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本日のテーマはミカサの愛。
バレンタインデーにぴったりです。
ミカサにとってのエレンの二面性
ミカサが「主役より強いけど主役を引き立ててくれる」系ヒロインを脱却し、自由な実存になれるかどうかは、ミカサがエレンとの関係をどう意味づけなおすことができるかにかかっています。
それでは、そもそも二人の関係はどんなものであったか?
それを明らかにするためには、ミカサにとってのエレンと、エレンにとってのミカサとを、それぞれに考察する必要があります。
まず、ミカサにとってのエレンとは、きわめて両義的な存在です。
一方で、エレンはミカサにとっての「マフラー」であり、かのじょに「暖かさ」「温もり」を与える存在であり、つまるところ帰るべき場所の別名です。
そのことは、エレンとミカサが人さらいを殺し、天涯孤独になってしまったミカサにエレンがマフラーを巻くまでのエピソードにおいて、はっきりと示されています。
囚われたミカサは、どこにも居場所がなくなってしまった絶望を「寒さ」の隠喩で表現しました。
「お母さんもお父さんもいない所は…… 私には寒くて生きていけない」と。
その後、解放されたけど帰る場所のないミカサは、エレンにマフラーを巻いてもらって「あったかい」と言いましたが、これはイェーガー家に新しい居場所ができたことへの、かのじょの安心と喜びを表現する隠喩です(6話)。
それ以降、ミカサはつねにエレンへの愛を、家庭的な親密さとして言い表します。
すでに見た「マフラーを巻いてくれてありがとう」は、もちろんそういう意味を込めたセリフです(50話)。
ほかにも、たとえば駐屯兵団精鋭部隊のイアンとの「恋人を守るためだからな」「…家族です」のやりとりとか(13話)。
本心の告白をちゅうちょするアオハル真っ最中の若者らしい、ごまかしでもあるのでしょう。
とはいえ、ミカサがエレンに対してもつ愛情のかたち自体、家庭的な温もりへの愛着とあまり区別がつかないもの、とも言えます。
そして、和平交渉の手がかりを探すためマーレに潜入中、ミカサがエレンに「オレは… お前の何だ?」と不意に尋ねられたエピソード。
この場面においてもなお、ミカサは「あなたは… 家族…」としか答えられないまま、スリの少年の祖父か誰かのもてなしを受けたことで、本心を告白できずに終わってしまいました(123話)。
でもその一方で、すでに過去記事で述べたことですが、ミカサにとってのエレンは、カントのいう「定言命法」=無条件に従うべき掟をかのじょに与えた立法者でもあります。
ミカサがアッカーマンの能力に目覚めるきっかけを与えた、あの「戦わなければ勝てない 戦え」という掟ですね(6話)。
くわしくは当該記事を読み返していただきたいのですが、要点だけまとめると、こういうことです。
エレンの「戦え」という掟を、ミカサは自分自身の掟にしたというよりは、むしろ「エレンのために」という行動原理において、エレンへの忠実さとして、つまり「もしそれがエレンのためならば」という条件つきの掟=「仮言命法」として実践してきました。
しかしカントによれば、定言命法=無条件の掟にみずから従う意志は自律的ですが、その一方で、仮言命法=条件つきの掟に従うミカサの意志は他律的なのです。
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「帰るべき場所」としてのエレンと「無条件に従うべき掟」としてのエレン。
かれが仲間のもとを離れて独自に行動するようになるまでは、このようなエレンの二面性に、ミカサは困惑することはありませんでした。
しかし、仲間の呼びかけにも耳を貸さず地鳴らしを続行するエレンを、ミカサは理解できなくなります。
頭痛に襲われながら「私達の家に… 帰りたい…」と虚しく願うミカサ。
それが示しているのは、ミカサにとって「帰るべき場所」としてのエレンその人に拒絶されてしまったことによる、かのじょの深い不安と悲しみです。
剣と毛布
終盤に至るまで、ミカサがエレンの二面性に矛盾を感じることなく、その双方を受け入れていたのは、どうしてか。
それを理解するには、エレンとの出会いがミカサにどれほど深い影響を与えたのかを、考察する必要があります。
次のように言っていいでしょう――ミカサはエレンとの出会いを、ほとんど宗教的啓示にも似た、自我を根幹から揺さぶる衝撃として体験した。
そうだとすると、この経験がひきおこした一種の高揚感を、ミカサはエレンへの特別な感情と同一視してしまったしたのかもしれません。
一種の「ストックホルム症候群」的なやつですね。
ところで、あの衝撃的な出会いのエピソードには、あのダーク・ファンタジー『ベルセルク』からの影響が、明らかに、そして色濃く見て取れます。
たしか、なにかのインタビューで作者・諌山じしんもそう認めていました。
もとのインタビューがみつかりませんけど、以下記事にはそういうことが書いてあるので、筆者の記憶は間違いなさそう。
だとすれば『進撃』に影響を与えたと思われる『ベルセルク』のエピソードを、見ておく必要がありそうです。
「鷹の団」の女剣士キャスカと、団長グリフィスとの出会いの話です(単行本の7巻所収)。
貧しい一家の末娘キャスカは、性的目的を秘めつつかのじょを引き取ったロリコン貴族に犯されそうになったとき、まだ一介の盗賊団でしかなかった「鷹の団」に救われます。
白馬の王子のごとく現れた、団長グリフィス。
ところが、かれは貴族を斬るなり追い払うなりしてキャスカを救うかと思いきや、剣を地に突き刺し、かのじょにこう告げたのです。
