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アニの自己欺瞞
日常的な「普通の」人間のデフォルトは、非本来性である。
つまり非本来性それ自体には、善いも悪いもない。
ただし人間は、本来の自己を選んでいるようでいて、実は自分自身を騙しているにすぎないという、自己欺瞞に陥ることがしばしばある。
前記事で見たアニのセリフは、このような自己欺瞞として読むことによって、その意味が明瞭となるでしょう。
アニはマルロに言いました。自分のような「流される弱いヤツ」は「実際クズ」だし「悪いヤツに違いない」けれど、でも「それも 普通の人間じゃないの?」と。
ここでアニは、自分を含めた大多数の「普通」の人間を、つまりはかのじょ自身を、両義的に評価しています。
つまり「悪いヤツ」と否定的に評しつつ、同時に弁明し正当化したのです。
たしかにアニが語りかけた相手は、かのじょ自身ではなくマルロです。
かれにとっては、アニの話には考えさせるものがありました。すなわち、腐敗を正すには、個々の人間よりもシステムを改革すべきではないかという気づきを、マルロはアニから得たのでした(31話)。
しかしそのことは、この話が語り手であるアニ自身への自己弁明でもあることを決して打ち消しません。
自分を含めた「流される弱いヤツ」を、多数派だからといって正しいと肯定はできないと、アニは述べました。
ある意味では誠実に、かのじょは自分の非を認めています。
でも、この誠実さは、ほんとうの誠実さを回避し、自己弁明に逃れるための見せかけでしかありません。
すなわち、ここでアニは表向きには、自分が特権を目当てに憲兵団入りする「弱いヤツ」であると一見誠実に認めながらも、まさにこの誠実さを利用して、かのじょが壁内人類への攻撃者であるという事実を認めることを避けているのです。
しかも、もとより周囲のだれもかのじょの正体を知らないのだから、このごまかしは、アニ自身に向けられたものとしか考えられません。
だとすれば、こういうことになります。
すなわちアニは、腐敗した組織の特権にあやかりたくて憲兵団入りした「普通の」人間と同じ資格で、自分もまた「普通」の人間なのだと、自分自身に言い聞かせているのです――たとえ自分が手を染めている悪が、壁内人類みなごろしを目指す作戦であるとしても。
「普通の」人間は、事物のように、さながら川面に落ちた木の葉のように「流され」る。
そうだとすれば、自分もまた「普通の」人間として、つまり事物のように「流され」て、仕方なく壁内人類を攻撃しているにすぎない。
自分にそう信じさせようと、アニは努めているのです。
この自己弁明を、なぜ自己欺瞞だと言えるのか。
ほんとうのアニは、自分の所業が、どこにでもいる「流される弱いヤツ」らの俗悪さとは比べ物にならないほど巨大な悪だということを、よく分かっているはずだからです。
トロスト区で巨人に喰われた同期生の骸に対する「ごめんなさい...」こそ、アニが心の底で感じていることの嘘偽りない素直な表現であるように見えます(18話)。
アルミンにも、アニはほんとうは優しい人だと指摘してもらえましたしね――秘密を隠していることにも、ほぼ同時に勘づかれましたが(21話)。
根は優しいから、同期生と仲良くしつつもかれらを殺す作戦を平然とやってのけるライナー(実は人格分裂したうえでだけど)には、アニは嫌悪感を隠せなかったわけです。それこそ「何度殺そうとして思いとどまったかわからない」ほどに(132話)。
しかし、かのじょは自分の罪悪感に向き合いたくありません。事物のように、川面に流されていく木の葉のように、自分には選択の余地はないのだと、かのじょは思いたいからです。
要するに、アニの自己欺瞞の構図は、次のとおりになります。
自分を含めた大多数の「流される弱いヤツ」が正しいとは、わたしは思わない。そういう意味での自分の非を認める用意が、わたしにはある。
ところが、ほんとうのわたしは、日常における小さな悪とは比較にならない、大それた悪事への責任を負っている。
