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『進撃』世界の人物たちは、干渉されない自由というよりも、積極的自由、すなわち自己決定の状態としての自由を求める。
自由でなければ、人間は人間らしく生きることができない。「家畜」や「鳥籠」の鳥と同然になってしまう(0.2)。
ところが、苛酷な運命に抗して自由になるためには、あえて人間らしさを捨てねばならない(マキャベリスト 0.3)。
さらには、自由を知らない者たちを、強制してでも、自由の状態に連れていかねばならない(パターナリスト 0.4, 0.5)。
こうして、人間らしい自由という理想は、人間らしさの放棄、さらには自由そのものの圧殺にすら結びついてしまう。
......これが『進撃の巨人』という作品で表演される自由のすべてなのか?
否! これで話がおしまいなら、筆者はこのブログを書こうとは思わなかったでしょう。
積極的自由の概念は「人間」のために現実の人間を否定する危険性を含んでいます。
これを自由の逆説、とでも呼ぶことにしましょうか。
しかし、この逆説に挑戦する、もう一つの自由の概念があるのです。
そのよりどころを「人間」ではなく、現実の、そこにある、たった一人の特異な個としての人間に置く、そのような自由の概念があるのです。
現実に存在する人間の自由、すなわち実存的自由と名づけるべき概念が。
実存的自由
実存主義の哲学者や文学者といえば、あなたは誰を思い浮かべるでしょうか。キルケゴール、ニーチェ、ドストエフスキー、それともハイデガー?
しかし、実存的自由の哲学者といえば、この人より先に名が挙がる人はいないでしょう。
そう、ジャン=ポール・サルトル(1905-80)です。
「実存は本質に先立つ」と宣言した、あのサルトルです。
積極的自由は「人間らしい状態」という理想と不可分であって、それは人間の本質と呼ばれるべき何かを想定に含めています。
エレンは言いました(0.2)。
壁のなかでメシ食って寝て生きているだけじゃ、家畜と変わらないじゃないか、と。
巨人と外部の敵に奪われた壁内人類の領土は取り戻せる、なぜなら「オレたち」は「生まれた時から」自由だから、と。
こうしてエレンによれば、自由とは、他の動物ではなく「人間」として生まれた者の本質なのです。
あるいはヒューマン・ネイチャー、つまり人間「本性」、人間の「自然」という言い方もあります。
ここで、セーヌ河左岸のキャフェでパイプをくゆらすサルトルに、この積極的(エレン的?)自由観をどう思うか聞いてみましょう。
きっと、彼はこう返すはずです。
ハァ? なーにが人間の本質だ、しゃらくせえ! そんなもんあるかい、てやんでぇ!
人間の本質なんつーもんは、坊主のお説教と変わんねぇ。あいつら、神が人間を平等に作りたもうたとか、だから人間は自由になる「ために」存在しているとか、あーだこーだ抜かしやがる。
そんなこと言うやつぁ、人間を人間以下に貶めているのが分かってねぇんだよ!
だって、神の偉大な目的の「ために」人間は作られたってぇのは、人間が紙を切る「ために」ペーパーナイフは作られた、っつーのと変わんねぇもんな。
人間は道具じゃねぇ! 人間が何の「ために」存在するかは、その人間自身が決めるんだ。その人自身が決めるしかねぇんだ。
人間の本質なんて「飾り」です。「偉い人にはそれがわからんのですよ。」
......キャフェの文人サルトルのキャラが色々変わってしまいましたが、この「実存は本質に先立つ」という命題こそが、実存的自由を理解するカギです。
サルトルに、彼自身の言葉でちゃんと語ってもらいましょう。
実存は本質に先立つとは……人間がまず先に実存し、世界内で出会われ、世界内に不意に姿をあらわし、そのあとで定義されるものだということを意味するのである。
人間は、その「本質」において自由、ではない。
人間は「まず存在」し、あくまで「そのあとで定義される」。
誰が定義するのか? 偉大な哲学者か? 否、その人間自身がみずからを定義するのだ。
それがサルトルの言いたいことです。
とすれば、どういうことになるか?
