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ほんとうにリヴァイの選択だったのか
ずいぶんとエルヴィンの話が長くなってしまいました。
でもようやくここで、次の問題を、哲学的考察のために俎上に上げることができるというもの。
なぜリヴァイはエルヴィンではなく、アルミンを生き残らせることを選んだのか?
ロマン主義的エゴイスト、ファウスト的自我たるエルヴィンのことを、もう「休ませて」やるべきだとリヴァイが感じたのは、一体どうしてか?
エルヴィンの苦難に満ちた「夢」のかわりに、際立った才知をもつが未熟な少年の「夢」を、なぜリヴァイは選んだのか?
しかしながら、リヴァイはこの選択肢を、選ぶべくして選んだのではないでしょうか。
アルミンに巨人化の注射を打とうと決めたのはリヴァイですが、しかしかれにそう選択させたのは、エルヴィンその人だったのではないでしょうか。
かれの選択を、リヴァイはただ理解し、実行に移しただけではないでしょうか。
その点に着目することが、このエピソードを読み解く鍵なのです。
エルヴィンの最期がケニーの最期とダブった理由
アルミンに注射を打てと食い下がるエレンとミカサを引き離し、ようやくエルヴィンに注射を打つ準備が整ったリヴァイ(84話)。
かれの脳裏に浮かぶ、みずからの「夢」について語るエルヴィンの声は、絶体絶命の窮地における「このまま地下室に行きたい」というかれのうめきは、なぜかケニーの最期の言葉とダブります。
当時、リヴァイには意味が汲み取れなかった「みんな... 何かの奴隷だった... あいつでさえも...」というケニーの言葉と。
これは明らかに、エルヴィンの「夢」が、ケニーのいう「酔っぱらって」いるために必要な「何か」に等しいことを示しています。
世界がまったく無意味であるよりは、わたしの生に意味を与えてくれるものがあったほうがよい。
そういう、わたしにとって価値あるものさえあれば、わたしは残酷で無価値な世界を生き抜くことができる。
そのような、わたしがどうにか生きるための手段としての「酔っぱらうための何か」です(1.5 も参照)。
たとえエルヴィン自身がそういうものとしては理解していなかったとしても、このときリヴァイは、エルヴィンの「夢」がそういうものだと悟ったのです。
それでもエルヴィンの腕に注射針を当てるリヴァイ。かわりに見捨てようとしている、死にゆくアルミンを気にかけながら。
そのとき突如、腕を持ち上げるエルヴィン。
このとき、エルヴィンの死にゆく脳は、かれの生きる意味そのものを決定した、世界の真実にかんする疑問を父にぶつけた幼き日の記憶を想起していたのでしょう。
しかし同時に、かれの無意識の動作は、リヴァイにはあたかも、エルヴィンが自分に注射を打つことを拒んだかのように、代わりにアルミンに打てと伝えようとしているかのように見えたことでしょう。
もちろんリヴァイには、エルヴィンの動作が無意識のものでしかないと分かるはずです。
でも実は、エルヴィンが注射を拒んだと理解することは正しいのです。
自分の「夢」をあきらめ、仲間に希望を託して死ぬことを、すでにエルヴィンは選んでいたのですから。
わたしにとって価値あるものを諦めてでも、ほんとうに価値のあるものを、エルヴィンは選び取っていたのですから。
そしてそれは、真に欲すべき「何か」を見つけてほしいという願いをリヴァイに託して死んだ、ケニーの選択と同じものでした。
実際、エルヴィンの無意識の挙手をきっかけに、リヴァイは直観するのです。
おとり作戦の実行を迫ったリヴァイに、なぜエルヴィンが「ありがとう」と言ったのかを。
なぜあのときケニーが、巨人化の注射薬を自分に使わず、リヴァイに託したのかを。
そして、感謝を伝えたエルヴィンの瞳、死に際のケニーの瞳、そして「海を見に行こう」と夢を語っていたアルミンの瞳が、同じ光をたたえていたことを。
このことの意味は明白です。
アルミンの瞳を輝かせる「夢」が、ケニーやエルヴィンがみずからの「夢」と引き換えに託すことを選んだ、真に価値のある「なにか」と等価であることを、リヴァイは直観したのです。
したがって、エルヴィンの選択を尊重するならば、かれではなくアルミンを生き残らせるべき、ということになります。
このことはまた、エルヴィンの選択とアルミンの夢をつうじて、育ての親ケニーの死に際の真意をリヴァイが理解したということも示しているのです。
こうしてリヴァイは、アルミンに巨人化の注射を使うことを選びました。
しかしそれは、玉砕的なおとり作戦を実行する選択と同様に、すでにエルヴィンが心で済ませていた選択なのであって、それをリヴァイは言葉や行為に移したにすぎないのです。
* 併せ読みがオススメ
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良心の呼び声
そうなると、なぜリヴァイはエルヴィンの代わりにアルミンを選んだかという問いは、結局のところ、なぜエルヴィンが自分の夢を捨てる選択をしたのかという問いに還元されることになります。
この選択においてエルヴィンは、みずからの自由を諦めたのではなくて、ファウスト的でエゴイスト的な自由を放棄するかわりにほんとうに価値のある自由を行使しようとしたのだということは、すでに論じてきました。
では、なぜエルヴィンは、どんな種類の自由を選ぶことだって自由であったはずなのに、みずからのロマン主義的エゴイズムを貫くこと(どんなかたちであれ地下室に眠る真実を発見しに行くこと)ではなく、より価値のある自由を選んだのでしょうか?
