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愛情の関係における自由
逃げることでも、男たちととも戦争に参加することでも、自由になれない奴隷ユミル。
そういうかたちでの解放は、つまり巨人の力をもって(超人間的な)戦士として認められることは、そもそもユミル自身が望んでいなかったように見えます。
ユミルは人間として、そしてなによりも女性として、自由になりたかったのでしょう。
かのじょが結婚式を眺めていたシーンは、そのことを示唆しています。
男性が財産所有者として権力を握る家父長制では、女性は対等な存在とはいえません。
法的にも、社会的にも、男性が優位に立っているのです。
それにもかかわらず、女性が男性と対等になれるかもしれない唯一の関係があります。
それは精神的な関係、すなわち愛情の関係です。
もちろん、恋愛の関係においても男が女を支配することはよくあります。
それでも愛情の関係は、当人たちの一対一の個人的関係に左右されるもの。
だから、結婚制度そのものは所有主としての男性を優遇するものでありながら、家庭内では「カカア天下」が成立する、なんてこともしばしばあるのです。
男女の親密な関係における平等を、平等それ自体の達成と見なしてよいのか?
そういう疑問は生じて当然です。
人間みな平等というなら、やはり権利において両性の平等が確立されねばなりません。
そういう考え方を哲学の分野で基礎づけているのが、近代哲学における自然権の思想ですね。ロックとかルソーとか。
しかし、それはそれとして、この作品で描かれていることがらの考察に徹しましょう。
近代的平等原則とはかけ離れた世界しか知らない始祖ユミルには、そういう男尊女卑の社会(家父長制)を前提とした自由しか、夢想しえなかったのではないでしょうか。
巨人の力をもって働いてきたユミルに、フリッツ王が「褒美だ 我の子種をくれてやる」と言った、あの超絶キモいシーン(122話)。
いかにも奴隷らしくこうべを垂れていただけのユミルが、そう告げられた瞬間、微妙なしぐさながら、明らかに反応を示しています。
それも、どうやら「なに言っちゃってるの、このオヤジ? キモい、臭そう、不潔、ありえない!」というかんじではありません。
どちらかといえば、意外さと、かすかな期待とが、思わず態度に表れたように見えます。
そして実際に子を授かったユミル。
生まれたばかりの赤子を、なにやら感慨深そうに、しげしげと眺めています。
わが子を見つめながら、胸中のささやかな期待が、より大きく膨らんでいくのをユミルは感じたのではないでしょうか。
わたしはこの奴隷状態から、ほんとうに解放されるのかもしれないと。
奴隷としてでも、巨人としてでもなく、人間として、わたしは他人に必要とされるのかもしれないと。
ひとりの女性として、愛情の関係のなかで、わたしを奴隷主は対等に扱ってくれるようになるかもしれないと。
わたしは自由になれるのかもしれないと。
しかしながら、ユミルに解放の瞬間は訪れませんでした。
身を挺してフリッツ王をかばい、死へと沈んでいくユミルの意識に、最期に届いたフリッツの呼びかけ。
それは「我が奴隷ユミルよ」という、いままでと変わらない呪いの言葉でした。
真実の愛によって解放されるかもしれないというユミルの期待は、ついぞ叶うことはなかったのです。
愛情の関係に入ることで、わたしは自由になれるかもしれない。
――それが始祖ユミルの、悲しくも虚しい願望でした。
望み叶わず、奴隷の身分のまま死んだユミルは、エルディア人に「道」をつうじて巨人の身体を送りつづける、まるで賽の河原の石積みやシーシュポスの岩運びのような、永遠の苦役に従いつづけたのです。
「愛が奴隷状態を自由にする」
愛が人間を自由にするとは、どこかで聞いたことがあるようなフレーズ。
たとえば「ラブ&ピース」を唱えたヒッピーも主張していたことです。
それは使い方によっては非常に陳腐なフレーズですが、しかし長い歴史をもつ哲学的な命題でもあります。
