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なぜユミルは「女神様」になってあげたのか
ユミルについては、すでにかなり考察が済んでいます。
利己主義者を自認するユミルは、じつは自己矛盾的な利己主義者である。
というのも、破滅的な承認願望をもつクリスタ(ヒストリア)に自由に生きるよう働きかけるために、ユミルはわざと利己主義をひけらかしているから。
つまり、ユミルのそれは他人のための利己主義と呼ぶべきである。
だとすれば、むしろユミルこそが誰かのために生きたいという願望を抱いているのではないか――ルソーのいう内的感性、内なる良心のレベルにおいて。
※ 併読がオススメ
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残る問題は、ユミルの内的感性、ユミルの心からの願望が、なぜかのじょを最終的には自己犠牲の行為へと駆り立てたのかです。
しかも、かのじょが気にかけてきたヒストリアではなく、ベルトルトとライナーのためであるように見える自己犠牲の道を、ユミルは選んだのでした。
かのじょは自分の動機をうまく説明できませんし、後悔がないわけではないようですが、みずからの選択の結果を受け入れ、かつそれに一種の満足を感じてもいるようです。
「女神様もそんなに悪い気分じゃないね」と、天を仰ぎながらユミルは言いました(50話)。
かのじょ自身が動機を説明してくれないとはいえ、この選択を単なる気まぐれと見なすべきではなさそうです。
それでは、なぜユミルは「女神様」になってあげたのでしょうか?
「女神様」としてのユミル
作中の時系列順に進みましょう。
ユミルは「60年ぐらい」壁の外をさまよっていたというので(47話)、エレンたちより二世代くらい前の人間です。
かのじょはマーレ当局に「無垢の巨人」にされパラディ島に放たれたものの、約60年後、ライナーたちとともに壁を壊しに来たマルセルをたまたま喰い、かれの「顎の巨人」を継承したことで、第二の人生を得ることができました。
かつて作中用語でいう「楽園送り」にされた経緯は、ユミルがヒストリアに宛てた手紙でぼかして説明したにすぎませんが、おおよそ次のようなものだと推測できます(89話)。
当時、マーレのエルディア人社会には、始祖ユミルへの信仰心に目をつけて、新興宗教をはじめた男がいた。
崇拝の対象として、一人の名もない浮浪児を選び、かのじょにユミルという名を与え、始祖ユミルの生まれ変わりか何かに仕立て上げた。
マーレの奴隷化政策に苦しんでいたエルディア人たちのあいだで、この宗教活動はそれなりに規模を拡げられたが、当局に見つかれば弾圧は必至だった。
ついに当局に押し入られたさい、自分が責任をかぶろうとして、なおもユミルを演じつづけるユミル。
つまり、すでに約60年前に、かのじょには自己犠牲の道を選んだ経験があったのです。
ところがその甲斐もなく、ユミルと捕えられた信徒たちは、マーレ人に石を投げつけられながら市中を引き回されたあげく「楽園送り」にされてしまったのです。
この絶望的な経験から、ユミルは次のような教訓を引き出しました。
どうもこの世界ってのは
ただ肉の塊が騒いだり動き回っているだけで
特に意味は無いらしい (89話)
またもやニヒリズム。でも、もうすこし深堀りしてみましょう。
なぜ女性的なものが崇拝対象にされるか
このニヒリスト的教訓は、かのじょが始祖ユミルの再来として崇拝された経験から、かのじょの言い方では「女神様」にされた経験から出てきたものです。
ここでの「女神」という役割は、ジェンダー的にどちらでもよい役割ではありません。
つまり、男性の神や、人格化されない神ではなく、女神であるべき必然性のある役割なのです。
もちろん始祖ユミルが女性だったからですが、ではその始祖が男性ではなく女性だったことの意味は?
そんなの、作者がなんとなくか、自分の趣向に従ってそうしただけでしょう。
でも作者の意図はどうあれ、物語上の効果としては、始祖が女性であることは特別な意味を帯びています。
というのも、宇宙を支配する人知の及ばない超自然的な力を、男としての人間(英語でいう man, mankind)は、女性的なものとして表象し、崇拝し、恐怖してきたからです。
そういう現実の人間文化に含まれるジェンダー的非対称性が、本作におけるユミルのエピソードにも反映されているように見えます。
このテーマを扱うためには、シモーヌ・ド・ボーヴォワール(1908-86)を参照しないわけにはいきません。
女性解放思想の古典『第二の性』の著者であるボーヴォワールは、かのじょもまた実存主義の文学者・哲学者であり、そしてサルトルとは思想家としても男女としても終生のパートナーでありました(女たらしのサルトルにはかなり振り回されましたし、のちには、かれに負けじとボーヴォワールも数人の男と恋仲になりますが、それでも二人の関係は終生続きます)。
さてボーヴォワールは、実存としての人間という観点から、人類史上におけるジェンダーのさまざまな形態(性差の文化的意味づけの諸様式)を調べた結果、あることを発見します。
かのじょによれば、原始の男たちは、近代人のようなしかたで女性を従属はさせなかったにせよ、はじめから女性を「他者」として扱っていました。
他者というのは文字通り、男と「同類」ではないということ。
ただし、男が「われわれ」を、すなわち「人間的なもの」「人間の領域」を代表するのにたいして、女は人間的領域の外部を体現する存在だと、すなわち、その出産という能力において、あの人知の及ばない神秘的な力を、無から有を作り出す超自然的な力を分かちもつ存在だと見なされるのです。
大地、母、女神である女は、男にとって同類ではなかった。女の権能が確立されたのは、人間の領域とは別のところにおいてである。