「人間は自由である」と一般化はできなくなる。
「人間賛歌は「自由」の賛歌ッ!!」(0.2)とは言えなくなる。
具体的な個々人が、現実に自由な人間として存在しているかどうか。それしか言えなくなる。
しかし、サルトルは人間の自由を否定したいのではない。
「人間の本質」としての自由を否定しただけです。
彼によれば人間は、すでにその「実存」において自由であります。
実存的自由とは、人間は自由ではないことはできない、という命題に要約できます。
実存的自由には、善い、悪い、という価値判断を与えることができません。
「オレたちは生まれた時から自由」という主張、すなわち、自由が人間の自然本性であるという命題は、自由=善という価値判断を前提しているのです。
その一方で、人間は自由ではないことはできないという命題は、その自由が善か悪かという価値判断を含んでいません。
それが善いことか悪いことかの保証もなく、ただ人間には自由であることしか許されない。
だからこそ「人間は自由の刑に処されている」(l'homme est condamné à être libre)とサルトルは言ったのです。
われわれは逃げ口上もなく孤独である。そのことを私は、人間は自由の刑に処されていると表現したい。……実存主義者は、人間は何の拠りどころも助けもなく、刻々と、人間を作りだすという刑を科されているのだと考える。
だとすれば、ある人間が善人になることも悪人になることも、究極的にはその人の自由な選択の帰結ということになる。
サルトルいわく、実存主義者が「卑劣漢」を描くときには「この卑劣漢は彼の卑劣さにたいして責任がある」(同上)ことが前提されています。
逆にいえば、わたしは誰かに、こうすることが正しいのだからそうしなさいと命じられ、単にそれに従っているだけのつもりだとしても、実存主義者に言わせれば、それはわたしが、これを服従すべき命令であると判断し、それに従おうと選択したことの結果なのです――たとえその命令が「天使の声」として降ってきたのだとしても。
〔自分の息子を犠牲にささげよという、天使のアブラハムへの命令について、〕それが天使の声であると決定するのはつねに私である。……この行為は悪であるよりもむしろ善であると述べることを選ぶのは私である。
実存主義文学としての『進撃の巨人』
実存的自由というプリズムを通して読むと、この『進撃』という作品は、随所で、実存主義文学の趣を呈します。「実存主義小説み、あるわー」と思わせる要素が『進撃』にはあります。
ここでいう実存主義っぽさとは、自由であることに付きまとう「不安」に直面した個の葛藤が描き出されていることを指します。
これまで論じてきたように、本作では、積極的自由=人間らしい自己決定(人間の本質)としての自由というテーマも描かれるのですが、それをひっくり返すように、実存主義的な「自由と不安」というテーマが随所に現れてくるのです。
作者・諌山は人物の心理描写がうまいと評されているのを散見しますが、その理由の一部は、事態がみずからの自由な選択に委ねられていることを直視した個の不安を、作者が巧みに描いていることにあるのでしょう。
初記事では、女型の巨人が襲いかかる中、兵長が「悔いが残らない方を自分で選べ」とエレンに言い放つシーンを分析しました(0.1)。
リヴァイはエレンの「個の自由」を尊重しているが、しかしそれは「仲間全員の命がかかっているところで、お前自身が選べ、兵士ではなくエレンであるお前が選べ」と呼びかける、とてもおっかない「個の尊重」なのだと説明しました。
リヴァイのセリフによって、巨人化の力をもつヒヨッ子エレンは、実存的な葛藤のなかに放り込まれます。
(本作においてリヴァイは、実存的自由をもっとも徹底的に実践している登場人物ですが、そのことを論じるのは別の機会にしましょう。)
リヴァイの「自分で選べ」を引き金に、エレンはリヴァイ班での巨人化実験の日々を回想し、「進みます!」と命令に従うことを選んだあと、女型の巨人に追跡されながら、自分の選択が正しかったのか自問します。
エレンは自分が自由に選択したことで、不安に駆られたのです。
なぜオレはこっちを選んだのか? 班のみんなは、リヴァイを信じて「全てを託してる」。ではオレは?
