の王子の息子もそうですよね。

主人公が病気で死んだあと、超つよい人造人間に地球を滅ぼされるという未来を変えるためタイムスリップし、未来に存在する特効薬を過去の主人公に与えたわけです。

(でもそのせいで、かれが干渉しなかった時間軸と干渉した時間軸とが分岐したわけですが。)

f:id:unfreiefreiheit:20220108201946j:plain

 

ちょっとひねりが効いているものだと、たとえば映画『バック・トゥ・ザ・フューチャー』。

過去にタイムスリップしてしまった主人公は、父親と母親が出会うはずの場面で自分が母親に出会ってしまいます。

過去のかのじょに惚れられてしまった主人公は、このままじゃ自分の存在がなくなってしまうと慌て、過去の父親の恋路を手伝ったわけです。

それでも主人公が未来に帰ってくると、かれが過去に干渉したおかげで、父親は自身に満ちた性格になっており、子供の頃の夢まで叶えていて、家庭も明るくなった、というオチ。

あと、タイプスリップ装置を作った博士も死なずに済む未来になったしね。

この作品でも、けっきょくは過去への干渉により未来が変化したのです。

f:id:unfreiefreiheit:20220108132412j:plain 

 

こういう過去干渉モノにありがちな展開への皮肉を効かせた作品で、これも映画だけど『バタフライ・エフェクト』なんていうのもあります。

この作品の主人公は、想いをよせる幼馴染の女の子の人生を自分のせいで狂わせてしまい、それを悔いるあまりタイムスリップ能力に目覚めます。

でも、過去をどういじくっても、幼馴染はかならず何かしらの不幸に陥ってしまう。

ついに主人公は、自分が幼馴染の人生に介入するかぎり、かのじょに幸せは訪れないのだと悟ります。

かれが選んだ最後の手段は、幼いうちにかのじょと絶交することでした。

その結果、二人の人生はまったく交差しなくなります。

そのかわりに、ある日、主人公は街中で、順風満帆なライフコースを辿っているようすの幼馴染の姿を見かける、というのがエンディング。

f:id:unfreiefreiheit:20220108204052j:plain

 

この作品の教訓は、もしタイムスリップできたとしても、過去に干渉したところで未来を都合よく変えるなんて不可能だろう、ということ。

でも、そうはいっても主人公は、幼馴染が不幸になる未来だけは変えることができたのです――かれが望む未来は、つまり、かのじょが自分とともに幸福に生きる未来は実現できなかったにせよ。

 

つまり何がいいたいかというと、筆者の知るかぎり、現在を変えるために過去を改変することのない過去干渉もののフィクションは、一つも存在しないということです。

そんな作品は『進撃の巨人』だけなのです。

(筆者が知らないだけの可能性はもちろんあるので、誰か知っていたら教えて!)

 

諸行為の因果の無限に複雑な連鎖

ジークが掌握していたはずの「始祖」の時間操作能力を、乗っ取ったエレン。

さらにかれは、始祖ユミルをたらし込みと心を通わせ、ついに「始祖」の力をジークから奪取します。 

しかしそれでもエレンは、過去に干渉する力でもって、過去をそうあったとおりにしか決定しません。

どうしてなのか?

どう過去に干渉したところで「地鳴らし」実行の決断を迫られる状況は避けられなかっただろうと、そうエレンは悟っていたのでしょう。

「地鳴らし」をやるか、すべてを諦めるかの二者択一しかなく、それ以外の「ルート分岐」は不可能だと、そうエレンは理解していたのでしょう。

 

なぜエレンに「ルート分岐」がありえないのか。

第一の理由は、設定です。つまり「始祖」の能力の限界です。

「始祖」には時間すら飛び越えて何でもできるとはいえ、その力が及ぶ対象は「ユミルの民」エルディア人に限定されています。

このことだけでも、エレンが過去に干渉したところで「地鳴らし」を決断しなければならない状況を避けられなかっただろうことの、じゅうぶんな理由になります。

f:id:unfreiefreiheit:20220109061359j:plain

123話「島の悪魔」

 

もちろんエレンにとっても、最善の解決とは事態の平和的解決であり、パラディ島の真意を世界が理解することでした。

でも、世界各国の意志決定者たちをそう仕向けるために、エルディア人にできることなどあったでしょうか。

パラディ島の外ではどこでも、エルディア人は脅威と見なされ、迫害の対象でした。

唯一、特権的地位をもっていたタイバー家にすら、そんなことはたぶん不可能だったでしょう。

 

それでは、エルディア帝国時代のエルディア人を操作して、かれらが権勢を失わないように導けばよかったのか。

それが「始祖」掌握後のエレンにはできたかもしれませんが、しかしそれは、歴史をまったく異なるものに書き換えることを意味したでしょう。

エレン自身はおろか、そもそもパラディ島の社会が存在しなかったことになったでしょう。

自分の存在を否定することをエレンが選択しえないのは、言うまでもありませんね。

それに、フロックやかつてのグリシャと違って、エレンには「エルディア帝国再興」を大義として掲げる気など、さらさらなかったでしょうし。

 

第二に、もし過去を変えられたとしても、都合よく望みどおりの結果を作り出すなんて可能なのか? という問題があります。

前記事で紹介した映画『バタフライ・エフェクト』は、この問題に対して「不可能」という答えを提示したわけです。

 

考えてもみてください。

わたしの行為に反応して、無数の人々が無数の行為をする。

同じように、誰かの行為に反応して、わたしと他の無数の人々が行為する。

それらの相互作用をつうじて、ある結果が、ある未来が生まれる。

状況がしばしば帯びる必然性とは、そういう無数の行為の相互作用がもたらす帰結でしかないのです。

必然的な未来とは、無数の行為の諸結果がもたらす一結果、あるいは諸結果の諸結果の諸結果の諸結果の......一結果なのです。

それなのに、変更されるべき過去の行為と、変更したいと望む未来の結果とのあいだに介在する、無数の諸結果を望みどおりに操作することなどできるでしょうか?

ひとつの事実は、諸行為の因果の無限に複雑な連鎖が生み出したものなのです。

この連鎖を余すところなく認識し、この連鎖を計画どおりに変更することが、人間の限られた知性にとって可能でしょうか?

もしタイムスリップができるようになったとして、あなたはゲームやラノベの「ルート分岐」のように、現実の歴史のなかに計画的に「ルート分岐」を作り出すことができるでしょうか?

 

その点を考慮しつつ「道」に広がる光の大樹を見ると、その無数の枝分かれが、諸行為の因果の無限に複雑な連鎖を表現しているのかもしれませんね。

f:id:unfreiefreiheit:20220109094959j:plain

120話「刹那」

 

決定論と自由意志・再々論

この無限に複雑な連鎖を意味づけている哲学者として、ふたたびあの教父哲学者アウグスティヌスを見てみましょう。

かれによれば必然性(決定論)と自由意志は、神の「恩寵」が人間の自由意志を利用する、という関係にあります。

神の「恩寵」とは、世界と人間をどう動かすかについての、神の善き計画、くらいに理解しておいてください。

つまり神が人間たちの行為を決定している、ということです。

 

神が善き計画を実行しているはずなのに、なぜ世界にはこれほどにも多くの悪がはびこっているのか?

なぜキリストは磔(はりつけ)にされたのか?

そういう不平をいいながら、神を呪ったり、神が存在しないと信じたりする者たちに対して、アウグスティヌスは次のように説きます。

神は「悪しき者たちの心をすら利用する」のだと。

善き者たちを称え、助けるために、神が悪しき者たちの心をすら利用するということが、どう証明されるかを見よ! そうであればこそ、神はユダがキリストを裏切るよう仕向け、キリストをはりつけにするためにユダヤ人を用いたのである。そうすることで、どれほど大きな善を、神は信じようとする者たちに与えたことか!

