進撃の巨人・自由論

半分は哲学の解説ブログ、半分は作品の考察ブログ(最近は3:7くらい)。

目次

0 自由の哲学入門書として読む『進撃の巨人

 一覧

1 ニヒリズムと実存的自由

 一覧

2 マキャベリズム・ロマン主義・実存的自由

 一覧

3 本来の自己を選ぶ自由

 一覧

4 わたしの内なる声としての自由

 一覧

5 自由になることと人間であること

 一覧  

 

文献一覧

ブログの著者 

 

f:id:unfreiefreiheit:20220111075510j:plain

 

5.4.b 始祖ユミルの愛と隷従 (下) 〜 自由になることと人間であること

 

unfreiefreiheit-aot.hatenablog.com

 

愛情の関係における自由

逃げることでも、男たちととも戦争に参加することでも、自由になれない奴隷ユミル。

そういうかたちでの解放は、つまり巨人の力をもって(超人間的な)戦士として認められることは、そもそもユミル自身が望んでいなかったように見えます。

ユミルは人間として、そしてなによりも女性として、自由になりたかったのでしょう。

かのじょが結婚式を眺めていたシーンは、そのことを示唆しています。

 

男性が財産所有者として権力を握る家父長制では、女性は対等な存在とはいえません。

法的にも、社会的にも、男性が優位に立っているのです。

それにもかかわらず、女性が男性と対等になれるかもしれない唯一の関係があります。

それは精神的な関係、すなわち愛情の関係です。

もちろん、恋愛の関係においても男が女を支配することはよくあります。

それでも愛情の関係は、当人たちの一対一の個人的関係に左右されるもの。

だから、結婚制度そのものは所有主としての男性を優遇するものでありながら、家庭内では「カカア天下」が成立する、なんてこともしばしばあるのです。

 

男女の親密な関係における平等を、平等それ自体の達成と見なしてよいのか?

そういう疑問は生じて当然です。

人間みな平等というなら、やはり権利において両性の平等が確立されねばなりません。

そういう考え方を哲学の分野で基礎づけているのが、近代哲学における自然権の思想ですね。ロックとかルソーとか。

 

しかし、それはそれとして、この作品で描かれていることがらの考察に徹しましょう。

近代的平等原則とはかけ離れた世界しか知らない始祖ユミルには、そういう男尊女卑の社会(家父長制)を前提とした自由しか、夢想しえなかったのではないでしょうか。

 

巨人の力をもって働いてきたユミルに、フリッツ王が「褒美だ 我の子種をくれてやる」と言った、あの超絶キモいシーン(122話)。

いかにも奴隷らしくこうべを垂れていただけのユミルが、そう告げられた瞬間、微妙なしぐさながら、明らかに反応を示しています。

それも、どうやら「なに言っちゃってるの、このオヤジ? キモい、臭そう、不潔、ありえない!」というかんじではありません。

どちらかといえば、意外さと、かすかな期待とが、思わず態度に表れたように見えます。

f:id:unfreiefreiheit:20211227101749j:plain

122話「二千年前の君から」

 

そして実際に子を授かったユミル。

生まれたばかりの赤子を、なにやら感慨深そうに、しげしげと眺めています。

f:id:unfreiefreiheit:20211227101813j:plain

122話「二千年前の君から」

 

わが子を見つめながら、胸中のささやかな期待が、より大きく膨らんでいくのをユミルは感じたのではないでしょうか。

わたしはこの奴隷状態から、ほんとうに解放されるのかもしれないと。

奴隷としてでも、巨人としてでもなく、人間として、わたしは他人に必要とされるのかもしれないと。

ひとりの女性として、愛情の関係のなかで、わたしを奴隷主は対等に扱ってくれるようになるかもしれないと。

わたしは自由になれるのかもしれないと。

 

しかしながら、ユミルに解放の瞬間は訪れませんでした。

身を挺してフリッツ王をかばい、死へと沈んでいくユミルの意識に、最期に届いたフリッツの呼びかけ。

それは「我が奴隷ユミルよ」という、いままでと変わらない呪いの言葉でした。

真実の愛によって解放されるかもしれないというユミルの期待は、ついぞ叶うことはなかったのです。

f:id:unfreiefreiheit:20211229141559j:plain

122話「二千年前の君から」

 

愛情の関係に入ることで、わたしは自由になれるかもしれない。

――それが始祖ユミルの、悲しくも虚しい願望でした。

望み叶わず、奴隷の身分のまま死んだユミルは、エルディア人に「道」をつうじて巨人の身体を送りつづける、まるで賽の河原の石積みやシーシュポスの岩運びのような、永遠の苦役に従いつづけたのです。

f:id:unfreiefreiheit:20220102072920j:plain

シーシュポスの罰

 

「愛が奴隷状態を自由にする」

愛が人間を自由にするとは、どこかで聞いたことがあるようなフレーズ。

たとえば「ラブ&ピース」を唱えたヒッピーも主張していたことです。

それは使い方によっては非常に陳腐なフレーズですが、しかし長い歴史をもつ哲学的な命題でもあります。

 

