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「弱い人」でありつづけるジャン
前回は、ジャンが自由な「状況内存在」となったこと、すなわち「今何をすべきか」を知り、状況を自分自身の責任において引き受けたことを論じました。
みずからの痛み、みずからの弱さを、自分だけの痛みや弱さではなく、他の「弱い人」たちと共通の痛みや弱さとして経験できる、そのような内面性、感受性を、もともとジャンはそなえていました。
この感受性に従いつつ、状況をかれなりに理解した結果、ジャンは調査兵団入りを決意したのです。
それゆえに、ジャンの「弱さ」は調査兵になってからも残りつづけます。
他者に対して、とくに顔をもった他人に対して、ジャンは冷酷になることができません。
中央憲兵団に襲われたとき、かれは馬車のなかに倒れ込んだ敵の一人を撃つことができず、反撃され絶対絶命の窮地に陥りました。
でも実は当の敵も、そんなジャンを見て一瞬ためらい、アルミンに射殺される隙を作ってしまったのですが(58話)。
かれを救うため、あえて手を汚したアルミンのおかげで、難を逃れたジャン。
リヴァイにとがめられ、自分の手を汚すことをためらわない覚悟を決めますが、だからといって人間を傷つけて平然としていることはできません。
中央憲兵団の「根城」の奇襲では、リヴァイ班はかれらを殺さないまでも、戦闘員と非戦闘員との区別なく重傷を負わました。
ジャンだけでなく、かれと同様に対人戦闘をちゅうちょしていたサシャやコニーもまた奇襲に参加していたのですが、戦いのあとにはジャンだけが、震える手を止めることができなかったのです(60話)。
シガンシナの決戦で、ハンジさんが敗北したライナーの首を断とうとしたときにも、かれを殺すのを一旦待つよう、ジャンは思わず声を出してしまいました。
ライナーを巨人化した仲間に喰わせて、その能力が奪えるかもしれないと、ジャンは進言します(83話)。
でも、この進言を思いついたからハンジさんを止めたのではなく、ハンジさんを止める理由として進言を思いついたというのが正しいのでしょう。
ハンジさんが刃を鞘から引き出した瞬間、ジャンは思わず目を見開いて驚いていました。
「鎧の巨人」から出てきて、人間としての生身をさらした同期の仲間ライナーを殺すことに、ジャンは恐れとためらいを感じずにはいられなかったのです。
「心が痛まなくはないけど仕方ないよね」という感じで視線をそらすミカサとの落差といったら。
まだありますね。マーレ奇襲作戦中に「車力の巨人」にとどめを刺そうとした瞬間にファルコが割って入った場面です。
ジャンはとどめの一撃を外してしまいます(104話)。
かれが逡巡したせいなのか、そのとき「車力」が蒸気を噴き出したせいなのか、分からないように描写されていますが、ここで問題なのは事実がどうかではありません。
ジャン自身が、自分がためらったせいで攻撃を外したかもしれないと自覚していること自体が重要なのです。
まだ子供のファルコが割って入った瞬間、ジャンが条件反射的にためらったのは事実なのです。
こうしてジャンは、他の人間を傷つけることに、いつまでも慣れることができません。
みずからを「弱い人」として選ぶこと
ときにネットでは、ジャンが覚悟の決まらぬ半端者として揶揄されることがあったように記憶しています。
たしかに兵士としては、かれは半端者というべきでしょう。
でも思い出してください。敵を撃つことができなかったジャンの「ぬるさ」を咎めながらも「それはあの時あの場所においての話」「何が本当に正しいかなんて俺は言っていない」とつけ加えた、リヴァイ兵長の言葉を(59話、1.4.b も参照)。
このセリフは、次のことを示唆しているように見えます――本作品はジャンの弱さを、決してかれの未熟さとしてのみ描いているわけではない、ということを。
それでは、ジャンが「弱い人」のままでありつづけることは、どんな意味をもつのか。
それを考察するためには、サルトルのいう「状況内存在」の概念が、ひきつづき手がかりとなるでしょう。
状況と自由の関係について、サルトルは登山を例にとります。
状況とは、踏破しがたい山のようなもの。高く険しい山を前にして、人はあまりにちっぽけな存在です。
ところがその一方で、ある山の「険しい」「踏破しがたい」という性質は、この山に挑もうとする登山家との関係においてしか立ち現れてきません。
そもそも登山に何の関心もない都会人にとっては、同じ山であっても、険しい山であるとか、人間の卑小さを思い知らせる厳しい大自然であるとか、そうした意味を帯びることはないでしょう。
したがって、山を「乗り越えるべき状況」として意味づけるのは、そして山を前にした人間を「弱さ」として意味づけるのは、登山家の自由な企てなのです。
こうして「自由は状況のなかにしか存在しないし、状況は自由によってしか存在しない」。
このことを、サルトルは「自由の逆説」と呼びます。つまり、状況が自由に先立つのでも、その逆でもなくて、自由と状況は相互を決定しあうのです(サルトル『存在と無』第4部第1章)。
