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「力への意志」 ~ ニヒリズムを克服する自由
ニーチェによればニヒリズムとは、挫折させられた自由の埋め合わせです。
「虚無への意志」は、まるで魔法のように、無意味を意味に、無目的を目的に、不条理を条理に、行為する理由がないことを行為の理由に、変えてしまうのです。
だからニヒリズムは、無力な者がより無力な者を支配するための手段にすらなりえます。
でもニヒリズムは、やはりほんとうの自由とはいえないでしょう。
虚無を欲することは何も得られない虚しさよりはマシかもしれないけど、それは結局のところ、運命の奴隷であることの受忍でしかないのです。
そのようなニヒリズムを克服するためには、どうすればいいのか。
ニーチェによれば反ニヒリストは、生きることの虚無、その無意味、その無目的、その不条理を、人間の能動性の、その創造性の、その自由の、逆説的な条件として引き受けます。
このことを見ていきましょう。
ニーチェもまた「世界は残酷」であることを認めています。
世界とは、すべての「そうであった」ことの帰結であり、他の「そうであったかもしれない」ことの帰結ではないからです。
そのような世界に直面することは、われわれにとっては「残酷な偶然」でしかありません。
しかしながら反ニヒリストは、この「残酷な偶然」を「そうであった」ことの結果から「わたしがそう意志した」ことの結果へと逆転させることができるのです。
すべての「そうであった」は、一つの断片であり、謎であり、残酷な偶然である――「だがそう意志したのはわたしだ!」と創造的意志が言うまでは。
「だがそう意志するのはわたしだ! だからわたしはそう意志するであろう!」と創造的意志が言うまでは。
ニーチェ『ツァラトゥストラはこう語った』 第2編「救済について」
この一節には、ニーチェの「永劫回帰」の思想が表現されていると言われます。
「これが人生だったのか。よし、もう一度!」という運命肯定の思想ですね。
運命を受け入れるという点では、永劫回帰は中央憲兵団兵士の「構いませんよ 全ては無意味です」と同じことに見えるかもしれません。
でも、実際は全然違います。不条理な世界を受動的に受け入れるニヒリストと、不条理な世界に能動的に挑みかかる反ニヒリストとは、根本的に違うのです。
意志は、過去を変えることも、過去の積み重なった結果としての現実を変えることもできません。
でも、反ニヒリストはこんな風に宣言し、行動することができます。
「無意味な人生? 不条理な世界? 上等じゃあないか。それならわたしは、自由に意志しよう。人生を、世界を、自由に意味づけよう。」
「どんな困難、どんな挫折が待ちうけていようが、わたしは自由に意志することをやめないだろう。」
「さあ運命よ、人生とはどんなものかわたしに教えてみよ!」
(これ、ニーチェ自身の言葉じゃなくて、筆者による「超訳」です。乾いた笑い。)
こういう能動的態度をとるわたしにとって、自分の人生の意味をはかる尺度は、外的なものではなく内的なもの、すなわち、不条理な世界でも、不条理を覆い隠す道徳的善悪や良心の教えでもなく、自分自身の力、それのみになります。
いかなる意味も価値も外からはやってこないと知っているからこそ、わたしはみずからの力を発揮し、みずからの意志を成し遂げることに意味を見出すことができます。
無意味な世界において、自分自身が意味の源泉であると知っているからこそ、わたしは「よし、もう一度!」と言うことができるのです。
あなたは反ニヒリストになれるか
こうしてみると、ニーチェのいう「力への意志」とは、人生を意味づけるのは自分しだい、自分の力しだいという意味に理解できそうです。
ただし、ここでいう人生の意味づけを「自分を信じて前向きに生きていこう」みたいなヌルい自己啓発と取るべきではありません。
もっと毒々しいことをニーチェは言っています。
彼のいう「力」とは、生をより豊かにするための力、すなわち能力、才知、健康さ、精神の強靭さ、等々も含んでいますが、しかし同時に、他人と競い、他人に抜きん出て、他人を支配するための力、つまり腕力や権力のことでもあります。
ニーチェにおいて、運命に抗う力と、他者を支配する力に、基本的には区別はないのです。
『超訳ニーチェ』がヒットしたあたり(ずいぶん前の話だけど)から特にそうなのでしょうけど、ニーチェは読者を元気で前向きにしてくれる自己啓発系の哲学なんだと誤解する向きがあります。
しかしニーチェ哲学は、自分を信じて前向きに生きようなんて、ホンワカした話じゃないのです。
中島義道が「あなたがたニーチェの解説本だけ読んで「神の死」とか「ニヒリズムの克服」とか分かった気になってますけど、バカですか? お前ら無力だから死ぬしかないぞって言われてる「畜群」とは、あなたがたのことなんですが。それでもニーチェ読んで元気になれます?」(大意)と言っていますが、その点はまったく同感です。
人間はどうすれば自由になれるんですか、ニーチェ先生?
