進撃の巨人・自由論

わたしは自由であるか。自由とは何なのか。深堀りすれば自由の謎が解けるマンガもあるかもしれない。

3.8 神でも悪魔でもない「普通の」人間になること ~ 本来の自己を選ぶ自由

 

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「神でも悪魔にでもなれる」人間

エルディア人を「悪魔」とさげすむ「普通の」マーレ人たち。

かれらは「悪魔」を虐げるふるまいをつうじて、みずからを「凡人のえり抜き」にします。

むしろそういう「普通の」マーレ人たちの所業こそが、悪魔的、非人間的だと言うべきでしょう。

でもその一方で、悪魔のように非情な奴らによって「悪魔」と罵られる側の人間たちもまた、みずからを悪魔のごとき存在に変えてしまうかもしれません。

つまり、みずからを非人間的にしてしまうのは「普通の」人間だということ。

この宿業から、いかに人間は脱却しうるでしょうか?

 

マーレの人種隔離に抗する「エルディア復権派」に加わることを決意したグリシャ。

圧制が悪であるなら、それに抵抗することには大義があります。

しかし抵抗を組織していくために、グリシャは安易で危険な手段に、すなわち熱狂に訴えました。

始祖ユミルが巨人の力をもって「荒れ地を耕し 道を造り 峠には橋を架けた」と読める古代の記録の断片を拡大解釈して、かれら「ユミルの民」であるエルディア人とは、実は人類の幸福に寄与したのだと信じ込んだのです。

自分たちはいわばの加護を得た偉大な民族の末裔だったと、グリシャは信じたいと欲したのです。

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86話「あの日」

 

こうしてグリシャは、人間の理性と良心に働きかけるかわりに、現状に不満をもつ人々が信じたいものだけを与えようとしました――というよりも、かれ自身が信じたいものだけを信じようとしたのでした。

そうやって熱狂的な地下組織の指導者となったグリシャは、最終的には自己を、体制内に幼い我が子を一種のスパイとして送り込む毒親たらしめたのです(0.4 参照)。

そんなかれは、少なくとも息子ジークにとっては、悪魔に憑かれたような恐ろしい人間として映ったのでした(114話)。

 

ジークの密告によって、ついに復権派は壊滅します――そうでなくともマーレ当局は、ほどなくして復権派を突きとめたでしょうが(86話、114話)。

グリシャの希望は潰え、そしてかれの命もまた(巨人化を強いられることで事実上)潰えようとしていました。

ところが、そのとき。

マーレ軍人の一人エレン・クルーガーが、エルディア復権派の影の指導者「フクロウ」としての、そして「進撃の巨人保有者としての正体を明らかにし、復権派の「楽園送り」の任務を遂行していたマーレ兵たちを一掃したのです(87話)。

 

グリシャと二人きりになったエレン・クルーガーは、かれに真実は何だと問われて、次のように答えます。

「この世に真実など無い」と。

「誰だって神でも悪魔にでもなれる 誰かがそれを真実だと言えば」と(88話)。

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88話「進撃の巨人

 

だからといって、エレン・クルーガーはニヒリストというわけではありません。

敵を悪魔と決めつけたり、みずからの願望に神がかりの権威を与えたりするのではなく、ただ自分自身を自由な人間としてのみ認め、その自分に責任をとらねばならないと、そうかれは考えているのです。

 

「希望が終わるところに倫理がはじまる」

正体を現した「フクロウ」ことエレン・クルーガーは、グリシャに命令しました。

ふたたび立ち上がり、エルディア人の自由のために戦えと。

余命いくばくもない自分から「進撃の巨人」を引き継ぎ、壁の王から「始祖の巨人」を奪うために壁内に潜入せよと。

ところが、マーレ当局に徹底的に痛めつけられ、恐怖と苦痛を刻みこまれたグリシャは、もはや戦意喪失の様相。

妹や仲間の仇であったマーレ当局者たちが巨人に殺されるのを見ても、かれには復讐の喜びどころか、ただただ恐怖しか感じられませんでした。

熱狂から解かれて、グリシャは凡庸な「普通の」人間に戻ったのです。

 

しかしエレン・クルーガーにとっては、そんなグリシャこそ適任なのです。

すなわち、普通の人間としての、ただし「あの日 壁の外に出た」自由な凡人としてのグリシャこそが、みずからの能力と意志を継ぐにふさわしいと考えたのです。

エレン・クルーガーはグリシャに迫ります。自分と同じくグリシャもまた、自分が始めた「物語」に責任を負わねばならないと。

俺達は自由を求め その代償は同胞が支払った

そのツケを払う方法は一つしか無い

俺は ここで初めて同胞を蹴落とした日から

お前は妹を連れて壁の外に出た日から

その行いが報われる日まで進み続けるんだ

死んでも 死んだ後も

これは お前が始めた物語だろ (88話)

 

かれの言葉を受けて、ついにグリシャは立ち上がったのでした――ささいな自由を求めただけの平凡な子供だった「わたし」自身に責任を負う、本来のグリシャ・イェーガーとして。

