自由の物語
マンガ『進撃の巨人』が4月に完結しました。
で、みなさん、あのキャラがああなった、こうなったとか、結末がよかったとか、期待外れとか、そういう感想ばかり言いあっています。
ちょっとした作品批評を含んだ記事を見ても、なんだか浅いコメントしか見当たりませんね。現代社会の「閉塞感」をうんたらかんたらとか、史実をうまく盛り込んでなんたらかんたらとか。
みんな、ちゃんと『進撃の巨人』読みました?
主役のエレンがあんなにがんばって「自由」「自由」って主張してきたのに、なんで自由を掘り下げないかな?
なんなら作者の諌山が、人類に「自らの運命は自らで決定できると 信じさせることができるだろうか」なんて、壮大なナレーション入れていらっしゃいますよね? それ読んだら、自由がテーマの作品なんだな、そう読んでみるか、ってなりません?
もっと言えば、この作品は、エレンだけが自由を求めている話じゃないんです。主要キャラみんなが、どうやって自由になれるかという試練をくぐり抜けているんです。
ミカサも、アルミンも、ジャンも、ヒストリア(これは分かりやすいか)もそうです。
ライナーも、アニも、ベルトルトもそうです。
もしそう読めないとしたら、理由は一つ。たったひとつの単純(シンプル)な答え。
あなたは「自由」をよく分かっていないのです。
煽ってるんじゃあ、ございやせんよ。
この作品は、哲学的な自由の諸理念を表現してみせているのだ、と言いたいだけです。
哲学的自由論の実演として『進撃の巨人』を読む
古代から現代に至るまで、さまざまな哲学者が、自由とは何かについて、ああでもない、こうでもないと、議論を繰り広げてきた。
『進撃の巨人』は、そういう多種多様な、しかも、しばしば相競合する哲学的自由論を、ファンタジックながらもリアリスティックな物語に仮託しながら、きわめて印象的かつ効果的に実演している。
かねてより筆者は、そう感じていました。
で、作品が完結したので読み直してみたところ、自分の読み方は正しいと確信したのです。
でも、今のところだれもそういうことは言っていない。だったら先に書いちゃおうと、このブログを立ち上げました。
(ほんとうは『進撃』の自由観を深堀りしようとする論稿も散見されるんですけど、ちょっと筆者はどれにも納得できなかったという意味です。)
読解の方法について、あらかじめ断っておきます。
第一に、本ブログでは『進撃の巨人』1-139話しか題材にしません。スピンオフ、ファンブックなどの類は、いっさい除外します。作品それ自体のみを、さまざまな哲学的自由論と照らし合わせながら考察します。
第二に、作者・諌山があれそれの哲学書を下敷きに本作品を描いたとか(違うと思うけど)、彼がかれこれの思想をもっているとか(論じる気にはなれない話題だけど)、そういうことはいっさい推測しません。作者の意図には還元されない、作品世界それ自体を、そしてそれだけを、考察の題材にします。
消極的自由
筆者としては、アリストテレスやアウグスティヌス、マキャヴェリやホッブズ、ルソーやカント、さらにはマルクス、ニーチェ、サルトルまで引っ張り出して、自由の物語としての『進撃の巨人』を多角的に解きほぐすつもりであります。
語れることは、当分尽きないくらいはある。アニメ版の最終クールの放映が始まる頃までは多分イケる。
しかし最初に示しておくべきは、どんな自由の理念が『進撃の巨人』にはないのか、という点でしょう。
『進撃の巨人』のテーマに含まれない自由、それは 消極的自由 negative liberty です。
消極的自由とは何か? この語を定義したのは、20世紀の哲学者、というより思想史家のアイザイア・バーリン(1909-97)でした。彼が消極的自由と呼ぶのは、次のような意味の自由です。
ふつうには、他人によって自分の活動が干渉されない程度に応じて、わたしは自由だと言われる。……あなたが自分の目標の達成を他人によって妨害されるときにのみ、あなたは政治的自由を欠いているのである。
バーリン「二つの自由概念」
要するに、消極的とは「干渉されない」「束縛されない」という意味です。したいことを「してはならない」と束縛されなければ、またしたがって、したくないことを「やれ」と強制されなければ、わたしは自由なのです。
なお「政治的自由」とは、法的に保障される自由という意味に理解して、差支えありません。
わたしたちが日常的に慣れ親しんでいるのは、このような自由観でしょう。バーリンもこれを、自由の「ふつう」の意味あいと見なします。
移動することを禁止されている人は、自由ではありません。人間は移動することができますから。
