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積極的自由
『進撃の巨人』のテーマである「自由」について、前記事では、だいたいこんな風に論じました。
- それは個を尊重する自由だが、かといって、わたしたちになじみ深い私的・消極的な自由(干渉されない・束縛されない自由)ではない。
- それは部下としてのわたし、兵士としてのわたし、そういう外面的な地位や立場をすっ飛ばして、かけがえのない個としてのわたし自身に「お前の責任で自由に選べ」と迫ってくる、一見して寛大だけど、実は非常におっかない自由である。
じゃあ、どういう自由が『進撃』のテーマなのよ? という話になります。
それは消極的自由ではない。
ならば、消極的の反対ということで、積極的自由 positive freedom ではないかと見当をつける読者さんがいたら、勘がいい。
積極的自由とは何か。自分で自分を支配することです。
先のバーリンをふたたび参照すると、彼の定義によれば、積極的自由とは「自分自身の主人でありたい」という希望の実現であり、「さまざまの決定をいかなる外的な力にでもなく、わたし自身に依拠」させることなのです。
これを消極的自由と対比してみましょう。
あれこれの目標を達成するための権利を干渉から守ることが消極的自由であるとすれば、積極的自由とは、自己支配という状態そのものを目標にすることです。
あれこれの行為を妨げられないことが消極的自由であるのにたいして、積極的自由とは、個別的な諸行為よりも持続的な状態を、自己支配のもとで活動しているという状態を指します。
古代から啓蒙の時代まで、哲学者たちの関心事であった自由とは、たいていの場合、積極的自由なのです。アリストテレスしかり。ストア派しかり。マキャヴェリしかり。ルソー、カント、そしてヘーゲルしかり。
自己保存のために自然の自由を放棄すべしと説くホッブズやロックですら、消極的自由(私的権利)のみならず、積極的自由(自己決定の状態への到達)をも同時に論じたのです。
で、エレンが求めているのは、積極的自由、自己決定の状態としての自由です。
ウォールマリア奪還に向かう途上でエレンが回想した、自由への渇望の原体験を見てみましょう。
オレはずっと鳥籠の中で暮らしていたんだって気付いたんだ
広い世界の小さな籠で わけのわかんねぇ奴らから自由を奪われてる
それがわかった時 許せないと思った(73話)
これが10歳にも満たないときですよね。
で、10歳になると、知り合いの飲んだくれのおじさんに、こんなこと言っちゃいます。
一生 壁の中から出られなくても...... メシ食って寝てりゃ生きていけるよ...
でも...それじゃ... まるで家畜じゃないか...(1話)
最低限の安全と物質的な生活条件が与えられていれば、私的な自由はとりあえず確保できます。つまり「メシ食って寝て」生きていくことが可能なのです。
でもそれは、自己決定、自己支配の状態ではありません。
巨人という「わけのわかんねぇ奴ら」のせいで押し込められた「鳥籠」のなかで「家畜」のように生きることでしかないのです。
(それにしても、いくら架空の物語とはいえ、こんなセリフを吐く10歳のガキがいるかいな......。 まったくリヴァイ評のとおり「本物の化け物」です。まあエレンは、その尋常でない自由への渇望を除けば、割と普通なキャラでもあるのですけど。)
さらには、エレンの原体験の回想が出てくる同じ73話、調査兵団がをウォールマリアに出発する前に、兵団は人類に「自らの運命は自らで決定できる」という希望を示せるだろうか、というナレーションが珍しくかぶされています(この作品はほとんどナレーションを使わない)。
この作品世界において追求されている自由が、積極的自由、つまり自己支配・自己決定の自由であるということを、なんてはっきりと示してくれたことでしょうか。
積極的自由は「人間賛歌ッ!!」
自己決定、自己支配。これは現実世界のわたしたちにとっても重要な価値ではないのか?
たしかにそのとおり。しかし問題は、わたしたちが自己決定を、積極的自由ではなく消極的自由というフレームで理解することに慣れている点です。
たとえば、DVを受けている女性がいるとする。彼女は配偶者によって、奴隷のように扱われている。100円単位の出費すら管理され、配偶者の気まぐれに合わせられなければ殴られる。彼女は、自己決定を奪われている。
でも現代社会では、この女性は、配偶者によって基本的人権を侵害されているから、自由ではないと理解されます。
もし彼女のことを、あるべき自由の状態に達していないから自由ではないと述べたとすれば、なに言ってんのコイツ、DV被害者を見下してんの? となりかねませんね。
消極的自由とは権利であり、積極的自由とは状態である。この区別は重要です。
自己決定とは、他人に干渉や束縛をされないことと同じではないか? 同じ自由を、別な言葉で言っているのにすぎないのでは?
ところがそうではないんです。
積極的自由とは(権利ではなく)状態であり、しかも人間存在の理想的状態として理解されてきたような自由なのです。
自由であるとは、人間らしい状態、人間にしか達しえない状態です。
エレン風にいえば「家畜」や「鳥籠」の鳥には享受できない状態なのです。
ふたたびバーリンを引用しましょう。
だがわたしは......自然の奴隷ではないだろうか。あるいは、わたし自身の「制御できない」情念の奴隷ではなかろうか。......一方では支配する自我を、他方では服従させられるなにかを、みずからのうちに自覚することがないだろうか。
バーリン「二つの自由概念」
自分自身を支配する自我は、理性、良心、その他なんであれ人間的な能力を司る、自由な自我です。
他方、この自我によって統制されるものは、情念と呼ばれる、人間のなかの動物的な部分です。
前者が後者を支配できるのでなければ、わたしは人間らしく自由であることができません。
ここから、自分の欲望にあわせて恣意的に権力をふるう暴君は、情念の奴隷にすぎないという、ルソー的な君主政批判も出てくるのです。
別の作品になってしまいますが......
「人間賛歌は「勇気」の賛歌ッ!!」 ここに、まさに自己支配の自由=人間らしい状態という理想が掲げられています。
人間は、恐怖という情念をコントロールして強大な敵に立ち向かうための、自我をもっている。だから人間には、勇気という概念がある。
彼が対峙する屍生人(ゾンビ)は、勇気を知らない。情念に動かされるだけの、自由ではない存在。だから、どんなに強くても「ノミと同類」なのです。
『進撃』にも『進撃』流の 「人間賛歌ッ!!」があります。
やはりウォールマリア奪還作戦導入の、73話から。
オレにはできる ...イヤ オレ達なら できる
なぜならオレ達は 生まれた時から 皆 特別で 自由だからだ(73話)
ここでエレンは、自分は特別な存在だという驕りを捨て、しかし自己卑下からも脱しています。
そういう精神状態で、「オレたち」はみな生まれながらに特別で、自由だから、ウォールマリア(ここでは自由の象徴)を取り戻すことができると、自分を鼓舞します。
人間はみな、生まれながらに自由であり、自由であるからこそ人間です。
壁内人類は巨人の侵入に脅かされているので、ほんとうは「生まれた時から......自由」ではない。
でもここで言っているのは、そういうことじゃないです。
調査兵団が自由への希望をもち、人間の誇り高さを失っていないということ自体、すでに彼らが人間らしい自己決定=積極的自由の状態にあることの証拠なのです。
だから「オレたちにはできる」し「オレ達は......自由」なのです。
(つづく) unfreiefreiheit-aot.hatenablog.com