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サシャの食欲と内なる感情
アイデンティティと自由というテーマについて哲学者大放出による解説を終えたところで、『進撃』の登場人物の考察を続けましょう。
そろそろ、かのじょにも出てきてもらわねばなりません。
ある意味では作中一番の自由人、サシャ・ブラウスです。
サシャはその怒涛のごとき食欲という設定を活かされて、コメディーリリーフの役回りが多いですが、でもそんなサシャの食欲というギャグ要素ですら、自由の考察に含められなくもありません。
一般に哲学者は、食欲をはじめとする本能的な欲望に従うことを辛口に評価しがちです。
他人にだけでなく、自分の情念に支配されることも自由の喪失だと考えるのです。
でも、食べなきゃ死んじゃうのが自然の定め。食欲を満たすこと自体に罪はありません。それに人間の食事は、本能の充足のみならず、文化でもあります。
したがって、食べるという行為においても、人間性を、自由を、読み取ることができるはず。
まあサシャは野獣のごとく肉にくらいついていたわけですが......(72話)。
でもそのサシャの食欲ですら、純粋に本能的、動物的なものではありません。
ケニー率いる対人立体起動部隊と殺し合ったあとは、サシャですら食欲を失っていました(67話)。
ルソー風にいうと、サシャの内的感情が生身のかのじょの感覚を圧倒している状態なわけです。
このように、まったく本能的であるように見える欲求、たとえば食欲においても、情念に対して、みずからの「内なる声」は、心から湧きおこる感情は、葛藤をもたらしうるのです。
「自然のままに生きる」といっても、身体的な感覚を満足させるのと、心そのものが感じたことに従うのとは、ルソーによれば別のことなのですから。
われわれは自然の衝動に従っていると思っているが、実は自然に逆らっているにすぎない。自然がわれわれの感官に語りかけることには耳を傾けるが、われわれの心に語りかけることは無視しているのだ。
サシャの恐怖心と内なる感情
それをふまえて、ある意味で食欲よりも身に迫るプリミティブな情念、すなわち恐怖を見てみましょう。
トロスト区での戦いにおいて、立体起動装置のガス補給拠点に侵入した巨人を排除するための、即席の作戦に加わったサシャ。
ところが巨人を仕留めそこね、あわや返り討ちの危機に。ミカサに窮地を救われたものの、かのじょの心は恐怖に屈してしまいました(9話)。
この恐怖は、跡を引きずります。
調査兵団加入後も、サシャは刻みつけられた恐怖から自分を解放できません。
それでも恐怖と戦いながら、巨人から避難できずにいた少女(カヤ)をどうにか助け出そうとするサシャ。
そんなかのじょの言動が、放心状態の少女には、なんともぎこちなく見えたようです。
「何でそんなしゃべり方なの?」と唐突に問われ、たじろぐサシャ(36話)。
このエピソードでは興味深いことに、サシャにおける恐怖という抗いがたい情念が、別種の感覚、かのじょのぎこちない言動の原因となっている別の感覚と、混ざって表れているように見えます。
予告してしまうと、サシャのぎこちなさは、かのじょの外面ではなく、内面的な感情に関わるものです。
ここでも、情念と「内なる声」との葛藤に、サシャは投げ込まれているのです。
この葛藤とその解決を読み取ることが、サシャの自由と本来性を読み解くためのカギとなるでしょう。
森の外に出たサシャの居心地悪さ
サシャのぎこちなさは、故郷の森を離れ、かのじょが自然体では生きられなくなったことに起因するようです。
キース教官によく絞られるほど、サシャは自然体で欲望のままに生きていたはずではないのか? いえ、むしろあれでも、かのじょはかなり自分を抑制していたのです。
もともとサシャは、ありのままの自分を変えたくない、狩人の一族として森のなかで自由に生きてきた自分を捨てたくない、と望んでいました(36話)。
そんなかのじょの一族にも、ウォールマリアの崩壊が転機をもたらします。
狭くなった壁内世界で人口を養うために、森を明け渡して農地にし、一族は馬を育てよと、王政に求められたのでした。
サシャの父は、求めに従おうと考えています。
壁内世界が狭くなったせいで、狩人の生活も苦しくなっている。
「同族のみの価値観」で生きていくか、それとも「世界が繋がっていることを受け入れ」て他の人たちと協調して生きるか、そのどちらかしかない。
一族とともに「未来」を生きるため、サシャの父は後者を選ぶというのです。