「強者であれ、運命をなぎ倒せ、他者を屈服させよ! 傲慢にふるまえ、後悔するな、自分の意志を貫き通せ! どれほどの苦しみに直面しようとも!」
ニーチェが主張しているのは、要するにそういうことです。
ノリとしては、某世紀末の世界そのもの。
「退かぬ! 媚びぬ! 省みぬ!」という聖帝様の精神が、そして「我が生涯に一片の悔い無し」という拳王の精神が必要でしょう。
もちろん、そういう言葉に説得力をもたせる強さがあれば、という但し書きがつきます。
あなたやわたしのような、ひ弱なパンピーがそうふるまったところで「汚物は消毒だ~!!」されてしまうのが関の山でしょうから。
ニーチェ的自由、ニーチェ的な反ニヒリズムは、エリート主義的な自由であって、実践するには相当ハードルが高いのです。ニーチェ自身、実践できてないですからね。
反ニヒリストとしてのエレン
とはいっても、ニーチェ的な脱ニヒリズムは、核の炎に包まれた後の世界を拳で制覇することでしか達成できないわけではないのです。
みずからを「力への意志」たらしめること。
自由を阻む敵に打ち勝つだけでなく、運命の「残酷さ」に直面しても、なお強くあること。
力をもつだけでなく、意志そのものにおいて力であること。
それが反ニヒリストの生きざまなのです。
『進撃』で一番強烈な意志の持ち主は、やはり主人公エレンでしょう。
かれは実力が伴わず、トロスト区襲撃であっさり巨人に喰われてしまいますが、そのとき巨人の力に開眼し、その意志を貫くための力を手に入れます。
この力で最初に成し遂げたのが、トロスト区の破壊された扉を岩でふさぎ、巨人から人類の領土を守ること。
このシーンには、エレンの独白らしいナレーションがかぶせられます(14話)。
かれはみずからを鼓舞します。自由のために「戦え!!」と。
そのためなら「命なんか惜しくない」と。
「どれだけ世界が残酷でも関係無い」と。
このシーンで、おとり役である駐屯兵団の上官イアンたちが巨人に喰われるさまが描かれているのを見ると、この「命なんか惜しくない」は、かれら犠牲となった兵士たち自身の心の叫びを同時に代弁しているようにも読めます。
見ようによっては、人類が巨人に初めて勝利するテンション爆上げのシーンですが、見ようによっては、人命軽視の特攻精神の称揚のようでもあり居心地の悪くなるシーンです。
いずれにせよ、この「どれだけ世界が残酷でも関係無い」という揺るがぬ意志は、ニーチェ的な「力への意志」と解することができます。
ここではニーチェ的自由が、残酷な運命(=巨人)に打ち勝ちました。
しかし、これほど激烈なエレンの意志も、別の場面ではグラッグラに揺らいでしまいます。
アニが「女型の巨人」だと判明したシーン。
彼女が壁を破壊した知性巨人の仲間だとは信じられなかったエレンは、いつものように自分の手を噛んでも、巨人に変身することができません。
「傷を負うこと+なにか行動を起こそうと意志すること」が巨人化の条件なので、彼にはアニと戦おうという心の準備がなかったのです。
巨人に対しては憎しみをむき出しにして戦えるけど、仲間と戦う覚悟はぜんぜんできていないエレン。
かれはミカサの「仕方ないでしょ? 世界は残酷なんだから」の一言で、ようやく覚悟が決まり、巨人化できたのでした(32話)。ミカサがニヒリストであること(だから反ニヒリズムにも転じうるのだけど)は先に論じました(1.1)。
ニヒリズムを克服しようとする強者には、さまざまな危険や試練や苦難に耐えることが予定されていると、いや、それらは必要ですらあると、ニーチェは考えます。
生命の危険だけではなく、精神の動揺も克服しなければならないのです。
求めた自由の代償として、何を突きつけられようが「退かぬ! 媚びぬ! 省みぬ!」の精神を貫かねばならないのです。
だからこの作品では、登場人物が試練を克服しようとするときに、くりかえし「世界は残酷」というフレーズがリフレインするのでしょう。
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