キリスト教の主要教義を確立した、最大の教父哲学者アウグスティヌス(354-430)を、ここで参照してみましょう。

後年みずから「肉欲におぼれていた」とする若年期をへて、ミラノで弁論術の教師となったアウグスティヌスは、ある日「取りて読め」という声を聞いて聖書をとり、キリスト教に回心しました。

『進撃』のテーマでもある「自由意志」(liberum arbitrium)という言葉を、哲学的な用語として確立したのは、この人だといっていいでしょう。

アウグスティヌスは、神が宇宙を正しく秩序づけているという考え方(予定説、まあ決定論と見なしていいでしょう)を、自由意志と両立させました。

世界を創造した神は全能であるとはいえ、人間が救済されるかどうかは、各人の善くあろうとする意志に委ねられており、そのことは神の恩寵と矛盾しないと論じたのです。

f:id:unfreiefreiheit:20211219073636j:plain

アウグスティヌス

 

さて、そんな自由意志論者アウグスティヌスによれば、人間は天国のみならず現世においても、自由になることができます。

まずかれは、俗世の価値観を逆転させます。

哲学者の常とう手段ですが、一般に自由だと思われている所有主は、欲望や罪に囚われた奴隷にすぎないのだと指摘するのです。

アウグスティヌスいわく「多くの敬虔な人々が不正な主人に奉仕する一方で、その主人は自由ではない」。

それに比べれば、他人に奉仕する者(つまり奴隷)のほうが、真の幸福に、つまり来世での救済に近づいています。

人間に奉仕することは邪欲に奉仕することよりも幸いである。……この支配欲というものは、もっとも荒々しい支配力によって人間の心を荒廃させるからだ。

アウグスティヌス神の国』第19巻 第15章

www.kinokuniya.co.jp

 

こうして「高慢は支配する者たちを害する」が、それとは逆に「謙虚は奉仕する者たちを利する」。

そしてここからが、いかにも宗教哲学らしい自由論となるところ。

アウグスティヌスは、こう続けるのです。

もし奴隷が奴隷状態から解放される希望をもてないとしても、心からの愛をもって奉仕することで、奴隷はみずからを「自由」にするのだと。

……もし奴隷が主人によっては解放されえないならば、不正が過ぎ去り、あらゆる人間的な権勢が虚しくなり、すべてにおいて神がすべてとなるときまで、彼らはその主人に……真実の愛から奉仕することによって、その奴隷状態を、ある意味で自由にする。

アウグスティヌス神の国』第19巻 第15章

 

もちろんこれは、奴隷は奴隷の境遇に甘んじ、身の程にあった幸福を求めればよい、というメッセージに解すべきではありません。

もし不正な支配から脱却できる望みがないとしても、魂だけは自由であれと、アウグスティヌスはそういいたいのです。

(そうはいっても、社会の争乱よりは奴隷に支えられた平和のほうが望ましいという思想が、近代以前のキリスト教において主流だったのは事実ですが。)

 

始祖ユミルに話を戻すと、かのじょが抱いた自由への願望は、このアウグスティヌス的な自由に近いものに見えます。

真実の愛から他人に奉仕することで自由になれるというのは、まさしくユミルの信念でした――ただし恋愛や性愛を意味する愛でしたが。

アウグスティヌス的な意味において、かのじょは自由を渇望する誠実な奴隷であったのです。

 

ひとりの人間として、女性として、他人に必要とされたいと欲しながら、ユミルは奴隷の務めに死ぬまで徹しました(というより、それに徹したせいで死んでしまったのですが)。

しかしその結果、死後の世界においてもユミルは自由にはなれず、奴隷のままでした。

かのじょに救済は訪れず、死後も、永遠に終わらない苦役に縛られたのです。

アウグスティヌスが約束したような魂の自由を、ユミルはついぞ得られなかったのです。

f:id:unfreiefreiheit:20220123084452j:plain

122話「二千年前の君から」

 

しかしながら永い時をこえて、ついに始祖ユミルの魂は解放されます。

かのじょを解き放つための決定的な役割を果たしたのは、ミカサでした。

始祖ユミルが達成できなかった自己救済を、ミカサが代行したのです。

始祖ユミルの運命とミカサの運命は、どこで合致し、どこで分岐していくのでしょうか?

次に解き明かすべきは、それです。

(つづく)

 

5.4.a 始祖ユミルの愛と隷従 (上) 〜 自由になることと人間であること

 

unfreiefreiheit-aot.hatenablog.com

 

始祖ユミルの苦しみと願望

生まれないことが奴隷の幸福であるという、呪詛のごとき信念から解放されたジーク。

でも、ついぞかれは、始祖ユミルが何を欲していたのか理解できませんでした。

それこそまさに、かれがエレンに敗北した理由だったのですが。

唯一ジークに見当がついたのは、ユミルがなにか「未練」を抱えていたということ。

f:id:unfreiefreiheit:20211204224805j:plain

137話「巨人」

 

とはいえ、すでに読者には、手がかりが与えられていました。

少女のころ、奴隷の日課を務めるあいだに足を止め、結婚式の様子に見入っていた始祖ユミル(122話)。 

f:id:unfreiefreiheit:20211227084758j:plain

122話「二千年前の君から」

 

さらに、最終回でエレンが報告したところでは、なんとユミルは、かのじょを奴隷扱いするだけであったフリッツ王を愛していたというのです。

かのじょは自由を求め、苦しんでいながら、それでも同時にフリッツを愛してもいたのだと。 

f:id:unfreiefreiheit:20211204230541j:plain

139話「あの丘の木に向かって」

 

えーそれエグすぎじゃない? 

