「上」からお読みを。
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フロックと群衆
さて、なぜ「凡人」フロックが凡人のまま、ここまで徹底的にちゅうちょなく、血も涙もなく冷酷なマキャベリズムを実践できるかを考察してみましょう。
ポイントは、すでに述べたとおり、フロック自身の主観において、かれ自身はマキャベリスト的「君主」ではないという点です。
かれにとって、それは「悪魔」エレンなのです。
むしろフロックは、自分自身が凡人であり、弱者であることを受け入れ、そして「悪魔」に「使い捨て」られるべき「雑魚」にすぎないと認めています。
フロックの冷酷さは、このような自己評価、というより自己卑下と、無関係ではないでしょう。
みずからの値打ちを低く見積もる凡人が、同じ価値尺度を他の「凡人」にも当てはめるべきと考えるのは、ごく自然のことです。
みずからの価値を「悪魔」の生け贄になることに見出す凡人が、すべての凡人には「悪魔」の生け贄としての価値しかないと考えるのは、ごく自然のことです。
このような自己卑下の普遍化をつうじてこそ、「凡人」フロックはすべての人間にたいして残酷になれるのです。
そしてこの自己卑下は、結局のところ「悪魔」の非凡で抜きんでた力のみに価値があるという考え方を前提としています。
力こそすべて。すべては力によってしか決しえない。
この見解はマキャベリズムというより、ほとんどニヒリズムの域に達しています。
ただしフロックのそれは、レイス家のような受動的ニヒリズムとは対極の、能動的だけど攻撃的で排他的なニヒリズムというべきでしょう。
このニヒリスト的な力の信仰は、恐怖と表裏一体です。
力のほかに価値尺度がなければ、あらゆる問題は暴力によってしか解決できなくなるでしょうから。
それゆえに、力でことを決する者は、どんな脅威の芽でも潰さねば気が済まなくなり、かえって暴力から抜け出せなくなるのです。
これは、まさにキヨミがフロックに指摘したことですね。イェーガー派の率いるパラディ島は「狭く」なった世間で「殺し合いを繰り返す」だけだろうという(128話)。
恐怖こそが、というよりも恐怖だけが、イェーガー派に結束力をもたらします。
かれらが代表しているのは、脅かされる「群れ」です。
イェーガー派やその支持者たちが味方と認めるのは、共通の恐怖に伝染された「群れ」の一員だけです。あえて「群れ」に加わるのを拒む者は、それが敵ではないとしても、消されるべき「脅威」なのです。
たとえばオニャンコポンがそう扱われたように(126話)。
この「群れ」の目的は、「群れ」が「群れ」として生き残ることです。
個々人は、生き残る「群れ」の一員になることを欲しますが、そのためには「群れ」と異なる行動をすることができません。「群れ」の一部としての行動しか許されないのです。
だから、自分たちを救うために生け贄を要求する「悪魔」に、ただ「群れ」は奉仕するしかないのです。
こうして「悪魔」の道徳的善悪を顧みない決断への服従を強いる力は、「悪魔」からではなく「群れ」から、すなわち同調圧力として、生じてくることになる。
そこでは、嫌がる羊に他の羊が犠牲を強いるさまが見られることでしょう(125話)。
こうしてフロックの自己卑下――「悪魔」に「使い捨て」られる「雑魚」としての――は、いまや「脅かされる群れ」のあいだで、すなわち「イェーガー派」とその支持者たちのあいだで共有されるのです。
フロックもまた、この「群衆」の一員でしかありません。
たしかにかれは「群れ」の統制者の役割を引き受けていますが、それはかれ自身の資格においてではなく、あくまで「悪魔」(エレン)の代理としてなのです――フロック自身、みずからをエレンの「代弁者」と位置づけていますしね(126話)。
「群衆的」マキャベリズム
フロックをマキャベリストたらしめている構図は、やや複雑ですが、次のようにいえるでしょう。
すなわち、フロック自身はマキャベリスト的「君主」ではないとしても、かれがその一員であるところの、脅かされた平凡な人間たちの「群れ」こそが、それ全体として、一人のマキャベリスト的「君主」であるのだと。
この構図を「群衆的」マキャベリズムとでも呼んでみましょう。
マキャベリスト的「君主」としての群衆は、マキャベリスト的な決意に満ちています。
でも、マキャベリスト的な合理主義を実践するのは、つまり行動のための判断を下すのは、かれら群衆ではないでしょう。
「群れ」を導くのは「悪魔」です。すなわち、脅威への唯一の対抗手段とされる、善悪を超越した指導者です。
この構図のなかで、フロックのような「群れ」の代表が、「悪魔」に従う「群れ」のなかの第一人者として、マキャベリスト的に行動できるようになるのです。
これをマキャベリズムの一種と見なすのが適切かどうか、意見は分かれるかもしれません。
もしそう見なしてよいとすれば、それは本質的に、追従者(ついじゅうしゃ)のマキャベリズムであるといえるでしょう。
