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たいへん長らくお待たせしました!
今回のメインは、みんな大好き、リヴァイ兵長ですよー!
...といいながら、たいして待っている人もいない当ブログではありますが...(読んでくださる方々、いつもありがとうございます!)、でもそれなりに投稿数は増えてきました。
そんなこんなで、2か月くらい前の記事には、こんなことをチョロっと書いておいたのですが...
「本作においてリヴァイは、実存的自由をもっとも徹底的に実践している登場人物ですが、そのことを論じるのは別の機会にしましょう。」(0.6)
その機会がようやく訪れました。
作品世界の基本的ムードとしてのニヒリズムと、それに抗う登場人物たちが体現する反ニヒリスト的な自由の話が終わったところで、ようやく兵長の出番なのです。
不安を直視する強さ
やはり以前に説明したことですが、このマンガのテーマとなる自由とは、自己決定または自己支配という「状態」としての自由(積極的自由)です。
積極的自由には、人間の本質としての自由という、あるいは「人間賛歌ッ!!」としての自由という理想が含まれています(0.2)。
ところが、巨人に脅かされた壁内人類にとって人間らしく生きることは難しく、それどころか人間らしく死ねる保障すらない。
人民が世界の真実を知らされないことで、秩序が保たれている世界。
そこでは、何が正しいのか誰も請け合えず、だれもが不安から自由ではない。
そんな世界で、それでも人間らしくありたいと欲する者は、どうすればいいのか。
何をなすべきか、どう生きるべきか、何が価値ある生きかたであるかを、自分で選ぶしかない。
こうして『進撃』の登場人物たちは、積極的自由という主題からいつの間にか離れ、実存的自由を、あるいはサルトルのいう「自由の刑」としての自由を演じるようになるのです(0.6, 0.7)。
さて、この構図においてニーチェ的自由は、すなわち反ニヒリズムとしての自由は、どう位置づけられるでしょうか。
それは、強くなければ自由になれないという判断に従うことです。
自由であるためには、正しくあるためには、そして人間らしくあるためには、強さを目指さなければならないと理解することです。
ひとたびそう理解したならば、どのような逆境にも、どのような試練にも、どのような運命にも屈せず、みずからを「力への意志」として首尾一貫させることです。
エレンは、あるいはシガンシナ区の決戦におけるベルトルトは、そのような「力への意志」でありました。
でもかれらは、そういう鉄の意志を、物語の最初からそなえていたわけではありません。
むしろかれらは、不安に翻弄される無力な弱者であり、さながら「風にもてあそばれる木の葉」(ニーチェ『道徳の系譜』第三論文)でありました。
でも、そうであるからこそ、かれらは自分自身を「力への意志」たらしめようと鼓舞したのです。
欲することを躊躇なく実行する意志として、自己を一貫させようとする努力。
ニーチェ的自由の、反ニヒリスト的自由の、これこそが精髄なのです。
でも、ここであえて意地の悪い問いを発してみましょう。
なぜそこまで「力」や「強さ」に執着しなければならないのか?
「強さ」にしがみつく両腕が振りほどかれたら、人は「弱さ」のなかに、気まぐれな「風」にもてあそばれる「木の葉」の境遇に、すなわち不安のなかに、送り返されてしまうだろうと恐れるからです。
だとすれば「力への意志」もまた、ある意味で、虚無への恐怖によって駆り立てられた意志なのかもしれません。
この意志は、不安に陥ることへの、まったく無力な存在として自己を見出すことへの、耐えがたい恐怖を原動力としているのかもしれません。
このような意志は、ほんとうの強さと言えるでしょうか?
もしあなたが真の強者であるなら、そういう種類の「強さ」に固執する必要が、どこにあるでしょうか?
