自由でなければ人間ではない?
こんにちは。
おふざけでエレヒスネタを投稿した前後から、妙にPV数が伸び出して、ちょっと色々な意味でビビっている小心者の筆者です。
そうはいっても、これが最終章。なにかあっても書き逃げすればいいもんね。
さて、けっきょくのところ自由とは何か?
哲学的意味での自由とは、ひとことで言えば、ズバリこれです。
「人間らしく」生きること。
このブログを読んでいただいた皆さまには、もはや説明するまでもないでしょう。
え、よく分からないですって?
そこはどうにか「心」で理解してもらえれば!
......はい、すみません、ちゃんと説明します。
これまでに紹介してきた哲学者たちの見解はさまざまでしたけど、ある一点では共通しています。
人間は自由であってこそ真に人間らしい、自由でなければ人間的ではない、と考えるのです。
たとえばカントは、みずからの情念に振り回される人を、暴君に支配された人民のように「他律的」な存在とみなしました。
ニーチェは、自由な強者たりえない大衆を「畜群」と蔑みます。
サルトルの場合には、人間は自由でないことができないのですが(自由の刑)、それでも、みずからの存在の偶然性=自由を認めたがらない人はいます。そういう人々を、サルトルは「卑怯者」と呼んだのでした。
※ 併読がオススメ
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じゃあ逆に、自由ではない人間って何?
非人間的な人間ってこと? 人間扱いしてくれないの、ひどくない?
そう、ひどい話ですね。でも、極論すればそういうことです。
自由を失った人間とは? 人間以下の人間とは?
そう、すなわち奴隷です。
奴隷とは、人間でありながら人間性を否定され、人間でありながら財産すなわちモノのように扱われる存在。
しかしながら奴隷は、それでも人間であるのではないでしょうか?
そして人間であるなら、つまり自由であるはずではないでしょうか?
ひょっとすると、奴隷であることと自由は、かならずしも矛盾しないのかもしれません。
実際、哲学者のなかには、奴隷という在りかたのなかにこそ自由にかんする一片の真理が含まれている、と考える者がいるのです――あとでこの記事に登場する観念論の大家のように。
さて『進撃の巨人』には、このテーマを考察するための題材にふさわしいキャラクターがいます。
そう、奴隷でありながら神格化または悪魔化され、神格化されながらも奴隷でありつづけた少女、始祖ユミルです。
かのじょは「二千年前から」待っていました。
かのじょを解き放ってくれる「誰かを」待っていました。
そんな始祖ユミルにとって、自由とは何を意味するのでしょうか?
巨人をこねあげる奴隷
時はさかのぼり、作中世界の2000年前。
現実世界でいう古代ゲルマン人のような見かけの人々が、戦争に明け暮れていました(122話)。
戦士たちが村を略奪し、家を焼き、逃げ惑う者を突き殺し、降伏した者を奴隷にしています。
約2000年後とはまた違った意味で、それは「辛くて厳しいことばかり」の世界でした。
そんな世界で、幼くして奴隷にされた一人が、あのユミルでした。
この世界では、奴隷には言葉を話す必要も権利もないと考えられていたようです。
だから、新たに奴隷になった人々は舌を切られています。
何のためかは分かりませんが、ひとつ言えるのは、舌を切られ会話できないことにより、奴隷はつねづね、人間以下の身分にあることを思い知らされただろうということです。
言葉とは、そして言葉を正しく順序立てることで表現される理性(ロゴス=言葉・理性!)とは、まさしく人間を人間たらしめる当の能力。
それを奪われるということは、人間性を徹底的に否定されることを、象徴的に示しています。
例外なく舌を切られたユミルも、そして「豚を逃がした」犯人としてかのじょを指さす他の奴隷たちも、ひとことも発しません。
かのじょの主人フリッツ王は、かのじょを愉しんで殺すための標的にしたのでした。
ところが――なぜか大樹の根本に広がる湖に落ち、そのなかにいた脊椎だけで動いているような気持ちわるい何かに、とりつかれたユミル。
突如、かのじょは巨人に姿を変えたのでした。
巨人になったら、もう怖いものなんてなさそうなもの。
ところがユミルは、フリッツ王の奴隷のまま留まり、王いわく「道を開き 荒れ地を耕し 峠に橋をかけた」のでした。
どれほど大きな貢献を、巨人ユミルの労働から、フリッツ王たちは受け取ったことでしょうか。
かれらの部族「エルディア」の発展は、絵面からも明らか。
森のなかの一集落の村長(むらおさ)が、いまや、ずいぶん立派なお召し物と宮殿をおもちではありませんか。
労働だけでなく、やがて戦争兵器にも使われるようになる巨人ユミル。
ローマ軍っぽい出で立ちのマーレ軍を圧倒し、エルディアに勝利をもたらします。
さらには「褒美」に「我の子種をくれてやる」とか言い出したキモいエロ主人の意向に従い、ユミルは王の子を産みます。
しかし、それでもユミルの地位は奴隷のままでした。
恨みをもつ配下(マーレの刺客かなにか?)に襲われ危機一髪のフリッツをかばい、心臓を一突きにされ死にゆくユミル。
かのじょが世を去る瞬間にすら、フリッツがかけた言葉は「我が奴隷ユミルよ」でした。
さらにフリッツは、巨人を失いたくない一心で、ユミルの死体(背骨)を三人の娘に食わせるという暴挙に出ます。ウェッ!
