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マキャベリスト的ロマン主義者アルミンの挫折
エルヴィンの代わりに蘇ったあと、アルミンは「大事なものを捨てる」決断ができるマキャベリストではなくなってしまったように見えます。なぜでしょうか?
才能が失われてしまったわけではありません。マーレ奇襲作戦など、かれは随所で持ち前の作戦立案能力を発揮しました。
それにもかかわらず、アルミンはつねに、エルヴィン団長の代わりという立場を負い目に感じています。
エルヴィンの代わりは務まらなくても自分自身の特性を活かせ、仲間だけでなく「お前自身」を後悔させるな(大意)というリヴァイの励ましも(85話)、アルミンの重荷を軽減はしてくれなかったようです。
でも、それだけがアルミンの挫折の理由ではありません。
こっちの理由のほうが重大でしょう。
すなわち、シガンシナ区の戦いを境にアルミンは、マキャベリストとしての自己とロマンティシストとしての自己とを両立できなくなったのです。
敵が巨人たちだったと思っていたころは、壁の外の世界を見るというアルミンの夢と、そのために「大事なものを捨て」てでも戦うというかれの決意とは、矛盾なく結びついていました。
ところが、いまやアルミンが知った「壁の外」は、ロマンティックな未踏の地ではなく、無知や偏見に動かされ、パラディ島を敵視する、無数の人間たちに占有された世界だったのです。
それでも、アルミンは夢を見つづけます。いつか海の向こうの人々と「わかり合える」のではないか、いつか世界がパラディ島を祝福のうちに迎える日が訪れるのではないか、という夢を(106話)。
世界との和解を達成するという目的と、マキャベリズムという手段とは、絶対に相容れないものです。
隣国や敵国をうまく操って勢力均衡を作ろうとかではなくて、ほんとうの意味で「わかり合い」たいのであれば、マキャベリズムの出る幕はありません。
こうしてアルミンは夢をふくらませます。ミカサも同じ期待を抱いたようです。
でも、そのために二人と、父親の記憶をつうじて世界の残酷さを知ってしまったエレンとのあいだには、認識の落差が生じはじめました。
そして実際、世界がパラディ島に向ける憎悪は、島外の視察に出た調査兵団が目の当たりにしたように、手に負えないほど巨大で根深いものだったのです(123話)。
和解の道を見限り、先に行動を起こした親友エレンに引きずられて、アルミンはやむなくマーレへの先制攻撃を立案、実行し、成功させます――エルヴィンも顔負けの「無茶」な攻撃作戦を(104話)。
マキャベリスト・アルミンの面目躍如ですが、しかし当人の表情に満足感はありません。
それもそのはず、もはやアルミンは自分の持ち味を、自分の夢から遠ざかっていくためにしか役立てられないのですから。
そんなかれに追い打ちをかけるように、ほかならぬ親友エレンが、お前は「敵に肩入れ」したせいで決断力を失い、役立たずになってしまったのだと、アルミンを非難します(112話)。
アルミンの判断力や機転そのものが失われたわけではありません。
エレンが「地鳴らし」を発動したときですら、混沌とした状況のなかで、いまどんな危険因子があり、何にどう対処すべきであるかを、アルミンはすぐに見分けることができました(125話)。
でも、このような頭の回転のよさを、いったいどんな目標に向けて活用すればいいのか? それだけが分からないのです。
ついてミカサに声を荒げてしまったかれは「生き返るべきだったのは 僕じゃなかった」と哀しく悟るのでした(125話)。
ダメ押しとなったのは、ファルコを犠牲にして母親を取り戻そうとするコニーを、思いとどまらせられなかったこと。
ついに心折れたアルミンは、ファルコのかわりに自分の身を、コニーの母親である巨人に差し出したのでした。
そんなかれの脳裏に浮かぶのは、やはりエルヴィンの姿(126話)。
マキャベリストとしてのアルミンは、ここにいたって完全に挫折したのです。
アルミンにとってのエルヴィンと、実存としてのエルヴィン
マキャベリストとしてのアルミンが挫折することは、ある意味では、かれの復活直後に予言されていたことでした。
この予言を与えたのは、あの率直な凡人、フロックです。
エルヴィンの代わりにアルミンが生かされたのは、幼馴染たちやリヴァイが「私情」に流され「合理性に欠ける判断」を下したから、つまり「大事なものを捨てることができなかった」からではないのか。そうフロックは言い放ったのです(90話)。
またもやフロックは、意図せずして相手の痛いところを突きました。
「大事なものを捨てる」覚悟をせよというのは、アルミンのマキャベリスト的信念そのもの。
だとすれば、エルヴィンの代わりにアルミンが生きているという事実そのものが、アルミン自身の信念に反する結果なのです。
そうであればなおさら、アルミンは取り戻された自分の命を、なんとしてもエルヴィンの代わりとして役立てねばならないと考えたでしょう。
しかし、当のエルヴィンは「大事なものを捨てる」ことができる指導者である(とアルミンは信じている)のに、その代役としてのアルミンは、この信念に反して生かされている。
だから、自分はエルヴィンの代役であるという強迫観念に囚われているかぎり、アルミンは挫折するしかなかったのです。
でも、思い出してください。
エルヴィンの代わりにアルミンを生かしたのは、ほんとうはリヴァイでも、エレンやミカサでもなく、本質的にはエルヴィン自身の選択であったということを(2.5)。
エルヴィンは最後の戦いで「大事なもの」すなわち世界の真実を知るという宿願を捨てました。
しかしそれは、目的のためには手段を選ばないというマキャベリスト的決断からではありませんでした。
かれは、なにものにも代えがたいエルヴィン・スミスという一存在のすべてをかけた実存的選択を行ったのです。
すなわち、ほんとうに価値のある「わたし」を、仲間の死を意味づけ、自分の死の意味を仲間に託す「わたし」を選び取ったのです。
同じようにアルミンもまた、いまや選択を迫られているのです。ロマンティックな夢追い人としての自分と、マキャベリスト的な合理主義者としての自分とに、引き裂かれたまま留まっていてはいけません。
みずからの実存をかけて、ほんとうの自分を選ばねばならないのです。
みずからの選択を「悪」で終わらせない責任
さて、ここでのアルミンにとって、ほんとうの自分を選ぶとは、どういうことになるのでしょうか?