でも、それが自分の責任だとは思いたくない。わたしは否応なく、状況に強いられて、まるで事物が外部の力によって動かされるように、この悪事に加担したにすぎないのだから。
こうしてアニは、自分の非を認める誠実さを利用することによって、さらに大きな悪事に手を染めていることの責任に、かのじょが心の底では感じているはずの重い責任に、向き合うことを回避するのです。
言い訳の相手としての「ほんとうのわたし」
誠実さですら、みずからの真の責任から目を背けることについての自己弁明でありうることが、こうして判明しました。
しかしながら、人間が実存的に自由であり、自分自身を作る存在であるのだとすれば、自分を騙して生きることも自由、ということにはならないでしょうか。
たしかにその通り、と実存主義者サルトルは認めることでしょう。
サルトルは自己欺瞞を、それ自体として悪いことだと断じているわけではありません。
それでも究極的には、自己欺瞞は「卑怯」であり「下劣」であるとサルトルは考えます。
ただし、そういう「卑怯」さや「下劣」さを断罪するのは、裁かれる者自身の「本来性」によってであるというのです。
……自分の全面的自由に目を覆う人たち、それを私は卑怯者と呼ぼう。自分の存在は……偶然性にほかならないのに、それが必然であることを証明しようとする人たち、それを私は下劣漢と呼ぶ。しかし卑怯者も下劣漢も、厳密な本来性の面においてのみ裁かれうるのである。
わたしが嘘をつき、言い訳をする相手としての自己。
それこそが「ほんとうのわたし」であり、それこそが自分自身に嘘をつく自己を裁くはずなのです。
アニが「ほんとうのわたし」を引き受けるまで
ストヘス区で敗北し、追及を免れるため水晶体で体を覆ったアニは、4年後、エレンが発動した「始祖の巨人」の力によって、強制的に解き放たれました。
ヒッチと再会するアニ。かのじょが島の外に逃げることを助けるかわりに、ヒッチはアニがどんな気持ちで壁内人類を攻撃したのかを問いただします。
水晶体でいた頃に話しかけてくれた元ルームメイトに対して、そして自分自身に対しても、アニは偽りなく率直に、いまの考えを言葉にしました(125話)。
もとよりアニは、マーレの「戦士」(知性巨人の継承者)として使命を負わされることに、うんざりしていました。それだけでなく、すべてのことが馬鹿らしい、無意味なことにしか見えなかったのです。
「自分を含めて命というものに 価値があるとは思えなかった」。
つまり、アニは自分自身を生きることができなかったから、他人の命も大事だとは思えなかったのです。自分はニヒリストだったと認めているわけですね。
でも、ほんとうにアニは、すべてを心底どうでもいいと思っていたのでしょうか。
自分自身を無価値だと信じきっていたら、自分のような悪くて弱いヤツでも人間として見てほしいという、あのマルロに投げかけたセリフは出てきたでしょうか? (31話)
他人の生き死になど無意味だと信じきっていたら、トロスト区で同期生の遺体に謝ったりしたでしょうか? (18話)
アニの心のなかには、ニヒリストとしての自分に抗う自分もまた存在したのです。
前記事で見た、かのじょが嘘をつき、弁明をしていた相手としての「ほんとうのわたし」は、ニヒリズムを拒否する自己だったのです。
そんな「本来の」アニの拠りどころは、かのじょの養父でした(125話)。
アニをマーレの「戦士」に仕立て上げるため、さまざまな格闘術を仕込んだ養父は、マーレから恩恵を得るためにそうしたのでしょう。
でも、実際にアニが「戦士」となってパラディ島に向かう朝、養父は、自分の教育が「すべて間違っていた」と認め、かのじょに「すべて捨てていいから帰ってきてくれ」と懇願したのでした。
その養父を、アニは「私の父親だった」と許し、受け入れます。
こうして「帰りを待つ父親」のもとに戻ることが、かのじょの唯一の生きる希望となりました。
このアニこそが、希望を抱くアニこそが、自分も他人もどうでもいいと信じるニヒリストとしての自分にやましさを感じる「本来の」アニだったのです。
このことをヒッチに対して、そして自分自身に対して、アニは正直に認められるようになったのでした。