もしあなたが真の強者であるなら、どんな不安にも恐れず立ち向かうことができるはず。
そう、リヴァイのように。
人は不安から逃れられないことを、だからこそ「悔いが残らない方を自分で選」ぶしかないことを知り抜いている、リヴァイのように。
作中で、圧倒的強者としてふるまうリヴァイ。
かれはたんに戦闘に秀でているから強いわけではありません。
不安が人間の避けがたい条件であることを直視しているがゆえに、リヴァイは強いのです
どんなに強い者でも、サルトルのいう「自由の刑」からは逃れられない。
だからこそ、人は「せいぜい」自分で選ぶしかない。
この実存的条件に慣れ、この実存的条件にいつでも対処できることこそが、リヴァイの底力なのです。
「臆病にならないように」
ニーチェ的自由において問題となるのは、不安に打ち克つこと。
それに対してリヴァイが体現する自由とは、いわば不安を生き抜くことです。
このことは、不安の克服とはどう異なるのか?
この違いを鮮明に浮かび上がらせた哲学者を参照してみましょう。
実存主義の創始者とされるデンマークの哲学者、セーレン・キルケゴール(1813-55)です。
それまでの哲学の伝統的テーマとされてきた世界の究極的真理を脇に置いて、主観的真理を、すなわち、ほかでもないわたしにとっての真理を探究しようと志したのが、キルケゴールという哲学者。
かれが最初の実存主義者とみなされるゆえんは、この新たな哲学的問いの様式にあります。
わたしにとって真理であるような真理を見つけ出すこと、わたしがそのために生きようとも死のうとも思えるような理想を発見すること、それこそ価値あることだ。
キルケゴール、1835年の日記より
そんなキルケゴールの名を世界に広めたのは、主著『あれか、これか』(1843/1849年)や『死に至る病』(1849年)といった著作です。
でもここでは、かれが『建徳的講話』として公刊した諸著作の一部をなす「臆病にならないように」と題された短編をひもといてみましょう。
この短編においてキルケゴールは、俗世において勇敢と称えられる決断と、真の意味で「臆病さ」の克服であるような決断とが、どう異なるのかを考察しています。
世にいう勇気は「おれはこんなにも勇敢なのだ」という誇り、自尊心をしばしば伴います。
しかしキルケゴールにいわせれば、それは臆病さの一つの表れでしかありません。
「誇りと臆病はまったく同一のものである」と、かれは断言します。
どういうことか。
選ぶ者、決断する者、あえて「危険のなかに飛び込」んでみせる者は、本当の危険から目を逸らしているという意味です。
人間だれもが否応なく投げ込まれている「危険」から、すなわち、生きるということ自体の危険から、目を逸らしているということです。
仰々しい話し方をしていると、実際に危険のただなかにいることを忘れてしまうので、問題は大胆に危険のなかに飛び込むことではなく、自分を救うことである、ということが見失われてしまう。……私たちは、生まれたことによって危険のなかに投げ込まれ、いまなおそこにいるのである。
キルケゴール 『四つの建徳的講話』1844年(新地書房『講話・遺稿集』第2巻)
「大胆に危険のなかに飛び込む」決断ときくと、ニーチェがいう「力への意志」を連想させられます。
「力への意志」とは、不条理で残酷な世界を前にして、ならばわたしが世界を意味づけてやろう、と宣言するような意志です。
ところがキルケゴールにいわせれば、みずからの大胆な決断に酔いしれる者は、ただの臆病者です。
勇敢に決断する者は、無意味や不条理と関わり合いになることを恐れているのです。
しかしながら、ほんとうの決断とは「無意味」を「意味」に取り換えることではなくて、無意味を耐え、無意味を潜り抜けようとする努力なのです。
決断は、無意味なものが意味のあるものになる、などと主張するのではない。ただ、無意味なものを無意味なものとして扱い、しかもたえず決断を改めるということでそれに対処すべきである、と主張するだけである。これとは違って、臆病はたえず意味のあるものにかかわりを持ちたがるが、……失敗しても、それが意味のあるものであったとすれば、慰めになるからである。
キルケゴール 『四つの建徳的講話』
つまり、こういうことです。
あえて危険を冒すことには意味があると人は思い込む。
しかし、そもそも人間の生そのものが危険に満ちている。生が無意味であり不条理であること自体が、人間にとって危険なのである。
この無意味を意味だと見せかけようとして「大胆に危険のなかに飛び込む」ことは、臆病者の愚行にすぎない。世にいう勇敢な決断とは、じつは形を変えた臆病なのである。
だが、真の決断は「無意味なものを無意味なものとして」扱うことを恐れない。すなわち「たえず決断を改める」ということである。
わたしは一度選んだものに固執しつづけるべきではない。むしろ、何度でも、何度でも選ばねばならない。
選択を恐れないことが、選択の繰り返しを恐れないことが、ほんとうの「決断」なのである。
あれ、こうして見るとキルケゴールの文章は、なんだかリヴァイのセリフっぽくありませんか?
