unfreiefreiheit-aot.hatenablog.com
生まれたことを赦された反出生主義者
ジークが赦されるきっかけを与えたもの、かれが「苦しみの向こう側」を存在しうると教えたものは、二つあります。
第一に、記憶の旅において再会した、かつての毒親グリシャの言葉。
かれはジークに自分の過ちを謝罪し「お前を愛している」と告げました。
そのうえで、どうかエレンを止めてほしいと、つまり世界を救ってほしいと、ジークに懇願したのでした(121話)。
子を愛さなかった親による心からの謝罪によって、子はようやく、自分が生まれてよい存在だったのだと思いなおす、そのきっかけを得ることができたのです。
第二に、「道」でのアルミンの言葉。
グリシャの謝罪で救われかけたのに、人類みなごろしを実行に移そうとするエレンを止めることができなかったので、ジークは「道」に引きこもり、すべてを諦めてしまいました。
そこに、始祖ユミルに囚われたアルミンが現れます(137話)。
諦めないアルミンに対して、すべての生命はけっきょく苦しんで死ぬのだから、みんな死んで楽になっちゃえばいいじゃないかと、さじを投げるジーク。
この無意味な世界で「自由になったって…」と、ニヒリズムに閉じこもるジーク。
しかしそのとき、アルミンは「道」の荒涼とした砂漠のなかに、一枚の木の葉を見つけます。
それが想起させるのは、エレンやミカサと「丘にある木に向かって」「かけっこ」した思い出。
そのときアルミンは、なぜかふと感じたのでした。
自分は「三人でかけっこするために 生まれてきたんじゃないかって...」と。
このエピソードは、たんなる生命の維持以上の生きる意味を知ることが人間のすばらしさ、ということを伝えているのかもしれません。
日常の何気ない一瞬に、かけがえのない生の尊さを見出せることが、人間の人間らしさなのです。
某寄生生物の言葉を借りれば「心に余裕(ヒマ)がある生物 なんとすばらしい!!」
でもジークにとっては、それ以上のことをアルミンの言葉は意味したでしょう。
ジークにいわせれればアルミンもまた、かれがエルディア人であるかぎりは、苦しみしかない残酷な世界に、間違って生まれてしまった奴隷でしかないはず。
しかしながら、この呪われた生でしかないはずの子供は、日常の「なんでもない一瞬」を「すごく大切な」ものとして受け取ることができます。
この子供は、この残酷な世界の奴隷であるとともに、しかしこの世界にそれ以上の意味を与える、ひとつの「下地」なのです。
この子供は、奴隷でありながら自由なのです。
そしてジークもまた、アルミンと同じように自由な子供であったはず。
生みの親が非情であろうとも、世界がかれに奴隷の烙印を押そうとも、かれが生まれるべきではなかったと決定する権利だけは、親だって、世界だって、もってなどいなかったはず。
その証拠に、苛酷な少年時代においてすら、ジークは喜びを、生きる意味を、感じ取ることができたのです。
少なくとも「きっとピッチャーに向いてるぞ」と言ってくれた恩人と、かれがキャッチボールをしていたあいだだけは。
クサヴァーさんと共有した幸福な瞬間の記憶がよみがえり、ついにジークは次のように信じることができたのです。
自分は世界を意味づけることができたのだと。
自分は「苦しみの向こう側」であったのだと。
自分は奴隷でありながらも自由であったのだと。
自分は生まれてきてよかったのだと。
主人と奴隷の弁証法・再論
ヘーゲルのいう「主人と奴隷の弁証法」は、ジークの意識においては作動しないと、先に指摘しました(5.3.a を参照)。
ジークが「自由な自己意識」になれない理由を、改めて説明するならば次のとおり。
ヘーゲルの構図において、奴隷は他人に奉仕しながらも、しかし労働の産物というかたちで、自己意識の自立性を、みずからの外部に、つまり世界において、客観的に実現するのです。
しかしジークは、かれが無価値と見なした生命を滅ぼすばかりで、なにも価値あるものを世界のなかに作り出そうとしません。
実存主義的に言い換えれば、こう述べることもできるでしょう。
ジークは他人を殺しつづけることにより、生まれないことが奴隷の幸福という信念を、世界の客観的意味としてくりかえし確認しているのです。
しかし最終的には、ヘーゲルの構図とはやや異なるにせよ、ジークの意識は「主人と奴隷の弁証法」を通過して、自由の境地に達したといえます。
すなわち、かれの意識は、たんに奴隷状態から解放されたのではなく、この奴隷という在りかた自体に含まれる真理を知ったことにより、自由になれたのです。
アルミンとの会話をつうじて、ジークが得た気づき。
みじめな奴隷として生まれた自分は、それでもクサヴァーさんとキャッチボールしているあいだは、世界を、自分の生を、価値あるものとして意味づけていたのだ、という気づき。
あぁ… そうだ
ただ投げて 取って…
また投げる ただそれをくり返す何の意味も無い… でも… 確かに…
俺は… ずっとキャッチボールしているだけでよかったよ (137話)
