進撃の巨人・自由論

半分は哲学の解説ブログ、半分は作品の考察ブログ(最近は3:7くらい)。

1.3.b 反ニヒリストと「力への意志」 (下) ~ ニヒリズムと実存的自由

 

「上」から読んでね!

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力への意志」になりきったエレン

 そんなこんなで、いろいろ経験して成長し、覚悟ガンギマリになったエレンは、最終的にはテコでも揺るがぬ「力への意志」の持ち主となりました。

「道」をつうじた過去旅行で再会した父親グリシャに「これは 父さんが始めた物語だろ」と、レイス家の一族を幼子もろとも踏みつぶす選択を迫るほどの、肚の決まりようです(121話)。

このシーンでは、本作のニヒリスト最右翼であるフリーダを睨みつける、エレンの凄い目つきもまた印象的です。 

グリシャをはさんだ、極めつけのニヒリストと極めつけの反ニヒリストとの対決という趣がありますね。  

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121話「未来の記憶」

  

力への意志」とは、世界が残酷であることを、そのような世界のなかで自由であろうとすることの苦しみを、あえて引き受けようとする意志です。

初期に出てきた「どれだけ世界が残酷でも関係無い」というフレーズに象徴されるような意志です。

そして終盤のエレンは、自分自身をそのような「力への意志」の化身にしてしまいました。それが「地鳴らし」なのです。

純粋な「力への意志」になることで、世界中の人々を蹂躙するだけでなく、自分自身も苦しみ抜きながら(0.9.b 参照)。

そのようにしてエレンは、自由への渇望をその極限にまで推し進めましたが、この自由とはまさにニーチェ的な自由だったのです。

 

反ニヒリストとしてのベルトルト

もう一人の際立った反ニヒリストは、ベルトルトです。

というより、かれは存命中最後の見せ場で「力への意志」へと、反ニヒリストへと変身してみせたのです。

でも、そのような決断に至るまでに、かれは実存的なドラマを潜り抜けねばなりませんでした。

 

ベルトルトはポテンシャルは高いけど、引っ込み思案で他人任せな性格。

パラディ島での訓練生時代にも、教官に「高い潜在性」を感じさせる反面「積極性」に欠けると評されていました(18話)。

正体を露わにした後は、エレンに「腰巾着野郎」とディスられてしまう始末(46話)。

高い能力をもっていて、しかも実は「超大型巨人」なのに、意志の力はポンコツなベルトルト。

かれの精神性は「退かぬ! 媚びぬ! 省みぬ!」とは真逆といえます。

 

そんなベルトルトも、かれらマーレの「戦士」に課された任務を遂げるために、かれなりに努力している。

でも、かれの意志は任務に忠実だけど、任務をわがこととして引き受ける覚悟は整っていない。

だから、訓練生時代の仲間に囲まれ「全部嘘だったのかよ」と問い詰められると、ベルトルトは耐えられない。

「誰か僕らを見つけてくれ...」と泣き言をもらしてしまうのです(48話)。

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48話「誰か」

 

そんなベルトルトが、迫る調査兵団との最終決戦を前に思い出すのは、かれらの秘密を知った同期生マルコを巨人に喰わせて口封じしたこと。

マルコの悲痛な訴え。悲しみに歪んだアニの表情。

そして、自分で命令しておきながら、マルコが巨人に喰われるさまを見て「オイ...何で...」と人格分裂をきたしたライナー。

これらを思い出して、もうこんな苦しみは自分たちで「終わり」にしなければならないと、ベルトルトは覚悟を決めます(77話)。 

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77話「彼らが見た世界」

 

それからのベルトルトは、まるで別人のような肚のすわりよう。

かれはアルミンらに、君たちは「悪魔なんかじゃない」けど、でも全員殺すことを「僕が決めた」と、落ち着き払って宣告します。

アルミンの精神攻撃をものともせず、ミカサの奇襲もたくみに跳ね返したのです(78話)。 

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78話「光臨」

  

もうベルトルトは決めたのです。

もうベルトルトは選んだのです。

この残酷な責務から逃れられないなら、自分の力でそれをやり遂げ、終わらせるしかないと。

だから、もはやかつての仲間を「悪魔の末裔」とののしる必要は、ベルトルトにはありません。

かれらが悪魔であろうがなかろうが、ベルトルトはかれらを自分の意志で殺せばいいのです。

 

ここでベルトルトが実演しているのは「自分」を選ぶ自由、すなわち実存的自由です。

同時に、みずからを「力への意志」たらしめる反ニヒリスト的自由でもあります。

ニーチェの哲学的立場もまた実存主義と見なされることがありますが、実際、ニーチェの反ニヒリズムは「自分自身を選ぶ自由と責任」という実存主義的テーマと響きあうものがあります。

いかなる指針も規範にも導かれることなく、みずからの意志のみにしたがって、みずからを能動的な力たらしめよと、ニーチェは説いているのですから。

そしてベルトルトのエピソードは、実存主義と反ニヒリズムの共鳴を、よく表しています。

 

力への意志」としての自分を選んだベルトルトは、このように達観します。

またもや「残酷な世界」というフレーズのリフレインです。

きっと... どんな結果になっても受け入れられる気がする

そうだ... 誰も悪くない...