親が許可しない友人と遊べない子供は、自由ではありません。子供はみずからの判断で友達を作ることができますから。
愛し合っているのに、家族の都合や社会の偏見や法律(とくに同性愛者について)のせいで結ばれない二人は、自由ではありません。二人は共同生活を築くことができますから。
強盗に「カネを出さないと殺す」とナイフを突き出されて売上金を渡すコンビニ店員は、自由にカネを出すのではありません。もともと他人の理不尽な命令に従う理由はありませんから。
では、強盗することは自由か? というのも実行犯には、カネを脅し取るという目標があり、それを達成するための十分な能力(腕力、知力、度胸)もあり、他方で実行の効果的な妨げはなかったのです。だから形式的には、強盗もまた自由な行為です。
だからといって、強盗のような行為もまた束縛されるべきではない、とあえて唱える人はほとんどいないでしょう。放任されるべき行為と、束縛されるべき行為とは、区別されねばなりません。
したがって、自由な行為と制限または禁止されるべき行為との線引きが、消極的自由をめぐる問題となります。
では、どこに線を引くか。どこに自由の限界を設けるか。
近代的な自由主義(リベラリズム)において広く受け入れられているのは、J. S. ミル(1806-73)のいわゆる危害原理です。
文明社会で個人に対して力を行使するのが正当だといえるのはただひとつ、他人に危害が及ぶのを防ぐことを目的とする場合だけである。
ミル『自由論』
つまりミルが言いたいのは、他人に危害を加えるような自由でないかぎり、どのような自由も放任されねばならないということです。
なお上記のバーリンは、ミルを消極的自由の最重要の哲学者と見なしています。現代リベラリズムの古典であるロールズ『正義論』も、ミルの危害原理を前提としては受け入れています。
こうして、他人に危害を加えないという条件で、わたしがやりたいことにどんな干渉も受けないということが、消極的自由(その純粋形)ということになります。
この「干渉からの自由」には、二つの重要な含意があります。
第一に、自由が個人の権利の問題になるということ。
消極的自由の本質は、私的な、個人主義的な自由です。自分自身にかかわり、他人の権利を理由として法的に禁じられないことであれば、個人はそれを行う権利をもつのです。
ここから、わたしたちが慣れ親しんでいる自由観が出てきます。法律で禁じられていないことを、わたしは行う権利があり、だからそれを行うことはわたしの自由である。
第二に、他人や法律によって干渉されるからではなく、たんにわたしが行おうと思っても実行できないことは、自由の欠如ではないということ。
わたしには重力に逆らう自由がないということは、言っても意味がないのです。
さらにバーリンにいわせると、たとえば貧乏だからパンが買えないという話は、個人の自由が不当に干渉されるという話とは区別しなければなりません。
命令に従う自由?
さて、ここからが本題です。
上述のような消極的自由は、『進撃の巨人』ではほとんど扱われないのです。
わたしたちが慣れている「束縛されない自由」「私的自由」「権利としての自由」は、この作品のテーマではない。むしろ、それとは異質な自由が問題となるのです。
この作品が、自由を主題としているのに、この主題については表層的にしか読まれていないことの理由は、おそらくここにあるのでしょう。
ここで、女型の巨人に追跡されるリヴァイ班の場面を例にとりましょう。
追跡を阻止しようとする兵員たちが次々と女型の巨人に殺されるなか、リヴァイはこのまま全速力で前進せよと命令、しかしエレンは命令に逆らってでも巨人に変身して迎撃しようとしました。
その瞬間、リヴァイは「やりたきゃやれ」と言い放ち、判断をエレンの自由に委ねたのです。
「悔いが残らない方を自分で選べ」。25話の、説明不要の名シーンですね。
結局、エレンは「仲間を信じて、命令に従う」を選びます。
彼は自由に選択したのか? しかり。
しかしながら、自由に選ぶ権利を行使したとはいえない。
いわば、命令にたいして自由に服従したのです。
それに従うか従わないか自由に判断する余地を残すような命令は、命令とはいえません。だから、命令にたいする自由な服従というフレーズは、自己撞着を起こしているように見えます。
でも、ここでのエレンの選択は、命令にたいする自由な服従としか表現のしようがありません。
リヴァイの意図を考えてみましょう。
何が正しい決断かは誰にも分からない、だから自分で納得できる判断をしろ。そうリヴァイは言いました。
これは、どっちを選んでもいいよという意味なのか? 束縛を免除しているのか?