そこに、なにか必然性はあるのでしょうか?
もしそれに必然性が働いていたとして、それでもエルヴィンの最期の選択は自由なものと言えるのでしょうか?
これこそエルヴィンの自由をめぐる最終的な問題です。
それを解くためには、ふたたびハイデガーによる現存在の分析が手がかりとなるでしょう。
ここでは「良心」をめぐるハイデガーの考察を参照してみます。
良心とは、ニーチェによれば、無力な人間たちに、みずからの無価値そのものを価値あるものと信じ込ませる手段でしかありませんでした。
しかしハイデガーにとっては、良心をもつこと、みずからを「負い目ある存在」として発見することは、自分自身の在りかたに「つねにすでに」含まれている存在可能性を直視することを意味します。
つまり、かれのいう負い目とは、外的事実を原因とする心的な結果ではなくて、むしろ外的事実に先立つ人間の態度あるいは気構えです。
この意味において負い目または良心をもつことは、過ちを後悔することではなく、自己を未来に向かって開くことだと言えるでしょう。
このような人間の在りかたを、ハイデガーは「本来的」と呼びます。
......負い目ある存在へと〔自己を〕呼び起こすことは、わたしが現存在としてつねにすでに存在してきた「存在しうる」へとあらためて呼び出すことを意味する。この存在者は、ことさら過誤や不作為によって「負い目」を背負い込むまでもなく、ただたんに...…「負い目ある」ことを本来的に存在すればよい。
別な言いかたをすれば、負い目をもつことは、自由に選択される態度なのです。
良心に従うことは、そうありうるかもしれない自分を実現しようとする、能動的、積極的な態度なのです。
この態度は、むしろ「自負」と言い表したほうがぴったりくるかもしれませんね。
ハイデガーによれば、良心を自負することは「良心の呼び声へと開かれた自由」であります。
この「呼び声」に「了解づくで呼び出される」とき、現存在=人間は自由にそうしているというのです。
......この可能性へと了解づくで呼び出されることが内包するのは、良心の呼び声へと開かれた自由を現存在が得ることであり、呼びかけられうることへの備えである。.....
「良心の呼び声」って何やねん? 頭の中に天使が語りかけてくるんかいな?