ちょっと前には、ハイデガーのいう「死に臨む自由」を手がかりに、いかにエルヴィンがほんとうの自己を選択したのかを考察しました(2.4)。
でもここでアルミンは、差し迫った死に直面しつつ選択をしているわけではありません。だから、いまは別の解釈枠組が必要でしょう。
サルトルの戯曲(劇作)『悪魔と神』が、ここでは役に立つかもしれません。
この戯曲はドイツ農民戦争および中世末期の騎士「鉄腕ゲッツ」を題材としています。
ただしサルトルの物語では、主人公ゲッツは貴族の私生児として蔑まれる傭兵隊長であり、その残虐な悪行によって、みずからの自由が証明できると思い込んでいます。
ところが、悪など誰でも実行できる、だが善を為しえた人間は一人もいないと断言する僧侶ハインリヒに挑発され、ならば自分こそが善を成し遂げてみせようとゲッツは宣言し、農民たちに愛と平等を説く預言者に転身します。
サルトルの描くゲッツの役柄や性格には、アルミンと似ているところは全然ありません。
それでも、ゲッツが迫られる選択は、アルミンが迫られる選択と同質なのです。まあ見てみましょう。
人間にはなしえないはずの善を成し遂げたい。それがゲッツの「夢」です。
そのためにゲッツは、でっちあげの奇跡まで起こして帰依させた農民たちに、ドグマティックな隣人愛の教えを広めます。
しかしその教えのせいで、領主たちに対する戦争への参加を求める他の村とのあつれきが生じ、最終的にゲッツの農民たちは虐殺されてしまいます。
夢破れたゲッツ。失意に沈むかれは、自分のことを疎む他村の武装農民たちに殺されて終わるつもりでした。
しかし、ゲッツが挫折するさまを見届けにきた僧侶ハインリヒとの対決をきっかけに、生きる気力を取り戻します。
突然、ゲッツは悟ったのです。
自分が挫折したのは、人間がみな悪をおこなうよう定められているせい、ではないのだと。
人間はそう決定されているから、人間は自由でないから、悪をなすというのではなく、むしろ自由であるがゆえに人間は悪を実行しうるのだと。
...... おれ一人で悪を決定した。おれ一人で善を発案した。いんちきをしたのはおれ、奇跡をやったのもおれ、今日おれを裁くのはおれ、おれの罪を許しうるのもおれ一人だけだ。おれ、つまり人間だ。
サルトル『悪魔と神』第3幕
この気づきは、サルトルの描くゲッツをして、自分の「夢」のオトシマエをつける決断へと駆り立てます。すなわち、すなわち農民戦争への参加をかれは決意するのです。
善をなすためと称して、民衆の愛と敬意を獲得するために、ゲッツは民衆のなかに入ることを選びましたが、それは最悪の結果に行き着きました。
だからといって、自分は失敗したと嘆いて死ぬことは、かれには許されません。
善をなすのも悪をなすのも人間の自由である以上、ゲッツがみずからの行いを嘆きつつ死ぬことは、まさにそのような死にかたによって、みずからの行為を悪として確定してしまうことを意味するのです。
それが究極の善であると夢見たのだから、ゲッツはこの選択に、善をなしうる自己を夢見た「わたし」に、オトシマエをつけねばならないのです。
だからゲッツは、愛を説く預言者から、自分自身に戻りました。すなわち、もとの傭兵隊長に戻りました。
そのうえで農民の側に立って戦うことを選んだのです。
みずからの夢のなかに描かれた幻のような自己を、ゲッツは放棄しました。
そのかわりに、ほんとうの自分、すなわち、愚かな夢を見てしまった「わたし」に対して、責任を引き受けることにしたのです。
ほんとうのゲッツは、残酷な指揮官です。反逆する部下は処刑し、敵よりも仲間を震え上がらせながら自軍を勝利に導く、悪魔のような将軍です。
そのような本来の自分として、最後まで農民たちとともに戦うことを、サルトルの描くゲッツは選んだのでした。
まさにこのゲッツと同じように、アルミンもまた実存的選択に、本来の自分自身に責任を負うことを迫る試練に、直面することになるでしょう。
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