進撃の巨人・自由論

わたしは自由であるか。自由とは何なのか。深堀りすれば自由の謎が解けるマンガもあるかもしれない。

0.4 自由と「毒親」 ~ 自由の哲学入門書として読む『進撃の巨人』

 

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嘘つきに、裏で「あいつは嘘つき」と言われていた。

「笑ったものか… アクビしたものか! こいつは迷う、迷うッ!」 

 

さて、前記事はこんな話でした。

  • 壁内人類を脅かす巨人たちは、自由と相克する「運命」の象徴。
  • 運命にあらがう自由は、マキャベリストの自由。マキャヴェリにとって、自由は善悪に優先する。マキャベリズムとは、人間らしく自由であるために、あえて非人間的になる覚悟。ここに自由のダークサイドが現れる。
  • 『進撃』のマキャベリストはアルミンとフロックだよね。(でもアルミンのロールモデルであるエルヴィンと、フロックが希望を託すエレンとは、どっちもマキャベリストではない?) 

 

ひきつづき、積極的自由のダークサイドを見ましょう。

理想的な自由のために他人の自由を否定する、いわば「毒親」的自由が、今回のテーマです。

 

情念への隷従

積極的自由=「人間らしい自己決定の状態」とは、わたしやあなた、すべての個人がそうあるべき状態です。

でも、だからといって、人間はつねに自由=自己決定の状態にいるわけではありません。

わたしは小腹が空いたから、吉野家で牛丼を食べる。松屋のカレーもいいけど、今日は吉野家で大盛りつゆだくかな。

これは、哲学的に見て、自由な自己決定と言えるでしょうか? 答えはノー。

空腹に駆り立てられることは、自己決定ではありません。生理的欲求という動物的=非人間的な要因に動かされているにすぎないのです。 

あなたは吉野家の牛丼を食うか、松屋のカレーを食うかを自由に選べるけど、でもそれは自由と呼ぶに値しません。

わたしがアルミンっぽく、あえて人間らしさを捨て、冷酷非情な判断をすることは、それもある意味で人間らしい自由な行為です。

でも、わたしはアルミンっぽく、あえて人間らしさを捨て、松屋のカレーよりも吉野家の牛丼を選ぶことはできない。牛丼よりもカレーを食べるために「おれは人間をやめるぞ! ○ョ○ョーーッ!!」なんて、ナンセンスの極みです。どちらも食欲という動物的欲求の充足にすぎません。

 

ではここで、軍事国家マーレで迫害されるエルディア人に目を移しましょう。

エルディア人は明らかに自由ではありません。自由を奪われています。

グリシャの父(主人公の祖父)いわく、エルディア人は「根絶やしにされてもおかしくない立場」だけど、あえて生きることを許されている。だから逆らってはいけない。娘をマーレ当局者に虐殺された後だというのに、彼は息子にそう教え諭します。

彼は外面的に服従を強いられているだけでなく、魂それ自体において、マーレの巨大な権力に屈服しています。

「犬さながら」に、恐怖という情念に駆られて、息子に卑屈な従順さを説く彼のふるまいには、人間的な自由と誇りのカケラも見られません。

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86話「あの日」

 

ただ欲望を満たすことも、ただ恐怖を避けることも、人間らしい自己決定ではなく、情念に駆られた動物的行動でしかない。それは情念への隷従であり、そこに自由は存在しません。

そして自己支配を欠く状態に慣れた人間には、みずからその状態を脱し、自由になろうとする気概すら湧き起こらないのです――自己卑下が板についた奴隷であろうと、いつもお腹いっぱいの暴君であろうと。

 

積極的自由の理想と「毒親」 

それでは、みずから自由になろうとせず、人間らしくあろうとしない人間たちは、どうすれば自由になれるのか? 

「自由はいいものだよ」と知ってもらうために、できることがあるかもしれません。

でも、それでもダメなら? 自由になってもらわなくてよいと放っておくか、さもなくば、自由になるべく強制するか

こうして、積極的自由=「人間らしい自己決定」の理念は、自由とは対極であるはずの強制の正当化に転じうるのです。

 

グリシャを見ましょう。

「犬さながら」の父親に、そして世界に、幼くして絶望し、やがてエルディア復権派に誘われ、その指導的メンバーとなれるほど熱心に、そして熱狂的に、地下活動に努めるようなったグリシャ。

彼は子をさずかり、どんな親となったか?