「君に守るべきものがあるなら その剣をとれ」と。
キャスカは動揺しつつも、先手をとろうとしたロリコン貴族ともみあいになった末、かれを突き殺します。
自分がしたことに恐れおののくかのじょに、グリフィスは毛布を与えました。
この体験を天啓のようなものとして受け取ったキャスカは、グリフィスに随行することを申し出ます。
君の好きなようにすればいい、という態度のグリフィス。
でもキャスカは、かのじょに啓示を与えたグリフィスに、すっかり心服した様子です。
「剣も毛布も」グリフィスがくれたものだと、キャスカは心のなかでグリフィスに感謝を告げました。
こうしてキャスカは、グリフィスを崇拝するかのように愛するようになったのです。
このエピソードにおけるキャスカの体験は、エレンとの出会いにおけるミカサの体験と、びっくりするほどぴったり符合します。
ミカサがエレンに見出した掟(=「戦え」)と「帰るべき場所」(=マフラー)は、キャスカがグリフィスに与えられた「剣」および「毛布」と、まったく同じものなのです。
グリフィスの「剣」も、エレンの「戦え」も、みずからの手で運命を拓けという命令、すなわち自由であれという掟(定言命法)です。
しかし皮肉なことにキャスカも、そしてミカサも、この掟を、立法者への忠誠と奉仕というかたちで、すなわち、条件つきの仮言命法として、実践するようになります。
「鷹の団」千人長にまで昇りつめるほどの実力者になったキャスカは、伝説や神話上の人物のようなカリスマ軍事指導者グリフィスを愛し、かれに心服しつつ、かれの「剣」であろうとします。
エレンとの出会いによりアッカーマンの能力に目覚めたミカサは、その常人離れした戦闘の才能を、ひたすら愛するエレンのために役立てようとします。
かのじょらがどれほど自発的であったとしても、それは他者の意志への服従として、つまり他律的実践として、評価せざるをえないでしょう。
何がキャスカやミカサをそうさせるかというと、グリフィスが「毛布」を、エレンが「マフラー」を、それぞれに与えてくれたからです。
かのじょらがかれらを居場所として、心の拠りどころとして見出したからです。
ミカサのエレンへの愛情が、家庭的な親密さへの愛着と区別できないものであったことは、前述のとおりです。
それと同様にキャスカも、団長グリフィスの剣になろうとしただけでなく、気高い目的のために苦難を耐えるひとりの男グリフィスを、ひとりの女として支えたいと、心の底では望んでいました。
しかし、キャスカの愛とミカサの愛とは、違う道筋に分かれていきます。
キャスカの愛は、グリフィスに対する、崇拝のような自発的服従と混ざった愛から、別の男性、すなわち主人公ガッツとの、対等な関係における愛へと移っていったのです。
ミカサの場合には、愛情の対象が変化することはありません。
そうであるかぎり、エレンとの関係性を変えなければ、ミカサの意識は他律性から、自発的服従から、解放されることがないのです。
ミカサに対するエレンの愛情
次に、エレンにとってのミカサを考察してみましょう。
ここで留意すべきは、二人の関係性を変えようと、先に行動を起こしたのはエレンだったということです。
ミカサを奴隷よばわりしたことも(112話)、終盤に意識世界のなかで「(自分のことを)忘れてくれ」とかのじょに頼んだことも(138話)、けっきょく同じ趣旨でした。
すなわちエレンは、ミカサを愛し、かのじょの幸福と自由を願っていたからこそ、かのじょが自分に対して示す他律的な執着を断ち切りたかったのです。
(筆者が指摘せずとも、通読すれば明らかなことですが。)
ここでエレンは、すでにうすうす知っているのでしょう。
かれが図らずともミカサに与えたのが「自由の掟」と「マフラー」(ベルセルクにおける「剣と毛布」)であったということに。
またそれゆえに、ミカサが自分に向ける愛情において、掟を与えた立法者への服従と、マフラー(居場所)への愛着とが、分かちがたく結びついてしまったということに。
しかしエレンがミカサに望むのは、かれが与えた「自由のために戦え」という掟に忠実であることではなく、かのじょが自由になること、それ自体です。
だからこそ、エレンはミカサに懇願したのです。
「マフラーは捨ててくれ」と(138話)。
つまり、かのじょの心のなかで一つのものになってしまった「剣と毛布」または「掟とマフラー」を、同時に放棄してほしいと頼んだのです。
ところが、そんなエレンの願望は、それがミカサへの誠実な思いやりから発するものであったとしても、ミカサのためにはなりません。
ミカサにとってのエレンは「居場所」であり、つまるところ、かのじょの存在理由そのもの。
それを放棄することを、ミカサは自由とは感じられないでしょう。
そこがエレンには、まだ分かっていないのです(だから最終話でアルミンに殴られたわけです)。
ミカサに戻ると、かのじょが自由になれるかどうかは、愛の対象であるエレンとの関係を、対等なものとして構築しなおせるかどうかにかかっています。
しかも、それはエレンが望んでもできないこと。
ミカサの精神的態度が他律的であるとしても、かのじょのエレンに尽くそうとするふるまいが自発的であることは事実だからです。
あくまで、自由な実存としてのミカサが、かのじょ自身の自由な行為によって、二人の関係を再構築しなければならないのです。
わたしの愛とあなたの愛の等価交換
ミカサは何をしなければならないのか。
その手がかりとなる哲学的知見は、おそらくマルクス(1818-83)に見つかるでしょう。
マルクスは資本主義と私有財産制を解体して平等社会に変えると主張した革命思想家でしょ? 個人の自由とか、ましてや恋愛とかの話なんてしてないんじゃない?