リヴァイ「俺にはわからない」「ずっとそうだ...」「結果は誰にもわからなかった...」
キルケゴール「無意味な生を無意味として扱え」
リヴァイ「だから... まぁせいぜい... 悔いが残らない方を自分で選べ」
キルケゴール「たえず決断を改めながら、無意味な生に対処せよ」
ほらね?
リヴァイにおける「無知の知」
実際、リヴァイが直面している世界は、極めつきに残酷で不条理な世界です。
人間を喰らう正体不明の巨人たちに包囲されつつも、どうやって築かれたか分からない謎の壁によって巨人から守られて、いつまで続くかも分からない平穏を享受している。
そのような壁内世界を、リヴァイは「常にドブの臭いがする空気で満たされ」ていると形容しました。
この臭気は、無知に身を委ね、自由を放棄している壁内人類の生き方そのものを指します。しかしリヴァイは、壁の外の空気を「吸った」ことで、この無知に気づくことができたのです。
しかしこの「知」は、世界の不条理を少しも減らしてくれません。
それは世界の真理について、わずかな手がかりすら含んでいません。
しかしリヴァイは、みずからが無知であること、逃れられない不条理のなかに生きていることを鋭く自覚しています。
だからこそ、かれは「悔いが残らない方を自分で選」ぶ生き方を貫けるのです。
キルケゴールのいう「たえず決断を改め」る生き方を。
あるいは、サルトルのいう「自由の刑」を。
「役者」 としてのリヴァイ
そのようなリヴァイの生きざまが凝縮されたセリフを見てみましょう。
レイス家の血筋だと判明したヒストリアに、現政権の代わりに壁の王になれとリヴァイが迫るシーン(56話)。
かれは怖気づくヒストリアを締め上げながら「いやなら逃げろ」「俺たちは全力をかけてお前を従わせる」「選べ」とかのじょに迫りました。
そのさまにドン引きの新リヴァイ班(104期)に、リヴァイは「お前らは明日 何をしてると思う?」「隣にいる奴が... 明日も隣にいると思うか?」と問いかけます。
俺はそうは思わない そして普通の奴は毎日そんなことを考えないだろうな...
つまり俺は普通じゃない 異常な奴だ...