アウグスティヌス「恩寵と自由意志について」

 

キリスト教によれば、たとえ悪しき者たちが預言者エスの磔という結果をもたらしたにもかかわらず、イエスの磔は、人類に贖罪を、赦しを与えるために、神が欲したことなのです。

悪しき者たちは、必然性の、神の意志の、道具であったにすぎないのです。

 

しかしそのことは、人間たちが自由に意志することを打ち消さないと、アウグスティヌスはつけ加えます。

神がただなにかを作り出そうと欲するだけでなく、それを「人間たちを通じて」作り出そうと欲するかぎりにおいて、人間たちは自由であるのです。

かれらがそこにやってきたのは、自由意志からである。だがそれでも、かれらの魂をそう突き動かしたのは神なのだ。……全能の主は、人間たちを通じて作り出さんとするものを作り出すために、かれらの心のなかに意志の運動をすら生じさせることができる。

アウグスティヌス「恩寵と自由意志について」

f:id:unfreiefreiheit:20220109100109j:plain

 

この「神は人間たちを通じて」こそ、必然性(=「恩寵」)と自由意志が両立するという宗教哲学的命題を理解するためのキモです。

その神秘的なベールを剥ぎとれば、この命題が表現しているのは、すでに見た無限に複雑な連鎖の二面性であると理解できます。

この連鎖は、もし何もかも知ることができる絶対的存在がいれば、それを見通せるかもしれないが、しかし人間にはとうてい見渡しえない

しかし同時に、この連鎖は人間たちの無数の行為の結果でしかない

 

このことは、実存主義のことばづかいで言い換えることもできます。

すなわち、状況を望みどおりに変更する自由を人間はもたないが、それでも状況とは無数の人間がもつ無数の自由の産物でしかないのです。

状況を決定する、個々の人間には動かしがたい力――それを神と呼ぶのであれ、必然性と呼ぶのであれ。

しかしこの圧倒的な力は、それでも「人間たちを通じて」しか発動しえないのです。「人間の自由に逆らうことを、神はひとつもなしえない」(サルトル

 

だから、必然性と自由とは、表面的には対立しているように見えるとしても、究極的には相互補完の関係にあるのです。

必然性は自由を必要とするのであり、自由は必然性を意味づけるのです。

 

そのことをエレンは、おそらく「始祖」の力を掌握したとき、悟ったのでしょう。

たとえ過去に干渉する能力をもったとしても、過去を「やりなおす」ことは不可能であると。

しかし、もしそうだとしても、エレンがたんに過去(→過去の未来としての現在)の改変を放棄しただけでなく、わざわざ、そうあったとおりの過去を選択したのは、なぜなのでしょうか?

そのせいで、エレンは「頭がめちゃくちゃになっちまった」とすら、親友アルミンに吐露していました (139話)。

なぜエレンは、あえて過去をそうあったとおりに決定したのか。

残る問題は、これです。

f:id:unfreiefreiheit:20211218174251j:plain

139話「あの丘の木に向かって」

 

unfreiefreiheit-aot.hatenablog.com

 

 

5.8.a の註 なぜグリシャはロッド以外のレイス一族を殺したのか

 

註を別記事に移しました。本文はこちら。

unfreiefreiheit-aot.hatenablog.com

 

グリシャがフリーダから「始祖」を奪い、レイス一族を殺したとき、もしフリーダ以外の子供たちが生き残っていれば、かれらの誰かによって、エレンは「すんなり」喰われていただろうと、エレンは推測していました(115話)。

それはどういう意味なのか。考えてみると、ちょっと複雑です。

f:id:unfreiefreiheit:20220308081140j:plain

115話「支え」

 

いつエレンが喰われる危険があったのか

第一に、エレンが「すんなり」喰われてしまう危険は、いつあったのか。

ロッド家はグリシャが何者かを掴んでいたわけではなさそうなので、エレンがグリシャから巨人を引き継いだ直後ではないでしょう。

というか、この時点でエレンが「始祖」持ちだと知っていれば、さすがにロッドも、自分で喰うなり、新しく子供を作って喰わせるまでエレンを拘束なり監視なり、なにか手を打ったでしょう。

 

だとすれば、エレンが喰われる危険があったのは、かれが巨人の能力者だと判明した直後しかありません。

しかし当初はロッドにも、エレンが「始祖」持ちかどうか確信がなかったのでしょう。

だからこそ、エレンを調べたうえで殺すと提案した憲兵団に、事態を任せておく以上のことはしなかったのです(19話)。

 

どうしてロッドは、それ以上の手を打たなかったのか?

それは、かれ以外にレイス一族の者がいなかったからでしょう。

もしレイス家の者が複数生き残っていれば、ダメもとでエレンを喰ってみるという強硬策もとれたでしょう。

しかし、一族にはロッドしか残っていないのに、かれが一か八かでエレンを喰って、かれが「ハズレ」だったとしたら?

その場合、13年の寿命という制約がロッドにつきますが、そのあいだに始祖を見つけられるとは限りません。

 

もちろんヒストリアがいました。

しかしこの時点では、それにも無理があります。

もともとレイス家の使命を知らないヒストリアに、まだ「始祖」持ちかどうか確信のもてないエレンを喰わせるとして、どうすればかのじょをそう誘導できたでしょうか?

ましてやロッドには、レイス家が「始祖」を奪われたことを、オモテの王政からギリギリまで隠しておきたいという動機もあったのですから(65話)。

(最後の点についてはケニーの推測ですが、しかしロッドは、わが身かわいさから「始祖」を弟や娘になすりつけたという点だけは否定したものの、この点についてはケニーに反論しませんでした。)

 

そういうわけで、グリシャがレイス家をロッド以外みなごろしにしたことは、巨人の力に目覚めたばかりのエレンを、たしかに守ったのです。

f:id:unfreiefreiheit:20220103083123j:plain

121話「未来の記憶」

 

なぜロッド・レイスだけが生かされるべきだったのか

第二に、なぜロッド・レイスだけが生かされるべきだったのか。

かれの行動が引き金となって、壁内の王政が隠してきた秘密を、兵団が最終的に暴くことができたからなのでしょう。

もしグリシャがレイス家を根絶やしにしていたら、その後の歴史は大きく変わっていたおそれがあります。

 

まず、後ろ盾を失ったオモテの王政が、どう行動したか分かりません。

5年後に兵団はクーデターを成功させ、王政の秘密を暴きますが、そうなる前に、王政の暴走あるいは迷走のせいで、壁内人類は混乱し、巨人の侵入やら内乱やらで滅んでしまっていた、という可能性もありえます。

 

しかも、ライナーたち「マーレの戦士」が潜り込んでいたのです。

もし万が一、かれらが真の王家の全滅を知れば、さっさと故郷に戻ってそれを報告し、マーレは早々にパラディ島せん滅の攻撃を仕掛けたでしょう。

マーレが報告をうのみにして「地鳴らし」は絶対ないと踏めば、その圧倒的軍事力で島を滅ぼしたでしょうし、王家の生き残りがいるかもと慎重に判断したとしても、より積極的な攻撃を仕掛けてきたことは間違いないでしょう。

そうなれば、パラディ島が生き残ることは不可能だったはずです。

f:id:unfreiefreiheit:20220108181218j:plain

115話「支え」

 

こうして、エレンの見解は恐らく正しいということが分かりました。

あの時グリシャが、ロッド以外のレイス一族をみなごろしにしていなければ、作品で描かれたとおりの歴史は、きっと成立しえなかったのです。

 

(註おわり)

 

unfreiefreiheit-aot.hatenablog.com

 

5.8.a なぜエレンは過去に干渉するか、または時間の「状況」化 (上) 〜 自由になることと人間であること

 

unfreiefreiheit-aot.hatenablog.com

 

うわーぜんぜん終わらんな、このブログ。

それでもまあ、3月中には書くべきことは書ききれるかと。

 

過去に干渉するエレン

未来予知の能力を得たエレンは、そのことによって必然性に支配されたわけではないということを、過去記事で明らかにしました。

unfreiefreiheit-aot.hatenablog.com

 

むしろかれは、必然性を知るがゆえに自由であり、しかもそれでいて、状況を引き受け、意味づける自由な実存であることをやめたわけでもありません。

スピノザ的意味でもサルトル的意味でも、エレンは自由なのです――それがどれほど大きな災厄をもたらす自由であるとしても。

 

さて、本記事では逆に、時間を超越する能力を手に入れたわりには、エレンの自由は大したことのないものだ、という話をします。

「始祖」の絶対的な力を得たあとですら、エレンの自由は、通常の人間の自由に課された制約を、すなわち、状況という制約を、少しも超え出ることがないのです。

 

エレンは未来予知に留まらず、過去に干渉する能力をも手に入れました。

進撃の巨人保有者がもつ、過去の保有者に「未来の記憶」を送りこむ能力のことではありません。

より直接的に、過去に干渉し、過去のできごとを変更する能力のことです。

どうやらエレンは「道」に入ったことで、そして始祖ユミルの協力を得たことで、過去への干渉すらできるようになってしまったようなのです。

 

過去を変えてしまうなんて、まるで全能の神のそれのごとき力です。

ところが、人間に許された自由の域をはるかに超える絶大な力を使って、エレンは何をしたか?

過去を、そうあったとおりに決定する――ただそれだけです。

しかも、そのあとに「仕方が無かったんだよ...」なんて、泣き言をいう始末(139話)。

f:id:unfreiefreiheit:20211218174251j:plain

139話「あの丘の木に向かって」

 

なぜエレンは、過去を思いどおりに変更しようとしなかったのか?

あるいは、なぜそうできなかったのか?

