導入――自由と非モラリズム
積極的自由の観念によれば、自由とは善いもの、すなわち、人間がそうあるべき自己決定の状態です(0.2)。
しかしながら、自由こそ何にも代えがたい至高の善であるのに、世に言う道徳的な善悪は、人間を束縛し、その自由を制限しているようにも見えます。
ほんとうに自由は道徳的意味で「善い」ものと言えるのでしょうか。
この問いをめぐって哲学者たちがとる立場はさまざま。
でも多数派は「究極的には自由と善は一致する」と考えます。
プラトンにはじまり、ストア派、アウグスティヌス、スピノザ、カント、等々、18世紀までの哲学者はだいたい、この立場。よりマイナーな哲学者も含めれば、長大なリストが作り出せるでしょう。ホッブズですら、群衆を「リヴァイアサン」に統一することは、価値ある自由の確立であり、かつ「自然法」にかなう善でもあると考えています。
これに対して、少数派ながら「道徳より自由のほうが大事に決まってんじゃん」派がいます。
この立場にとっては、自由とは究極的には非モラリズムとしか両立しないもの、いわば「非道徳的自由」であります(英語でいえば amoral concept of freedom かな)。
これまで考察してきたニーチェ的(反)ニヒリズムは、明らかに非道徳的自由にくみする立場です。善悪とはまったく無価値な観念であり、無力な人間たちの失われた自由の埋め合わせでしかないと称するのですから(1.1 以降)。
その一方で、道徳をそこまでは強く否定せず、善悪に手段的な価値を見出すような非道徳的自由の立場もあります。それがマキャベリズムです。
マキャベリストは言います。善とは自由という目的のための一手段にすぎないと。だから、善きふるまいによって自由や権勢を維持するのが困難なときには、人はあえて悪をなす必要があるのだと。
『進撃の巨人』において、このようなマキャベリスト的信念をはっきりと宣言するのはアルミンです。
でも、このマキャベリストは同時に、壁外世界を自由に冒険することへの甘い憧憬を抱くロマンティシストでもあります。
行動の指針としてのマキャベリズムと、行動の原動力としてのロマンティシズムとを胸に抱きながら、どのような自由をアルミンは実践するのでしょうか。
マキャベリストとしてのアルミン
マキャベリスト的な自由の概念については、すでに記事 0.3 で軽く論じましたが、ちょっとおさらいしておきましょう。
※ 併せ読みがオススメ
unfreiefreiheit-aot.hatenablog.com
マキャヴェリ(1469-1527)によれば、平穏な時代の君主にとって領民に善良と慕われることは利益だが、荒れ狂う運命のもとではそうではありません。
しかし君主が優先すべきは、善く思われることではなく、みずからの自由と権勢を維持することです。それゆえに、君主には「可能なかぎり善から離れず、しかも必要とあれば断固として悪のなかにも入っていくすべ」を知ることが要請されます(マキャヴェリ『君主論』第18章)。
つまり、善悪を忘れろというのではなく、善と悪とを道具的に使い分けられるようになれと、マキャヴェリは教えているのです。この教えをマキャベリズムと呼ぶことにしましょう。
この教えをアルミンは、調査兵団の指導者エルヴィンの卓越した指導力の秘訣として見出します。エルヴィンのように「何かを変える」ためなら「大事なものを捨てる」ことをためらわず、そして「化け物をも凌ぐ必要に迫られた」なら「人間性をも捨て去る」覚悟をもたねばならないというのです(27話)。
それ以降アルミンは、困難に直面するとき、エルヴィンの教えを想起しつつ自問するようになります。「僕の命と... 他に何を捨て去れば変えられる!?」と(49話)。
でも実は、アルミンはエルヴィンの影響とは関係なしに、なかなかのマキャベリストなんですよね。
エルヴィン率いる調査兵団がクーデター画策をはじめた局面で、こんなことをするために兵団に入ったつもりはないのにと不満をもらす同期の仲間たちを尻目に、アルミンはこう独り言ちます。
でっちあげの事件で王政を悪玉に仕立てて民衆扇動を成功させりゃよくね? 民衆は騙されやすいんだから、と。
周囲がドン引きになっているのに気づき「なんちゃってね...」とお茶目な笑顔を見せるアルミン。
