unfreiefreiheit-aot.hatenablog.com
予告と違いますが、ミカサの話に入る前に、エレンの考察を挟もうかと。
ええそうです。アニメに合わせようと思ってね。
ちなみに(上)は原作121話までしか扱っていないので、アニメ派の方も安心して読めますよ! すみません、アニメ79話時点でのネタバレも少しあります。
決定論と自由意志・再論
これまで『進撃の巨人』の主な登場人物たちを、さまざまな哲学的自由論に結びつけてきました。
でも、多くの『進撃』読者がなによりも期待しているのは、決定論と自由意志の話なんですよね。
筆者は知っていますよ。
だって、このテーマを扱った次の記事が、閲覧数最上位みたいなので。
unfreiefreiheit-aot.hatenablog.com
でも、どうして決定論と自由意志というテーマが、マンガ・アニメファンのあいだで流行っているんですかね? そこはぜんぜん知りません。
ネットとか検索してもよく分からないので、誰か知っていたら教えてください
さて、上の記事では汎神論の哲学者スピノザから、次のような命題を引き出しました。
「逆に考えるんだ 自由意志なんて「あげちゃったっていいさ」と考えるんだ」
なぜ自由意志なんて「あげちゃったっていい」のか。
自由意志にこだわる者は、実は無知に囚われた者であって、そのぶんだけ自由から遠ざかっているからです。
逆に、必然性を知る者は、何にも動じず、何にも惑わされることがなく、真の満足に達します。
したがってスピノザによれば、必然性を知る者こそ真に自由であるのです。
そして、次のことも指摘しました。
すなわち、ミカサとアルミンに真意を隠し、かれらを突き放そうとしながら、自分は「自由意志」に従っていると称したエレン(112話)は、実は無知のなかでもがいていたのだということを。
そのかぎりで、ネットで一部が揶揄していたように、エレンを「自由の奴隷」と呼ぶのは間違っていないということを。
しかしながら、次のことも同時に論じました。
スピノザを離れ、サルトル的な実存主義の観点を採用するならば、人間存在とはつねに偶然の産物であって、必然性の観念は、人間の自由を否定することと同義なのだと。
ちゃきちゃきの江戸っ子風にいうと、こうです。
「なーにが人間の本質だ、しゃらくせえ! そんなもんあるかい、てやんでぇ!
(......)
だって、神の偉大な目的の「ために」人間は作られたってぇのは、人間が紙を切る「ために」ペーパーナイフは作られた、っつーのと変わんねぇもんな。
人間は道具じゃねぇ! 人間が何の「ために」存在するかは、その人間自身が決めるんだ。その人自身が決めるしかねぇんだ。
人間の本質なんて「飾り」です。偉い人にはそれがわからんのですよ。」
unfreiefreiheit-aot.hatenablog.com
必然性が、すなわち外的要因が、人間の思考や行動を制限することは確かです。
しかしそれでも、人は選択することを、判断することを、決して免れることはありません。
「状況」に流されるか、それとも「状況」を引き受けるかを決める自由と責任だけは、サルトルのいうように、いつでも人の手に残されているのです。
こうして、一見したところ矛盾する二つの命題が、二人の哲学者から引き出されます。
① 必然性を知る者こそ自由である。 by スピノザ
② 必然性が人間の意志を完全に決定することはなく、つねに人間は状況を意味づける自由を保持している。 by サルトル
正反対のことを言っているように見えますね。
でも、ひょっとしたら、これらの命題に対立は存在しないのかもしれません。
本記事で明らかにしたいのは、まさにこのこと。
すなわち、未来予知という能力を与えられたエレンにおいて、自由のスピノザ的命題とサルトル的命題とは両立する、ということです。
エレンには未来予知ができてしまいます。
でも未来予知とは、これから必然性に起きることを知ってしまうこと、つまり未来を変える自由がないことを意味するのではないでしょうか?