この謎を解き明かすことが、本記事の目的です。

 

過去の父親に語りかけるエレン

まずはエレンの過去干渉能力がどんなものかを、作品中の手がかりから推定しましょう。

作品のストーリーの順序で、はじめてエレンが過去に干渉したのは、かれがジークとともに「道」に入ったあと、ジークが掌握した「始祖」の力により引き込まれた「記憶の旅」においてです(120話)。

エレン出生以降のグリシャの記憶を辿るなか、ある時点でグリシャは、ジークに見られていることに気づいているようなそぶりを示します。

f:id:unfreiefreiheit:20220103082115j:plain

120話「刹那」

 

これはエレンにも、そしてジークにも、意外なことだったようです。

ジークが意図したのは、グリシャの過去をエレンに見せることだけでした(というより、グリシャが毒親のままだったはずだとジーク自身が確かめたかったのでしょうけど)。

 

さらにグリシャは、エレンに「地下室」を見せてやると予告した、あの第1話の場面で、未来からかれを観察しにきた大人のエレンをガン見しているのです(121話)。

第1話でグリシャの表情を作者が描かなかったのは、このシーンの伏線だったのか! ギャー!

(たまたま当時は表情を描かなかったのを、あとで偶然うまい演出として結びつけることができた、ということかもしれませんけど。)

f:id:unfreiefreiheit:20220108180043j:plain

121話「未来の記憶」

 

このシーンをよく見てください。

グリシャは明らかにエレンに気づいている表情だし、エレンもかれの視線を自分の視線で受けている様子。

かれらはおたがいに意識しあっているのです。

このときエレンは、自分が過去のグリシャを観察しているだけでなく、グリシャに干渉できるということを、すでに察知しているようです。

 

だからこそ、あのレイス家との対決の場面で、グリシャが戦意を喪失したとき、エレンはすこしも動揺しなかったのです。

そんなはずはないと驚くジークをしり目に、エレンは自然な動きでグリシャのそばに身をかがめながら、自分の父親に語りかけたのです(121話)。

何をしてる 立てよ 父さん

忘れたのか? 何をしに ここに来たのか?
犬に食われた妹に 報いるためだろ?

復権派の仲間に ダイナに クルーガーに
報いるために進み続けるんだ
死んでも 死んだ後も

これは 父さんが始めた 物語だろ

f:id:unfreiefreiheit:20220103083123j:plain

121話「未来の記憶」

 

いやー改めて、この息子、怖すぎでしょ。

 

「始祖」の能力を乗っ取ったエレン

でも、どうしてエレンはグリシャに干渉できたのでしょうか?

「進撃」の能力、つまり「未来の記憶」を過去の継承者に送り込む能力ではなさそうです。

記憶ではなく、言葉そのものを届けているのですから。

しかしながら「始祖」の能力でもなさそう。

まだここでは、エレンは「始祖」の力を掌握していませんでした。

むしろ、このとき「始祖」の力を操っていたのは、レイス家の「不戦の契り」を無効化し、エレンを「記憶の旅」に連れていったジークであったように見えます。

 

明確に答えが描かれてはいないので、推論するしかありません。

大前提として、ジーク(王家の血)+エレン(「始祖」持ち)=「始祖」の能力が発動。

問題は、誰がどうやって「始祖」の力を行使するかです。

 

当初、力の支配権を手にしていたのがジークだったことは確か。

かれ自身がそう言っていましたし、現に始祖ユミルはジークの命令に従って、偽物の鎖を作ったり、エレンを鎖で縛ったりしていたからです(120話)。

このことから、次のように推論できます。

すなわち「始祖」保有者が能力を行使するためには、その精神がまず「道」に入り、次に始祖ユミルに命令する、という段階をふむ必要があるのではないでしょうか。

現実の時間では一瞬のことですが、当人の精神的経験においては、それなりに手間のかかりそうなことです。

 

さらに推測すれば、このことを利用して、初代「壁の王」カール・フリッツは「不戦の契り」を施したのではないでしょうか。

つまり、後の「始祖」継承者たちが「道」の世界に入ったとき、そこでかれらの意志を縛れるように、カール・フリッツは「始祖」の力を使って、なにかを仕掛けたのです。

でも、その「不戦の契り」の効力すら、絶対的ではなかったのでしょう。

だからこそ、ジークは「気の遠くなる時間」をかけてであれ「不戦の契り」を無効化することに成功したのです。

本人の弁によれば、王家の血筋をひきながらも、歴代の「壁の王」=レイス家の思想には染まっていなかったジークには、それが可能だったのでした。

f:id:unfreiefreiheit:20220108135851j:plain

120話「刹那」

 

ところが、ジークが「始祖」の力を使って開始した「記憶の旅」において、過去のグリシャが、ジークに気づいているような行動をとりはじめます。

先に述べたとおり、これはジークにも、エレンにも、当初は意外だったようす。

なぜこんなことが起きたか?

「始祖」以外の力が働いたと見るべきでしょう。どうやらジークは、一応は「始祖」の力を支配していたようなので。

まったくの推測でしかないですが、これは「進撃」の能力が「始祖」の能力に干渉して引き起こしたイレギュラーな効果だったのではないでしょうか?

「始祖」以外では唯一「進撃」だけが、時間を超越する能力をもっています。

もともとは過去の継承者=グリシャに記憶を伝える能力だったわけですが、ここでは「始祖」の力との相乗効果で、グリシャに対してさらなる干渉ができるようになった、といったところでしょう。

このときエレンは、いわば「始祖」の力を乗っ取ったのです。

 

エレンが最初から、意図的にそれを引き起こしたようには見えません。

でも、きっとかれはすぐに、そういうことが可能なのだと認識したのでしょう。

そうでなければ、グリシャとレイス家との対峙の場面で、あらかじめそれが可能だと知っていたかのように、エレンはグリシャに語りかけたりはしなかったはず。

 

もしそうだとすれば、過去のグリシャがこんどはジークと意志疎通できるようになったこともまた、エレンが意図的にそう仕向けたとしか考えられません(121話)。

まずグリシャは、その場にジークもいるだろうと推測して「いるんだろ?」「お前の望みは叶わない」などと、一方的に声をかけるだけでした。

ところが次の瞬間、グリシャが驚きに目を見開きます。

とつぜん見えるようになった未来のジークにグリシャは語りかけ、さらには再会した息子を抱きしめさえしたのです。

しかもその背後には、挑発とも侮蔑とも、あるいは哀れみともとれるような、なんともいえない暗い視線をジークに注ぐエレンの姿が。

f:id:unfreiefreiheit:20220108141340j:plain

121話「未来の記憶」

 

なぜエレンは過去のグリシャをジークに対面させたのか。

もちろん、ジークの意志を挫くためでしょう。

エレンもまた自分と同じように父親に虐待されただろうという、ジークの強い思い込みを見て、エレンはジークの本質に気づいたのです。

つまり、父親グリシャに対する哀しくも歪んだ執着を利用して、ジークの動揺を誘うことができると踏んだのです。

まあ図には当たったものの、それでもジークの意志を完全に萎えさせるところまではいきませんでしたが。

 

とにかく、そういうわけでエレンは「始祖」の力を掌握せずして、過去に干渉することができたのでしょう。

 

過去をそうあったとおりに決定するエレン

ところで、過去の父親に干渉したエレンは、それによって何を達成したのか。

過去に生じたとおりのことを生じさせただけです。

つまり、父親グリシャがフリーダを喰って「始祖の巨人」を奪うだけでなく、幼子たちを含めたレイス一族を、ロッド以外みなごろしにするという結果を、生じさせたのです。

 

グリシャにそうしてもらわねばならなかったのは確か。

別のエピソードでエレンが言っていたように(115話を参照)、他の子供たちが生き残っていれば、かれらの誰かによってエレンは「すんなり」喰われ、レイス家に「始祖」を奪い返されたことでしょう。

(この点についても考察してみたのですが、長い脱線になってしまうので、本記事のに回します。)

 

裏を返せば、グリシャがそうしていなかったら、エレンが生き残り、ジークとともに「道」に入る未来はなかったでしょう。  

というより、そもそもエレンが「進撃」とともに「始祖」を継承することすらなかったはず。グリシャが戦意喪失したままなら、フリーダに返り討ちにされたでしょうから。

だとすれば、エレンが「記憶の旅」でグリシャに語りかけようが語りかけまいが、グリシャがフリーダを喰い、ロッド以外のレイス一族を滅ぼしていたのでなければ、辻褄が合いません。

 

つまりエレンの過去干渉は、どう考えても余計なことです。

だってそれは、あってもなくても違いのないはずの行為なのだから。

それは、すでに生じた出来事をそうあったとおりに決定するだけの行為なのだから。

それは、因果の時間的連鎖には影響を及ぼさない行為なのだから。

 

なぜエレンの過去干渉は、過去を改変しないのか?

それにもかかわらず、エレンが過去に干渉することには、いったいどんな意味があるのでしょうか?

 

unfreiefreiheit-aot.hatenablog.com

 

註は別記事に移しました。

unfreiefreiheit-aot.hatenablog.com

 

 

 

5.7.d 補論 ミカサの後日談は『めぞん一刻』を参考にすべきだった説

 

unfreiefreiheit-aot.hatenablog.com

 

以下、またちょっとミカサのキャラ造形に文句を言ってしまいますので、苦手なかたはスルーしていただけましたら。

 

どうして墓場にマフラーをもっていった?