いまやグリシャは、エルディア人の自由のための戦いを、ほんとうの意味で自分自身の戦いとして引き受けたのです。

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88話「進撃の巨人

 

ただしそのためには、この挫折、この絶望を、すなわち自分が率いるエルディア復権派の壊滅を、耐えがたい苦痛とともに経験することが必要でした。

この絶望を知ることによってのみ、グリシャ実存的な意味において倫理的になったのです。

すなわち、神でも悪魔でもない「わたし」という存在そのものの本来性に向き合うことが可能になったのです――「悪魔の末裔」でも、神のごとき「ユミルの民」でもなく、自由でしかいられなかった「普通の」少年だった「わたし」に。

いっさいの希望を失わねばならない。希望(将来の生活、人間の完成可能性など)が終わるところに、倫理がはじまる。

サルトル『奇妙な戦争』1939/12/4

 

神でも悪魔でもない人間を愛すること

こうしてグリシャが実存的な倫理の境地に立ったからこそ、かれに「進撃の巨人」を継がせるまえに、エレン・クルーガーは忠言したのでしょう。

「同じ歴史を」「同じ過ちを」繰り返さないために「妻でも 子供でも 街の人でもいい 壁の中で人を愛せ」と(89話)。

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89話「会議」

 

憎しみと争いの連鎖を断ち切るために「人を愛せ」。

このメッセージは、見かたによっては、ヒッピー風の「ラブ&ピース」に似たものだと解釈されるかもしれません。

でもエレン・クルーガーがいいたいのは、違うことでしょう。

かれが伝えたいのは、神でも悪魔でもない「普通の」人間としての自己を見失うな、ということです。

言い換えれば、グリシャやエルディア人がただ自由になるのではなく、どういう存在として解放されるかが重要なのです。

 

神のごとき偉大な民族として想像された「ユミルの民」を自由にすること――それにグリシャら復権派は失敗したばかりです。

世にいう「悪魔の末裔」としてのエルディア人を解放すること――これは他ならぬグリシャの息子が後に目指したことです。

そのどちらでもなく、エルディア人があくまで「普通の」人間として自由になるためには、どうすればいいのか?

その方法を見出すためには、グリシャは自己を、神でも悪魔でもない「人」を「愛する」存在たらしめねばならない。

そういう趣旨のことを、エレン・クルーガーは伝えたかったのではないでしょうか。

人間は「神でも悪魔にでもなれる」と知っているかれは、そういう「神」や「悪魔」になってしまう宿業からこそ、人間が解放されねばならないと考えているのではないでしょうか。

 

「進撃」を継承し、パラディ島に移り住んだグリシャは、エレン・クルーガーの忠告をそういう意味で理解し、よく実践していたように見えます。

使命を果たすため孤独に進みつづけたグリシャのことを、かれが島で出会った最初の友キースや、後にかれの正体を知った息子エレンは「特別な」存在と見なしました(71話)。

でも実際には、パラディ島におけるグリシャは、あくまで「普通の」人間として生きることを欲し、そして「普通」の人間としてのエルディア人を自由にすることを求めたのです。

もちろん「普通の」人間とはいっても、他者を悪魔と見なしたり、自分を偉大な民族に属すると思い込んだりする「傲慢な凡人」のことではありません。

自分の喜びを知るがゆえに他人の喜びを欲し、自分の悲しみを知るがゆえに他人の悲しみを憐れむことができる、自由で平等な人間たちの一員という意味で、グリシャは「普通の」人間であることを欲したのです。

 

だからグリシャは、新しい家族を、すなわちカルラとエレンを愛し、二人を自分の任務に巻き込むことをぎりぎりまで避けたのでした。

だからグリシャは、かなり早い時期にその存在を突きとめていた「壁の王」から「始祖」を奪うことを、ぎりぎりまで控えていたのでした。

壁外世界の記録や、恐らく調査の結果などを書きためながら、どんな方法がありうるかを、グリシャはぎりぎりまで思案していたのでしょう。

ついにマーレが壁内人類への攻撃をはじめ、いよいよレイス家から「始祖」を奪うべき局面に至っても、グリシャはかれら一族を殺すことを心底ためらい、一度はそれを放棄すらしたのでした(120話、121話)。

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121話「未来の記憶」

 

わたしのなかの「悪魔」

自由で平等な人間たちの一員という意味で「普通」であることは、自分を凡人として群衆のなかに埋没することと同じではありません。

サルトルによれば、人種差別主義者(レイシスト)の本質は、他者を悪魔として貶めることで自己の「普通」さを確認する「傲慢な凡人」でしたが、しかしそういう「凡人」たちこそが「悪魔」的、非人間的でした(3.7)。

だとすれば、非人間的ではなく人間的な「普通の」人間であるためには、むしろ各人は、まさしく人間の「普通の」状態のなかにこそ「悪魔」あるいは非人間性が潜んでいるということを、自覚すべきでしょう。