奴隷が主人に向ける一方通行の愛なんて、DV気質のキモ男に好都合な妄想だと非難されても、文句は言えないでしょう。

とはいえ作者・諫山は、この話を考えなしに描いたわけではなさそうです。

 

なぜ始祖ユミルはフリッツを「愛した」のか?

この問題は、なぜユミルが救われるためにミカサを必要としたのかという、この作品の最終的な謎にも関わってくるものです。

それを解き明かすには、多くの段階をふまねばなりません。

ともあれ、まずは始祖ユミルを考察してみることにしましょう。

 

戦士の自由と女性の隷従

始祖ユミルについては、ひきつづきヘーゲル弁証法的構図が、考察の手がかりを与えてくれるはずです。

ヘーゲルによれば、みずからの命をあえて危険にさらす戦士は、奴隷を従え、自由な身分を享受します。

他方で、主人に奉仕する奴隷は、やがてみずからの労働をつうじて自由を知ることになりますが、さしあたりは恐怖に屈し、主人の所有物となっています。

 

このことは、以前にも紹介したボーヴォワール4.4.a 参照)によれば、ジェンダー的非対称性、いわゆる男尊女卑の問題にも当てはまります。

男性による女性の支配がいつ、どのようにはじまったのかを解き明かすために、かのじょはヘーゲルの「主人と奴隷の弁証法」を念頭に置いているのです。

 

男尊女卑の歴史は、ボーヴォワールによれば、女性が戦士の仕事から締め出されたことではじまりました。

命をかけるという特権的な仕事を独占した男たちは、次のことを証明する機会をも独占したというのです。

わたしはこの動物的な生命活動と同じものではなく、それ以上意味をもつ存在であると。

すなわち、わたしは「自己意識」であると。

自分の属する部族や氏族の威信を高めるために、戦士は自分の生命を賭ける。そうやって、人間にとって最高の価値は生命ではないこと、生命は生命それ自体よりもっと重要な目的のために役立てねばならないことを、みごとに証明するのだ。

ボーヴォワール第二の性 Ⅰ』第1巻第2部

f:id:unfreiefreiheit:20211229082341j:plain

自由な戦士は侮辱を受ければ決闘あるのみ

 

男女の身体能力の差や、妊娠することなどを理由に、女性は戦争から締め出されてきました。

この点について、ボーヴォワールはいいます。「女に重くのしかかっている最大の不運は、女がこうした戦士たちの遠征から除外されていることである」と。

 

しかしそれでも、石器時代の原始的な農耕においては、畑仕事にあまり大きな労力は必要ないので、農作業は女の仕事でした。

家内工業も、商業も、女性が担っていました。

そして女性には「産む性」としての、決定的に重要な役割がありました。

これらの役割を担う女たちによって、氏族の生命は維持され、繁殖します。

だから石器時代には、いまだ女性の従属は、完全には成立していなかっただろうとボーヴォワールは推測します。

 

ついに男性が優位を確立するのは「作る人間(ホモ・ファーベル)の時代」において。

銅や鉄による新技術を覚えた男たちが、戦争のみならず生産労働からも女性を締め出すことに成功します。

かくして男は「自然の征服者」としての「能動的自己」を確立するのです。

 

かつて自然に支配されていた人間=男(man, homme)は、ここでは財産所有者として現れます。

いまや男は「ひとつの魂とひとかどの土地を所有する」主人であり、この財産を維持するために、女と子孫を支配しようとするのです。

こうしてボーヴォワールによれば、男=「戦う性」が財産所有者としての、つまり主人としての権力を独占するとき、女性の隷従が確立されます。

財産所有者の地位をもって男性が女性を支配することを「家父長制」といいます。

www.decitre.fr

 

始祖ユミルにおける奴隷状態と女性の隷従

架空の話ではあれ、始祖ユミルの時代においても、ボーヴォワールが説明したような様式において、男性優位が、ひいては家父長制が、成立していると見ていいでしょう。

フリッツ王らの時代には、すでに鉄が利用されています。

そして、奴隷が存在します。

奴隷とは、財産のための存在、すなわち、家族だけでは維持できない大きな家や、家族だけでは耕せない大きな土地で働かせるための存在であり、かつ、その存在自体が財産です。

したがって、奴隷ユミルの背景には、男が戦う性かつ主人としての権力を掌握した社会が存在しているのです。

だとすればユミルは、奴隷制だけでなく、家父長制という鎖にもつながれているのです。

 

では、どうすれば始祖ユミルは自由になれるか?

