進撃の巨人・自由論

半分は哲学の解説ブログ、半分は作品の考察ブログ(最近は3:7くらい)。

1.2.b ニヒリストと「虚無への意志」 (下) ~ ニヒリズムと実存的自由

 

「上」から読んでね!

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自由の埋め合わせとしてのニヒリズム

前記事で見たことを要約しましょう。

ニーチェによれば人間は、どれほど無力であろうとも、価値を、意味を、自由を、欲せずにはいられない存在です。

挫折した自由に対して、その代償となるような生きる意味が存在しなければ、無力な人間たちは悲惨で奴隷的な生を耐えられない。

だからこそ、人間は「何も欲しないくらいなら、いっそ虚無を欲する」のです。 

エルディア人が巨人に変身する「悪魔」であることを免れないなら、いっそ滅びを受け入れ、人類の罪深さを軽減しようと、みずからを無にすることに価値を見出した「壁の王」たちのように。 

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121話「未来の記憶」

  

「残酷な世界」に翻弄される大多数の弱者たちは、なにかを自由に意志しても挫折に終わるだけと知っている。

そういう無力な人間たちにとっては「虚無」を自由に意志することだけが救いとなる。

そうニーチェは言い放ちました。

こうして「虚無への意志」とは、どれほど歪められたものであれ、それでも人間的自由の一表現なのです。

あるいは、むしろ挫折した自由の埋め合わせと呼んだほうが適切でしょう。

 

「虚無への意志」と「力への意志」 

しかもニーチェによれば、無力な「畜群」に対して人間の無価値さを説く「牧人」たち自身は、つまり聖職者たちは、実は「力への意志」に従っているのです。

生あるものを見出したところに、わたしは力への意志を見出した。そして、奉仕者の意志のなかにすら、わたしは支配者たらんとする意志を見出した。

弱者は強者に奉仕するようにと弱者を説得するのは、いっそう弱い者の支配者でありたいと意志する弱者自身の意志なのである。

ニーチェツァラトゥストラはこう語った』 第2編「自己克服について」

神や君主への奉仕者を自任し、無力な弱者たちにも奉仕の義務を説く聖職者は、内面的な意志を救済することだけでなく、外面的世界における自由をも、すなわち支配をも欲しているのです。

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人間をむしばむ「虚無への意志」

「虚無への意志」とは、置き換えられ歪められた自由であり、さらには「力への意志」ですらありうる。

このことは、ウォール教団における最重要の地位を占め、そして壁内人類の真の支配者である、レイス家の人々には当てはまるでしょうか。

 

かれらはたしかに「畜群」を従える「牧人」です。

「牧人」としてのレイス家に、無力な人々を支配する「力への意志」を見出すことは可能でしょう。

でもかれらの教えは、実のところ「不戦の契り」にもとづいて民族的自滅を受け入れるためのものでした。

民族的自滅への意志を、挫折した自由の代わりと見なすことは、置き換えられた「力への意志」と見なすことには、さすがに無理がないでしょうか?

人間の生に罪深さを見出す意志は、それでもやはり、一種の生を意味づける意志でありました。

でも「不戦の契り」の思想は、人間一般の罪深さだけでなく、その人間以下の存在、つまり人間一般よりも一段と罪深い存在がエルディア人であるという見解を含んでいます。

人間一般にとっては、精神的次元での自己否定が、人間らしさの表現でありうるでしょう。

しかしエルディア人の場合、物理的な自己否定つまり死しか、人間らしさの表現手段がないのです。かれらは生きているかぎり「化け物」なのですから。

  

それゆえに「始祖の巨人」を継承したフリーダは、みずからの「罪深さ」を自覚することで、少しも救われていません。

彼女はたしかに権力者ですが、しかし彼女の精神は「不戦の契り」を受け入れた後も、解決しない葛藤に苦しめられ続けていたことが窺えます(66話)。

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66話「願い」

  

フリーダの内的葛藤は、必然的なものです。

もし彼女がほんとうに、エルディア人が滅ぶことを意志し、欲していたとすれば、滅ぼせばよかったのです。

「始祖の巨人」の継承者には、そのことが可能でした。たとえばジークの「安楽死」計画のようなしかたでも。

しかし彼女や、先行の「始祖」継承者たちは、それをしなかった。

滅びの運命が外部から訪れてくる、その瞬間までは生きていたかった。

だからフリーダは、エルディア人は滅びを受け入れるべきだと口では言いながら、しかしこの信念にみずから苦しめられ続けたのです。

だからフリーダは、エルディア人の滅びを欲する「虚無への意志」によっては自由になれなかったのです。この意志を「力への意志」に置き換えることは彼女にはできなかったのです。

この点でフリーダは、同じようにエルディア人が滅ぶことを意志しながら、どれほど多くのエルディア人を殺しても葛藤を感じることのなかったジークとは対照的だと言えるでしょう(0.5 参照)。

 

自由の埋め合わせとしてのニヒリズムの限界

「虚無への意志」が自由の埋め合わせであるとしても、やはりそれは人間を自由にはしません。

それはさながら錬金術のように、無意味を意味に、無目的を目的に、不条理を条理に変え、行為する理由がないことを行為の理由にしてくれることでしょう。

しかし、この意志によって人が無為から救済されたとしても、それは運命の奴隷であることを受け入れる受動的態度でしかないのです。 

たとえば「構いませんよ すべては無意味です」と言い、切り裂きケニーを上官と認め、そして「人間と残された領土を巡り争い合う」不条理さを戦う目的として受け入れた、中央憲兵団の女性兵士の態度のように(69話)。

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69話「友人」

  

このシーンにおいて彼女は、典型的なニヒリストです。ほかの兵士たちもまた、きっとそうなのでしょう。

かれら中央憲兵団の兵士たちは、世界の不条理に疲れ切った、すれっからしのニヒリストであったからこそ、ケニーの謎めいた企み(「始祖の巨人」を奪うことだと後で判明します)の放つ妖しい魅力に惹かれ、かれに進んで従ったのでした。

 

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