まあ、予知した未来のうち、自分に都合の悪い結果だけは自由に回避できてしまう、とんでもなく卑怯な能力をもった某ギャング団の親玉もいますけど。
ところがエレンは、予知した未来(=必然性)を避けられなかったにもかかわらず、最後まで自分のことを、自由な行為者であると信じつづけました。
どうしてかれは、そういう確信がもてたのでしょうか。
以下、くわしく見ていきましょう。
必然性としての「未来の記憶」
エレンの未来予知能力とは「進撃の巨人」に固有の能力、グリシャによれば「未来の継承者の記憶をも覗き見る」能力です(121話)。
実際、グリシャに「進撃」を授けたフクロウことグリシャ・クルーガーは、かれが知るはずのない「ミカサやアルミン」の名を口にしたとき、未来のエレン・イェーガーから記憶を受け取っていたはず(89話)。
まだ「九つの巨人」保有者が過去の継承者から記憶を引き継ぐという設定しか公表されていなかったため、このエピソードが当初、さまざまな推測を呼んだのは周知のとおり。
「未来の記憶」を見る能力は、まさに「進撃」保有者の自由を支えた能力だといえます。
そのことは「壁の王」フリーダとの対決において、グリシャが説明しました(121話)。
「進撃」保有者たちは、歴代「何者にも従うことが無かった」というグリシャ。
かれがいうように、たしかに「進撃」だけはマーレに軍事力として利用されませんでした。
それよりも昔、エルディア帝国時代には「始祖」以外の八つの巨人をもつ名家が内乱を起こしたといいます(99話を参照)。
その時代に「進撃」の一族がどうふるまったかは描かれていませんが、恐らく未来予知能力のおかげで、カール・フリッツとタイバー家の策略にひっかかることもなかったのでしょう。
だからこそ、マーレに奴隷化されたエルディア人をしり目にカール・フリッツがパラディ島に「壁」を築いた後にも、ひとり「進撃」の継承者だけは抵抗を続けることができたのでしょう。
グリシャはいいます。
「王の独善に抗うため」に「皆」が、すなわち、歴代の「進撃」継承者が「この記憶に導かれた」のだと。
こうして歴代の「進撃」保有者たちは、未来予知のおかげで自由でいられたのでした。
かれらの自由は、まさしく「必然性を知る者こそ自由である」というスピノザ的命題に当てはまるといえるでしょう。
状況としての「未来の記憶」
ただし「進撃」の未来予知能力とは、未来の「進撃」継承者が経験するであろうことを、現在の継承者がかいま見るというもの。
しかもどうやら、この能力を発動させる権限は現在の継承者にはなく、未来の継承者の意志に従って、記憶が過去に飛ばされるようです。
だからグリシャは、フリーダを喰いレイス一族を殺した後、未来のエレンに向かって「これでよかったのか!?」「なぜ…すべてを見せてくれないんだ…」と虚しく呼びかけたのです(121話)。
つまり「進撃」保有者たちは、自由に未来を予見するわけではありません。
突然かれらに襲いかかる、断片的で不可解な光景として、すなわち、かれらの意志を決定するというよりも動揺させるような光景として「未来の記憶」を受け取るのです。
歴代の継承者は「未来の記憶」に「導かれた」とグリシャはいいましたが、しかしそれは、かれらの意識を「未来の記憶」が乗っ取ってしまった、という風に理解すべきではありません。
むしろ、作中のハンジさんの言葉(83話)を借りれば、未来から届けられた「記憶」は「判断材料」でしかなく、それを実行するか否かは「私の判断」に、つまり記憶を受け取った者自身の判断に委ねられているというべきでしょう。
そうだとすれば、未来の断片的光景を見ることは、たとえば夏の青空に浮かびはじめる入道雲を見ることと、本質的に何も変わりません。
入道雲の光景は、近い将来のできごとを、つまり激しい夕立ちを、見る者に予期させます。しかも、その予想は恐らく当たります。
でも、それを予知したからといって、わたしには、夕立ちが降らないように決定する自由などあるでしょうか?
