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すみませんが今回も、自由のダークサイドの話です。これで最後なのでご勘弁を。
前回は、自由への渇望が、他人の自由をものともせず圧殺するパターナリスト=「毒親」を生み出しうるという話でした。
しかし自由を求める人は「毒親」の限界をさらにこえて、無慈悲な虐殺者の域にまで踏み込むかもしれないのです。
積極的自由と優生思想
現実の人間たちは、人間らしい自己決定の状態に導かれるべきだ。でも、もしもそのなかに、どうやっても人間らしい状態に到達できる見込みのない者たちがいるとすれば、どうすべきか?
放っておくべきではないとすれば、そのような人間は廃棄するしかない。
こうして自由の理想は、優生思想に、そしてジェノサイドにすら行きつくかもしれないのです。
ナチス・ドイツのユダヤ人迫害を連想させるエルディア人支配をおこなうマーレでは、エルディア人が人間ではないという強固な信念が共有されています。
同じ人間として、幼い子が惨殺されるのは胸が痛むけど、エルディア人は人間ではないから例外である。そう当局者は言い放ちます。
グリシャは、思わず「は?」と漏らし、理解できないようす。でも彼の父親は、きっと何も驚かなかったでしょう。エルディア人にかんするマーレの教条を内面化していたのですから。
エルディア人は「人間ではない」。だとすれば、自由に値しない存在ということにもなります。こうしてエルディア人は、マーレの道具として、あるいは奴隷として扱われるのです。
ただし現実のナチズムの場合、自民族の人種的優等生への強烈な信仰があり、それと表裏一体となって劣等人種への偏見があります。
「すぐれた人間」つまり優等人種が生き残るべきで、そうでなければ生きる価値はないとナチスは主張したのです。
しかし『進撃』の作品世界においては「エルディア人は人間ではない」は純然たる偏見とは言い切れません。エルディア人だけが人間を食い殺す巨人に変身するという設定が、この偏見を根拠づけてしまう。
だからマーレは、人種的優等生のイデオロギーをもたずして、エルディア人に優生思想をふりかざすことができるのです。
ジークの「自由」 ~ 裏返しの優生思想
ところで、優生思想は右派の専売特許では決してありませんでした。
むしろ19世紀末から20世紀前半にかけて優生学を推進した人々のなかには、人道主義者、リベラル改革派、さらには社会主義者である(またはそう自認する)左派が多くいたのです。
こうした人々は、ナチスのように人種支配やジェノサイドにまでは至らなかったとしても、劣等な人間が産まれないようにすべきとは主張したのです。
むしろ一部の進歩派が抱いた「産まれるべきではない生」という観念を、ナチスは人種的優等生/劣等生という観念と結びつけたにすぎないとも言えます。
一例として、みずから社会主義者と名乗ったサンガーは、貧困のみならず生殖にかんする無知にも苦しむ女性たちを救うため「アメリカ産児制限連盟」の共同設立者となりました。
サンガーにとって産児制限は、女性の自己決定(いつ産むか)のためだけでなく、劣った遺伝子を絶つため、断種のための手段でもあったそうです。
手段はまったく違うにせよ、また人種差別には結びついていないにせよ、彼女の目的にはナチスに似たものも含まれていたのです。彼女自身はナチスのやりかたを批判したそうですが。
『進撃』の作品世界にも、優生思想の唱道者がいます。あの「毒親」の子、ジークです。
彼がクサヴァーさんとともに「エルディア人安楽死」計画を思いついたきっかけは、「そもそも僕らは生まれてこなければ 苦しまなくてよかったんだ」という彼のセリフでした。
ジークの安楽死計画は、多くの読者に反出生主義だと勘違いされているようですが、むしろ「裏返しの優生思想」というべきでしょう。
反出生主義は、人間の生そのものに価値がない、苦しみばかりである、だから子なんか産むべきではないという考え方です。
それはいわば「裏返しの功利主義」。つまり生まれないことが「最大多数の最大幸福」を促すのです。
たしかにジークは、最後のほうでは人間の生そのものを無価値と言い放ち(137話「巨人」)、人類全般にとって「生まれることは不幸」という反出生主義的な断定を下します。
だがそれでも、安楽死計画そのものの対象はエルディア人のみ。
彼がクサヴァーさんに言った「僕らは生まれてこなければ」の「僕ら」は、人間一般ではなく、あくまで巨人に変身してしまうエルディア人を指すのです。
エルディア人という「劣等人種」は生まれないほうがいい。この考えを、エルディア人である彼自身が実行に移す。
だとすれば、ジークの「安楽死計画」は「裏返しの優生思想」あるいは「裏返しのジェノサイド」と呼んだほうが正しいでしょう。
※ 後日、解釈を変更しました。
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これがジークの自由、彼の解放、彼の自己決定。
しかも彼一人だけではなく、エルディア人全体に、彼の考える自由=「生まれないこと」が与えられるべきだとジークは考えます。
現実のエルディア人たちは、もちろん大部分が生きたがっている(一部例外あり、ですが)。
でもそれは、ジークに言わせれば、生まれないことが「真の」解放であることを知らないからにすぎない。
それゆえに彼は、安楽死計画を達成するために、彼が解放してあげようとしているエルディア人を、ちゅうちょなく殺すのです。
こうしてジークは、彼の「毒親」グリシャと同じく、保護者主義をふりかざす。パターナリストになる。
エルディア人を救うためと称しつつ、しかし現実のエルディア人たちの意志に反して、エルディア人の自由と生命を無慈悲に奪うことが、彼にはできる。
コルトの気持ちを理解できると称しながら、彼の弟ファルコを巨人に変えることだって、彼はためらうことなく即時にやってのけるのです。
だからリヴァイはジークを信用できない。
ジークは「当の人命に興味がねぇこと」を、リヴァイは正しく見抜いています。
とはいえ、それがなぜかは彼には知る由もないし、だからジークには「お前モテねぇだろ」と煽られてしまうのですが……。
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