そういう反応が出るのは分かっています。
ところがどっこい、意外にそうでもないんです。
とくに、ひげもじゃではないイケメンだった若い頃のマルクスは。
よりによってバレンタインデーに登場でも、へっちゃらなのです。
マルクス先生、あなたに頼むにはバチ当たりなお願いかもしれませんが、どうかお聞き入れください!
愛と「居場所」を見失って苦しむミカサちゃんが、自由になるためにはどうしたらいいですか?
というのもかのじょは、ほかならぬ意中の男に、オレなんて忘れてくれ、マフラー(=居場所)なんて捨ててくれ、と言われてしまったからです。
でもそれでは、ミカサの魂は解放されないのです。
でもマルクスは、天のお告げなど与えてはくれません。唯物論者ですから。
そのかわりに、かれが書き残したものを読めばいいでしょう。
若きマルクスの書きものには、次のような情熱的な一節があります。
......愛は愛としか交換できないし、信頼は信頼としか交換できない。芸術を楽しみたいと思えば、芸術性のゆたかな人間にならねばならない。......人間や自然にたいするあなたの関係の一つ一つが......あなたの現実的・個人的な生命の発現でなければならない。
マルクス『経済学・哲学草稿』第三草稿
これは貨幣批判の文脈で書かれたもの。
愛だろうが信頼だろうが、しばしば人はおカネで何でも買おうとしますが、それこそが真の平等を阻むのです。
ところが、このくだりにおいてマルクスは、意外にも、経済的な平等(生産や所有の関係の改革)の話はしません(別の箇所ではしているけど)。
そのかわりに強調されるのは、いわば行為と行為の等価性としての平等です。
つまりこういうことです。
ミカサに対するエレンの行為と、エレンに対するミカサの行為とは、愛として等価にならなければならない。
つまり、エレンの行為がミカサにとって、そしてミカサの行為がエレンにとって、愛という同じ意味をもつ行為として成立しなければならない。
それこそが真の愛であり、真の平等なのです。
若きマルクスが熱弁する「愛は愛としか交換できない」とは、そういう意味に違いありません。
(ちなみに、この情熱的で感性的な若きマルクスの平等論には、フォイエルバッハという哲学者からの影響が強く出ています。)
わたしの愛する行為と、あなたの愛する行為との、等価交換。
それが成立するには、両者の愛する行為は、相手だけでなく自分にも働きかける行為でなければなりません。
次のようにマルクスは続けています。
あなたが愛しても相手が愛さないなら、すなわち、あなたの愛が相手の愛を作り出すことがなく、愛する人としてのあなたの生命の発現が、あなたを愛される人にすることがなければ、あなたの愛は無力であり、不幸だと言わねばならない。
マルクス『経済学・哲学草稿』第三草稿
ミカサとエレンは、けっきょくは相思相愛です。
しかしながら、両者がたがいを思いやる行為は、愛と愛との等価交換としては、いまだ成立していません。
ミカサの愛がエレンにとって、エレンの愛がミカサにとって、同じ価値をもつ愛であるためには、要するに、ひとりよがりじゃダメなのです。
それぞれが自分自身の行為を、ひとりよがりに愛と意味づけているだけでは、ダメなのです。
行為がその相手にとっても愛としての意味をもつように、両者は自分自身の態度を作り上げねばなりません。
それがマルクスのいう「あなたを愛される人にする」の意味なのです。
ついに愛の等価交換をなしとげたならば、そのときはじめてミカサは、愛情の関係においてエレンと対等になれるでしょう。
またしたがって、かのじょは愛情の関係において自由になれるでしょう。
そう、それこそが、始祖ユミルが心の底から切望した自由、かのじょがどうしても到達しえなかった自由なのです。
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