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本来性と非本来性
「ほんとうのわたし」を選ぶこととしての自由を、ジャンについて考察しました。
実存主義によれば、ほんとうのわたしとは、純粋に内面的な自己ではなく、むしろ「状況内存在」としての自己です。
特権者であれ、平凡な「その他大勢」の一員であれ、すべての人間が、自由な「状況内存在」としての自己を引き受け「ほんとうのわたし」になれるかどうかを試されているのです。
こう考えると、人間が本来的になることは、ずいぶんと困難な仕事であるように見えます。
ありのままの自分を解放するだけでは、本来的になれる訳ではなさそうです。
当初のジャン、本来の自己を選ぶまえのジャンは、自分を「その他大勢」のなかの特権者にしておきたいという、まさに「ありのまま」の利己的な願望を隠しませんでした。
しかし「ありのまま」の自分の欲求を肯定すること、つまり(狭い意味での)みずからの利害関心に従って生きることが、本来的ではないと評することは、わたしたちの日常的感覚とは矛盾しないでしょうか。
自分の利害関心に従って生きることは、褒められたことではありませんが、でもありふれた、当たり前の生き方ではあるのですから。
ところが実存主義者は、そういう生き方を非本来的と呼んではばからないのです。
『進撃の巨人』においても、非本来性の問題が扱われています。
憲兵団に入ったアニは、腐敗した組織を正すのだと意気込む新兵マルロとの会話において、次のように言いました(31話)。
大半の人間は「他人より自分の利益を優先させ 周りがズルをすれば一緒に流される」。
そういう奴らは「実際クズだと思うし悪いヤツに違いない」けれど、でも「それも 普通の人間じゃないの?」と、アニはマルロに問います。
「そうやって流されるような弱いヤツでも 人間だと思われたいだけ......」と、アニは歯切れ悪く話を結びました。
アニのいう「流される弱いヤツ」とは、実存主義の用語で言いなおせば、すなわち「状況」を「引き受ける」ことをせず、ただそれを「受け入れる」にすぎない存在です。
こういう人間の在りかたは、たしかに非本来的ですが、しかしアニがいうように、そのような非本来性とは「普通の」人間の在りかた、デフォルトの実存なのです。
さしあたりは「頽落」している「普通の」人間
人間のデフォルトの在りかたは非本来的であるという命題は、実はハイデガーの存在論において、哲学的に根拠づけられています。
「本来性と非本来性という二つの存在様態」を、すなわち、自己を「獲得」している状態と、自己を獲得したように「見える」だけの状態とを区別したうえで、かれは次のように述べます。
......現存在は......その存在において自己を「選び取り」手に入れることもあれば、自己を失うか、さもなくば、もとより自己など獲得してないのに、それを入手したように「見える」にすぎないこともありうる。
そして「日常性の存在の基本的様相」は、つまり普通の人間の在りかたは、自分を獲得していない状態、すなわち「頽落」(たいらく Verfallen)であると、ハイデガーは断言します。
現存在は、本来的な自己で在りうるものとしての自分自身から、さしあたりは、つねにすでに脱落し、そして「世界」へと頽落している。
ただし、ハイデガーはこうつけ加えてもいます。
「頽落」という用語は「なんら否定的な評価を表明するものではない」と(同前)。
この点をふまえると、アニによる「普通の」人間の描写は、ハイデガーのいう「頽落」した日常的な現存在の評価よりも辛口です。
かのじょは「普通」の人間を、自己利益を優先し、状況に流される人たちとして描いたうえで「悪いヤツ」「弱いヤツ」と評しました。
ただし、そういう「悪いヤツ」「弱いヤツ」でも「普通の」人間としては承認してほしいと、そうかのじょは願っています。
アニ自身が、みずからをそういう「普通」の「弱いヤツ」と見なしているのでしょう。そういう自分が好きではないが、しかし自分がありのままで許容されたいとも欲しているのです。
でも、ハイデガーがいうように、非本来的な「普通の」人間であること自体は、善いとも悪いともいえません。
「流される弱いヤツ」らは、私益を優先することもあれば、その逆に、美徳や名誉へと流されることもあるのです。
『進撃』においても、物語の序盤、エレンの決意表明に感化された同期の仲間たちは、調査兵団入りという勇敢で立派な決断へと「流され」ました。
トロスト区壁上の大砲を整備していた仲間たちや、成績優秀者上位10番以内に選ばれ憲兵団入りの資格をもつはずのコニーがそうです。
それに、同じく成績優秀者のサシャも。
ところが、その日にふたたび超大型巨人が現れて壁を破ったため、トロスト区は巨人がひしめく地獄へと一変します。
エレンに感化された同期生の多くは、訓練の甲斐なく巨人に喰われ、そして生き残った仲間たちの心にも、巨人への恐怖が深く刻みつけられたのでした。
もうあんな目には遭いたくない。
心底そう思いながら、それでもコニーは調査兵団に入るべきかどうか悩みます。
今度はエレンではなく、あの露悪的な利己主義者だったはずのジャンが調査兵団入りを決意したことに、感化されたからです(21話)。
アニには「自分に従ったら」と言われましたが、けっきょくコニーは、それにサシャも、調査兵団入りを選んでしまいました。
サシャは「嫌だよぉ...」と泣き言をいわずにはいられません。
コニーは「もういいや... どうでもいい」と諦めを口にします。
どちらも、ジャンのように自覚的に決心を固めたわけではなさそうです。
ジャンの決意表明に影響されて、自分自身の動機を語ることばをもたないままに、つまり、なかば「流され」て、サシャやコニーはそう選択したのです。