なぜかそれが成功し、以来、死んだ能力者の背骨を食うことで、巨人の能力は継承されるようになりました。
その一方で、死後のユミルは、無時間的な精神世界にひとり囚われつづけています――作中用語でいう「道」ですね。
無限に広がる土と、巨人の継承関係を反映して枝分かれしていく光の大樹だけがある世界で、奴隷ユミルはいつまでも労働を続けます。
かのじょがこねあげる土人形のひとつひとつが、巨人となって現世に送り出されるのです。
現世の人間たちに神格化されたり悪魔化されたりしている、始祖ユミル。
しかし現実には(という言葉を使うのもヘンですが)、生前も死後も、かのじょは従順な奴隷でしかなかったのです。
主人と奴隷の弁証法
奴隷は、自由とは相容れません。
しかし同時に、ある意味では、奴隷とは自由の哲学的原理にかかわるテーマでもあります。
人間には自由人と奴隷の二種類があるという考え方は、人間はみな生まれながらに自由だという考え方とは相容れません。
それだけでなく、奴隷の存在を認めるかどうかは、自由の概念そのもの、すなわち、何をもって自由と呼ぶかという点についても違いを作り出すのです。
自由の概念は、人間精神の現実のありかたとともに、歴史のなかで変化し、発展していくもの。
そのように自由を把握した哲学者といえば、あの人しかいません。
あの観念論の大家、あるいは自己意識の哲学者、すなわちヘーゲル(1770-1831)です。
ヘーゲルの主著『精神現象学』には「主人と奴隷の弁証法」と呼ばれる一節があります。
かれによれば、外界を知覚するだけでなく「自分」という概念をもつようになった人間――これを「自己意識」と呼びます――を、他の人間との関係に(つまり社会に)移すとき、まずはじめに起きることが、主人と奴隷への分裂です。
ヘーゲルいわく、自分という概念をもったばかりの「自己意識」は「それぞれに」つまり他人から断絶した個としてのみ「自立的な形態」をとる。
そして個としての意識は、同時に「生命というあり方のうちに……沈み込んだ意識」でもある。
この段階では、わたしが自由であることは、各人の意識のなかでしか真理になっていません。
というのも「ほーらこれがわたしの自由な意識ですよ」と、自己意識を取り出して見せることなんて、できませんからね。
それが「生命というあり方」(つまり身体)のうちに「沈み込んだ意識」という規定の意味です。
さて、そうなると各人は、みずからの自由を客観的に実現するためには、みずから「意識がどんな現実の存在とも......結びついていないこと」を示さねばならないと、ヘーゲルは続けます。
つまり、わたしが独立した「自己」であることは「生命とすら」結びついていない真実なのだと証明するのです。
では、どうやって?
