「上」から読んでください。
unfreiefreiheit-aot.hatenablog.com
「我々はここで死に 次の生者に意味を託す」
絶対的な死を前にしては、どんな人生も等しく無意味。
そう認めながらも、エルヴィンは叫びます(80話)。
仲間たちの惨たらしい死に意味を与えることができるのは、生者であると。
だから「我々はここで死に 次の生者に意味を託す」のだと。
「それこそ唯一!! この残酷な世界に抗う術なのだ!!」
エルヴィンはここでも、正気のままでは実行できない突撃作戦のため、部下や自分自身を「騙し」ているにすぎないのでしょうか(76話を参照)。
一面ではそうかもしれません。
でも、エルヴィンの言葉はまったくの出まかせではなく、かれが最終的に確信するにいたった、ある真理を言い表してもいると理解すべきでしょう。
すなわち、わたしの生に究極的な意味を与えるためには他者が必要であるという真理を。
「誰かの死」を意味づける自由
ハイデガーが論じた死の存在論的意味を手がかりに、考察を進めてみましょう。
わたしの死は、わたしのかけがえなさ(各自性)をわたしに教えてくれます。
わたしの死にざま=生きざまは、他人にその代役を務めさせることができない固有のものです。
でも、かけがえのないわたしが存在することの意味は、ほかでもないわたし自身にとっては、永遠に未確定でありつづけるでしょう。
現存在=人間は、自己の在りかたをみずから決定する存在なので、その固有の意味は、存在することを終えるまで確定されません。
ところが現存在=人間は、みずからの死にだけは意味を与えられません。死を経験するとき、意味づけをおこなうわたしは、もはや存在しないのですから。
こういう理由で、わたしは、自分の存在意義を自分自身の手で完結させようと望んでも、この願望を絶対に達成できないのです。
「人生なんて無意味」という通俗的な訓言は、存在論的には、こういうことを意味しています。
ところが、わたしは自由な存在であり、わたしではない誰かの死を意味づけることができます。
同じように、わたしの死は、自由な存在である誰かにとっては、それに意味を付与することができる「誰かの死」であります。
ならばわたしは、わたし自身の存在意義を完結させる自由をもたないとしても、他人の自由をつうじて、間接的に、みずからの存在意義を一定の方向に完結させることができるかもしれないのです。
他者に証明してもらうしかない、わたしの存在意義
ここまで来れば、エルヴィンの最後の檄がもつ意味も、おのずと明らかになってくるでしょう。
再び引用します。
あの兵士に意味を与えるのは我々だ!!
あの勇敢な死者を!! 哀れな死者を!!
想うことができるのは!! 生者である我々だ!!
我々はここで死に 次の生者に意味を託す!!
それこそ唯一!! この残酷な世界に抗う術なのだ!!