全部仕方なかった

だって世界は こんなにも――残酷じゃないか (78話) 

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78話「光臨」

 

終盤のエレンにとって「地鳴らし」以外に選択肢がなかったように、ここでのベルトルトにも、大切な仲間を殺すというもっとも残酷な選択肢しかありませんでした。

すべてが「仕方なかった」。

でもそれは、運命への受動的服従者に実行できることではない。

運命を克服せんとする不屈の意志がなければ、みずからを悪魔にすることはできない。

だからエレンやベルトルトには「自分がそう決めた」と宣言することが必要だったのです。

ツァラトゥストラになる必要が、かれらにはあったのです。

再度、引用しましょう。

すべての「そうであった」は、一つの断片であり、謎であり、残酷な偶然である――「だがそう意志したのはわたしだ!」と創造的意志が言うまでは。

ニーチェツァラトゥストラはこう語った』 第2編「救済について」

 

ニーチェ的に生きる者がニーチェ的には死ねない世界

でもまあ、ベルトルトは「退かぬ! 媚びぬ! 省みぬ!」はできたものの、死に際に「我が生涯に一片の悔い無し」はダメでした。

巨人化したアルミンに喰われるところで意識が戻ったベルトルトは、思わず仲間に助けを求めてしまいます。その仲間とさっきまで殺し合っていたことを、一瞬忘れて(84話)。 

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84話「白夜」

 

このシーンのせいで、やっぱりベルトルトは覚悟の決まらない臆病者で終わった、みたいな評価に落ち着いてしまったように思います。

でもこの作品で、巨人に喰われながら立派に死ねる人なんて、ほとんどいないんですよね。

喰われる瞬間まで醜態をさらさなかったのは、前記事で触れたイアンくらい。

あとはみんな、もがき、泣き叫んでいます。たとえば、調査兵団でリヴァイに次ぐ実力者だったミケでも(35話)。

 

でも、そんなもんですよね。

もし巨大な化け物に喰われて死ぬとなったら、人間、そうなるのが普通ですよ。

巨人にかじられながら「我が生涯に一片の悔い無し」するなんて、想像できますか?

いやームリムリ。

『進撃』の世界で「力への意志」を貫き、某拳王のように死ぬなんて、ハードルが高すぎるのです。

 

その点、作者・諌山は意識的に描いているように見受けられます。 

この作品は、強者信仰を煽ったり、困難に挑む勇敢な者たちの悲劇的な英雄主義をロマンチックに理想化したり、ということを、実はしていません

断片的にはロマンティックな英雄主義もありますが、しかしそれは常にどこかの段階で覆されてしまうのです。 

その一方で、ニーチェ的な反ニヒリストだけでなく、無力な者、自分を「力への意志」と化すことができない者にも、ちゃんと役柄が割り当てられています。

このように仕立てられた舞台劇に「我が生涯に一片の悔い無し」的なシーンが入り込む余地はありません。

ニーチェが理想化したような、自己を死の瞬間まで運命の肯定者として貫くことは、この作品世界ではできない相談なのです。

 

いや、実はそんなことないな。

「我が生涯に一片の悔い無し」に似たムードで最期を迎えたキャラもいました。

思い浮かぶのは、仲間を決戦の地に向かわせるために命がけで「地鳴らし」の足止めを試みた、ハンジさんの最期です。

死にゆく彼女は、夢か現か、先に死んだ仲間に「お前は役目を果たした」と告げてもらえました(132話)。

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132話「自由の翼

 

そのときのハンジさんの表情は「一片の悔い無し」 感をたたえてるようにも見えます。

もちろん「あーあ、やっぱ死んじゃったか、自分」という諦念も混ざっているような表情であって、拳王的な、清々しいまでに傲慢な「悔い無し」ではありません。

でも同時に、自分の生を価値ある自由の表現たらしめることが最期にできたという実感が、彼女の表情からは読み取れるのです。

  

ベルトルトはニーチェ的な「力への意志」となりました。

しかし、自分が選んだ自由のために死ぬとき、ベルトルトは運命の肯定者として世を去ることができませんでした。

ハンジさんはニーチェ的自由を行動原理にはしませんでした。

彼女が目指す自由、すなわち調査兵団の自由とは「力への意志」ではなく、それとは別のなにかでした(0.9.c も参照)。

しかし、自分が選んだ自由のために死ぬ瞬間、ハンジさんは運命の肯定者として、最期に自分の生き方に納得することができたのです。

『進撃』はニーチェ的ムードに始まるが、それには終わらない作品だ、という筆者の主張は、この対比によっても証拠づけられていると言えるでしょう。

 

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