進撃の巨人・自由論

わたしは自由であるか。自由とは何なのか。深堀りすれば自由の謎が解けるマンガもあるかもしれない。

2.4.a 「かけがえのないわたしの死」を生きる (上) ~ マキャベリズム・ロマン主義・実存的自由

 

unfreiefreiheit-aot.hatenablog.com

 

死の存在論的意味

世界の真実を明らかにするという宿願を、ファウスト的自由を、諦めたエルヴィン。

かれの選択は、状況に迫られて仕方なく選んだ自己放棄でしかないのでしょうか?

それとも、たんなる諦めや自己放棄とは異なる、なにか意味のある自由と呼べるのでしょうか?

 

この問題を考えてみるためには、死の存在論的意味なるものに光を照射した哲学者、ハイデガー(1889-1976)を参照してみるべきでしょう。

かれを実存主義者として紹介すると、ハイデゲリアン(プロまたはアマのハイデガー・ガチ勢)たちに「ハイデガー先生は自分が実存主義者ではないと仰せであろうがー!」とボコボコにされそうで怖いのですが(偏見?)、しかし少なくとも、サルトルの実存的自由の哲学は、ハイデガー存在論がなければ成立していなかったことは確かでしょう。

だから実存的自由の考察を深めるために、ハイデガーは避けてとおれないのです。

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代替可能なわたし

ハイデガーは人間を「現存在 Dasein」と呼びます。 

この世のあらゆる「存在者」(動物、植物、無機物、人工物等々、とにかく存在するすべてのもの)の在りかたと比べて、人間の在りかたは特別です。人間だけが、自分を人間という存在として知っています。

だから人間の場合、自分が自分自身の在りかたをどう理解し、行為においてどう意図しているかを見ずに、それがどういう存在であるかを一義的に決めることはできません。

だから、この特殊な存在者は「現存在/そこにあるもの」としか名づけられないとハイデガーは考えます。

このことを独自に解釈して、人間の「実存は本質に先立つ」とサルトルは宣言したわけです。

 

しかし社会において、現存在=人間の在りかたは、さしあたりは大部分、社会のなかの役割によって決められています。 

「ひと」は、その従事するところのもの「である」というわけです。

この在りかたにおいて、現存在=人間は「世人/ひと das Man」として、すなわち、匿名の誰か、誰でもよい誰か、のっぺらぼうのような誰かとして現れています。

そのような「ひと」の在りかたは「代替可能性」を特徴とします。

この存在についていえば......代替可能性は......相互存在を成立させている構成的契機である。ここでは、ある現存在がほかの現存在「である」ことが可能だ、というよりも、ある程度までは必然的だ。

ハイデガー存在と時間』第47節

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社会における役割としてのわたしは、わたしではない誰かに代わってもらえるでしょう。どんな役割においてであれ、例外なく。

あなたがビヨンセだったとしたら、きっと「わたしに代わる歌手なんているわけないじゃん」って思うでしょう。でも、ビヨンセほど高い歌唱力や高い人気を誇る歌手はいないかもしれませんが、ともかくも歌手は他にいるし、テレビのスターも他にいるわけです。

あなたほどうまくはやれないとしても、あなたの役割をそれなりに務められる代役は、かならず存在します。

つまり、あなたは代替可能な存在なのです

 

代替不可能なわたしの死

でも、たった一つだけ、あなたが他の誰にも代わってもらえない役割があります。

さあ何でしょう?

それは、死ぬことです。

あなたが、ほかでもないあなたとして、終わりを迎えることです。

山田さんの死にざまを、田中さんが代わりに演じることはできないのです。

 

え、誰かのためにあえて命を捨てる人はいるじゃないか、だとすれば死すら代替可能ではないか、ですって?

たとえば『走れメロス』のセリヌンティウスは、暴君に死罪を言い渡された友人メロスが、妹の結婚式を完了するまでの猶予を得るために、かわりに囚われの身になったではありませんか。メロスが裏切るか、時間に遅れれば、セリヌンティウスは殺されていたではありませんか。

でも、親友メロスの身代わりを引き受けたセリヌンティウスの死は、暴君に強いられたメロスの死と同じものではありません。

セリヌンティウスは、もしメロスのかわりに殺されていたとしても、この世に二つとないセリヌンティウスという存在の死を死ぬことしかできなかったのです。

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このことを存在論的に説明すれば、次のようになります。

現存在=人間とは「各自性」をそなえた存在です。

つまり、自分を他の人間と区別する存在なのです。 

たしかに、社会において現存在は、代替可能な存在者になってしまう。

だがそれでも、わたしが死ぬことだけは他の誰にも代わってもらえない。

死だけは「いずれは各自で引き受けねばならない」のです。

ハイデガー先生、どうぞ。

しかしながら、現存在が終末に至ることをなす存在可能性……が問題となる場合には、この代替可能性は全面的に挫折する。だれも相手からその人の死を引き取ることができない。......死ぬことは、それぞれの現存在がいずれは各自で引き受けねばならないことである。

ハイデガー存在と時間』第47節

 

わたしの生きざまとしての死にざま

「ひとが死ぬ」のは当たり前であり、ありふれたこと。

でも「わたしが死ぬ」ことを考えると、誰もが不安になります。

このことについて、ハイデガーは言います。ひとは「わたしの死」を予感することの不安を避けるために、むしろ死をもたらしうる「できごと」を――つまり、ガンの発覚、交通事故、高所に立つこと、COVID-19の流行、等々を――恐れるのだと。

世間は、死に臨む不安を引き受ける勇気がわくのを抑える。......世間はこの不安を逆転して、襲ってくるできごとへの恐れとすりかえるように工夫する。......