一般的に弱さとは、状況に逆らう意志または能力がないことを意味します。
ところが「状況内存在」としての人間は、まったく反対の意味で「弱さ」を存在することもあります。
すなわち、状況に流されるのではなく、状況を乗り越えようと企てるからこそ、状況内存在はみずからを「弱い」と知覚するのです。
険しい山を眼前にして登山家が自覚する「弱さ」は、山の踏破という企てのために鍛錬してきた者が自己に与える、自由な意味づけです。
そのような「弱い」登山家を、都会のもやしっ子は、弱いとは見なさないでしょう。
ジャンもまた、状況を引き受ける覚悟を決めましたが、それは弱者たちの一員たる自己として、マルコのいう「弱い人の気持ち」を理解できるジャンとしてでした。
そんなかれは、決して客観的に「弱者」ではなく、むしろ兵士としては優秀な部類に入るし、恐怖に負けない強い意志をそなえてもいます。
ところが「弱い人」としての自己を生きているがゆえに、ジャンは敗北した者や子供を殺すことに、条件反射的なためらいを感じずにはいられないのです。
この「弱さ」もまた、ジャンが自己を「弱い人」として自由に意味づけたことの、付随的な結果なのでしょう。
「状況内存在」としての人間は、状況を乗り越えようと企てるからこそ、あえて自己に「弱さ」という意味を与えうる。
この点において実存的自由は、ニーチェ的な「力への意志」としての自由とは対極的です。
実存主義的な自由観によれば、人間は、非凡で有能であるから自由でいられるのではなく、状況をみずからの責任において引き受けるからこそ自由なのです。
だから、自由な「状況内存在」は、自分が「その他大勢」の一員でしかないことを嫌がったり恐れたりはしません。
むしろ、わたしを「その他大勢」の一員として発見すること自体が、わたしの自由な企てによってしか可能ではないのです。
サルトルはいいます。わたしが自己を「他のもろもろの存在者のただなかにおける一存在者」として見出すことには「わたし自身の責任でわたしを選ぶ」ことが先立つのだと。
......わたし自身の責任でわたしを選ばないかぎり、自己を周囲の存在者たちのなかの一存在として実感することができないし、......そもそも「~のなかの」という観念に意味を与えることさえできない。
まあ、要するに、です。
自分の弱さを自覚することにも色々な意味があって、それは状況に流されることを意味するかもしれないし、ままならない人生への恨み節かもしれないし、あるいは自分の無責任さへの言い訳かもしれません。
しかしそれは、本来の自分を「弱い人」として認めつつ、弱者のまま何者かになろうとする、そういう自由な行為でもありうるのです。
わたしが弱者であること、平凡な「その他大勢」の一人であることを認めながら、そういう存在として状況に立ち向かおうとする、そのような意志の表れでもありうるのです。
毎度ながら古い例で恐縮ですが、あえて自分を「臆病で弱っちい... ただの人間さ...!!」と称する、某魔法使いの精神が、まさにそれです(そのうちアニメでも出てくるであろう楽しみな場面ですね)。
ジャンの最後の試練
そうだとすれば、ジャンが「弱い人」のままでありつづけることも、かれの実存的自由の欠くべからざる構成要素として理解しなければなりません。
かれは「弱い人」のまま、「その他大勢」の一人のまま、変化していく状況を、そのたび引き受け、戦ってきたのです。
そんなジャンも、さすがに「地鳴らし」発動後の状況には流されかけました。
恐怖政治を敷こうとするフロックの「もうお前らは戦わなくていい」「自由だよ!!」という言葉に誘われて(125話)、そのままイェーガー派の新体制にとりいって「英雄」としての特権的生活に甘んじようかと考えたのでした(127話)。
ここでのジャンは、俗にいう意味での弱い人になりかけています。すなわち、意志の弱さや、流されやすさとしての弱さです。
かれが自己の本来性として選びとった「弱さ」は、それとはまったく意味が違うことは前述のとおり。
でも、ミカサとともにハンジさんに呼び出され、エレンを止める話をもちかけられたとき、ジャンはふたたび自己の本来性を思い出しました。
ハンジさんは言います。ほんとうは自分も、状況に流されて「すべてを忘れて生きよう」と思いかけたのだけど、でも死んだ調査兵団の仲間が、14代団長である自分を「見ている...気がする」のだと。
きっと仲間たちの誰も「この島だけに自由をもたらせばそれでいい」という「ケチなこと」は言わないだろうと。
この言葉に触発されて、ジャンもまた死者たちのまなざしを見てしまいます。
親友マルコの視線を受け止めながら、かれは言います。「俺は...まだ調査兵団です」と(127話)。
興味深いことに、調査兵たちの霊とともに現れるマルコやその隣のイアン(ミカサが見ているのでしょうね)は、調査兵団に所属したことがありません。
かれらの共通点は、この場にいる三人の生者に、意図するとせざるとにかかわらず、意味を託して死んだことのみ。
それは三人の良心が、仲間の幽霊というかたちをとって表れていることを示しています。(だから、もし幽霊たちが生きていたらハンジさんの考えに同調したのかどうかという問いは、まったく的外れでしかありません。)