この気づきは、自分が奴隷ではなかったという気づきでは、決してありません。
ジークを奴隷にしてしまう「残酷な世界」が、この気づきによって消失するわけではないのです。
そうではなくて、かれは奴隷の境遇にもかかわらず自由でした。
それは、奴隷の在りかたに身を浸しきったジークにのみ、深い確信をもって発見することができた真理なのです。
――この真理に辿り着くには、かれは遅すぎたことも確かですが。
奴隷的パターナリストの自己免罪
ついに赦しを得たジーク。
その瞬間にかれは、かれ自身にしか、すなわち、王家の血をひく巨人継承者にしかできない役目をなしとげます。
「道」で眠っていた、かれにゆかりのある死んだ巨人継承者たちの魂を呼び覚ましたのです(137話)。
いまでも「安楽死計画」は間違っていなかったと思うと称しつつも(まあそれはエレンの「地鳴らし」という結果と比べてでしょう)、いまやジークは、次のようにクサヴァーさんに告げることができます。
「あなたとキャッチボールするためなら また... 生まれてもいいかもなって...」
だからジークは、かれに謝罪した、かつての毒親グリシャのことも赦せたのです。
「…だから 一応感謝しとくよ 父さん…」
こうしてジークに与えられた赦しとは、実存的にいえば、ジーク自身の自己免罪です。
かれは魂の枷(かせ)をみずから外し、自由になることができたのです。
みずからの目的のために、いともたやすく他人の生命を奪ってきたジークが「免罪」されるだなんて、とんでもない! と、怒る読者もいるかもしれません。
「ジーク絶許!」と誓ったリヴァイじゃなくても、そう思うのは当然ですね。
でも、ここで言いたいのは、そういうことではありません。
ジークが免罪されねばならなかったのは、エルディア人にかけられた呪いからです。
エルディア人に生まれたこと自体が罪深いという、罪の意識からです。
この罪の意識は、たしかにマーレが政治的に作り出したものですが、エルディア人が巨人に変身する民族であるという事実(フィクション内の「事実」ですが)によって正当化されており、そして、ジークが自分自身の人生経験にもとづいて深く内面化してしまった意識なのでした。
そのような罪の意識から解放されたとき、はじめてジークは、かれ自身の手で奪ってきた他人の命に対して、責任を引き受ける準備が整うのです。
自分はエルディア人から命を「奪って」いるのではなく、かれらがこの「残酷な世界」に生み落とすであろう子供たちを「救って」やったのだという、ジークの歪んだ信念(114話)。
あれこそ、ジークの奴隷的パターナリズムの表現そのものでした。
あの信念があればこそ、殺される人々の自由も、将来生まれるかもしれない子供たちの自由も一顧だにせず、かれは平気でいられたのです。
でも、あの歪んだ信念の源は、自分なんて生まれなければよかったのだという、ジークの根深い絶望でした。
生まれたこと自体が罪だという、あの忌まわしい固定観念でした。
それにもとづいて自分自身を無価値だと信じてきたからこそ、ジークは他人の生命をも軽んじてきたのでした。
だとすれば、この絶望から救済され、この(ほんとうは存在しないはずの)罪を自分自身から免除しないかぎり、ジークは他人を尊重することができないでしょう。
かれがパターナリズムと「裏返しの優生思想」の罪悪を自覚できるようになるのは、自分自身が生まれてきたことを免罪しえた後のことなのです。
そのときはじめて、ジークは心から理解するでしょう。
どれほどリヴァイに非難され、ののしられても、かつては感じとれなかったことを。
すなわち、ジークが奪ってきた一つ一つの生命が、それぞれに生の意味を発見し、作り出すことができる、代えのきかない一個の実存であったことを。
いまや自分の魂を解放したジーク。
みずから選んだ最期の瞬間、果てしなく広がる青空を目にしたジーク。
そのときかれは、この残酷だけど美しい世界への感嘆を、もらさずにはいられませんでした。
「…いい天気じゃないか」と。
そう感じられるようになったジークは、次のことも認められるようになったのです。
「まあ... いっぱい殺しといて そんなの虫がよすぎるよな…」と(137話)。
こうしてジークは、みずからリヴァイに首を斬られました。
「生まれるべきではないのに生まれてしまった」などという架空の罪ではなく、かれ自身の自由と責任に帰される現実の罪に、けじめをつけるために。
和解した父親グリシャとの約束を、すなわち「エレンを止める」という約束を果たすために。
この残酷だけど美しい世界を、未来に遺すために。
――クサヴァーさんに再会するためなら「また生まれてもいい」とジークが思える、この世界を。
――これからも子供たちが生まれ、そして一人ひとりの子とともに新しく意味づけられ、言祝がれるであろう、この世界を。
「一人の子が生まれるたびに、救い主は永遠にその子のなかで、その子によって生まれる」
unfreiefreiheit-aot.hatenablog.com