そんなかれに、エレンは「アルミンが陰湿で姑息なこと考えるのが得意なのは昔からだ」とフォローを入れてくれたのでした(55話)。
なんだよコイツ、素でマキャベリストかよ。
しかもこのアルミンの表情、わー、なんだかキンクリのCDジャケットみたい。
このアルミン版「ぼくのかんがえたさいきょうのクーデター」にもまた、マキャヴェリの精神がみなぎっています。
以下の一節をお読みください。
だから君主たる者は、ひたすら勝利し、権勢を保持するがよい。どんな手段もつねに誉れ高きものと正当化され、みなに称えられるだろう。なぜならば、大衆はいつでも外見やできごとの成り行きに心を奪われるものであり、そして世には大衆ばかりがいるのだから......。
おふざけが過ぎました。
まじめに説明すると、ここで重要なのは、アルミンはマキャベリズムをうわべで理解しているわけではないということ。
目的のために手段を選ぶなとか、リーダーには時として非情さも必要であるとか、そういうビジネスマン向け啓発書にでも書いてあるような薄められたマキャベリズムを、かれは復唱しているわけではないのです。
マキャベリズムの本質をなすのは、ちゅうちょなく非情な手段を選べという教え自体ではなく、その根拠をなす洞察です。
すなわち、運命の変転は、善悪の不動の法則や指針に従うことを許さない、という醒めた洞察です。
とりわけ平穏な時代には賢慮の表れである慎重さは、変化と困難のもとでは破滅を巻きかねません。だから、ときとして大胆さが必要になるのです。
......変化に順応するためにちょうどよい慎重さというものは、そうそう見つけ出せるものではない。人は自然の性向から逸脱することはできないし、それに従来それによって成功してきた方法というものは捨てがたいものだからである。それゆえにこそ慎重な者は、人が大胆にふるまうべき困難なときに、どうすればいいか分からずに破滅してしまう。だが、時宜を得て身の処し方を変えるなら、幸運が失われることはないだろう。
つまり、たんに善悪をうまく使い分ける狡猾さを身に着けよということではなく、困難な判断を恐れない勇気と覚悟をもてという教えこそが、マキャベリズムの精髄なのです。
アルミンがエルヴィンから引き出した教えの本質もまた、そのような勇気と覚悟にあります。
人はときとして、確実な判断を引き出すためには不十分な情報量や、判断材料を揃えるためには不十分な時間の猶予のなかで、判断しなければならない。そうアルミンは言います(27話)。
あえて判断することを恐れてはならない。
そのためには、選択がもたらしうる結果に怖気づかず決断を下す勇気と、その結果がなんであれ引き受ける覚悟とを、もたねばならない。
それがアルミンのセリフの含意なのです。
非情になりきれないアルミン
でもアルミンにはマキャベリストらしからぬ、非情に徹しきれない一面があります。
対人立体起動部隊の急襲から逃れるなか、窮地に陥ったジャンを助けるため、アルミンはちゅうちょせず人間相手に初めて銃の引き金を引きました。
その後、かれは自分が殺人を犯してしまった事実に涙し、嘔吐します。こうした方面でちょっと突き抜けちゃっている幼馴染たちのようには、アルミンは精神の均衡を保てなかったのです(59話)。
雷槍で「鎧の巨人」の頭部を吹っ飛ばしたときも、有無を言わさずかつての友人を殺したこと(実はライナーは脳を巨人本体に移して? なんとか生命維持していたけど)について、アルミンはかれらしく理詰めで言い訳をせずにはいられませんでした。
だからその直後、ベルトルトに最後の「交渉」をもちかけたときも、アルミンは本気で「交渉」しようと考えていたのでしょう――時間を稼いでベルトルトの気をライナーから逸らせておく狙いが同時にあったとしても。
実際そう見えたからこそ、エレンは「そりゃ一体... 何のマネだ?」と思ったわけです(78話)。
でもきっと、それも仕方ないのです。
アルミンはかわいいのですから。
マキャベリスト的な、あるいは「ゲスミン」的な一面もまた、かれのかわいさを引き立てるアクセントなのかもしれません。
「自分の大事なものを捨ててでも」という健気さ(女装)によってますます際立つアルミンの可憐さたるや、一人のおじさんを「大変」なことにしてしまうほど。