生前のマルコにとって、まさかジャンが自分の言葉を真に受けた末に調査兵団のコアメンバーになってしまうとは、まったく予想外だったでしょう。
だから、ジャンを見ているマルコの霊は、マルコに気づかされた「ほんとうのわたし」を貫かねばならないという、ジャン自身の内なる義務感の表現でしかないのです。
こうしてジャンは本来の「弱い人」に戻ります。
フロックの評する「昔のジャン」「いい加減でムカつく生意気なヤロー」(125話)としてのかれではなく、マルコが発見してくれた本来のかれに。
すなわち、弱者の一員として「その他大勢」の苦しみを理解できるがゆえに「何をすべきか」がわかる本来のジャンに。
自由な「状況内存在」としてのジャンに。
「多少は泣き虫になれと要求する」本来の自己
「弱い人」は、平凡な「その他大勢」は、リヴァイやエルヴィンや「地鳴らし」決意後のエレンのような、覚悟ガンギマリの特別な少数者と、同じやり方で自由になるわけではありません。
みずからの生命も顧みず、信じた目的のために意志を貫くという訳にはいかないのです。
強い人は、躊躇も、動揺も、混乱もしません。鉄のような自制心によって、内なる苦悩を外にはおくびも見せません。
そのさまは、人に称賛や感嘆、さらには畏怖の念すら引き起こします。
対照的に「弱い人」は、ためらい、戸惑い、取り乱します。顔を歪ませ、泣きわめきます。
そのさまは、ときにみっともなく見えます。
でも、人が「本来的」であるためには、人が自由になるためには、そういうみっともなさが必要なのだと、サルトルは断言します。
みっともなく泣きわめくことは、身をもって「ことがらの価値」を経験することだからです。
したがって、本来の自己であろうとする人間は「多少は泣き虫に」ならねばなりません。
......苦しみ、うめき、涙を流すべきであって、決してことがらの価値を自分から隠してはならない。本来性はわれわれに、多少は泣き虫になれと要求する。本来性と、自己へのほんとうの忠実さは。
サルトル 『奇妙な戦争』1939/11/27
「地鳴らし」発動後の状況を引き受け、エレンを止める一行に加わったジャンも、みっともなく取り乱しました。
なにせ、ついさっきまで殺し合っていた敵同士が肩を並べているのですから、みな心穏やかではいられません。
しかも、エレンの行き先に見当をつけるため、意に反して連れてこられたイェレナは、かれらが互いにどんなに残酷なことをしたかを思い出させ、心もとない協力関係をぶち壊そうとしました(127話)。
でも、そこまではジャンは耐えていたのです。
ライナーたちがマルコを口封じのため巨人に喰わせたという真相を告げられたときにも、かれが伝えたマルコの最後の言葉「俺達はまだ話し合っていない」を聞き、それに希望を見出そうとします。
ところが、罪悪感の重みに苦しみ、罰されたい願望をもつライナーが、ついに白状してしまいます。
マルコを巨人に喰わせた張本人のかれが、喰われるマルコを見て人格分裂をきたし、怒りに燃えて巨人を殺したことを。
ついにジャンは我慢の限界に達しました。
憤怒の叫びとも悲しみの慟哭ともつかないうめき声をあげ、ライナーを打ちのめしたのです。
「弱い人」であるジャンには、昨日までの敵と手を組んででもエレンを止めに行く覚悟が、すっかりできあがっていたわけではなかったのです。
でも、この一波乱は、すくなくともそれがないよりは、かえって一行の互いに協力する決意を強めたのではないでしょうか。
翌朝、ジャンはライナーに「お前を... 許せねぇ」と言いますが、その表情にはもはや心底からの怒りはありません。
言葉とは裏腹に、ジャンはライナーを半分は許しています。
ジャンがライナーをタコ殴りにしたのは、ライナーたちがマルコを殺したと知ったからではありません。
そのことがどれほど重い罪に値するのかを、ジャンの代わりに当の罪人が言い表してくれたからです――「頭がおかしく」なるほどの「罪悪感」として。
それまでジャンは、敵と結んだ心もとない協力関係を保つために、この罪を咎めることを控えようとしていました。
むしろ、ある意味ライナーのおかげで、マルコを喪失したことの怒りと悲しみを、ジャンはすなおに表現することができたのです。
親友を別の仲間によって殺されたことの怒りと悲しみという「ことがらの価値」を、割り引くことなく、こらえきれない憤怒と悲嘆として経験することができたのです。
ジャンにとって、かれの本来性を教えてくれたマルコは、かけがえのない人物でした。
だから、ジャンが本来の自己を貫くためには、つまり敵と手を組んででも人類みなごろしを止めに行くためには、ジャンにとってマルコがどれほど価値のある存在だったかを確認する行為が、どうしても必要だったのです。
それは、ジャンにとって自己確認の行為にほかならなかったのです。
こうしてようやく、ジャンは「弱い人」としてのかれ自身のままで「人類を救う」戦いに身を投じるために、準備が整ったのでした。
ジャンは戦いの最後まで「弱い人」のまま、調査兵団の一員としての自分を貫き通したのです(138話)。