二人は、勇敢な選択をしました。それは客観的に見て、称賛されるべきものです。
でも、この選択はいまだ、かれら自身の実存的選択には、すなわち「状況内存在」としての本来の自己の選択には、達していません。
この苛酷な状況を、自分自身の状況として引き受ける準備が整っていないのです。
こうして、調査兵団入りを選んだコニーやサシャは、それでもさしあたりは非本来的なままです。
(ただし念のため、ここでいう非本来性という語もまた、とくに道徳的な否定の意味を含んではいないことに留意してください。)
自己欺瞞
こう反論されるかもしれません。
とにかくも調査兵団入りを選んだコニーやサシャは、ハイデガーの存在論を当てはめれば、命がけの仕事を買って出た「死に臨む存在」であり、本来的になったと見なすべきではないかと。
しかし、生命の危険を引き受ける者が、つねに本来性という威光を付与されると考えるのは危険なことです。
こういう解釈は、大義やイデオロギーのために命を投げ出すことの正当化に結びつきかねないからです。
そもそも、命をかけると言い張るだけで本来的な自己に達することができるという思い込みは、善いとか悪いとか以前に、真実ではありません。
だからこそサルトルは、ハイデガーが死を特権化していることに不満をもち、そのことでかれを批判したのです。
サルトルは指摘します。命がけの決断ですら、本来の自己を選ぶことではなく、むしろ自分を偽ることに役立つかもしれないと。
戦士の命知らずのヒロイズムを「自分を安心させる」手段にすることだって、人間には可能なのです――以前にも引用したくだりですが(2.3.a)。
......ドラマの時が過ぎ去ってしまい、たえず死のことを考えながらみじめったらしく生きねばならなくなったとき、ヒロイズムの昂揚の一つ一つが結局のところ、自分を安心させるなんらかの無邪気な方法を隠しもつ、ごまかしとなる。......戦争は存在の正当化として役立ちうる。戦争は「そこに在ること」(être-là 現存在)の重さを軽減し、その言い訳となるのだ。
サルトル『奇妙な戦争』1939/11/30
このことは、一般化すれば自己欺瞞と呼べるでしょう。
そしてサルトルは「自己欺瞞」(la mauvaise foi)を、非本来的な実存の考察におけるキータームの一つとして用いています。
かれによれば、単なる嘘と自己欺瞞とは別物です。
嘘つきは、他人には虚偽を見せようと試みつつ、自分自身では真実を知っています。
しかし自己を騙す者は、ほんとうは自分自身が知っているはずの真実を、どうにかして自分自身から隠そうとするのです。
わたし嘘つきであるかぎりは真実を知っていなければならないが、わしたが騙される者であるかぎりでは、この真実はわたしには覆い隠されている。
非本来的な人間、状況に流される「普通の」人々は、つねに自己欺瞞的であるとはかぎりませんが、日常生活においてしばしば自己欺瞞を用います。
たとえば、今すべきだけど、本音ではやりたくないことを、なにか偶然的な事情のせいにして先送りにする態度がそれです。「明日から本気出す」とか「ダイエットは明日から」とか。
そういう態度を、自分は日頃どれくらい利用しているかと、自問してみてください。
ときどき? たまに? そんなことはないでしょう。細かい自己欺瞞を拾い出せば、もっとたくさん見つかるはずです。わたしはきっとたくさんありすぎて、考えたくもありません。(あっ、これも自己欺瞞ですね。ぴえん。)
なすべきことについて「今日は都合が悪い、明日には......」と自分に言い訳をすることは、自己欺瞞の一種です。
非本来性から脱却しようと試みるならば、わたしたちはまず、こういう自己弁明を捨て去らねばならないでしょう。
「ねーちゃん! あしたって いまさッ!」
しかし自己欺瞞は、怠け者の自己弁明のかたちをとるとは限りません。
サルトルによれば、自己欺瞞のうまい手は、自分がまるで「事物」であるように、善人、悪人、キャフェのボーイ、等々としてふるまうことです。
そういう型にはまった存在としてしか自分が行為しえないかのように、誰よりも自分自身に対して信じさせることです。
だとすれば自己欺瞞とは、自分をごまかす怠け者の専売特許ではありません。
反対に、一見して誠実にふるまっている者が、実は自分を騙すためにそうしている、ということもありうるのです。
このことをサルトルは、誠実さによって誠実さから逃れ出る、という風に言い表します。
誠実な人は、自己を一つの事物として構成するが、それはまさに、この事物的条件〔誠実さ〕から、誠実さの作用そのものによって逃れ出るためではないか。
誠実な自分を演じることで、本来の自己に向き合う誠実さから逃れること。
そういう複雑なやり方で、実のところ冒頭のシーンのアニは、自己欺瞞を遂行しているのです。
つまりこうです。
「普通の」「流されやすい」人間が、腐敗した組織の特権にあやかりたくて憲兵団入りするのは、わが身かわいさゆえ、弱さゆえである。
わたしが壁内人類を滅ぼす作戦に加担しているのもまた、わが身かわいさゆえ、人間としての弱さゆえである。
事物のように外部から作用する力によって動かされて、さながら川面に落ちた木の葉のように「流され」て、わたしは仕方なく壁内人類を攻撃しているにすぎない。
そのようにアニは、自分に言い聞かせているのです――ほんとうはそうではないと半ば気づいているはずの自分自身に対して。
このことは、記事を改めて詳しく考察してみましょう。
この自己欺瞞からアニがどう脱していくかも含めて。
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