一つは、逃げること。

ただし、逃亡奴隷が逃げきるのは難しかったでしょう。

逃げた先に、その奴隷を自由な仲間として迎えてくれる共同体があればいいのですが(せいぜい故郷くらい)、そうでなければ森の中でサバイバル生活(それが可能だとして)くらいしか自由に生きる方法はありません。

つまり逃亡は、居場所を失うことと同義であり、さらには、とさえ隣り合わせなのです。

f:id:unfreiefreiheit:20211229090434j:plain

奴隷が逃げきるのは困難

 

豚を逃がした罪を咎められたユミルの身に、何が起きたかを思い出してみてください(122話)。

かのじょをフリッツは「自由」にしてやりましたが、しかしそれは、つまるところ死と同義でした。

ここでの奴隷解放宣言は、奴隷ユミルを、誰にも属していないが、同時に、どこにも居場所のない存在に、またしたがって、動物のように狩りの標的にされても構わない存在にされることを意味したのです。

この場合、奴隷ユミルは逃亡を企てたわけではありませんが、その結果は逃亡とほぼ同じです。

居場所を失うこと、そして、死の脅威のなかに放り出されること。

f:id:unfreiefreiheit:20211229091522j:plain

122話「二千年前の君から」

 

こうして逃亡が不可能だとすれば、ユミルがフリッツらとともに属する社会のなかで、かのじょは自由になるしかありません。

フリッツらが財産主としての権力を、家父長的権力を握っているのは、かれらが「戦う性」であるからこそ。

でも、巨人の力を手に入れたユミルは、戦争に参加したではありませんか?

「産む性」でありながら、戦士にもなったのではないでしょうか?

巨人の力を手に入れた奴隷ユミルを、はじめフリッツ王は生産力としてしか活用しませんでしたが、後には軍事力としても利用しました(122話)。

 

でも、だからといってユミルは「戦士」になったわけではありません。

命をかけることをつうじて、みずからの自由を他者に証明する機会を、かのじょが獲得できたわけでないのです。

戦士が命がけで自分の自由を証明できるのは、かれらが人間としての生命を危険にさらすからこそ。

圧倒的な力で敵国を蹂躙する巨人ユミルは、ほとんど生命を危険にさらしていません。

そもそもかのじょは、人間あるいは女として戦争に参加しているわけではないのです。

むしろ、相変わらずユミルは、フリッツ王への奴隷的奉仕の一環として、巨人の力で敵軍を叩き潰すという労働をしているにすぎません。

巨人ユミルにとって戦争は、みずからの自由を証明する行為とはなりえないのです。

f:id:unfreiefreiheit:20211227100834j:plain

122話「二千年前の君から」

 

巨人になれる始祖ユミルが、力づくでフリッツの支配から脱することはできたでしょう。

しかしその場合にかのじょは、人間としての自由ではなく、まるで神話や伝承における怪物がもつような自由しか得られなかったでしょう。

そもそもユミルは、そのような考えが頭に浮かぶことすらなかったのだと思われます。

かのじょの願望は、人間として、女性として、自由になることだったようです。

でも、どうやって?

 

unfreiefreiheit-aot.hatenablog.com

 

5.3.c 生まれないことが奴隷の幸福というジークの信念について (下) 〜 自由になることと人間であること

 

unfreiefreiheit-aot.hatenablog.com

 

生まれたことを赦された反出生主義者

ジークが赦されるきっかけを与えたもの、かれが「苦しみの向こう側」を存在しうると教えたものは、二つあります。

 

第一に、記憶の旅において再会した、かつての毒親グリシャの言葉。

かれはジークに自分の過ちを謝罪し「お前を愛している」と告げました。

そのうえで、どうかエレンを止めてほしいと、つまり世界を救ってほしいと、ジークに懇願したのでした(121話)。

子を愛さなかった親による心からの謝罪によって、子はようやく、自分が生まれてよい存在だったのだと思いなおす、そのきっかけを得ることができたのです。

f:id:unfreiefreiheit:20211226085808j:plain

121話「未来の記憶」

 

第二に、「道」でのアルミンの言葉。

グリシャの謝罪で救われかけたのに、人類みなごろしを実行に移そうとするエレンを止めることができなかったので、ジークは「道」に引きこもり、すべてを諦めてしまいました。

そこに、始祖ユミルに囚われたアルミンが現れます(137話)。

 

諦めないアルミンに対して、すべての生命はけっきょく苦しんで死ぬのだから、みんな死んで楽になっちゃえばいいじゃないかと、さじを投げるジーク。

この無意味な世界で「自由になったって…」と、ニヒリズムに閉じこもるジーク。

しかしそのとき、アルミンは「道」の荒涼とした砂漠のなかに、一枚の木の葉を見つけます。

それが想起させるのは、エレンやミカサと「丘にある木に向かって」「かけっこ」した思い出。

そのときアルミンは、なぜかふと感じたのでした。

自分は「三人でかけっこするために 生まれてきたんじゃないかって...」と。

f:id:unfreiefreiheit:20211204224817j:plain

137話「巨人」

 

このエピソードは、たんなる生命の維持以上の生きる意味を知ることが人間のすばらしさ、ということを伝えているのかもしれません。

日常の何気ない一瞬に、かけがえのない生の尊さを見出せることが、人間の人間らしさなのです。

某寄生生物の言葉を借りれば「心に余裕(ヒマ)がある生物 なんとすばらしい!!」

f:id:unfreiefreiheit:20211226100028p:plain

 