自由のために、エルディア人がマーレへの隷従から解放されるために、子の自由を否定する親になったのでした。「グリシャ 毒親 」で検索。

極めつきは、このシーンでしょうか。毒親っぷりがカンストしてます。

まだ幼い子に、自由のための体制内潜伏活動を強い、自己犠牲をいとわない献身を強いる父親。

当局の捜査の手が迫っていることを知っている子は、なんとか親を思いとどまらせようとしているのですが、鉄の意志の毒親には通用しません。

父親は「どうして... ダメなんだ...」と、うつろな暗い目で独り言ち、思い通りにならない子(=思い通りにならない世界)を否定します。 

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114話「唯一の救い」

 

子に与えられた名はジーク(Sieg)。ドイツ語で「勝利」の意。日本語で言えば「かつとし」くんですね。

ジークは生まれながらに、復権派の勝利、つまり自由の獲得という親の希望を託された。

しかしこの希望は、ジーク自身を苦しめ、彼の人間らしい願望(たとえば、親に認められ愛されたいという)をがんじがらめに縛る鎖でしかなかった。

親が望む「エルディア人の自由」のために、子の自由は否定されつづけたのです。

クサヴァーさんという心の支えがなければ、ジークは毒親の支配から、ついぞ解放されることはなかったでしょう。

 

どうして自由の大義が「毒親」を生むのか

ここで毎度ながら、バーリン先生からの一言。 

その無知の状態においては意識的に抵抗しているもの〔=自由〕を、かれらは実際には目指している。......ひとたびこの見地をとったならば、わたしは人々の現実の願望を無視し、かれらの「真の」自我をかたって、かれらの「真」の自我のために、彼らを脅し、抑圧し、拷問にかけることができることになる。

バーリン「二つの自由概念」

グリシャの父のような、体制に心底屈服したエルディア人は、「壁の外」に出てはならないと言う。

しかしグリシャが知っている、エルディア人の「真の」歴史を、彼らは知らない。だから、自分たちを抑圧する体制は、正しいことをしていると思い込んでいる。あるいは、そう自分を信じさせている。

だがグリシャからすれば、彼らの「壁の外」に出ることへの恐怖、自分たちには自由がなくて当然という信条は「無知の状態」によって支えられているにすぎない

他方でグリシャには、なぜ「壁の外」に出てはいけないのか、なぜ「壁の外」を見たかった妹が惨殺されねばならなかったのか、それがどうしても納得できない。

なぜ自由を求めた代償が犬の牙によるなぶり殺しなのか、どうしても彼には納得できない。

人間だれしも「壁の外」に出ることを「実際には目指している」はずだ。そのようにしかグリシャには思えない。

だから彼は、自分の子に、エルディア復権派のイデオロギーを詰め込んだ。人間だれもが「実際には目指している」ことを子が望むように。子もまた自分と同様に「壁の外」に出たいと望むように。

 

こうしてグリシャは毒親となります。

しかし、彼が子を支配したのは、利己主義からではなく、ほかならぬ民族の自由という大義のためでした。

彼の妹は「壁の外」に出て、飛行船を見たかった。なぜそのために殺されねばならない? なぜ妹のささいな自由の報いが、残酷な死でなければならない?

この怒りは、利己主義とは無縁なもの。

すぐれて人間らしい感情であり、人間の普遍的自由が理不尽に否定されることへの、人間らしい憤りです。

この怒りは、グリシャの魂が自由であることの証拠です。

ところが、まさにこの人間らしい自由への渇望こそが、グリシャを毒親にしてしまったのです。

 

自由のような、価値ある目標のために、他人の自由を圧殺すること。

これは文字通りの親子関係のみならず、教師と生徒の関係でも、上司と部下の関係でも、そして政治指導者と大衆との関係においてすら生じうることです。

だから哲学や倫理学においては、これをパターナリズム保護者主義(Paternalism 文字通り訳せば「父親主義」)と呼びます。

〔カントによれば〕「保護者主義(Paternalism)は想像しうるかぎり最大の専制である」。なぜならそれは、人間を自由な存在ではなく、自分にとっての材料であるかのように扱うからだ。

バーリン「二つの自由概念」

保護者主義は、ある意味で、暴君による専制よりもやっかいです。

それは悪意よりも善意をもって浅ましい利己主義よりも独善的な利他主義をもって、他人を支配するからです。 

じゃあ善意の支配は悪意の支配よりマシかというと、ぜんぜんそんなことはないわけですね。グリシャは、我が子がどれだけ苦しみを訴えても聞く耳もたず、でしたから。

パターナリストは、もっともタチの悪い支配者にすらなりえるのです。

それこそ「自分が『悪』だと気づいていない... もっともドス黒い『悪』だ...」とディスられてしまうような。 

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