アニは言います。「私と同じように 他の人にも大事な人がいる...」と。
「もうすべてがどうでもいいとは思わない」と。
「わたしは これまでに取返しのつかない罪を犯したと思ってる」と。
でも、そのうえで「父の元へ帰るためなら また同じことをやる」と、かのじょは言い加えたのでした。
自分の罪を認めつつ「また同じことをやる」と称するアニ。こやつ、性懲りもなく、と非難されてしまいそうなところ。
でも、どちらのセリフも、アニが自己弁明をやめ、自分自身への責任を引き受け、本来的になったことを表していると読むべきです。
わたしが「取り返しのつかない罪を犯した」のは、事物のように、川面に浮かぶ木の葉のように、状況に「流され」てではなく、けっきょくは「父の元へ帰る」という希望のためにであり、つまり自分自身の自由と責任においてであった。
それを認めるからこそ、同じ目的のためなら「また同じことをやる」だろうと、アニはあえて宣言してみせたのです。
こうしてアニは、度を越えた罪人としての、しかし自分自身に責任を負う自由な存在としての「ほんとうのわたし」を引き受けたのでした。
本来性からの脱落と「ほんとうのわたし」の再選択
しかし、サルトルは言っています。「本来性をつかんで離さずにおくことはほとんど不可能」だと(サルトル『奇妙な戦争』1939/11/27)。
少なくとも、一度だけ本来の自己を選択すれば、あとはずっと本来的でいられる、という訳にはいかないのです。
エレンを止める戦いに赴いたアニは、ふたたび本来性から脱落します。
マーレのエルディア人が収容されているレベリオを救うことを、一行があきらめたからです――あきらめたというより、その時間が残されていなかったのですが。
アニは戦意を失います。父親を救えないなら、もはや誰とも殺し合いたくないというのです――エレンとであれ、目的が対立した場合にミカサとであれ、誰とであれ(130話)。
このアニは、本来の自分に正直なのではないでしょうか。
父親と再会するためなら何でもするし、そうでなければ他人と争いたくないというのは、かのじょの嘘偽りない意志であるはず。
「本来の」アニは、マーレのためだの人類のためだの、そういう大義のために行動したことはありません。
いつのまにか相思相愛のアルミンも、アニはアニのままでいいんだからって思ってくれてたじゃん(132話)。
それでも、アニは状況を引き受けたのではなく、ただ行動を諦めたということは事実。
しかも本心では、それをかのじょは後悔しているのです。
そんなアニは、エレンのもとに向かうアルミンたちと別れた後、キヨミが「ジークとエレンを結びつけた」罪を告白するのを聞いて、心を揺さぶられます(133話)。
パラディ島に肩入れしたことを後悔しているかと尋ねたアニに、キヨミは答えます。
「時が遡る」ことはない、つまりそのこと自体は悔やんでも仕方がない。
それでも後悔せずにいられないのは「一族の利益と家名を守ることを」を最優先にして、エルディア人が「生きる道」を「すべて尽くして摸索」するのを怠ったことだと。
「損も得もなく 他者を尊ぶ気持ち」の大切さに、すべてが台無しになる前に気づけなかったことだと。
「他者を尊ぶ気持ち」という一言に触発され、アニが想起するのは、マーレの「戦士」候補生時代の仲間、パラディ島での104期訓練兵の仲間、そして想い人アルミンの姿。
アニは内から湧き上がる悔恨の念を感じたことでしょう、仲間たちと最後まで戦う道を選ばなかったことに。しかし、後悔先に立たず。
...と思ったら、ファルコが「自分、鳥の巨人になれちゃうかも」とか言い出しました。
みずからの内心に、本来の自己に咎められたアニ。
もうやることは決まっています。
というわけで、来ちゃった! (135話)
こうしてアニは「ほんとうのわたし」を選びなおしたのです。
その予期せぬ結果として、ほんとうは生き延びていた父親にも、かのじょは再会できたのでした。
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