でもジークにとっては、それ以上のことをアルミンの言葉は意味したでしょう。

ジークにいわせれればアルミンもまた、かれがエルディア人であるかぎりは、苦しみしかない残酷な世界に、間違って生まれてしまった奴隷でしかないはず。

しかしながら、この呪われた生でしかないはずの子供は、日常の「なんでもない一瞬」を「すごく大切な」ものとして受け取ることができます。

この子供は、この残酷な世界の奴隷であるとともに、しかしこの世界にそれ以上の意味を与える、ひとつの「下地」なのです。

この子供は、奴隷でありながら自由なのです。

 

そしてジークもまた、アルミンと同じように自由な子供であったはず。

生みの親が非情であろうとも、世界がかれに奴隷の烙印を押そうとも、かれが生まれるべきではなかったと決定する権利だけは、親だって、世界だって、もってなどいなかったはず。

その証拠に、苛酷な少年時代においてすら、ジークは喜びを、生きる意味を、感じ取ることができたのです。

少なくとも「きっとピッチャーに向いてるぞ」と言ってくれた恩人と、かれがキャッチボールをしていたあいだだけは。

f:id:unfreiefreiheit:20211218155642j:plain

114話「唯一の救い」

 

クサヴァーさんと共有した幸福な瞬間の記憶がよみがえり、ついにジークは次のように信じることができたのです。

自分は世界を意味づけることができたのだと。

自分は「苦しみの向こう側」であったのだと。

自分は奴隷でありながらも自由であったのだと。

自分は生まれてきてよかったのだと。

 

主人と奴隷の弁証法・再論

ヘーゲルのいう「主人と奴隷の弁証法」は、ジークの意識においては作動しないと、先に指摘しました(5.3.a を参照)。

ジークが「自由な自己意識」になれない理由を、改めて説明するならば次のとおり。

ヘーゲルの構図において、奴隷は他人に奉仕しながらも、しかし労働の産物というかたちで、自己意識の自立性を、みずからの外部に、つまり世界において、客観的に実現するのです。

しかしジークは、かれが無価値と見なした生命を滅ぼすばかりで、なにも価値あるものを世界のなかに作り出そうとしません。

実存主義的に言い換えれば、こう述べることもできるでしょう。

ジークは他人を殺しつづけることにより、生まれないことが奴隷の幸福という信念を、世界の客観的意味としてくりかえし確認しているのです。

 

しかし最終的には、ヘーゲルの構図とはやや異なるにせよ、ジークの意識は「主人と奴隷の弁証法」を通過して、自由の境地に達したといえます。

すなわち、かれの意識は、たんに奴隷状態から解放されたのではなく、この奴隷という在りかた自体に含まれる真理を知ったことにより、自由になれたのです。

 

アルミンとの会話をつうじて、ジークが得た気づき。

みじめな奴隷として生まれた自分は、それでもクサヴァーさんとキャッチボールしているあいだは、世界を、自分の生を、価値あるものとして意味づけていたのだ、という気づき。

あぁ… そうだ

ただ投げて 取って…
また投げる ただそれをくり返す

何の意味も無い… でも… 確かに…
俺は… ずっとキャッチボールしているだけでよかったよ (137話)

f:id:unfreiefreiheit:20211227080518j:plain

137話「巨人」

 

この気づきは、自分が奴隷ではなかったという気づきでは、決してありません

ジークを奴隷にしてしまう「残酷な世界」が、この気づきによって消失するわけではないのです。

そうではなくて、かれは奴隷の境遇にもかかわらず自由でした。

それは、奴隷の在りかたに身を浸しきったジークにのみ、深い確信をもって発見することができた真理なのです。

ジークは弁証法を経験したのです。

――この真理に辿り着くには、かれは遅すぎたことも確かですが。

 

奴隷的パターナリストの自己免罪

ついに赦しを得たジーク。

その瞬間にかれは、かれ自身にしか、すなわち、王家の血をひく巨人継承者にしかできない役目をなしとげます。

「道」で眠っていた、かれにゆかりのある死んだ巨人継承者たちの魂を呼び覚ましたのです(137話)。

f:id:unfreiefreiheit:20211204224833j:plain

137話「巨人」

 

いまでも「安楽死計画」は間違っていなかったと思うと称しつつも(まあそれはエレンの「地鳴らし」という結果と比べてでしょう)、いまやジークは、次のようにクサヴァーさんに告げることができます。

「あなたとキャッチボールするためなら また... 生まれてもいいかもなって...」

だからジークは、かれに謝罪した、かつての毒親グリシャのことも赦せたのです。

「…だから 一応感謝しとくよ 父さん…」

f:id:unfreiefreiheit:20211204224853j:plain

137話「巨人」

 

こうしてジークに与えられた赦しとは、実存的にいえば、ジーク自身の自己免罪です。

かれは魂の枷(かせ)をみずから外し、自由になることができたのです。

 