最後に話題にしたいのは、単行本で最後に加筆された一シーン。

ミカサが天寿をまっとうしたあと、あのマフラーを巻いたまま葬られた描写のことです。

あれ、余計なんじゃないかなと筆者は思ってしまいました。

f:id:unfreiefreiheit:20220214082653j:plain

139話「あの丘の木に向かって」

 

というのも、あのマフラーは、ミカサが「居場所」としてのエレンに執着していたことの象徴でありましたが、しかし最後の対決で、そのマフラーの意味をミカサは変えることができたのです。

それなのに、あれを死ぬまで巻き続けるというのは、自己解放を達成するまえのミカサに戻ってしまったように、筆者にはどうしても見えてしまうのです......。

 

もちろんミカサは終生、エレンを忘れはしなかったでしょうけど、それでも別の男性(ジャンっぽい後ろ姿)と結婚したことが、やはり加筆で描かれています。

ミカサが他の親密な人と「居場所」を作ることは、エレンを忘れないというミカサの決意と、別に矛盾することではないのです。かのじょの幸せはエレンも願っていたし。

家族を作ることができたミカサは、試練を越えたミカサです。

 

それに対して、死ぬときにエレンがくれたマフラーを巻くというのは、試練を越える前のミカサがやりそうなことではないかと思えます。

あれでは、ミカサはいまだに「主役より強いけど主役を引き立ててくれる」系の主役に都合いいヒロインのままじゃないか、と筆者は感じてしまうのです。

作者・諌山も自分の「萌え」から自由ではなかったか。

 

いまなお高橋留美子には学ぶことがある

めぞん一刻』の音無響子さんと五代くんの関係を考えてみてください。

音無響子さんがミカサ、かのじょの急逝した前夫・惣一郎さんがエレン、それで五代くんがジャン(多分)ですよ。

(毎度ながら例が古くて恐縮ですが、知らない人はウィキペディアであらすじでも見てください。)

f:id:unfreiefreiheit:20220110092019j:plain

 

すったもんだをくりかえしつつも、響子さんは、自分が五代くんを愛していることをだんだん自覚するようになるのですけど、それでもやはり惣一郎さんへの想いを整理しきれません。

惣一郎さんを愛した自分の想いが「ウソになりそう」と思ってしまうのです。

 

でも五代くんは、ようやく響子さんとのゴールインが決まったあと、最終回まぎわ、惣一郎さんの墓を前に言います。

早逝したかれは、すでに「響子さんの心の一部」になっているのだと。

だから「あなたもひっくるめて、響子さんをもらいます」と。

その一言を聞いて、五代くんに会えてよかったと、心から感じた響子さん。

きっとその後も、惣一郎さんのことは忘れなかったのでしょうけど、でも今を生きている五代裕作くんを、最愛の人として心にもちつづけただろうと思うんですよね。

f:id:unfreiefreiheit:20220110082850j:plain

 

ミカサの場合も、けっこう長くエレンを引きずっていたようですね(かれの期待どおり)。

f:id:unfreiefreiheit:20220214082757j:plain

139話「あの丘の木に向かって」

 

でも単行本加筆の墓参りの様子なんかを見ると、ジャン(多分)も五代くんのように、エレンを想うかのじょをひっくるめてミカサを愛する度量をみせたんじゃないですかね。

だとすれば、そんなジャン(多分)に支えられて、ミカサもちゃんと今を生きる人に愛を注ぐように、自然となっていくはずではないでしょうか。

昔の想い人を忘れないことと、今を生きる人たちとのあいだに親密な愛情を育んでいくことを両立できるように、やがてきちんと心の整理がついただろうと思います。

 

だからどうしても、ミカサが墓場にまでマフラーを巻いていったという描写には、あまり説得力を感じられないんですよね、筆者には。

もっともらしさのない、むしろ作者の「萌え」というか何というかが強く出過ぎたシーンに見えてしまうというか。

 

「深淵を覗くとき...」

......と、ここまで書いたところで、筆者はふと、恐ろしいことに気づいてしまいました。

ミカサのキャラ設定を、他のマンガのヒロインまでもちだして事こまやかに分析し、作者・諌山の性癖「萌え」にケチをつけてきたのが、じつは両刃の剣だったということに。

つまり、それが同時に筆者自身の「萌え」を、別にそんなものに興味のないブログ読者にさらしてしまう行為でもあったということに。

 

まさにあのニーチェがいっていたとおり。

「他人の「萌え」を覗くとき、他人もまたお前の「萌え」を覗いているのだ」

嘘です。正しくはこうです。

「深淵を覗くとき、深淵もまたこちらを覗いているのだ」

ニーチェ善悪の彼岸』より)

www.kinokuniya.co.jp

 

うん、哲学解説ブログっぽくまとまりました。

そういうわけで、エレミカの話はおしまい。

ミカサについては文句が多くてごめんね。

でもエレミカエンドは尊いよ。

 

unfreiefreiheit-aot.hatenablog.com

 

 

5.7.c 愛の等価交換、またはミカサと始祖ユミルの解放 (下) 〜 自由になることと人間であること

 

unfreiefreiheit-aot.hatenablog.com

 

ミカサの現実逃避と「長い夢」

エレンとの最終決戦。

仲間たちが、もはやエレンを殺さずはにかれを阻止できないと覚悟を決めるなか、ミカサだけは動揺を隠すことができません。

それでもかのじょはどうにか、一度は始祖ユミルに囚われたアルミンを救い出したことで、仲間たちが地鳴らしを止めることに貢献しました(137話)。

 

超大型アルミンの爆発で、粉々になった始祖=進撃。

これでもしエレンが死んだとすれば、かれに「お前がずっと嫌いだった」と冷たく突き放されたときの会話が、二人の関係の結末であったということになります。

またもや頭痛に襲われるミカサ(138話)。

 

ところがどっこい「進撃の巨人」が、超大型サイズで復活します。

そこからの、連載組の読者を阿鼻叫喚に陥れた展開は、わざわざ振り返る必要もないでしょう。

この地獄絵図のなか、残された仲間がそれでも戦いつづける一方で、ミカサだけは残酷な現実に耐えられずに「私達の家」に「帰りたい」と、現実逃避してしまいます。

あの「仕方ないでしょ? 世界は残酷なんだから」と割り切っていたミカサの姿は、見る影もありません(32話)。

こうしてミカサは、最終決戦の最後の局面にいたるまでずっと、状況を引き受けられないままだったのです。

 

しかしそのとき、現実を否定したいというミカサの願望が叶ったかのように、ミカサは静かな山奥の小屋で目を覚まします。

そこでどうやら、ミカサはエレンと二人きりで暮らしているようす。

f:id:unfreiefreiheit:20220102103841j:plain

138話「長い夢」

 

「地鳴らし」も、あの地獄のような戦いも、なーんだ、ミカサの夢だったのか!

エレンがミカサを「嫌いだった」と突き放すルートなんて存在しなかったんだ!

やっぱりエレミカ・ハッピーエンドこそが正義だったんだ!

 

……というわけでもなく、このルートにおいては、マーレ潜入中にミカサがエレンに本心を打ち明け、そのまま駆け落ちしてしまったことになっています。

二人は穏やかな時を過ごしていますが、しかしそのために、もうひとりの幼馴染アルミンも含めて、他のすべての仲間を見捨ててしまったのです。

しかも、巨人能力者の13年の寿命からエレンが逃れられるわけでもないので、愛し合う二人がいっしょに居られる時間は限られています。

 

それでもミカサは幸福を感じられるでしょうけど、しかしその幸福には暗い影がさしています。

すべてを諦めた代償として、束の間の、かりそめの幸福が、二人には与えられたにすぎません。

それは諦念と、そして後ろめたさと表裏一体のものなのです。

 

目を覚ましたミカサは、まだそのことを知りません。

それにもかかわらず、自分はこんな幸福に浸っていいのかと、かのじょは不意に涙を流してしまいます。

それに対するエレンの「もう… どうすることもできないだろ…」という返答により、ミカサは悟りました。

この幸福な瞬間は、ミカサの心を捕えて離さない「あの時 別の答えを選んでいたら」という後悔が生み出した、空想の世界、もしもの世界なのだと。

f:id:unfreiefreiheit:20220102125414j:plain

138話「長い夢」

 

こういうの、並行世界とか、ルート分岐とか呼べばいいのでしょうか?