「命をかけることによってのみ、自由が確証される」。そうヘーゲルは述べます。
つまり戦争に赴くことによってです。
わたしが自由であることを他人に認めさせるには、自分が死を恐れない意識であることを証明しなければならない。
ヘーゲルによれば、ここが自由人と奴隷との運命の分かれ道。
死を恐れる者は、命をかけることを避けるために、戦士たちに屈服するしかありません。
こうして、恐怖する自己意識は、自由な戦士たる主人のために労働し、奉仕する存在、すなわち奴隷となります。
労働する意識の自由
しかし、ヘーゲルの「主人と奴隷の弁証法」のクライマックスはここから。
奴隷はただ労働するのではなく、主人のために労働します。
他方で主人は、もはや自分のために労働する必要がありません。生命を維持するために必要な労苦は、すべて奴隷に任せて、その成果を享受(消費)するだけでいいのです。
このことが、自由の概念における逆転をもたらします。
まず奴隷のほうでは、主人のために作ったモノを、自分では消費しません。
そういう意味で、奴隷の労働の産物は、奴隷じしんにとって「自立的」なものとして現れます。
主人は間接的に、奴隷を介してモノへと関係する。……奴隷は労働をくわえて、モノを加工するだけである。……主人は、モノと自分とのあいだに奴隷を差しはさむことで、ただひたすらモノの非自立性とだけ結びつき、モノを純粋に享受する。ところが、モノの自立的な側面については、主人はこれを奴隷に委ねる。
他方の主人は、他人が作り出したモノを消費するだけの主人は、もはや「自分だけで存在する」という自立的存在ではなくなっています。
言い換えれば、いつのまにか主人の意識は非自立的なものになっています。
かくして、ヘーゲルは次のように言うことができるのです。
「真に自立的意識であるのは、奴隷の意識である」。
というのも、いまや奴隷は、自己意識が外界において実現されるのを見ることができるのですから。
はじめは意識の内部にしか存在しなかった自己の「自立性」が、労働をつうじて、モノの世界において、客観的に表現されるのを奴隷は見るのですから。
……形成する行為は、同時に個別性をそなえている。……いまや労働においては、自立的存在がみずからの外部に出てきて、持続的なものの境位に入る。こうしたなりゆきで、労働する意識は、自立的存在を自分自身として直観するに至るのだ。
さて、労働する自己意識の「自立性」または自由とは、かつての命がけで争う自己意識の自由とは、質的に異なるものです。
戦争する意識の自由は、かれ(まず間違いなく男性でしょう)に服従し奉仕する他者の存在を、つまり奴隷を基礎としています。
労働する意識の自由は、その生産物をつうじて表現されるのであって、他人の服従を必要としません。
ヘーゲルは、ここから一足飛びに普遍的な自由(最高度の自由)へと話を移すわけではありませんが、それでも普遍的自由の基礎となるのは後者、すなわち労働する意識の自由なのです。
始祖ユミルの「媒介」としてのエレン
しかし問題は、労働をつうじた奴隷の意識の自立化という構図が、始祖ユミルに当てはまるかどうかということ。
強大な巨人の力を手に入れたにもかかわらず、さらには死してなお、かのじょは奴隷としてフリッツに奉仕しつづけました。
計り知れないほど長いあいだ労働しても、数えきれないほどの数の土人形をこねあげても、ユミルの意識は自立化せず、かのじょは奴隷のままです。
とすると、ヘーゲルの「主人と奴隷の弁証法」は、絵空事でしかないのでしょうか。
二つの点に留意すべきでしょう。
一つに、ヘーゲルの話は、人間精神の大きな歴史的変化には当てはまる話であっても、個々人の意識においてかならず生じる過程とはいえないだろう、ということ。
それこそ二千年のスケールで見れば、古代から近代にいたるまでに、労働する意識の自立化はたしかに達成されました。
しかし個人のレベルで、ヘーゲルのいうように労働をつうじて奴隷の意識は解放されるのだ、とはいえません。
そういう奴隷もなかにはいるかもしれませんが、多くの奴隷にとっては、客観的にも主観的にも、奴隷の境遇を脱するのは困難でしょう。
もう一つに、これは始祖ユミルの特殊な事情ですが、かのじょは人間の力をもってではなく、人間を超える力をもって、つまり巨人として、主人に奉仕したのでした。
ただの奴隷であれば、労働をつうじて、自分が自立した人間であることを証明できるかもしれません。
しかしながら、始祖ユミルの労働はかのじょが人間であることを証明してくれないのです。
自分自身を人間として認めることが、それだけが、始祖ユミルにはできないままなのです。
だからこそ、エレンの言葉は始祖ユミルに届いたのでしょう。
エレンはユミルに、隷従と奉仕の「終わり」を宣言しました。
ユミルのことを「奴隷じゃない 神でもない ただの人だ」と、エレンは断言してくれました。
ユミルがずっと「誰かを」待ち続けていたことを、エレンは見抜きました。
このことはすなわち、始祖ユミルが、労働という行為だけによっては、みずからの個としての「自立性」を意識しえなかったということを意味します。
労働の対象に自分自身を見ることではなく、それ以上のなにかが、始祖ユミルには必要だったのでしょう。
そして、かのじょが求めていたものを得るための、いわば「媒介」の役割を果たしたのが、エレンだったのでした。
始祖ユミルを自由にしたものは、いったい何だったのか。
かのじょや、作中の他の「奴隷」たちは、いかにして人間へと復帰しえたのか。
それを哲学的に解明することが、本章の課題です。
始祖ユミルにくわえて、ハンジ、ジーク、ミカサ、ファルコ、そしてエレンが題材となるでしょう。
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