そういう神がかり的な話をハイデガーはしているように聞こえるかもしれませんが、でも実際は違います。
良心の働きを、人はしばしば「負い目を感じる」とか「後悔に襲われる」とか、受動的な経験として言い表しますね。
でも、そうして人間が良心をさいなまれるのは、あらかじめ良心をもつ存在として自分自身を作り上げているかぎりにおいてでしかありません。
みずからの利益のために他人を利用することに慣れてしまった人は、他人を騙すことに良心の痛みを感じるふりはできるとしても、実際にそれを感じることは不可能でしょう。
だとすれば、ある種のことがらについてわたしが感じる「負い目」とは、わたしが何者であるかを告げ知らせる、この存在に固有の事態ということになります。
そもそも良心とは、他人に対して、自分の在りかたの善し悪しの評価尺度としての他者に対してもつもの。
したがって良心的とは、ある意味では他人本位、あるいは他律的であることと同義なのです。
しかしハイデガーによれば、むしろ良心のやましさを感じるときにこそ、わたしは「ひとごとでない自己」に直面し、この自己に従って行為することができます。つまり自律的になるのです。
なぜなら、みずからの良心を「呼び声」として聞き取ることは、存在論的に見れば、良心をもとうと「意志する」ことに等しいからです。
.....選び取られるのは、良心をもつことであり、ひとごとでない自己の負い目ある存在に向けて開かれている自由存在である。すなわち、呼びかけを了解することは、良心をもとうと意志することなのである。
良心の呼び声を聞くことは、人を能動的に、自由にする。
このことは、現存在=人間が「本来的に存在しうること」の証である、とハイデガーは言い加えています(同上)。
人間が「本来的」であるとは、人間がほんとうに価値のある自由を生きていることだと理解していいでしょう。
本来的な、ほんとうの自由とは、外から与えられるのではなく、みずからの内から湧き出る「良心の呼び声」によって示されるのです。
ファウストを救済するのは誰か
良心の存在論的構造がこういうものだと分かれば、エルヴィンの最期の選択が必然的かつ自由な選択であったということもまた理解可能となるでしょう。
エルヴィンの選択が必然的なものだと言えるのは、かれには「捧げた心臓がどうなったか」を知りたがっている死んだ仲間たちが見えてしまうからです(80話)。
死んだ仲間たちの願いが、かれには「良心の呼び声」として聞こえてしまうからです。
同時にエルヴィンが自由な選択をおこなったと言えるのは、かれには死んだ仲間の願いを「良心の呼び声」として聞き取ることができるからです。
それを聞き取ることが可能な存在としてかれが自分自身を作り上げてきたこと、まさにその意味においてかれが自由な存在であることを、この「呼び声」こそが証明しているからです。
エルヴィンは自分を悪魔だと認めていました。
あるいは、みずからを悪魔にすることに徹しました。
かれは悪魔メフィストフェレスとしての自分自身と契約したファウストだったのです(2.3.b を参照)。
しかしながら、かれはみずからの魂の真実を、内から湧きあがる「良心の呼び声」によって知ったのです。
このことは、あえて悪魔たろうとしてきたエルヴィンの自由の本質が、決して非モラリズムではなく、その根底において人間的な、倫理的な自由であった、ということを証明しています。
でも、かれに捨て石にされた新兵たち、その唯一の生存者であるフロックにとっては、やはりエルヴィンが悪魔に見えたのでした。
死を免れたフロックは思い至ります。エルヴィンには「まだ地獄が必要なんじゃないか」と。
そして、自分が「おめおめと生き残っちまった」ことの意味は、巨人に対抗するため、この悪魔を「再び蘇らせる」ことにあるのではないかと(84話)。
でも、エルヴィンは悪魔ではありません。
悪魔としての自分自身と契約した人間だったのです。
だからこそリヴァイは、真に価値のある自由をエルヴィンは最期に選んだのだと気づいたとき、かれを「悪魔」として蘇らせてはならないと考えたのです。
かれにふたたび重荷を背負わせることは、ひきつづき「悪魔」として巨人と闘ってほしいという「人類」の都合を、かれに押しつけることを意味したでしょうから。
それは、悪魔ではなく人間としてのエルヴィンがおこなった最期の選択を、否定することを意味したでしょうから。
そのようなエルヴィンの選択に報いるためには、かれを「休ませて」やる以外になかったのです。
...こいつを許してやってくれないか?
こいつは悪魔になるしかなかった
それを望んだのは俺たちだ...
その上... 一度は地獄から解放されたこいつを...
再び地獄に呼び戻そうとした... お前と同じだ
だがもう... 休ませてやらねぇと... (84話)
こうしてリヴァイは、エルヴィンに「救済」を与えました。
いな、メフィストフェレスでありファウストであったエルヴィンを救済したのは、神でも天使でも、盟友リヴァイでもなく、みずからの内から湧きおこる「良心の呼び声」に応答することを選んだ人間エルヴィン自身であった、というべきでしょう。
この自己救済を完結させるために、リヴァイはエルヴィン自身の代行者を務めたにすぎないのです。
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