現代のフィクション作品では手垢のついた演出手法といえますし、筆者はあまり新鮮味を感じません。

むしろこれは、並行世界でも何でもなくて、強い後悔に捕われたミカサの意識に、エレンが「始祖」の力で介入することにより作り出した、インタラクティブ(双方向的)な空想として理解すべきだと思います。

というのも、この「もしもの世界」のなかで、けっきょくエレンは現実と同じことをした、つまり「マフラーを捨ててくれ」「オレを忘れてくれ」とミカサを突き放したからです。

まさにそれをするためにエレンは、ミカサの意識に介入したのでしょう。

 

エレンの目的が、ミカサを突き放すこと、かのじょの後悔を断ち切ることであったのは明らか。

もしあのとき、かのじょがエレンに本心を告白していたとしても、けっきょく現実は変わらなかったはずだと、つまり、真の自由と幸福をミカサがエレンとともに得ることはできないはずだと、そう伝えようとしたのです。

どうしてもミカサは、エレンとともには幸福になれないのだと。

だから、ミカサに後悔すべきことは何もない、エレンを忘れるべきなのだと。

 

しかし同時に、エレンは自分の本心をミカサに告げてもいます。

もしあのときミカサがコクっていたらかのじょの愛を受け入れていただろうと、つまり、かれもまたミカサを異性として愛していると、そうエレンは伝えているも同然なのだから。

 

愛の等価交換の成立

こうして、空想世界でエレンと再会したミカサは、かれが本心ではミカサを愛してくれていたことを知りました。

同時に、過ぎたことを後悔しても無意味であると、この状況とは別の状況を望むことは現実逃避でしかないと、ミカサは悟ったことでしょう。

 

だとすれば、この状況において自分が何をすべきかを、いまこそミカサは選択しなければなりません。

「オレを忘れてくれ」「マフラーを捨ててくれ」と懇願したエレンに、いまこそミカサは、自分自身の自由と責任において応答しなければなりません。

 

ついに、あのマフラーをふたたび巻いたミカサ。

かのじょはエレンに応えます。「ごめん できない」と。

f:id:unfreiefreiheit:20211227113148j:plain

138話「長い夢」

 

こうしてミカサはマフラーを、すなわちエレンに対する自分の愛情を、意味づけなおすことができました。

すなわちそれは、どれほど頑なにエレンに突き放されても、自分自身の愛情を偽りのものとして放棄することはない、という決意表明なのです。

だからといってミカサは、エレンに一方的に愛を注いでいるわけではありません。

いまやミカサは理解しています。

エレンの真意と、ミカサを思いやるかれなりの方法を。

現実に背を向けたところで、二人だけで逃げ込むことができる「居場所」がどこにもないことを。

それらのことを理解したうえで、ミカサはエレンの懇願を拒否し、かれを殺す決意を固めたのです。

 

それでは、みずからの手でエレンの命を断つことに、ミカサはどんな意味を見出したのか。

もちろん人類を悪夢から救うためでもありますが、同時にそれは、もはや後戻りできない道を進みつづけるエレンを解き放つためであり、またしたがって、ミカサが自由な「状況内存在」としてエレンを愛するためです。

エレンを斬ることは、かのじょのエレンへの想いが真の愛であることを、そしてミカサが自由な実存であることを、証明する行為だったのです。

 

※ 併せ読みがオススメ

unfreiefreiheit-aot.hatenablog.com

 

エレンの望みをミカサは拒否しましたが、その結果として、かれはミカサが自由になるのを見ることができたのでした。

もはやそこにいるのは「主役より強いけど主役を引き立ててくれる」系ヒロインでもなければ、エレンの「戦え」という教えに忠実な奉仕者でもありません。

「状況内存在」として、自由な実存としてひとりの男性を愛した、ひとりの自由な女性なのです。

 

現実逃避をやめたミカサ。

逃れられない状況のなかで、エレンの想いを受け止め、かつ自分の想いを表現するために、何をなすべきかを見定めたミカサ。

それは、みずからの手でエレンを斬ることでした。

引き返せない地獄への歩みから、エレンを解放することでした。

そうしたうえで、エレンを自分の両腕に抱くことでした。

 

こうして、エレンへの想いを表現するミカサの行為と、ミカサへの想いを表現するエレンの行為とは、お互いにとって、愛という同じ尊い価値をもつ行為となったのです。

若きマルクスのいう愛の等価交換が、ついに二人のあいだで成立したのです。

f:id:unfreiefreiheit:20211218173004j:plain

138話「長い夢」

 

始祖ユミルの解放

こうして達成されたエレミカエンド。

全世界のエレミカ推しの読者は、心を揺さぶられながらも、満足と、一種の安堵とを得たことでしょう。

しかし、どんな読者よりも「エレミカ尊い」と大満足なのは、あの人、そう、始祖ユミルです。

f:id:unfreiefreiheit:20211218173013j:plain

138話「長い夢」

 

始祖ユミルはカプ厨だった説はネタとして面白いですが、まじめに考察しましょう。

でもまあ、これは解釈が割れるような難しい話ではありませんね。

ミカサとエレンの結末は、ユミルにとっては、かのじょが生前に叶えられなかった願望の代行であり、それを見ることでユミルの魂は救われたということです。

(略して「エレミカ尊すぎて昇天した」でも、まあいいかもしれませんけど。)

 

すでに論じたとおり(5.4.bを参照)、ユミルは巨人の力でもって自由を手にするのではなく、愛情の関係における自由を得ることに期待をもっていました。

誰かを愛し、誰かに愛されること、つまり、対等な人間(かつ女性)として承認されること――それが奴隷ユミルの夢見た自由だったのです。

しかし、ユミルが愛を捧げた相手は、かのじょを対等な人間として扱おうというつもりは毛ほどもなかったわけですが。

 

では、そんなユミルが、王家の血筋であるジークではなくエレンに従うことを決めたとき、なぜかのじょ自身が地鳴らしに積極的だったのか?

エレンの呼びかけに呼応した始祖ユミルは、人類世界を破壊し尽くすことに、グイグイの前のめりの姿勢を示しました。

あのスリの少年が兄弟とともに踏み潰されるときも、その様子をユミルはじっと眺めていました(131話)。

f:id:unfreiefreiheit:20211227083544j:plain

131話「地鳴らし」

 

そして、アルミンたちがエレンを止めにやってきたときには、エレンを妨害させないために、歴代・九つの巨人たちを無限に呼び出すという、難易度地獄のクソゲー展開をぶっこむほどの容赦のなさを見せたのです(135話)。

f:id:unfreiefreiheit:20211227084810j:plain

135話「天と地の戦い」

 

でもそれでいて、ジークが「道」にいたゆかりのある巨人保有者たちの魂を引きつけたときも、かれがクサヴァーさんや父親に感謝を表明している様子をガン見しているユミルの姿が。

アルミンいわく、それはおそらくかのじょが「繋がりを求めて」いることの表れです(137話)。

f:id:unfreiefreiheit:20211204224843j:plain

137話「巨人」

 

つまり始祖ユミルは、生前からの願望を、すなわち、愛をつうじて対等な人間としての承認を得たいという願いを、放棄したわけではなかったのです。

でも「世界など滅ぼしてしまえ」という破滅への意志は、承認への希望とは正反対のもの。

まあでも、これらの感情は、同じコインの裏表なんでしょうね。

誰かに愛され、同じ人間として承認されたい。

でも、この世界は承認を与えてくれない。

だったらそんな世界、否定してやる、みたいな。

 

他にも、いくつか疑問が残っています。

なぜ始祖ユミルにとっては、ミカサでなければならなかったのか?

自分が達成しえなかった愛情の関係における解放を、他の誰かがなしとげるのを見たいという、ユミルのこじらせたカプ厨のごとき願望を、もっと前に満たしてくれる人はいなかったのでしょうか?

条件としては、愛ゆえに盲目的になってしまうようなタイプで、しかし自分の他律的なふるまいを見つめなおし、最終的には愛する相手と対等の関係になれる女性でなければなりません。

そういう恋愛のドラマはしょっちゅう生じるわけではないでしょうけど、でも、いつだってそういう愛が成立してもおかしくないですよね。

 

しかし、前記事(5.1 を参照)で述べたとおり、始祖ユミルが奴隷的意識から解き放たれるには、エレンという媒介が必要だったのです。

奴隷的奉仕をやめるまでは、現世でエレミカの代わりになるような尊いカップルがいくつ誕生したとしても、ユミルはそれをみずからの願望の代行として見ることができなかったのでしょう。

「人間」どうしの愛は、自分自身をすっかり奴隷にしてしまっていたユミルにとっては他人ごとでしかなかったでしょうから。

 

したがって、いわば始祖ユミルのクリア条件は二つだったのです。

第一に、かのじょを奴隷的意識から解き放つこと。この条件を満たしたのがエレンです。

(その副産物が「地鳴らし」とは、とほうもなく不釣り合いな大災厄ですが。)

奴隷的意識から解放されなければ、始祖ユミルは愛する行為と隷従とを区別することができなかったでしょう。   

マルクスは言いました。あなたの愛が「相手の愛を作り出す」ことがなければ、そのとき「あなたの愛は無力であり、不幸だと言わねばならない」と。

 

第二に、始祖ユミルの叶えられなかった願望を代わりに実現すること。

この条件は、第一の条件が満たされた後でのみ達成可能であり、それゆえにこそミカサだけが、これをなしえたのです。

始祖ユミルを奴隷的意識から解き放ったエレンとのあいだで、愛の関係をつうじた自由を達成しえたミカサだけが。

 

