進撃の巨人・自由論

わたしは自由であるか。自由とは何なのか。深堀りすれば自由の謎が解けるマンガもあるかもしれない。

3.7 人種差別と「普通の」人間 ~ 本来の自己を選ぶ自由

  

『進撃』における人種差別

実存主義によれば、普通の人間のデフォルトは非本来性、すなわち、本来の自己を見失っている状態であるという話はしました(3.3)。

この非本来性という状態そのものは、善でも悪でもありません。

でもそれとは別に、本質的に邪悪だと呼ぶべき「普通の」人々の状態もあります。

それは人種差別(または人種主義、レイシズム)、すなわち、ある種類に括られた人間たちに対して、その自由を根本的に否定しようと欲する情念に陥ることです。

 

『進撃』において、軍事大国マーレにおけるエルディア人は、現実世界におけるナチス統治下のユダヤ人を連想させるしかたで、人種隔離の対象として扱われています。

それだけではなく、巨人化という架空の人種的特性ゆえに、かれらは生きる軍事兵器としても利用されています――名誉と恩恵を与えられる「戦士」は知性巨人として、罪人とされた者は無垢の巨人として。

この扱いを正当化するのは、エルディア人は償いきれない罪を負っているという教義。

それは作中では、まったく無根拠な風説というわけではありません。

作品世界の歴史によれば、かつてエルディア人が巨人化の能力を利用して、世界中に帝国を拡げ、圧制を敷いたことは事実です。

しかも、エルディア帝国が内戦をきっかけに滅びたのは、いまだ約100年前でしかありません。つまり、遠い昔と呼べるほど過去のことではないのです(99話、100話を参照)。

でもそのことは、マーレや世界のエルディア人に対する憎悪が人種差別的であることを打ち消さないでしょう。

個々の具体的なエルディア人を、各自の行為や思想などに関係なく、ただエルディア人であるという遺伝的事実のみをもって「悪魔の末裔」と蔑み、奴隷として、軍事兵器として扱うのですから。

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86話「あの日」

 

マーレを出ても、エルディア人は決して憎悪から逃れられません。

戦士候補生ウドいわく、むしろエルディア人への敵意は外国のほうが「マーレの比じゃない」のです(98話)。帝国マーレに巨人攻撃を受けただけに、いっそう恐怖と憎悪が根深いのでしょう。

外国にも「収容区」があるというので、マーレの外でも、エルディア人の隔離は当然の扱いと見なされているのだと推察されます。

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98話「よかったな」

 

エルディア帝国主義とマーレ帝国主義

ついでながら、作中におけるエルディア人への人種的憎悪のイデオロギー的機能にも留意しておきましょう。

虚偽の信念体系という意味において、この憎悪はイデオロギーなのです。

それは表向きに称するエルディア帝国主義の贖罪には決して寄与しておらず、むしろマーレ帝国主義にかたちを変えた同じ罪を正当化するために役立てられているのですから。

 

マーレだけでなく過去のエルディア帝国でも、知性巨人を保有する名家は、エルディア人を「無垢の巨人」として軍事利用していました(89話)。

だとすれば、エルディア帝国時代の世界では、民族・人種だけでなく身分・階級の分断もまた意味をもっていたはずです。「無垢」として利用されていたのは、低い階層の人たちが大半だったことでしょう。

つまり、その秩序はエルディア人のためというよりも、支配的な身分・階級集団の利益のためのものであったというべきなのです。

だとすれば、エルディア帝国主義の責任もまた、そういう構造的、国家的な責任として明らかにされる必要があります。

帝国の有力集団が自民族を軍事兵器として利用しながら他民族を蹂躙したというのが、ことの真相であるはずなのですから。

(なお現実世界の戦争責任・植民地化責任についても、抽象化された道義的責任に留まるものとしてではなく、具体的な国家体制の責任として追及され、補償されねばならないというのが、問題の本質であるはずです。)

 

ところがマーレはそうせず、そのかわりに宿命論的な人種的憎悪を煽ることで、エルディア人の軍事利用を正当化しています。

エルディア帝国のやり方を踏襲して、マーレが自前の帝国主義を展開するためには、そのほうが都合がいいからでしょう。

 

このイデオロギーの狙いを見抜くことはさほど難しくありませんが、しかし作中世界では、それは極めて大きな影響力を発揮しています。

隔離され、軍事利用されている当のエルディア人たちの大多数が、このイデオロギーを内面化し、自分たちの奴隷扱いを仕方のないことと諦めきっているのです。

たとえばグリシャの父のように。

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86話「あの日」

 

そして後続の世代、知性巨人の継承が名誉であると教え込まれた「戦士候補生」たち、とりわけ、マーレの「善良なエルディア人」と「島の悪魔」という体制に都合のよい区別をすっかり信じ込んでいるガビのように。

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109話「導く者」

 