異常なものをあまりに多く見すぎちまったせいだと思ってる
だが明日... ウォール・ローゼが突破され 異常事態に陥った場合 俺は誰よりも迅速に対応し 戦える
明日からまた あの地獄が始まってもだ
お前らも数々見てきたあれが...... 明日からじゃない根拠はどこにもねぇんだからな
しかしだ こんな毎日を早いとこ何とかしてぇのに... それを邪魔してくる奴がいる
俺はそんな奴らを皆殺しにする異常者の役を買って出ていい
リヴァイの話を整理すると、こういうことです。
① いつ巨人が壁を破って襲撃してくるか分からない世界では、あらゆる状況に対して、いつでも、迅速に判断し、躊躇なく対応できるような心構えが、自分はできている。
② だから、敵が巨人ではなく、巨人との戦いを妨害する人間であったとしても、自分は迅速に判断し、必要とあらば容赦なく相手を殺すことができる。
③ でも、ヒストリアが王座に就けば人類同士で流す血が少なくて済むなら、そっちのほうが望ましいに決まっている。だから自分はいっさいの躊躇なく、ヒストリアに王の役目を強制する。(上の引用では省略したけど。)
つまり、ヒストリアは王になるべきだし、逡巡している時間もないから、かのじょを脅してでも従わせるしかねぇんだよオラァ! という話です。
エレンに対しては、リヴァイは本当に選ばせるつもりで「選べ」と言いましたが(0.6)、このヒストリアに対する「選べ」は、服従させる気まんまん。かのじょには選択の余地も、ゆっくり考える時間の余裕すら与えませんでした。
酷すぎるよ兵長! そりゃ新米の部下たちがドン引きするのも当然です。
でも、このあんまりにあんまりな物言いも、リヴァイの口から出てくると説得力を帯びてくるから不思議。
どうしてでしょう。かれの腕力や戦闘能力がズバ抜けていて、逆らっても敵いっこないから?
いやむしろ、リヴァイの精神的な強さ、キルケゴールのいう真の意味での「決断」を実践できる強さこそが、かれの言葉に説得力を与えていると言うべきでしょう。
「俺は異常な奴だ」「敵対する人間を皆殺しにする異常者の役を買って出ていい」と、リヴァイは宣言してはばかりません。
つまり、この不条理で不可解な世界に対処するためならば、どんなに「異常」と見なされようとも、迅速に、躊躇なく、必要な判断を下し、実行できるというのです。
このようなリヴァイの覚悟は、ニーチェ的な「力への意志」とは区別されねばなりません。
かれは「どれほど異常と見なされても自分が決めたことを貫く」と言っているわけではないのです。
というのも、かれは「自分が決めたこと」に、自分の決断そのものに、固執しているわけではないからです。
絶えず変転する状況に対処するためには何であろうとやってみせると、リヴァイはそう言っているのです。
必要ならば、どんな役割でも、まっとうな人間なら忌避するだろう汚れ仕事であっても、機を逸することなく遂行してみせる。
しかし状況が変われば、いつでも判断を変更し、新たな状況のなかでなすべきことに対処してみせる。
「臆病」にはならない。「たえず決断を改める」ことを恐れはしない。
リヴァイはそう覚悟しているのです。
このエピソードの題名は「役者」。
壁の王に仕立て上げられようとしているヒストリアを指すようにも聞こえますが、リヴァイのセリフをかみ砕いてみると、じつは誰よりもリヴァイのことを意味しているのだと分かります。
リヴァイは、キルケゴールの言う意味での「決断」に向けて、すなわち「たえず決断を改める」ことに向けて、つねに心の備えができています。
「たえず決断を改める」とは、状況が必要とするかぎりで、どんな「役割」でも引き受ける覚悟をもつこと。
どれほど自分を苦しめ、貶める役回りであっても引き受け、なおかつ状況が変われば、かつての役割には固執しないこと。
危険に満ちた人生という舞台劇において、どんな演技でも引き受けることができる「役者」になること。
それができるからこそリヴァイは、真の意味における強者、真の意味における勇敢な者なのです。
真の決断ができる人間を、キルケゴールは「聖別」を受けた人間として祝福しています。
リヴァイのような人物にこそ、キルケゴールの祝福が与えられるべきでしょう。
……このようなことがわかると、自分が臆病であるのを自覚しながら、感謝することができる。……決断による緊張や決定を冷静にする慎みをともない、すべてが結実することを目ざして、その人は落着いていられるようになる。このような認識、このように決断に賛同すること、それこそ第一の聖別である。
キルケゴール 『四つの建徳的講話』
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