そして、こう気づきます。
そうだ... オレは... 欲しかった
新しい信頼を あいつら〔104期の仲間〕といる時のような 心の拠り所を...
もうたくさんなんだ 化け物扱いは...
仲間外れは もう... だから...
仲間を信じることは正しいことだって... そう
思いたかっただけなんだ ...そっちの方が
...都合がいいから(26話)
エレンの「選択」は、前進が正しい判断であることへの同意でも、他の班員のペトラたちのようにリヴァイへの信頼でもなく、たんに「仲間を信じることは正しいことだ」と思いたいという、わが身かわいさからくる願望にもとづくものでした。
エレンは確かに「選んだ」のですが、彼の判断の動機は、不安との対峙というよりは、不安からの逃避だったのです。
でも、次のシーンでエルヴィンの女型生け捕り作戦が大成功。
エレンにとっては、動機はともあれ、判断そのものは正解だった、ということになります。
今回の「選択」は、彼自身にとって成功体験になったのです。
でも、これでめでたしめでたしとはいかないのが『進撃の巨人』。
エレンの成功体験は、次の瞬間には最悪のかたちで裏切られてしまいます。
さっきと同じように彼は「仲間を信じる」選択をしますが、そのせいで仲間が女型にみなごろしにされてしまうのです。
この作者、絶対性格悪いよなあ。
女型の再来襲。
リヴァイなしのリヴァイ班に、エレンは先に逃げるよう命じられます。
ペトラに「信じられないの?」と問われ、エレンはふたたび仲間を信じることを「選び」、先に逃げます。
見事な連携で女型を追いつめる、ペトラ、オルオ、 エルド。
それを見ながら、エレンは「進もう」「それが正解なんだ」「オレにもやっとわかった」と自分を納得させます。
先ほど同じ判断をしたときは、不安から逃避するため、わが身かわいさのために、そう判断したのだとエレンは自省していました。でもここでは、そのことを彼は忘れています。
しかし次の瞬間、エレンの脳裏によぎったのは、他の班員たちが絶対の信頼を置くリヴァイその人が言い放った「俺にはわからない」という言葉。
まさかと思い、振り返ると......。
班員たちの経験則を裏切る回復力により立ち直った女型の巨人が、彼らを一瞬のうちにみなごろしにしたのです。
こうしてエレンは、たまたま先の状況では結果論として正解だったにすぎない選択に信を置き、彼自身は不安から逃れるためにそう選択したにすぎないことを忘れたのですが、その代償として仲間を失いました。
エレンは深い後悔に襲われながら巨人化し、女型に殴りかかります。
オレが... オレが選んだ
オレがした選択で皆 死んだ
オレのせいで... 皆が......(29話)
※ 併せ読みがオススメ
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さて、リヴァイ班の仲間たちは、ほんとうに「オレがした選択」の結果、死んでしまったと言えるのでしょうか?
客観的には、そうではない。しかし実存的に言えば、それはエレンの責任なのです。
客観的には、エレンは二回とも、上官の命令に従ったにすぎません。
しかし実存的には、彼は命令に従うことをみずから選択しました。
客観的には、エレンは組織のために行動したにすぎません。
しかし実存的には、彼は自分自身の利益のために、仲間と信頼で結ばれていると感じたいために、つまり不安から逃れたいために行動したのです。
しかし、エレンはこのことを自覚します。
つまり、この悲劇的結果を、みずからの自由な行為の帰結として引き受けます。
常識的な見方では、エレンは自由に選択したのではなく、命令に従っただけであり、その結果について彼が特に重大な責任を負うものではないはず。
しかしエレンはそれを、自分が命令に従ったのではなく選択した結果、つまり実存的には自由な行為から生じた結果として、しかもわが身かわいさゆえに別の正しい選択を怠ったことの帰結として、悔い、引き受けるのです。
ね、実存主義小説みがあるでしょう?
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