「凡庸人の傲慢」

ただしエルディア人への敵意は、マーレ帝国主義イデオロギーとしてのみ機能しているわけではありません。  

「普通の」人たちがもつ人種的憎悪としては、それは個人の態度や性格を形成する要素としても働いているのです。

そういうものとして一般の人々の心を捉えているからこそ、人種差別は政治的道具(イデオロギー)として利用可能になっていると言えるでしょう。

 

人種差別をおこなう人々は、ごく普通の人間、たとえば人当たりのよさそうな掃除夫です。

ところが、親切に声をかけてやった相手がエルディア人だと気づいたとたん、かれは相手にバケツの水と「職場を穢し」た悪魔という罵声とを浴びせるのです(114話)。

かれらは、人間が貶められ、奴隷として使役されることには嫌悪や恐怖を抱くでしょう。しかし、エルディア人が貶められ、奴隷として使役されることは当然だと信じ、それを喜びさえするでしょう。

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114話「唯一の救い」

 

人種差別の担い手が「普通の」人間であることは、人種的憎悪という現象における本質的要素だと、サルトルは喝破しています。

かれは『ユダヤ人問題の考察』というテクストで、反ユダヤ主義者は、自分が「普通」で「取るに足らない」人間であることを選び、それを内心で誇っているのだと指摘しました。

反ユダヤ主義者はうぬぼれない。かれは自分を、中位の、ごく普通の人間だと、つまり取るに足らぬ人間だと考えている。......しかし、この取るに足らないことを彼が恥じていると思ってはならない。......いや、そうであることを選んだといえよう。

サルトルユダヤ人』第1章

 

そのような凡庸さを誇り、群衆の一人であることに安住する人間こそが、反ユダヤ主義を選ぶのだとサルトルはつけ加えます。

なぜなら、反ユダヤ主義は「独りではなれない主義」だからです。

......自分がいかに背が低くても、さらに身をかがめることを忘れず、群れのなかから頭が出て自分自身と対決させられることがないよう気をつける。反ユダヤ主義者になったのも、それが独りではなれない主義だからである。

サルトルユダヤ人』第1章

www.kinokuniya.co.jp

 

このことは、前出の掃除夫のような、エルディア人を蔑み憎悪するマーレ人たちによく当てはまるように見えます。

「普通の」マーレ人たちは、たいした苦労も責任も負わずに済む凡人のままでも、卑しむべき「悪魔の末裔」を罵ることによって、無能な元帥のいう「英雄の国マーレ」(93話)の一員であることを誇れるのです。

一般のマーレ市民は、新聞を読んでいるだけで「領土が広がるのだから楽でいい」、しかも「鉄砲玉を浴びるのが手懐けた悪魔の末裔ならなおのこといい」という魂胆なのです――マーレが巨人の力に頼りきっていることに批判的な、エルディア人戦士隊の隊長であるマーレ軍人テオ・マガトに言わせれば(97話)。

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97話「手から手へ」

 

でも、なかにはこんな奴もいます。

世の中の大多数は「平和な社会が当たり前にある」と愚かにも信じているが「俺は違う」と称する男。

エルディア人の少女をなぶり殺しにしたり、巨人に変身させたエルディア人に別のエルディア人を喰わせるのを見たりして「残酷な世界の真実と向き合い 理解を深めている」のだと称する男。

そうやって「人は皆いつか死ぬ」という現実を受け入れる「心構え」を作っているのだと称する男。

グリシャの妹フェイを殺し、そして一網打尽にされたグリシャらエルディア復権派を「楽園送り」にした、グロス曹長です。

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87話「境界線

 

日々、死を覚悟しながら生きるために、エルディア人を殺しているのだとグロスはうそぶきます。

かれは自分をハイデガー的な「死に臨む存在」なのだと自負しているようですが(2.4.a 参照)、もちろん実際には、そんな立派なものではありません。

「悪魔の末裔」をいたぶり殺すことで、ただただ「英雄の国マーレ」の一員としての優越感や使命感を満たしているにすぎないと見るべきです。

 

ユダヤ人を蔑み、ときにリンチすらする「普通の」反ユダヤ主義的フランス人に、サルトルは「凡庸人」の「傲慢」を見出しました。

かれらが犠牲者にふるう暴力は、サルトルによれば「凡庸人のえり抜きを作ろうとする試み」の一つなのです。

そこには凡庸人の熱に浮かされた傲慢がある。反ユダヤ主義は、凡庸さそのものに価値を与え、凡庸人のえり抜きを作ろうとする試みにほかならない。

サルトルユダヤ人』第1章

 

グロス曹長が自分を「普通の」人々とは違うと信じ込めるのは、ただたんに平均的マーレ人がエルディア人に浴びせる以上の残虐な暴力を、かれがあえて実行してみせるからでしかありません。

かれは「凡庸人のえり抜き」として、暴力の暗い愉しみにふけっているにすぎないのです。

 

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