それに対して「何で私らを馬鹿にしてるヤツらのために」と反発するサシャ。
かのじょの口ぶりからは、狩人に対する偏見が作中世界に存在することが窺い知れます。とはいえ、公式の差別(被差別身分の賤業として体制に指定されている、みたいな)とまではいかないようです。
サシャの父が、これを機に一族は森を出ようと提案するのは、そうした事情も考慮したうえでのことなのかもしれません。
同時にかれは、反発する娘の心に、外部の人間と接することを恐れる「臆病」さがあることも見抜きました。
そんな臆病な娘に度胸をつけさせるため、父親は娘を、同世代との共同生活を強いられる訓練兵に志願させたのでしょう。
父親が見抜いたとおり、サシャは外部の人間との共同生活に馴染めずにいたようです。
イヤイヤ、鬼教官のまえで芋を食ったり(15話)、知り合ったばかりの同期生(ミカサ)に食事を分けてとねだったり(16話)、好き放題やってるやんけ! とツッコミの一つも入れたくなりますが......。
しかしながら、そういう素の自分を出すことで、サシャは周りから浮いてしまっています――芋女という不名誉なあだ名を授かったり、いじめっ子キャラ(ユミル)に目をつけられたり、鬼教官をやりすごすために「サシャが放屁した」とミカサに濡れ衣を着せられ(そしてパンで買収され)たり(17話)。
そのことにサシャ自身が、はっきりとした拒否感とまではいかないにせよ、ぎこちなさを感じているはず。
学校のクラスで、変な奴、いじられ役として定着してしまい、心の底ではじゃっかん不本意なんだけど、かといって評判を変えることもできないから、いじられ役を仕方なく受け入れる――そういう子の胸中に押しとどめられた、一抹の居心地悪さ、周囲に馴染めない感覚を、サシャも心に抱いているのでしょう。
それがかのじょの言動において、ぎこちなさとして表れ出ているのだと推察できます。
そんなサシャの心境に、親近感をもつ読者もいるのではないでしょうか。
ぎこちないサシャの内面的葛藤
サシャのぎこちなさの本質にいちはやく気づいたのは、かのじょをパシリにしていたユミル(36話)。
かのじょは、ただのいじめっ子ではありません。壮絶な過去を経験しているユミルだからこそ、あの自由気ままな「芋女」サシャが、実は自分を押し殺していることを見抜けたのでしょう。
いつもサシャは、同期に「敬語」で「馬鹿丁寧な喋り方」をするが、それはかのじょが周囲にどこか馴染めずに「作った自分で生きて」いこうとしているからに違いない。
そう見て取ったユミルは、そんな生き方は「くだらない」、だから「お前の言葉で話せよ!」と、サシャに奮起を促します。
しかし、そうは言われても急に言葉づかいを変えられない、ぎこちないままのサシャ。
かのじょの自己抑制が、たんに外部から強いられたものではなく、むしろかのじょの内面的葛藤に由来するものだからでしょう。
すなわち、ありのままの自分でいたいという願望と、外界の人間と共存できる自分になろうという意志(こちらはなかば父親に強いられたものではありますが)との狭間で、かのじょは自分のアイデンティティを定められずにいるのでしょう。
そんなサシャに、クリスタ(ヒストリア)が助け舟を出してくれました。
「今だってありのままのサシャの言葉でしょ? 私はそれが好きだよ!」と。
まあたしかに、今さらサシャが口調を変えたところで...... とユミルも応じます。
一連のやりとりに、なにか感じ入るところがあった様子のサシャ。「あはは」と思わず笑いがこみ上げたのでした。
ここでサシャの心に響いたのは、ユミルとクリスタ、両方の言葉だったと見るべきでしょう。
ありのままの自分を押し殺すべきではない。でも、他人にあわせて生きていこうとする自分だって、ありのままの自分を構成している。
だとすれば、両方をありのままの自分の一部として引き受けられる、より大きく包括的な自我をもてばいいのです。
そして、自我にはそれが可能であるはずです。
外的感覚にふりまわされる情念ではなく、ルソーのいう内的感性としての、わたしの「内なる声」としての自我にであれば。
自分が苦しみ悩むように、他者の苦悩にも共感せずにはいられない、内的感性としての「わたし」にであれば。
「君の感情、君の欲求、君の不安、君の傲慢さでさえ、君がそこに繋がれていると感じている、その狭苦しい肉体とは別の根源をもっているのだ」(ルソー『エミール』第4巻「サヴォワ生まれの助任司祭の信仰告白」)。
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