ハイデガー存在と時間』第51節

 

死とは、何もできなくなること、つまり存在不可能を意味します。

しかし同時に「わたしの死」は、わたし自身の可能性です。というのも、わたしの死は他人に代わってもらえないのだから。 

それゆえに、わたしが真に自分自身を生きることができる可能性は、ただ次の一事のみに、すなわち、わたしがみずからの死=不可能性に向き合うことにかかっています。

このようなありかたを、ハイデガーは「無に臨む自己」や「死に臨む自由」という用語で表現します。

現存在は、おのれの現前そのものから発するたえまない脅威にむけて自己を開く。......現存在それ自身のひとごとでない孤独化された存在のなかから立ちのぼる......自分自身の脅威を開いたままにしておくことのできる心境は、不安である。この不安のなかで現存在は、おのれの実存の可能的〔潜在的〕な不可能性という無に臨む自己を見出す。

ハイデガー存在と時間』第53節

 

死に臨むことが「自由」だなんて、なんだかアブナイ話にも聞こえます。

生きるのが困難な状況に追い詰められでもしなければ、誰が死を選ぶでしょうか?

死を選ぶことを「自由」と呼ぶことは、倫理的に間違っていないでしょうか?

しかし、ここでハイデガーは、自殺とか自爆とかハラキリとかを奨励しているわけではありません。

現存在=人間の、ある特別な在りかた、生きかたを提示しているのです。

 

人間は、ある日突然、死ぬかもしれないし、逆にガンを宣告され死を意識しながら長生きするかもしれません。

それは「死にかた」「死にざま」の違いと言われるでしょう。

でも裏を返せば、それは「生きかた」「生きざま」でもあります。

ある日突然死ぬまでの生きかたや、差し迫る死を意識しながら一日一日を生きる生きざまです。

同様にして「無に臨む自己」や「死に臨む自由」という術語も、現存在の死にざま=生きざまのことを指すのです。

そして「死に臨む」死にざま=生きざまだけが、わたしという存在のかけがえなさを示してくれることでしょう。

わたしの死だけは、誰にも代役を務められない、わたし自身の役割なのですから。

 

おっと、ただの哲学解説ブログになっちゃってるぞ。

進撃の巨人』にもどりましょう。

 

「死に臨む」ことに意味はあるのか 

さて、巨人と戦う兵士たちは、死にざまと生きざまとは表裏一体であると知ったところで、さあ「死に臨む」決意をもとう、なんて気持ちになれるものでしょうか?

かれらにとって死とは、いつか確実に訪れる死というものですらなく、差し迫った、次の瞬間にまちがいなく自分が経験するであろう死であるというのに。

 

「獣の巨人」に決死の突撃作戦をしかけようとするエルヴィンと新兵たちは、まさにそのような、眼前の確実な死に直面していました(80話)。

たしかに、リヴァイが接近するまでかれらが「獣」の気を引きつけておくことができれば、「獣」は倒せるでしょう。

でも、おとりの兵士は間違いなく死にます。

「死中に活を求める」どころの話ではありません。

作戦が成功しようがしまいが死ぬというなら、自殺行為に等しい命令に従わねばならない義理なんてない。そう感じるのが普通でしょう。

現に、思ったことを正直に言える新米兵士フロックは、率直にそう漏らしたのでした。


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80話「名も無き兵士」

 

これに対してエルヴィンは、そのとおりだとフロックの言い分を肯定します。

人間はどんな風に死のうが無意味。

どんな「夢や希望」をもっていても、死の前では無意味。

そう言い放つエルヴィンは、おそらくかれ自身の実感を言葉に込めているのでしょう。

まったくもって無意味だ

どんなに夢や希望を持っていても

幸福な人生を送ることができたとしても

岩で体を打ち砕かれても 同じだ

人は いずれ死ぬ (80話) 

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80話「名も無き兵士」

 

しかしエルヴィンは続けます。

先に死んでいった調査兵団の仲間たちを思い出せと。

かれらが巨人との戦いで惨たらしく死んでいったことには、何の意味もなかったのか? いや、そうではないのだ、と。

いや違う!! あの兵士に意味を与えるのは我々だ!!

あの勇敢な死者を!! 哀れな死者を!!

想うことができるのは!! 生者である我々だ!!

我々はここで死に 次の生者に意味を託す!!

それこそ唯一!! この残酷な世界に抗う術なのだ!! (80話)  

 

エルヴィンはここでも、正気のままでは実行できない突撃作戦のため、部下や自分自身を「騙し」ているにすぎないのでしょうか。

それとも?

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80話「名も無き兵士」

  

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