最後に見ておきたいのが、単行本で加筆された、ユミルがフリッツを助けず、娘たちと抱きしめあうシーン(139話)。

これは、ユミルが選ぶことができたかもしれない可能性を描いたものと思われます。

もしこうなっていれば、そのときユミルの意識はもはや奴隷的ではなくなっていたでしょう。

そして、自分の娘たちとの愛情の関係のなかで、ユミルは人間としての承認を得られたことでしょう。

でも、ユミル自身は生前も死後にも、こういう選択がありえたとは、つまり自分が自由に選びえたとは、気づけなかったのです。

あくまで、エレンがかのじょの意識を解放したあとで、ミカサがかのじょに救いを見せたからこそ、ユミルは自分が自由でありえたはずだと気づくことができたのです。

 

それはつまり、愛を求めつつも奴隷のまま世を去った悲しい亡霊ユミルに対して意味を与えることができたのは、けっきょくのところ生者であるミカサであったということ。

だから、次のような言葉をユミルにかける資格をもっていたのも、ミカサだけだったのです(139話 単行本加筆)。

「あなたの愛は長い悪夢だったと思う」

「それでも あなたに生み出された命があるから わたしがいる」

f:id:unfreiefreiheit:20211230080628j:plain

139話「あの丘の木に向かって」

 

unfreiefreiheit-aot.hatenablog.com

 

 

5.7.b 愛の等価交換、またはミカサと始祖ユミルの解放 (中) 〜 自由になることと人間であること

 

unfreiefreiheit-aot.hatenablog.com

 

愛の等価交換の不成立

愛情の関係における自由――始祖ユミルが求めたもの、ミカサがエレンとの関係において到達すべきもの――とは、わたしの愛する行為とあなたの愛する行為との等価交換を成立させることです。

しかし、ミカサの愛する行為にエレンは応えられず、エレンの愛する行為にミカサは応えられません。

たとえ両者が相手をどれほど強く想っているとしても、行為と行為の等価交換が成立しないかぎり、愛は実現されないままなのです。

愛する人としてのあなたの生命の発現が、あなたを愛される人にすることがなければ、あなたの愛は無力であり、不幸だと言わねばならない」(マルクス『経済学・哲学草稿』第三草稿)

 

この等価交換が成立するときにのみ、エレンに対するミカサの愛は、またしたがってミカサに対するエレンの愛は、対等な二人の愛へと昇華されることでしょう。

真の愛、自由な愛へと。

 

ルイーゼのミカサへの崇敬が意味するもの

単独行動を決意したとき、すでにエレンは、ミカサを自分から「解放」しなければならないと考えていました。

他方で、ミカサがみずからの愛情を問いなおすのは、もっと後のこと、すなわち、エレンが「アッカーマンの本能」説を使ってかのじょを突き放した後です。

 

ただしそれより前に、ミカサには別のきっかけもまた与えられていました。

それは「イェーガー派」のルイーゼとのやりとりです。

ルイーゼは意図せずして、ミカサがみずからの愛する行為を客観視することを促したのです。

 

ルイーゼはかつてのトロスト区防衛戦で、ミカサによって救われた群衆のなかにいました。

あたかもエレンがミカサに「戦え」という掟を与えたかのように、ルイーゼはミカサに「力が無ければ何も守れない」と教えられたのです。

f:id:unfreiefreiheit:20211227085951j:plain

109話「導く者」

 

力への信念から、ルイーゼは「イェーガー派」に加わりました。

同時に、ルイーゼはミカサに対して、崇拝のような敬意を抱いています。

かのじょは軍紀違反で懲罰房に入れられるとき、ミカサに「近づきた」い一心で努力してきたのだと、ミカサに告白したのでした。

そのとき、なぜかミカサの脳裏に浮かぶのは、エレンにマフラーを巻いてもらった想い出(109話)。

f:id:unfreiefreiheit:20211204235941j:plain

109話「導く者」

 

さらに、懲罰房から去ろうとする瞬間のミカサに、頭痛とともにあの記憶がフラッシュバックします。

かのじょを救出するために人さらいをメッタ刺しにした、あの幼いエレンが。

返り血を浴びた、鬼気迫る恐ろしい少年の姿で。

f:id:unfreiefreiheit:20211204235757j:plain

109話「導く者」

 

このときミカサが動揺したのは、ルイーゼにとって自分が「戦え」という掟の立法者の役割を、図らずも演じたと知ったからです。

この掟は、幼少のミカサがエレンから受け取ったのと同じもの。

それをルイーゼは、ミカサに授けられたというのです。

しかも、ルイーゼのミカサへの感情は、恋愛の要素を含まないだけになおさら、疑似宗教的な崇拝として、力への信仰や大義への信奉と区別しがたい崇敬の感情として、純化されてしまっています。

 

このような崇敬が自分に捧げられるのを見て、おそらくミカサは意識させられたことでしょう。

自分がそれを愛だと信じているエレンへの感情は、実は、いまルイーゼが自分に向けている崇拝の念と同じものを、愛だと思い込んでいるにすぎないのではないかと。

 

なぜミカサはルイーゼからマフラーを取り返したか

こういう可能性をうすうす認識していたからこそ、エレンに奴隷よばわりされたとき、ミカサはエレンの作り話を否定できなかったのでしょう。

ジークとイェレナの真の計画を知ったアルミンが「エレンの目的がジークと同じはずはない、だからミカサの件も作り話だ」と言ってくれるまで、ミカサはほんとうに、自分がアッカーマンの本能によって動いていたと信じてしまっていたのです(118話)。

 

しかし、あれが作り話だったとしても、もうエレンをかつてのようには信じられないミカサ。

というより、自分はエレンを愛しているのだという確信を、もはや以前のようにはもてなくなったのでしょう。

それを表しているのが、襲いかかるマーレ軍に応戦する準備中、ミカサがマフラーを置いていったことです(118話)。

f:id:unfreiefreiheit:20220101072146j:plain

118話「騙し討ち」

 

そのマフラーに、妙に感心を示したルイーゼ。

かのじょは戦いのあと、ミカサのマフラーを身に着けちゃっていました。

ちょっとこの人ストーカー気質入ってませんかね。

 

ルイーゼがそうしたのは、以前にエレンと話したとき、このマフラーをミカサに「捨ててほしい」とかれが願っていたからです。

他方で、ルイーゼにとってそれは、憧れのミカサのトレードマーク。

それを すてるなんて とんでもない!

f:id:unfreiefreiheit:20220102100001j:plain

 

他方で、さきほどの戦闘中にルイーゼが負った傷は深く、どうやらもう助かりそうにありません。

そこでかのじょは、憧れの人が身に着けていたアイテムを、本人がいらないなら墓場にもっていってしまうと考えたわけです。

ミカサの「返して」というつれない態度にも動じず、ルイーゼは去り際のミカサに告げました。

ミカサに憧れて戦ってきた結果、信念に殉じることになっても悔いはないと(126話)。

f:id:unfreiefreiheit:20220101072157j:plain

126話「矜持」

 

一連のできごとをつうじてルイーゼがミカサに見せつけたのは、ミカサがエレンに示してきた愛情の、ある一面です。

すなわち「掟」への服従と、立法者への崇拝です。

言い換えれば、ミカサの愛における他律的側面です。

わたしの愛の意味とは、これだけだったのか?

そうミカサは自問せざるをえなかったでしょう。

 

しかしながら、エレンの意向を伝えたルイーゼに、間髪入れずにマフラーを「返して」と強い口調で求めたその瞬間、ミカサの心には、小さくも頑強な反抗の意志が芽生えたように見えます。

ミカサとエレンとの愛の絆を象徴するはずのマフラーを、エレンは捨てるよう望み、そしてルイーゼは墓場にもっていこうとしている。

もしそうなるままに任せてしまえば、ミカサの愛の意味は、ルイーゼの純化された他律的な崇拝と同じものでしかなかったと、最終的に決定されてしまうでしょう。

わたしの愛はそんなものではない!