みずからの目的のために、いともたやすく他人の生命を奪ってきたジークが「免罪」されるだなんて、とんでもない! と、怒る読者もいるかもしれません。

ジーク絶許!」と誓ったリヴァイじゃなくても、そう思うのは当然ですね。

f:id:unfreiefreiheit:20211226212449j:plain

137話「巨人」

 

でも、ここで言いたいのは、そういうことではありません。

ジークが免罪されねばならなかったのは、エルディア人にかけられた呪いからです。

エルディア人に生まれたこと自体が罪深いという、罪の意識からです。

この罪の意識は、たしかにマーレが政治的に作り出したものですが、エルディア人が巨人に変身する民族であるという事実(フィクション内の「事実」ですが)によって正当化されており、そして、ジークが自分自身の人生経験にもとづいて深く内面化してしまった意識なのでした。

そのような罪の意識から解放されたとき、はじめてジークは、かれ自身の手で奪ってきた他人の命に対して、責任を引き受ける準備が整うのです。

 

自分はエルディア人から命を「奪って」いるのではなく、かれらがこの「残酷な世界」に生み落とすであろう子供たちを「救って」やったのだという、ジークの歪んだ信念(114話)。

あれこそ、ジークの奴隷的パターナリズムの表現そのものでした。

あの信念があればこそ、殺される人々の自由も、将来生まれるかもしれない子供たちの自由も一顧だにせず、かれは平気でいられたのです。

でも、あの歪んだ信念のは、自分なんて生まれなければよかったのだという、ジークの根深い絶望でした。

生まれたこと自体が罪だという、あの忌まわしい固定観念でした。

それにもとづいて自分自身を無価値だと信じてきたからこそ、ジークは他人の生命をも軽んじてきたのでした。

 

だとすれば、この絶望から救済され、この(ほんとうは存在しないはずの)罪を自分自身から免除しないかぎり、ジークは他人を尊重することができないでしょう。

かれがパターナリズムと「裏返しの優生思想」の罪悪を自覚できるようになるのは、自分自身が生まれてきたことを免罪しえた後のことなのです。

そのときはじめて、ジークは心から理解するでしょう。

どれほどリヴァイに非難され、ののしられても、かつては感じとれなかったことを。

すなわち、ジークが奪ってきた一つ一つの生命が、それぞれに生の意味を発見し、作り出すことができる、代えのきかない一個の実存であったことを。

 

いまや自分の魂を解放したジーク。

みずから選んだ最期の瞬間、果てしなく広がる青空を目にしたジーク。

そのときかれは、この残酷だけど美しい世界への感嘆を、もらさずにはいられませんでした。

「…いい天気じゃないか」と。

そう感じられるようになったジークは、次のことも認められるようになったのです。

「まあ... いっぱい殺しといて そんなの虫がよすぎるよな…」と(137話)。

f:id:unfreiefreiheit:20211226200211j:plain

137話「巨人」

 

こうしてジークは、みずからリヴァイに首を斬られました。

「生まれるべきではないのに生まれてしまった」などという架空の罪ではなく、かれ自身の自由と責任に帰される現実の罪に、けじめをつけるために。

和解した父親グリシャとの約束を、すなわち「エレンを止める」という約束を果たすために。

この残酷だけど美しい世界を、未来に遺すために。

――クサヴァーさんに再会するためなら「また生まれてもいい」とジークが思える、この世界を。

――これからも子供たちが生まれ、そして一人ひとりの子とともに新しく意味づけられ、言祝がれるであろう、この世界を。

「一人の子が生まれるたびに、救い主は永遠にその子のなかで、その子によって生まれる」

f:id:unfreiefreiheit:20211218163517j:plain

137話「巨人」

 

unfreiefreiheit-aot.hatenablog.com

 

5.3.b 生まれないことが奴隷の幸福というジークの信念について (中) 〜 自由になることと人間であること

 

unfreiefreiheit-aot.hatenablog.com

 

おかげさまで、ハンジさんの記事がたくさん読まれているようです。

かのじょの人気の高さが分かります。

かくいうわたしも、イチオシのキャラはハンジさん(とジャン)でしてね。

ハンジ・ガチ勢に納得していただけたなら望外の喜び。

 

サルトルと反出生主義

さて、ジークの考察に戻りましょう。

生まれないことが奴隷の幸福だと信じた、反出生主義者。

裏返しの優生思想に心を囚われ、民族的「安楽死」に暗い希望を見出した、奴隷的パターナリスト。

それがジークという人間です。

エルディア生まれの毒親育ちであるかぎり、ジークの到達点は、この絶望的希望しかなかったのでしょうか?

 

考察のために、またまたサルトルを持ち出しちゃいます。

「もーまたかよー」「サルトルびいきもいい加減にしろよー」 そんなヤジが聞こえてきそうですが......。

でも、もしサルトル反出生主義をテーマに含んだ作品を書いていたとしたら?

あの実存主義の哲学者が、実存的自由とは対極的な「生まれるべきではない」という思想を扱っていたとしたら?