ロマン主義者としてのアルミンと実存的自由
はい、またおふざけを入れてしまいました。すみません。
本題に戻ると、アルミンのマキャベリスト的ふるまいと、非情になりきれない側面とを、矛盾するものと見るべきではないでしょう。
かれが実践するマキャベリズム、すなわち「困難な判断を恐れない勇気と覚悟をもて」という教えは、あえて非情になることを要求するかもしれませんが、人間的な感情や願望そのものを忘れるよう強いるものではないのです。
実際、アルミンはマキャベリストである以上に、ロマンティシストです。
かれの幼少の頃からの夢は、そしてかれが調査兵団に入団した根本的な理由は、壁の外のどこかにある「炎の水」「氷の大地」「砂の雪原」を、そして「商人が一生をかけても取り尽くせないほどの巨大な塩の湖」を発見することです。
シガンシナ区奪還作戦の前夜、かれが自分を勇気づけるために語り出したのも、この見果てぬ夢でした(14話、72話)。
少年を待ち受ける未知の世界へのロマン主義的憧憬が、アルミンという人間の軸を、かれの初期衝動をなしています。
そのことはかれ自身が説明するとおり。
「自由を取り返すため」なら「力が湧いてくる」と言っていたエレンにたいして、アルミンは「僕は なぜか 外の世界のことを考えると 勇気が湧いてくるんだ」と返しています(72話、81話)。
「超大型巨人」との決戦中のこの一幕は、幼少期からの夢を思い起こす点においても、巨人化したまま意識を失ったエレンを呼び起こすために剣を刺す点においても、エレンがはじめて巨人の力を試したトロスト区の戦いの再演です(13話、14話)。
しかしながら唯一の違いは、この二度目のシーンでアルミンは自分の命とともに「夢」を「捨てる」覚悟を決めていた、ということです。
ベルトルトが放つ灼熱に身を焼かれながら、それでもアルミンの決意は揺らぎません。
まだ離すな
エレンに託すんだ 僕の夢 命 すべて
僕が 捨てられる 物なんて これしか 無いんだ
きっと エレンなら 海に たどり 着く(82話)
ここでもアルミンは、マキャベリスト的教えに従ったのでしょうか。
むしろそれ以上のことをしたように見えます。ここでアルミンが示したのは、目的を達成するために非情に徹する覚悟ではなく、当の目的そのものを、すなわち自分の夢そのものをあきらめる覚悟なのですから。
でもほんとうは、アルミンは夢を放棄したのではなく、夢を叶えることを親友エレンに託したのでした。
「きっとエレンなら海にたどり着く」と信じて、かれは命を捨てたのでした。
アルミンの夢は、かれが孤独に恋焦がれる夢ではなく、仲間と分かち合える夢、仲間と交わし合える約束だったのです。
一見してマキャベリスト的な「大事なものを捨てる」覚悟。
この覚悟をもってアルミンは、自分の見果てぬ夢を親友に実現してもらうために命を捧げることを、かれ自身の判断で、自由に選びました。
この選択、この決断、この自由を、筆者はやはり実存的自由と呼びたくなります。
マキャベリストやニヒリストと同様、実存主義者もまた、道徳よりも自由が大事だと考えます。
しかし実存的自由は、決して非道徳的自由ではありません。
実存主義者はニヒリストのように善悪を無価値と見なすことも、マキャベリストのように善を手段に引き下げることもしません。
むしろ実存主義者は、自由そのものの「善さ」を、自由それ自体の倫理的な価値を、みずからの自由な行為によって作り出そうとするのです。
アルミンがみずから決死の作戦を思いつき、みずからを奮い立たせ、みずからを犠牲に捧げたこと。
これを自由として称えることは、見ようによっては、うさんくさい自己犠牲の美化かもしれません。
しかし、この作戦をアルミンが誰にも強いられることなく、かれの原動力であるロマンチックな夢のためだけに、親友と交わした崇高な約束のためだけに、みずから選んだということは、しっかりと描かれているように思います。
これを実存的自由と呼ぶことは、可能でも妥当なことでもあるでしょう。
アルミンはマキャベリスト的教えに従いながら、ロマン主義的な衝動に突き動かされて、実存主義的な自由の境地に達したのだと言えます。
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