否。命令に従うよう誘導しているのです。独断で動こうとしたエレンを冷静にさせ、独断を思いとどまらせるために、彼の選択を誘導するために、選ばせているわけです。
たしかに他の班員とは違い、リヴァイは頭ごなしに「黙って従え」とは命じませんでした。でもそれは、彼いわく、エレンが「本物の化け物」で、彼の「意識」を服従させることは不可能だと考えているから(これがまったく的確な評価と分かるのは後の話)。
つまり、どうにも手綱をつけられない馬を、どうにかうまく操るために、あえてリヴァイはそう言ったにすぎません。
しかもリヴァイは「俺にはわからない」と言いながら、この状況では自分の命令が最善であると確信していたはずです。
だって、この場面では彼だけが「女型」生け捕り計画を知っていたのですから。
しかしながら、リヴァイの言葉は「俺の言うことに従わないなら、後悔するぞ」というような、よくある脅し含みの誘導ではなかった。
逆です。
「悔いが残らない方を自分で選べ」と、つまり「俺は命令したが、しかし命令に従わないことだけでなく、従うことの責任も、お前が負え」と言ったのです。
命令に従うか従わないかの選択肢を、どちらにも重みをつけずに、ある意味ではまったくフェアなしかたで、エレンに差し出したのです。
「かけがえのないわたし」の自由と責任
他方で、エレンの判断は、切迫した状況に、調査兵団という軍事組織の規律に、そして上官の発した命令によって、幾重にも縛られていたはずです。
しかし現実問題としては、エレンの意志は縛られていなかった。
兵団の規律や上司の命令でさえ、状況の制約という程度にしか、彼の行為や判断を縛っていません。
それは彼の精神性が、リヴァイいわく「本物の化け物」であったからですし、またそうでなくても、巨人化して応戦するという、じゅうぶんに有力な対抗手段を独り有していたからです。
それにもかかわらず、縛られない精神であるエレンは、リヴァイに覚悟を問われ、命令に従うことを、まさしく自由に選びました。
エレンの判断は縛られていない。では、それは私的な、消極的な自由という意味で、自由な判断なのでしょうか?
それは違うというべきでしょう。私的な判断であれば、その結果に影響されるのは自分や、せいぜいごく親密な人だけです。
しかしエレンは、組織の仲間の命に、ひいては組織の存続にかかわる、非常に重大な判断を背負わされました。
それにもかかわらずリヴァイは、組織の規律に服すべき一兵員にたいしてではなく、エレンという名の、この世に二つとない個性にたいして、自由に選べと呼びかけたのです。
ここで問題となっているのは、私的な自由ではない。
しかし、組織における個人の義務や責任でもない。
エレンという個性それ自体の、状況における自由な選択なのです。
これは、私的・消極的自由においてそうであるとの同じく、個の尊重です。
しかしリヴァイは、仲間全員の命がかかっているところで、お前自身が選べ、兵士ではなくエレンであるお前が選べと、そういうやりかたでエレンという個を尊重するのです。
一見すると寛大そうですが、その実、なんとすさまじく、おっかない「個の尊重」であることでしょう?
でも、それこそが、この『進撃の巨人』という作品世界における自由の意味である。そのように筆者には思えます。
わたしが自由であるのは、外的な地位としての「わたし」(会社員でもバイトでも学生でも教師でもなんでもいい)がそう判断したからではなく、内なる「わたし」が、なににも代えられないわたし自身が、そう決めたからである。
そういう種類の自由こそが、この作品全体を貫くテーマなのではないか。
......だから、『進撃』の自由観は「新自由主義」と親和的、っていう話は、ちょっと皮相な気がするんだよなあ。
この作品の「世界観」は、ネオリベ=強者優位で弱者は搾取されるのみの競争原理を、たしかに連想させるかもしれない。でもその世界観はあくまで舞台背景でしかなくて、作品それ自体のテーマでは全然ないんだよね。
それにネオリベと呼ばれる自由の根っこにあるのも消極的自由、つまり私的な権利としての経済的自由だし。
で、わたしたちになじみ深い私的・消極的な自由が『進撃』のテーマではないとすれば、この作品の自由を、どう名づけ、どう理解すればいいのか?
それは稿を改めて述べましょう。筆者の意欲が続けば、ですが。
(つづく)
unfreiefreiheit-aot.hatenablog.com