意外に思われるかもしれませんが、実はそういう作品があるのです。

以下、あらすじの紹介がやや長くなりますが、面白い話だと思うので、お付きあいください。

 

サルトルの神秘劇

対ドイツ戦に徴兵された後、ドイツの侵攻により捕虜にされてしまったサルトルは、1940年末までに『バリオナ』という戯曲を書き上げました。

その年のクリスマスに、かれと同じトリーアの収容所に囚われていたフランス人捕虜たちの前で上演するためです(戦争捕虜が気晴らしのため自主的に文化活動をすることが、当時の西洋では認められていたようです)。

honto.jp

 

観客は、出自も階級も、世代も教育水準もさまざまな、フランス人の男たち。

その大部分は一般民衆ということになります。

ちなみに役者も捕虜で、サルトル自身も役を担いました。

かれらは自由を奪われた捕虜の身であり、故郷の未来も、家族の生活状態も、それどころか明日の我が身がどうなるかすら知らず、不安と苦しみの日々を耐え忍んでいます。

 

そういう客層をふまえて、サルトルは一計を案じます。

まず、クリスマスにちなんだ神秘劇、つまり聖書の物語を題材にした演劇にすること(かれ自身は無神論者ですが、ここではそこは妥協しました)。

f:id:unfreiefreiheit:20211224154241j:plain

 

そして、ナチス支配への抵抗のメッセージを作品に込めること――ドイツ当局に見とがめられぬようカムフラージュを施しつつ(たとえば、ドイツ人ではなくイギリス帝国主義者が風刺されているような見せかけ)。

抵抗のメッセージとはいっても、サルトルのそれは、ひとひねりあるものです。

この作品は「苦難を乗り越えて自由をかちとろう」と訴えるのではなく、むしろ「人間は苦しむからこそ自由なのだ」と教えるのです。

そして、このメッセージを効果的に伝えるための仕掛けとして、サルトルは、ジークのそれによく似た反出生主義の思想を、役者に語らせるのです――しかも、ほかでもない劇の主役、バリオナに。

 

生まれないべき理由としての苦しみ

サルトルの神秘劇の主人公バリオナは、古代ローマ帝国に支配された、険しい山あいにあるさびれた小村の、若き村長(むらおさ)です。

この村は、ローマが課す税によりたっぷり搾取され、若者はほとんどみな街に働きに出てしまい、残っているのは年寄りばかり。

それでもローマの行政官は、人頭税の値上げをバリオナに告げます。

拒否すれば、ローマ軍が報復にやってきて、村を荒らしまわるでしょう。

そこでバリオナは、増税に応じるが、そのかわりに自滅を受け入れると宣言することによって、せめてもの抵抗の意志を示します。

つまり、自分を含めた村人に、子を作ってはならないと命じるのです。

われらはこれ以上、生を永続させることも、種族の苦しみを長引かせることも欲さない。われらはもはや子をなさず、悪と、不正と、苦しみに思いを凝らすことの中に生を費やすだろう。

サルトル『バリオナ』第2幕

 

ところが皮肉にも、バリオナがそう命令を発したそのとき、伴侶サラに、二人が待ちわびていた子をついに身ごもったと告げられたのです。

しかしバリオナは、堕胎せよとサラに告げたうえで、こう続けます。

「いまお前が胎内に宿しているこの子に生まれてほしくないのは、この子のためなのだ」と。

バリオナいわく、人間とは世界の「下地」です。

つまり物質的な意味での世界のなかに、人間と同じ数だけ世界が並存しているのです。

だとすれば、ひとりの人間を産むことは、この世界を、そこで人間が味わう苦難とともに「もう一度作る」ことにほかならない。

それでもお前は、子とともに、苦しみに満ちた世界を新たに生み出すというのか。

そうバリオナは、みずからの伴侶に問い詰めるのです。

www.dimanoinmano.it

 

ここでバリオナは、世界の苦しみには絶望をもって向き合うしかないという、暗い確信を表明しています。

人生には絶望しかないと決めつけることが、残酷な世界へのせめてもの復讐だとすら考えてる様子。

だからこそ、同じ苦しみを、自分の子や、それを味わう必要のない全ての子供たちには、かれは経験させたくないのです。

こうして、バリオナは反出生主義の代弁者となります。

 

ところがサラは、どうしても子を産むのだと、揺るがぬ決意を表明します。

「この子が盗人のように十字架にかけられ、わたしを呪いながら死んでいくのが確実だとしても、わたしはこの子を産むでしょう」。

こうして反出生主義者の伴侶が、反・反出生主義者として、前者に対峙するのです。

 

「苦しみの向こう側」としての自由

サルトルの神秘劇は、次のように続きます。

絶望のあまり世界を呪い、神すら呪うバリオナに怒った神が、かれの誤った信念を挫き、人間が希望をもつべきことを示すために、キリストを降臨させます。

 

現世では、来たるべき救世主を拝むため旅をする「東方の三博士」が、バリオナの村に立ち寄ります。

救い主の到来の報せを受けて、村人たちは喜びに湧きかえり、三博士につきしたがい、イエスが生まれたベツレヘムに出立しました。

バリオナは、天使の報せは偽りであり、救済への期待はかならずや絶望に変わるだろうと断言して、村人たちに留まるよう説得しますが、だれも耳を貸しません。

もぬけの殻となった村に、バリオナは一人取り残されました。

f:id:unfreiefreiheit:20211224165609j:plain

東方の三博士

 