それゆえに古代の男たちは、人間を圧倒する力としての自然(超自然的な力を秘めた自然)を崇めるのと同じしかたで、女性的なものを崇拝の対象としてきました。
ただしボーヴォワールが指摘するように、男たちが崇める「母なる女神」の「権力」は、女自身から出てくるものではなく「男の意識が形成する概念」の産物でしかないのです(同前)。
つまり、女性的なものが崇められ、尊敬されている場所において、むしろ生身の女は人間的なものから遠ざけられ、みずからを人間の代表と思い込む男が作り出した役割を、つまり平たくいえば男の妄想を、押しつけられているにすぎないのです。
女神にされた少女のアイデンティティ
ユミルに戻ると、この「男の意識が形成する概念」としての「女神」の役割を、かのじょは忠実に演じていました。
この役割をかのじょに与えた当の男が、あいつに騙されたと梯子を外してきたのに、それでもかのじょはユミルの役割に忠実でした。
人知を超えた、奇跡を体現する存在として、扱われてきたであろうユミル。
ところが実際には、超自然的な力どころか、人間の心に訴えかける力すら、その役割にはなかったのです。
むしろ弾圧後のユミルは、その存在自体が憎悪の対象となったのでした(89話)。
このユミルと名づけられた少女の眼に、世界が無意味なものと見えたのは当たり前です。
そもそも、この少女にとっては、生来の「わたし」そのものが無意味でした。つまり、かのじょは名前すら与えられていない浮浪児でした。
だから、少女のアイデンティティは、かのじょが自分を自分と認識するためのしるしは、ユミルという名にしか、男の妄想の産物でしかない奇跡をしるしづけるだけの記号にしかありませんでした。
そして、このしるしが憎悪の標的に変わることで、少女のアイデンティティはふたたび無となったのです。
のちにユミルは回想します。
そうして最初の人生を絶望のなかで終えるとき、かのじょは「心から願ったことがある」のだと。
「もし生まれ変わることができたなら... 今度は自分のためだけに生きたい」(40話)
そう願いながらかのじょは巨人にされたのですが、しかし数十年の時を経て、偶然にも人間の姿を取り戻したのでした。
しかしながら、こうして第二の人生を始めた少女にとって、そのために生きようとする「自分」とは何でしょうか。
かつて与えられたユミルという名は、もはや無以外のなにも意味しません。
みずからのしるしを失った少女は、何によって自分をしるしづければいいのでしょうか。
「生まれ変わった」ユミルの生きる目的
ユミルという名とともに与えられた、まったく無意味な「女神」という役割を、その短い生涯の最後に無意味だと悟った少女。
ところが数奇な運命によって、かのじょが最期の瞬間に抱いた願望を実現する機会が与えられます――もし「生まれ変わる」ことができたら「自分のためだけに」生きたいという願いを実現する機会が(40話)。
意識を取り戻したかのじょの眼前には「自由が広がって」いました(89話)。
ところが、こうして第二の人生を歩み出した少女は、かつての名を使いつづけます。
その理由を、ユミルは「私の人生の復讐」と言い表しました。
「この名前のままでイカした人生を送ってやる」ことによって「生まれ持った運命なんてねぇんだと立証してやる!!」のだと、そうユミルは意気込みます(40話)。
何に対する「復讐」なのかといえば、それは「無意味な世界」に対する「復讐」ということでしょう。
このユミルという名が無意味であれば、自分自身がそれに意味を与えればよい。
それがアイデンティティの空白をしか示していないのなら、この空白を自分の好きなもので満たせばよい。
こうしてユミルは、反ニヒリストとして、ひいては一種の実存主義者として、第二の人生を歩みはじめたのです。
とはいえ、孤独なユミルが訓練兵に志願するまでにどう生きてきたかは、ほとんど描写されていません。
壁内世界に忍び込んでからも、かのじょはずっと根無し草だったのでしょう。
生活の糧は盗んだりだまし取ったりすればいいし、そのせいで窮地に陥っても別の土地に逃げれば済むし、いざというときには巨人の力だって使えたのですから(むやみに巨人化して目立つ存在になることの危険は、もちろん理解していたでしょうけど)。
そういう無頼の生き方にも、ロマンティックな魅力はあります。
誰にも頼らず、誰にも縛られず、自分のためだけに生きる――人を惹きつけてやまない自由の、それは一つの極致です。
でも、そういう自由には欠けているものがあります。
それは目的です。たんなる生存をこえた人間的目的、真に価値ある目的です。
無人島に漂流したロビンソン・クルーソーであれば、ただの生存ですら、人間らしく文化的に生きつづけるため、そしていつか故郷に帰るためといった、人間らしい目的のための活動であるでしょう。
それとは異なりユミルには、壁内世界に忍び込み、社会のなかに在るにもかかわらず、自分の生存のほかに、どんな目的も与えられていません。
どの程度ユミルが人と接してきたかは不明ですが、生存以外の特別な目的を他者との交流から得ることはなかったのでしょう。
その証拠にユミルは、調査兵団に入ったあとですら「よくわからん」が口癖でした。
つまり、自分の目的を語る言葉をもたないままでした。
あるいはむしろ、どんな目的が意識に与えられても、それをかのじょは「自分のため」としか表現することができなかったというべきでしょう(たとえば37話)。
ユミルという名のまま「イカした人生」を送ってやると、そう意気込むかのじょ。
しかしながら、いったい何を目指せば「イカした人生」を実現できるのか。
ユミルには皆目、その見当がつかないのです。
「人生の復讐」とは言いながらも、せっかく手に入れた第二の人生にふさわしい自分自身を、ユミルはいまだ獲得できていません。
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