 

『進撃』における「普通の」人間の非人間的側面をテーマに考察するためには、やはりガビ周りのエピソードを挙げるべきでしょうね。

当初かのじょはマーレによるエルディア人への憎悪をすっかり内面化していたので、マーレが「悪魔の末裔」を敵視するのとまったく同じしかたで、パラディ島にすさまじい敵意を向けていました。

つまり、ガビは被差別者でありながらも、同時に人種差別主義者のまなざしを共有していたのです――悪魔を罵ることにより、わたしを「普通の」われわれの一員として規定しようと欲する「傲慢な凡人」のまなざしを。

そんなガビは、敵の視点に立ってみることができるファルコの話が理解できません。

レベリオ区を「島の悪魔」が急襲したのは「マーレの戦士」に攻撃された「報復」だろうというファルコの推測に対して、かれらは「私達とは違う」「殺されて当然の残虐な悪魔」だと応じることしか、ガビにはできないのです(105話)。

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105話「凶弾」

 

優秀な戦士候補生であるガビは、ロボフを射殺し、かれの立体起動装置で飛行船に潜り込み、そしてサシャをも撃ち殺しました。

そのことが波紋となり、やがてかのじょ自身を根底から揺さぶります。

パラディ島の兵団の拘束から逃げたガビとファルコは、かつてサシャに命を救われたカヤの助けで、元マーレ兵のニコロに会うことができました。

ところが、ガビが射殺したサシャは、ニコロにとってもカヤにとってもかけがえのない大切な人だったものだから、二人の激しい憎悪によって、ガビは不意に打ちのめされたのです(111話)。

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111話「森の子ら」

 

このときガビは、それまでの価値観を根本的に揺さぶる衝撃を、しかも同時に二つも経験しました。

第一に、人種的憎悪とは質の異なる、親しい人を奪われた「普通の」人間の悲しみと憎しみを、ニコロとガビにぶつけられたこと。

二人によって、文字通りガビは殺されかけました。

 

そして第二に、娘を殺された夫婦が、目の前にいる娘を殺した張本人をかばい、許したこと。

サシャの父は言いました。

娘がガビに殺されたのは「森を彷徨ったから」であると。

つまり、人間を道に迷わせ、たがいに憎しみあうよう仕向ける世界から、娘が出られなかったせいであると。

ならば、せめて「子供達はこの森から出してやらんといかん」し、そのために「我々大人」には「過去の罪や憎しみを背負う」責任があるのだと(111話)。

そんなサシャの父は、ググると「聖人」とサジェストされますが、実際はむしろ、いい意味で「普通の」人間にすぎません。

まだ若い娘が、もっと幼い子供に殺されたと聞けば、人の親は、その子供を憎むよりも、むしろこんな悲惨な殺し合いに子供を巻き込む世の中を、おかしいと感じずにはいられないでしょう。

そういう世の中を作っている大人にこそ責任があると、感じずにはいられないでしょう。

そういう「普通の」父親や母親が、サシャの両親なのです。

人種的憎悪に曇らされていないかれらの目には、パラディ島の大人もマーレの大人も、等しく責任ある大人なのです。

 

こうしてガビは「普通の」人間の弱さと強さを、同時に知ります。

それも、かのじょ自身のように人種的憎悪に目が曇っていない「普通の」人間の弱さと強さを。

だから、ガビは言います。

パラディ島には「悪魔なんていなかった...」と、そこには「人がいるだけ」だと(118話)。

いまやマーレの人種主義的イデオロギーから解放されたガビは、しかし自己欺瞞には陥りませんでした。

つまり、自分のおこないをイデオロギーだけのせいにして、かのじょが責任から心理的に逃れようとすることはなかったのです。

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118話「騙し討ち」

 

巨人に襲われる窮地をガビに救われたカヤ。

かのじょはガビに「お姉ちゃん」すなわち恩人サシャの影を見ました。

もはやカヤは心のなかではガビを許しています。だから、どうして「悪魔」の一員であり、しかも「あなたを殺そうとした」自分を助けたのかと、そうカヤはガビに尋ねたのです。

ガビは答えます、自分こそが「悪魔」だったのだと。

体制から名誉を得るために人を殺してきた自分を、ガビは「私の悪魔」と呼びました。

つまり、それを自分自身にのみ責任がある非人間性として認めたのです。

カヤと同様に弱さを露呈したニコロが、言葉を継ぎます。ガビのいう「悪魔」は、カヤのなかにも、そして自分のなかにもいるのだと。

だから「世界はこうなっちまった」のだと。

それでも「森から出る」「出ようとし続ける」しかないのだと(124話)。

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124話「氷解」

  

「普通の」人間のなかにこそ、人を「悪魔」に変える弱さがある。

そう理解したガビやカヤやニコロは、今後どう生き、何を欲し、いかに激しく状況に振り回されようとも、人間性だけは見失うことがないでしょう。

 

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