恐怖政治と全体主義
とはいえ、フロックと「イェーガー派」について論じてきたことは、マキャベリズムよりも、むしろ全体主義として解釈したほうがしっくりくるかもしれません。
「イェーガー派」の支配は、ナチズムの域にまでは達していないとしても、その萌芽というべきでしょうから。
とはいえ全体主義とは、マキャベリズムのような政治思想というよりも、一種の社会現象にほかなりません。
それを理解するには、全体主義の本質を定義しようと試みた哲学者、アーレント(1906-75)の考察が頼りになるはずです。
アーレントによれば全体主義とは、たんなる専制や暴政とは異なるものであって、その本質は恐怖です。
専制支配においては、無法な権力をふるう統治者と、恐怖に縮こまった従順な人民とがいます。
ところが全体主義においては、指導者も人民も、みなが恐怖に憑かれています。
そして、この恐怖に立ち向かうために「すべての人間の最も切実な利益すら犠牲にして顧みない」ことが是とされるのです。
こうして全体主義は、個人の法的権利には指一本触れることなく、個人の自由を圧殺してしまいます。
このことをアーレントは「空間をなくす」と表現しますが、これはつまり、選択の余地を奪うこと、他の選択肢などないと信じさせることだと理解すべきでしょう。
人間たちをぎゅうぎゅう締めつけることにより、全体的恐怖は彼らのあいだの空間をなくしてしまう。......全体主義の統治は、すべての自由の欠かすことのできない一つの前提条件を抹殺するのだが、何のことはない、その条件とは、空間なしには存在しえない、動く能力というものでしかない。
フロック率いる「イェーガー派」は、まさにこのことをしているのです。
かれらは「エルディアの自由」という大義を掲げながら、しかし実際には、恐怖を最大限に利用することにより、自由に行動する「空間」を、自由に考える余地を、人々から、そしてかれら自身から奪っているのです。
かれらが直面する「恐怖」は「全体的」なものであり、それゆえに「脅かされた群れ」の一員として考え、行動することを拒む者は、一人も居てはならないのです。
アーレントならば「イェーガー派」について、かれらが人々から「動く能力」を奪っているのだと指摘することでしょう。
実存としてのフロック
自己卑下を徹底した結果、マキャベリストになったフロック。
でもほんとうは、ただひたすらに自分を取るに足らない交換可能な存在へと貶めることは、かれにとっても耐えがたかったはず。
自己卑下を徹底し、だれもかれも「悪魔」の生け贄に捧げながら戦いつづければ、自分自身の価値を世界に向けて証明し、報いを得られるれる瞬間がきっと訪れるだろうと、そうフロックは信じていたはずです。
そうでなければ、エレンを止めようとするアルミンたちとの戦いのなかで「エルディアを救うのは!! 俺だ!!」と、英雄になりたい願望を吐露したりするでしょうか(129話)。
だとすれば、フロックが自己卑下を普遍化し、自分にも他人にも「使い捨ての雑魚」であることを強いたのは、逆説的にも、フロックという実存に固有の価値を証明する試みだったのです。
このことはまた、かれが他の新兵とともに「使い捨て」にされたシガンシナ区の戦いが、フロックという存在そのものを規定するほどに根深いトラウマ的出来事であったということも意味します。
このトラウマから解放されたいという願望もまた、たとえ無意識的なものとしてであれ、マキャベリスト・フロックの心を捉えていたのでしょう。
そういう心情が垣間見えるのは、フロックがジャンに「自由だよ!! もうお前らは戦わなくていい」「昔のジャンに戻れよ」と声をかけた一幕(125話)。
さっきまで血も涙もなく義勇兵の粛清に勤しんでいた人物とは思えない、無防備で打ち解けた表情を、フロックはジャンに見せているのです。
その筋の方の妄想が捗る場面かと拝察します。
このシーンにかぎらず、かれはジャンに対しては、対決する直前まで「同期の友だち」として接しているんですよね。
ジャンとそのようなつながりを保とうとするフロックのふるまいは、変わってしまう前の自分に、屈託なく「同期の友だち」と接していたころの自分に戻りたいという願望の表れなのでしょう。
「だからもう昔のジャンに戻れよ いい加減でムカつく生意気なヤローに」というセリフにも、むしろ昔のかれ自身を、すなわち「悪魔」の「使い捨て」の道具になってしまう前の無邪気だった自分を、懐かしむ気持ちがにじみ出ているように見えます。
しかしながら、力によってことを決するクーデター指導者としてふるまうかぎり、フロックがかつての自分に戻る道は失われているのです。
キヨミに指摘されてしまったように、ものごとを力と恐怖という尺度によってしか判断できない者は、すべての問題を暴力によってしか解決不可能にしてしまうのですから。
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