ミカサの心には、そういう反発が生じたに違いありません。

だとすれば、いまこそミカサは、かのじょの愛情に含まれているはずの能動的要素に、かのじょ自身の自由に、向き合わねばならないのです。

 

ミカサの後悔と「状況内存在」

エレンを止めようというハンジさんの提案にミカサが間髪入れずに応じたのも、エレンの意向に対する芽生えたばかりの反発からでしょう(127話)。

しかし同時に、ミカサの心には後悔が残っています。

ついに「始祖の巨人」の力を発動したエレンに目を奪われながら、ミカサの胸には次のような想いが去来していました。

ミカサや仲間たちが知っていたエレンは、かれの一部にすぎなかったのではないか。

単独行動をはじめたエレンは「最初から何も変わっていない」のではないか。

他の選択肢が存在したかどうかは分からない。

でも「あの時」つまり、エレンに「オレはお前の何だ」と尋ねられたとき、自分が「別の答えを選んでいたら 結果は違っていたんじゃないか」(123話)。

f:id:unfreiefreiheit:20211227095046j:plain

123話「島の悪魔」

 

こうして、エレンの「地鳴らし」阻止に参加するミカサの心中には、エレンが自分を突き放すことへの反発と、かれがそうする前に自分の本心を告白しなかったことへの後悔とが、同居することになります。

エレンの意向は受け入れたくない。だからこそ、できることならやり直したい。

それがミカサの正直な願望だったことでしょう。

 

ここでのミカサの意識は、半分は自由、しかしもう半分は他律性に囚われたままです。

かのじょが自由であるのは、みずからの愛情の意味を他人に決定されたくないと、愛情の対象であるエレン本人にすらそうされたくないと、そう意志しているかぎりにおいてです。

しかし同時にミカサは、あのとき選択を誤らなければ、思い切って本心を告白していれば、自分はエレン=「居場所」を失わずに済んだのではないかと後悔しています。

この後悔が残るかぎり、ミカサの愛情の意味は、不確定なまま浮遊しつづけるでしょう。

 

実存主義によれば、人間がほんとうに自由になるためには、つまり本来の自己を獲得するためには、自分自身を「状況内存在」として実現しなければなりません。

その一方で、状況とは無関係に、心の願望が満たされることを夢想する者は、決して自由ではなく、むしろ状況に、そして本来の自己に、向き合い損ねているのです。

「状況内存在」としての自己を引き受けることが、いまだミカサはできていないのです。

 

※ 併読がオススメ

unfreiefreiheit-aot.hatenablog.com

 

ルイーゼから取り返したマフラーを、最後の最後まで、ミカサはずっと身に着けないままでした。

これもまた、ミカサが状況を引き受けられていないことの表れとして読み取るべきでしょう。

かのじょはまだ状況に対して、すなわち「地鳴らし」を発動したエレンに対して、かのじょを想ってくれているはずなのにかのじょを突き放したエレンに対して、ミカサはまだ態度を決められずにいるのです。

エレンが捨ててほしいと望んでいるミカサのマフラーに、ミカサ自身がどんな意味を与えるべきなのかを、いまだ決められずにいるのです。

f:id:unfreiefreiheit:20220102103817j:plain

132話「自由の翼

 

unfreiefreiheit-aot.hatenablog.com

 

5.7.a 愛の等価交換、またはミカサと始祖ユミルの解放 (上) 〜 自由になることと人間であること

 

unfreiefreiheit-aot.hatenablog.com

 

本日のテーマはミカサの愛。

バレンタインデーにぴったりです。

 

ミカサにとってのエレンの二面性

ミカサが「主役より強いけど主役を引き立ててくれる」系ヒロインを脱却し、自由な実存になれるかどうかは、ミカサがエレンとの関係をどう意味づけなおすことができるかにかかっています。

それでは、そもそも二人の関係はどんなものであったか?

それを明らかにするためには、ミカサにとってのエレンと、エレンにとってのミカサとを、それぞれに考察する必要があります。

 

まず、ミカサにとってのエレンとは、きわめて両義的な存在です。

一方で、エレンはミカサにとっての「マフラー」であり、かのじょに「暖かさ」「温もり」を与える存在であり、つまるところ帰るべき場所の別名です。

そのことは、エレンとミカサが人さらいを殺し、天涯孤独になってしまったミカサにエレンがマフラーを巻くまでのエピソードにおいて、はっきりと示されています。

囚われたミカサは、どこにも居場所がなくなってしまった絶望を「寒さ」の隠喩で表現しました。

「お母さんもお父さんもいない所は…… 私には寒くて生きていけない」と。

その後、解放されたけど帰る場所のないミカサは、エレンにマフラーを巻いてもらって「あったかい」と言いましたが、これはイェーガー家に新しい居場所ができたことへの、かのじょの安心と喜びを表現する隠喩です(6話)。

 

それ以降、ミカサはつねにエレンへの愛を、家庭的な親密さとして言い表します。

すでに見た「マフラーを巻いてくれてありがとう」は、もちろんそういう意味を込めたセリフです(50話)。

ほかにも、たとえば駐屯兵団精鋭部隊のイアンとの「恋人を守るためだからな」「…家族です」のやりとりとか(13話)。

本心の告白をちゅうちょするアオハル真っ最中の若者らしい、ごまかしでもあるのでしょう。

とはいえ、ミカサがエレンに対してもつ愛情のかたち自体、家庭的な温もりへの愛着とあまり区別がつかないもの、とも言えます。

f:id:unfreiefreiheit:20211227095019j:plain

13話「傷」

 

そして、和平交渉の手がかりを探すためマーレに潜入中、ミカサがエレンに「オレは… お前の何だ?」と不意に尋ねられたエピソード。

この場面においてもなお、ミカサは「あなたは… 家族…」としか答えられないまま、スリの少年の祖父か誰かのもてなしを受けたことで、本心を告白できずに終わってしまいました(123話)。

f:id:unfreiefreiheit:20211227095038j:plain

123話「島の悪魔」

 

でもその一方で、すでに過去記事で述べたことですが、ミカサにとってのエレンは、カントのいう「定言命法」=無条件に従うべき掟をかのじょに与えた立法者でもあります。

ミカサがアッカーマンの能力に目覚めるきっかけを与えた、あの「戦わなければ勝てない 戦え」という掟ですね(6話)。

f:id:unfreiefreiheit:20211227092553j:plain

6話「少女が見た世界」

 

くわしくは当該記事を読み返していただきたいのですが、要点だけまとめると、こういうことです。

エレンの「戦え」という掟を、ミカサは自分自身の掟にしたというよりは、むしろ「エレンのために」という行動原理において、エレンへの忠実さとして、つまり「もしそれがエレンのためならば」という条件つきの掟=「仮言命法」として実践してきました。

しかしカントによれば、定言命法=無条件の掟にみずから従う意志は自律的ですが、その一方で、仮言命法=条件つきの掟に従うミカサの意志は他律的なのです。

unfreiefreiheit-aot.hatenablog.com

 

「帰るべき場所」としてのエレンと「無条件に従うべき掟」としてのエレン。

かれが仲間のもとを離れて独自に行動するようになるまでは、このようなエレンの二面性に、ミカサは困惑することはありませんでした。

しかし、仲間の呼びかけにも耳を貸さず地鳴らしを続行するエレンを、ミカサは理解できなくなります。

頭痛に襲われながら「私達の家に… 帰りたい…」と虚しく願うミカサ。

それが示しているのは、ミカサにとって「帰るべき場所」としてのエレンその人に拒絶されてしまったことによる、かのじょの深い不安と悲しみです。

f:id:unfreiefreiheit:20211204225513j:plain

138話「長い夢」

 

剣と毛布

終盤に至るまで、ミカサがエレンの二面性に矛盾を感じることなく、その双方を受け入れていたのは、どうしてか。

それを理解するには、エレンとの出会いがミカサにどれほど深い影響を与えたのかを、考察する必要があります。

 

次のように言っていいでしょう――ミカサはエレンとの出会いを、ほとんど宗教的啓示にも似た、自我を根幹から揺さぶる衝撃として体験した。

そうだとすると、この経験がひきおこした一種の高揚感を、ミカサはエレンへの特別な感情と同一視してしまったしたのかもしれません。

一種の「ストックホルム症候群」的なやつですね。

 

ところで、あの衝撃的な出会いのエピソードには、あのダーク・ファンタジーベルセルク』からの影響が、明らかに、そして色濃く見て取れます。

たしか、なにかのインタビューで作者・諌山じしんもそう認めていました。

もとのインタビューがみつかりませんけど、以下記事にはそういうことが書いてあるので、筆者の記憶は間違いなさそう。

myjitsu.jp

 

だとすれば『進撃』に影響を与えたと思われる『ベルセルク』のエピソードを、見ておく必要がありそうです。

「鷹の団」の女剣士キャスカと、団長グリフィスとの出会いの話です(単行本の7巻所収)。

貧しい一家の末娘キャスカは、性的目的を秘めつつかのじょを引き取ったロリコン貴族に犯されそうになったとき、まだ一介の盗賊団でしかなかった「鷹の団」に救われます。

白馬の王子のごとく現れた、団長グリフィス。

ところが、かれは貴族を斬るなり追い払うなりしてキャスカを救うかと思いきや、剣を地に突き刺し、かのじょにこう告げたのです。

「君に守るべきものがあるなら その剣をとれ」と。

f:id:unfreiefreiheit:20211227111543j:plain

f:id:unfreiefreiheit:20211227111550j:plain

 

キャスカは動揺しつつも、先手をとろうとしたロリコン貴族ともみあいになった末、かれを突き殺します。

自分がしたことに恐れおののくかのじょに、グリフィスは毛布を与えました。

この体験を天啓のようなものとして受け取ったキャスカは、グリフィスに随行することを申し出ます。

君の好きなようにすればいい、という態度のグリフィス。

でもキャスカは、かのじょに啓示を与えたグリフィスに、すっかり心服した様子です。

剣も毛布も」グリフィスがくれたものだと、キャスカは心のなかでグリフィスに感謝を告げました。

こうしてキャスカは、グリフィスを崇拝するかのように愛するようになったのです。

f:id:unfreiefreiheit:20211230215355j:plain

 