キリスト教の主要教義を確立した、最大の教父哲学者アウグスティヌス(354-430)を、ここで参照してみましょう。
後年みずから「肉欲におぼれていた」とする若年期をへて、ミラノで弁論術の教師となったアウグスティヌスは、ある日「取りて読め」という声を聞いて聖書をとり、キリスト教に回心しました。
『進撃』のテーマでもある「自由意志」(liberum arbitrium)という言葉を、哲学的な用語として確立したのは、この人だといっていいでしょう。
アウグスティヌスは、神が宇宙を正しく秩序づけているという考え方(予定説、まあ決定論と見なしていいでしょう)を、自由意志と両立させました。
世界を創造した神は全能であるとはいえ、人間が救済されるかどうかは、各人の善くあろうとする意志に委ねられており、そのことは神の恩寵と矛盾しないと論じたのです。
さて、そんな自由意志論者アウグスティヌスによれば、人間は天国のみならず現世においても、自由になることができます。
まずかれは、俗世の価値観を逆転させます。
哲学者の常とう手段ですが、一般に自由だと思われている所有主は、欲望や罪に囚われた奴隷にすぎないのだと指摘するのです。
アウグスティヌスいわく「多くの敬虔な人々が不正な主人に奉仕する一方で、その主人は自由ではない」。
それに比べれば、他人に奉仕する者(つまり奴隷)のほうが、真の幸福に、つまり来世での救済に近づいています。
人間に奉仕することは邪欲に奉仕することよりも幸いである。……この支配欲というものは、もっとも荒々しい支配力によって人間の心を荒廃させるからだ。
こうして「高慢は支配する者たちを害する」が、それとは逆に「謙虚は奉仕する者たちを利する」。
そしてここからが、いかにも宗教哲学らしい自由論となるところ。
アウグスティヌスは、こう続けるのです。
もし奴隷が奴隷状態から解放される希望をもてないとしても、心からの愛をもって奉仕することで、奴隷はみずからを「自由」にするのだと。
……もし奴隷が主人によっては解放されえないならば、不正が過ぎ去り、あらゆる人間的な権勢が虚しくなり、すべてにおいて神がすべてとなるときまで、彼らはその主人に……真実の愛から奉仕することによって、その奴隷状態を、ある意味で自由にする。
もちろんこれは、奴隷は奴隷の境遇に甘んじ、身の程にあった幸福を求めればよい、というメッセージに解すべきではありません。
もし不正な支配から脱却できる望みがないとしても、魂だけは自由であれと、アウグスティヌスはそういいたいのです。
(そうはいっても、社会の争乱よりは奴隷に支えられた平和のほうが望ましいという思想が、近代以前のキリスト教において主流だったのは事実ですが。)
始祖ユミルに話を戻すと、かのじょが抱いた自由への願望は、このアウグスティヌス的な自由に近いものに見えます。
真実の愛から他人に奉仕することで自由になれるというのは、まさしくユミルの信念でした――ただし恋愛や性愛を意味する愛でしたが。
アウグスティヌス的な意味において、かのじょは自由を渇望する誠実な奴隷であったのです。
ひとりの人間として、女性として、他人に必要とされたいと欲しながら、ユミルは奴隷の務めに死ぬまで徹しました(というより、それに徹したせいで死んでしまったのですが)。
しかしその結果、死後の世界においてもユミルは自由にはなれず、奴隷のままでした。
かのじょに救済は訪れず、死後も、永遠に終わらない苦役に縛られたのです。
アウグスティヌスが約束したような魂の自由を、ユミルはついぞ得られなかったのです。
しかしながら永い時をこえて、ついに始祖ユミルの魂は解放されます。
かのじょを解き放つための決定的な役割を果たしたのは、ミカサでした。
始祖ユミルが達成できなかった自己救済を、ミカサが代行したのです。
始祖ユミルの運命とミカサの運命は、どこで合致し、どこで分岐していくのでしょうか?
次に解き明かすべきは、それです。
...…といいつつ、そのまえにエレンの話を。
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