それどころか、夕立ちが降らない場所に脱出する猶予すら、たいていの場合はないでしょう。
わたしに許されているのは、せいぜい、避けられない未来に備える自由だけです――傘をもって出かけるとか、洗濯物を取り込むとか。
つまり、わたしの意識に与えられた未来の光景とは、それもまた「状況」の一要素でしかないのです。
予見された未来の必然性は、眼前の状況が察知させる必然性と、同じ程度の必然性しかもたないのです。
だとすれば、わたしが「状況」を引き受けるかどうかを決定する自由をもつように、予見された未来を引き受けるかどうかもまた、わたしの自由に委ねられているのです。
こうして、サルトルのいう「状況を意味づける自由」は、歴代の「進撃」継承者と「未来の記憶」との関係においても当てはまります。
またしたがって、サルトル的命題と、スピノザ的命題すなわち「必然性を知る者こそ自由」とは、未来予知者において両立するのです。
自分自身の「未来の記憶」
「進撃」の未来予知能力には、さらにもう一ひねりあります。
エレンはグリシャに記憶を送りますが、しかしエレンの後には「進撃」継承者は存在しないので、かれ本人には未来は予知できないはず。
ところが、九つの巨人すべてに共通する能力として、以前の継承者(一代前とは限らない)から記憶が引き継がれる、という特性もあります。
この過去の記憶もまた、現在の巨人継承者が自由に思い出せるものではなく、なにかのきっかけに断片的にフラッシュバックするものです。
この記憶伝達能力と「進撃」の能力との組み合わせが、さらなる能力をエレンに与えました。
すなわち、未来の自分自身の記憶を覗き見ることができたのです。
121話では、そのことが効果的に描き出されています。
フリーダとの対決までに、グリシャの意識は、未来のエレンから、かれが実行した「地鳴らし」の記憶を受け取っています。
「エレンの望み」が「叶う」ことを、すでにグリシャは知っているのです。
「始祖の巨人」の力で記憶の旅をしているジークを、なぜか見られるようになったグリシャは、ジークに謝罪し、エレンを止めてくれと懇願しました。
この光景とオーバーラップするのが、かつてシガンシナ区での決戦後、エレンが見せた鬼の形相。
この瞬間、すなわち(たぶん勲功と慰霊の)式典においてヒストリアの手に触れたとき、エレンの脳裏には突如、父グリシャがフリーダたちと対面した光景がよみがえったのでした(90話も参照)。
そのときエレンは、グリシャとレイス家の対決の光景だけでなく、そのときグリシャの脳裏に焼きつけられていた、未来の自分自身が「地鳴らし」を実行する光景をも見たのでした。
それをエレンは「あの景色」と呼び、すべてはそれに到達するための行動だったのだとジークに告げたのです(121話)。
ところで、ひょっとしたらグリシャもまた自分自身の記憶を見ていたのではないでしょうか?
再度引用すると、レイス家との対決において、グリシャは「王の独善に抗うため」に「皆」が「この記憶に導かれた」のだと言っていました(121話)。
でも「この記憶」って何のこと? 作中では、はっきり示されていません。
しかし、エレンの「地鳴らし」ではないはず。
だって、ここでグリシャは「王の独善に抗う」という話をしているのですから。
したがって「この記憶」とは、まさにグリシャが目にしている光景を、つまりレイス家とグリシャとの対決の光景を指すと考えるべきでしょう。
エレン自身、シガンシナ区の決戦後の勲功式でヒストリアの手に口づけたとき、まさにグリシャがレイス家と対峙する光景を思い出し、そこからさらにグリシャをつうじて未来の自分の記憶を見たわけですし。
だとすればグリシャは、いまかれ自身が目にしている光景を、あらかじめ「記憶」として与えられていたという可能性が考えられます。
未来から、つまりグリシャの記憶を継承したエレンから、その「記憶」はグリシャに届けられたのかもしれません。
あるいはエレンが自分の「未来の記憶」を見たのと同じ方法で、つまり、グリシャ自身が過去の「進撃」継承者、たぶんクルーガーに送った記憶を、かれからグリシャは引き継いだのかもしれません。
わたしが何を未来に意志するかは決定されている?
こうしてエレンは、それにひょっとしたらグリシャも、自分が未来に何を意志するかを予知したうえで、それと同じものを意志した、ということになります。
このことは、雨が降る予報に備えるといった、不確定な状況に備えることとは別だといわれるかもしれません。
つまり『進撃』の作中世界では、登場人物が未来に何を意志するかが決定されている、ということにはならないでしょうか。
「未来の記憶」が示しているのは、エレンの意識や意志が、なにか大きな力——神や運命などと呼ばれる――によって操られているということなのでは?
しかし筆者は、そうではないと考えます。
エレンが見た自分自身の「未来の記憶」は、かれを操る外部の力の存在を証明するものではなく、やはり「状況」の一要素であり、かれにとっての「判断材料」でしかないと見るべきです。
自分自身の「未来の記憶」を見ることで、エレンの自由が否定されるわけではないのです。
だとすれば、どうしてエレンは未来の自分の意志に従おうと決めたのか?
それは、かれの「未来の記憶」が、いわば自己実現的予言として作用することによってであると、説明することができるでしょう。
unfreiefreiheit-aot.hatenablog.com