このエピソードにおけるキャスカの体験は、エレンとの出会いにおけるミカサの体験と、びっくりするほどぴったり符合します。

ミカサがエレンに見出した掟(=「戦え」)「帰るべき場所」(=マフラー)は、キャスカがグリフィスに与えられた「」および「毛布」と、まったく同じものなのです。

 

グリフィスの「剣」も、エレンの「戦え」も、みずからの手で運命を拓けという命令、すなわち自由であれという掟(定言命法)です。

しかし皮肉なことにキャスカも、そしてミカサも、この掟を、立法者への忠誠と奉仕というかたちで、すなわち、条件つきの仮言命法として、実践するようになります。

「鷹の団」千人長にまで昇りつめるほどの実力者になったキャスカは、伝説や神話上の人物のようなカリスマ軍事指導者グリフィスを愛し、かれに心服しつつ、かれの「剣」であろうとします。

エレンとの出会いによりアッカーマンの能力に目覚めたミカサは、その常人離れした戦闘の才能を、ひたすら愛するエレンのために役立てようとします。

かのじょらがどれほど自発的であったとしても、それは他者の意志への服従として、つまり他律的実践として、評価せざるをえないでしょう。

 

何がキャスカやミカサをそうさせるかというと、グリフィスが「毛布」を、エレンが「マフラー」を、それぞれに与えてくれたからです。

かのじょらがかれらを居場所として、心の拠りどころとして見出したからです。

ミカサのエレンへの愛情が、家庭的な親密さへの愛着と区別できないものであったことは、前述のとおりです。

それと同様にキャスカも、団長グリフィスの剣になろうとしただけでなく、気高い目的のために苦難を耐えるひとりの男グリフィスを、ひとりの女として支えたいと、心の底では望んでいました。

 

しかし、キャスカの愛とミカサの愛とは、違う道筋に分かれていきます。

キャスカの愛は、グリフィスに対する、崇拝のような自発的服従と混ざった愛から、別の男性、すなわち主人公ガッツとの、対等な関係における愛へと移っていったのです。

ミカサの場合には、愛情の対象が変化することはありません。

そうであるかぎり、エレンとの関係性を変えなければ、ミカサの意識は他律性から、自発的服従から、解放されることがないのです。

 

ミカサに対するエレンの愛情

次に、エレンにとってのミカサを考察してみましょう。

ここで留意すべきは、二人の関係性を変えようと、先に行動を起こしたのはエレンだったということです。

ミカサを奴隷よばわりしたことも(112話)、終盤に意識世界のなかで「(自分のことを)忘れてくれ」とかのじょに頼んだことも(138話)、けっきょく同じ趣旨でした。

すなわちエレンは、ミカサを愛し、かのじょの幸福と自由を願っていたからこそ、かのじょが自分に対して示す他律的な執着を断ち切りたかったのです。

(筆者が指摘せずとも、通読すれば明らかなことですが。)

f:id:unfreiefreiheit:20211204224907j:plain

138話「長い夢」

 

ここでエレンは、すでにうすうす知っているのでしょう。

かれが図らずともミカサに与えたのが「自由の掟」と「マフラー」ベルセルクにおける「剣と毛布」)であったということに。

またそれゆえに、ミカサが自分に向ける愛情において、掟を与えた立法者への服従と、マフラー(居場所)への愛着とが、分かちがたく結びついてしまったということに。

しかしエレンがミカサに望むのは、かれが与えた「自由のために戦え」という掟に忠実であることではなく、かのじょが自由になること、それ自体です。

だからこそ、エレンはミカサに懇願したのです。

「マフラーは捨ててくれ」と(138話)。

つまり、かのじょの心のなかで一つのものになってしまった「剣と毛布」または「掟とマフラー」を、同時に放棄してほしいと頼んだのです。

 

ところが、そんなエレンの願望は、それがミカサへの誠実な思いやりから発するものであったとしても、ミカサのためにはなりません。

ミカサにとってのエレンは「居場所」であり、つまるところ、かのじょの存在理由そのもの。

それを放棄することを、ミカサは自由とは感じられないでしょう。

そこがエレンには、まだ分かっていないのです(だから最終話でアルミンに殴られたわけです)。

f:id:unfreiefreiheit:20211231085416j:plain

139話「あの丘の木に向かって」

 

ミカサに戻ると、かのじょが自由になれるかどうかは、愛の対象であるエレンとの関係を、対等なものとして構築しなおせるかどうかにかかっています。

しかも、それはエレンが望んでもできないこと。

ミカサの精神的態度が他律的であるとしても、かのじょのエレンに尽くそうとするふるまいが自発的であることは事実だからです。

あくまで、自由な実存としてのミカサが、かのじょ自身の自由な行為によって、二人の関係を再構築しなければならないのです。

 

わたしの愛とあなたの愛の等価交換

ミカサは何をしなければならないのか。

その手がかりとなる哲学的知見は、おそらくマルクス(1818-83)に見つかるでしょう。

え、あの共産主義者マルクスに? 

マルクスは資本主義と私有財産制を解体して平等社会に変えると主張した革命思想家でしょ? 個人の自由とか、ましてや恋愛とかの話なんてしてないんじゃない?

そういう反応が出るのは分かっています。

ところがどっこい、意外にそうでもないんです。

とくに、ひげもじゃではないイケメンだった若い頃のマルクスは。

よりによってバレンタインデーに登場でも、へっちゃらなのです。

f:id:unfreiefreiheit:20211230183345j:plain

若きマルクス

 

マルクス先生、あなたに頼むにはバチ当たりなお願いかもしれませんが、どうかお聞き入れください!

愛と「居場所」を見失って苦しむミカサちゃんが、自由になるためにはどうしたらいいですか?

というのもかのじょは、ほかならぬ意中の男に、オレなんて忘れてくれ、マフラー(=居場所)なんて捨ててくれ、と言われてしまったからです。

でもそれでは、ミカサの魂は解放されないのです。

 

でもマルクスは、天のお告げなど与えてはくれません。唯物論者ですから。

そのかわりに、かれが書き残したものを読めばいいでしょう。

若きマルクスの書きものには、次のような情熱的な一節があります。

......愛は愛としか交換できないし、信頼は信頼としか交換できない。芸術を楽しみたいと思えば、芸術性のゆたかな人間にならねばならない。......人間や自然にたいするあなたの関係の一つ一つが......あなたの現実的・個人的な生命の発現でなければならない。

マルクス『経済学・哲学草稿』第三草稿

www.kinokuniya.co.jp

 

これは貨幣批判の文脈で書かれたもの。

愛だろうが信頼だろうが、しばしば人はおカネで何でも買おうとしますが、それこそが真の平等を阻むのです。

ところが、このくだりにおいてマルクスは、意外にも、経済的な平等(生産や所有の関係の改革)の話はしません(別の箇所ではしているけど)。

そのかわりに強調されるのは、いわば行為と行為の等価性としての平等です。

つまりこういうことです。

ミカサに対するエレンの行為と、エレンに対するミカサの行為とは、愛として等価にならなければならない

つまり、エレンの行為がミカサにとって、そしてミカサの行為がエレンにとって、愛という同じ意味をもつ行為として成立しなければならない

それこそが真の愛であり、真の平等なのです。

若きマルクスが熱弁する「愛は愛としか交換できない」とは、そういう意味に違いありません。

(ちなみに、この情熱的で感性的な若きマルクスの平等論には、フォイエルバッハという哲学者からの影響が強く出ています。)

 

わたしの愛する行為と、あなたの愛する行為との、等価交換

それが成立するには、両者の愛する行為は、相手だけでなく自分にも働きかける行為でなければなりません。

次のようにマルクスは続けています。

あなたが愛しても相手が愛さないなら、すなわち、あなたの愛が相手の愛を作り出すことがなく、愛する人としてのあなたの生命の発現が、あなたを愛される人にすることがなければ、あなたの愛は無力であり、不幸だと言わねばならない。

マルクス『経済学・哲学草稿』第三草稿

 

ミカサとエレンは、けっきょくは相思相愛です。

しかしながら、両者がたがいを思いやる行為は、愛と愛との等価交換としては、いまだ成立していません。

ミカサの愛がエレンにとって、エレンの愛がミカサにとって、同じ価値をもつ愛であるためには、要するに、ひとりよがりじゃダメなのです。

それぞれが自分自身の行為を、ひとりよがりに愛と意味づけているだけでは、ダメなのです。

行為がその相手にとっても愛としての意味をもつように、両者は自分自身の態度を作り上げねばなりません。

それがマルクスのいう「あなたを愛される人にする」の意味なのです。

 

ついに愛の等価交換をなしとげたならば、そのときはじめてミカサは、愛情の関係においてエレンと対等になれるでしょう。

またしたがって、かのじょは愛情の関係において自由になれるでしょう。

そう、それこそが、始祖ユミルが心の底から切望した自由、かのじょがどうしても到達しえなかった自由なのです。

 

unfreiefreiheit-aot.hatenablog.com