この呼びかけは、次のような意味に解されるべきです。
われわれは運命の奴隷として死ぬのではなく、自由な存在として死なねばならない。
死んだ仲間たちの存在意義を証明することが、そして後に生き残る仲間たちにわれわれの存在意義を証明してもらうことが、われわれには可能なのだから。
死んだ仲間を自由な存在として意味づけることは、そして死にゆくわれわれを自由な存在として意味づけてもらえるよう仲間に希望を託すことは、われわれの自由に委ねられているのだから。
こうしてエルヴィンは、もはやかれが独りでは実現できない自由を、他者との共同性において実現するために、あえて死を選んだのです。
みずからの自由が、みずからの存在意義が、このように他者を媒介して証明されるだろうと信じたからこそ、エルヴィンは「獣」の石つぶてを受ける瞬間まで、勇敢な指揮官のままでありつづけられたのでしょう。
こうして最期にエルヴィンは、ファウスト的渇望をあきらめ、かれの心を捉えて離さなかったロマン主義的エゴイズムから脱しました。
しかし、ファウスト的な渇望と自由を諦めたことで、エルヴィンは自由そのものを放棄したのではなく、絶体絶命の状況のなかで、それでも価値ある自由を選び取ろうとしたのだということは、もはや説明不要でありましょう。
この結末は、よく考えてみれば、むしろゲーテのファウストが迎えた結末に似ています。
さいしょファウストは、生の究極的充足の瞬間を、自分に対して価値がある瞬間として、かれ自身のどうしようもない渇望がついに満たされる経験として夢見ていました。
しかし最期には、そのエゴイスティックな渇望から解き放たれ、ほんとうに価値がある瞬間が何であるかを、かれは知ったのです。
自分の領土が、人間のたゆまぬ努力によってこそ「自由の土地」となるのだと確信し、そのような自由がついに築き上げられる将来の瞬間を、ファウストは「時よ止まれ、汝はなんと美しい」と称えて息絶えたのです。
こうしてみずからを自由にしたファウスト。かれの魂は、悪魔によって地獄に運び去られるのではなく、神に許され天上へと召されたのでした。
苦難と試練に満ちたエゴイズムの道をつうじて、人間性という終着地に至る、ファウスト的自我の旅。
エルヴィンの人生の旅もまた、結末がより悲劇的であるとはいえ、同じ道を辿ったように見えます。
「死に臨む」ことの困難
付言するならば、エルヴィンが部下に命じた突撃作戦も、やぶれかぶれのカミカゼ的特攻として評価されるべきではありません――これに対峙した「獣の巨人」ジークにはそう見えたのでしょうが。
第一に、これはいわゆるスーサイドアタック、自爆攻撃ではありません。
あくまで死の可能性の高いおとり作戦をおこなっているだけで、兵を死なせること自体を攻撃の手段としているわけではないのです。
第二に、従来のエルヴィンの作戦と同様、この作戦もまた、どれほど手段はクレイジーでも、目的達成の合理的な見込みをもって実行されているのです。
現にリヴァイの刃が「獣」に届いたとき、かれは最大のポテンシャルを発揮して「獣」を圧倒しました。
第三に、エルヴィンがみずからの希望を託したのは、互いの顔を知りあっている親密な仲間たちに対してであって、なにやら宗教的あるいはイデオロギー的な大義に対してではありませんでした。
大日本帝国やナチスから現代の宗教的過激主義者たちまで、自己犠牲的手段による戦闘や破壊行為を是とする集団は、疑似宗教的に意味づけられた「民族」や「英霊」、原理主義的に解釈された「神の命令」等々をもちいて、仲間に死を強いるために都合のよい大義を構築してきたのです。
でもエルヴィンが飛ばした檄は、疑似宗教的な大義に類するものでは決してありませんでした。
とはいえ、次のことはやはり同時に確認しておくべきでしょう。
みずからの死を価値ある死に高めようする意志は、指揮官エルヴィンにとっては真剣な、嘘偽りないものであったでしょう。
しかし、かれの部下たちにとっては、少なくとも同じ程度の確信をもって支持することのできない、外から与えられた大義でしかなかったと言わねばなりません。
最後まで仲間を鼓舞しつづけた、もと憲兵団所属の新兵マルロ。
「獣」の一発目の投石に当たって先頭のエルヴィンが脱落したあと、かれは残った仲間を指揮することで、最期まで立派に役目を果たしていました。
しかし死が迫るその刹那、マルロの心は残酷な現実から逃避し、今頃まだ眠っているであろうヒッチ(実際は、次話で起きてたけど)を羨ましがらずにはいられなかったのです(81話)。
死の存在論的意味。
「死に臨む」という在りかただけが、人間を自分自身のかけがえなさにおいて存在させ、ほんとうの自由に導くということ。
しかしながら、どれほど困難で、どれほど惨たらしい経験であることでしょうか。
そのような存在論的意味=自由を、人間が引き受けようとすることは。
unfreiefreiheit-aot.hatenablog.com