この世には苦しみと絶望しかないと信じるバリオナは、三博士ら一行に先回りしてベツレヘムに到着し、偽りの希望の源である赤子のイエスを殺そうと決意します。

そうすれば、この世に誰も新たに生まれるべきではないという、かれの反出生主義的な信念の正しさを皆が理解するだろうと考えたのでした。

しかしバリオナは、イエスの養父ヨセフの希望にかがやく眼を見ることで、赤子を殺すという恐ろしい計画を思いとどまります。

そんなバリオナの姿に、三博士の一人バルタザールが気づきます。

ちなみに、このバルタザールを1940年の捕虜収容所で演じたのは、ほかでもない、サルトルその人です。

 

バルタザール=サルトルはバリオナに告げます。

キリストが降臨したのは、人間の苦しみを取り除いてやるためではないと。

「人間の苦しみは終わるだろうと人は期待するが、いまから二千年後にも人は今日と同じように苦しんでいることだろう」。

ところが、そのことを知るバリオナこそ「誰よりもキリストの近くにいる」と、バルタザール=サルトルは続けます。

なぜなら、キリストが到来したのは、人間が「苦しみにどう向き合うべきかを示すため」だったのだから、と。

f:id:unfreiefreiheit:20211224174618j:plain

旅する三博士

 

では、どう苦しみに向き合うべきなのか?

まるで当然の責務のように」と、バルタザール=サルトルは教えます。

まるで当然の責務のように苦しみを引き受けるのがふさわしいのであって、……苦しみのことを話しすぎるのは的外れなのだ。

サルトル『バリオナ』第6幕

 

なぜそうしなければならないのか?

苦しむことが、それも人間らしく苦しむことができるのは、人間だけだからです。

石は苦しむでしょうか。天使は人間が苦みと呼ぶものを知っているでしょうか。

でも、もし苦しみのことを考えすぎるなら、人間はモノに、苦しみそのものになってしまいます。

 

だからバルタザール=サルトルは、反出生主義者バリオナに語りかけます。

あなたは苦しみという存在ではない」。

路傍に石が、夜に闇があるように、苦しみを当たり前のものとして引き受けよ。

そのときあなたは「苦しみ」ではなく「苦しみの向こう側」を存在することができるのだ。

そのときあなたは「天空」にいるかのように「自由」になるのだ。

 

生まれることへの赦しとしての自由

それでは、なぜ子が生まれることを妨げてはならないのか?

反出生主義の何が間違っているのか?

バルタザール=サルトルは続けます。すべての人間が自由だからだと。

 

この場合の自由とは、こういうことです。

すべての人間は、世界の「下地」である(バリオナ自身も認識していたこと)。

だとすれば、世界に存在する苦しみは、新しい「下地」のうえで別の意味をもつかもしれない。

苦しみを意味づけ、その存在のしかたを変えるのは、人間ひとりひとりである(バリオナが見なかったこと)。

言い方を変えれば、苦しみとは、モノではなく意味なのです。

したがって、どれほど激しい苦痛であろうとも、苦しみは人間の自由に属するのです。

 

そうだとすれば、バリオナには、生まれようとする子に対して「お前は生まれないほうが幸せだ」などと教える資格も権利もありません。

かれがこの世の苦しみに与えた意味を、かれの子が同じように経験するとは決めつけられないからです。

あなたの子は苦しむだろう。それは確かだ。しかしそれはあなたには関係ない。その子の苦しみに憐れみを抱いてはならない。そんな権利はあなたにはないのだ。その子だけが苦しみに関わるのであり、その子だけが苦しみをみずから欲するものとするだろう。なぜなら、かれは自由なのだから。

サルトル『バリオナ』第6幕

f:id:unfreiefreiheit:20211224180313j:plain

 

バルタザール=サルトルが反出生主義者バリオナに教えたのは、つまりこういうことです。

人間の誕生とは、苦しみに満ちた世界に、一つ新しい意味が付与されることである。

すなわちそれは、一つの新しい世界の、言祝ぐべき創出なのである。

一人の子が生まれるたびに、救い主は永遠にその子のなかで、その子によって生まれる」。

 

バルタザール=サルトルの教えによって、バリオナは信仰に目覚め、反出生主義から解放されました。

バリオナは赤子イエスを救い主(メシア、キリスト)と信じ、そしてかれとサラの子の誕生を願います。

それは神への信仰という外観をとった、人間の自由への希望なのです。

反出生主義者バリオナ、世界の苦しみには絶望をもって向き合うしかないと信じたバリオナは、いまや赦されたのです。

この苦難に満ちた世界において、それでも希望をもってよいのだと。

 

救世主の降臨への喜びもつかのま、ヘロデ王の軍がイエスを殺しにきたという報せ(ここでは聖書の物語が改変されています)に、はやくも失望する村人たち。

ところが、いまや村人たちに希望をもつよう説くのは、反出生主義と決別したバリオナです。

エスを、そして生まれてくるバリオナとサラの子を逃がす時をかせぐために、バリオナは村人を率いて、ヘロデ軍を迎えうつのです。

絶えることのない苦しみのなかで、しかし希望と歓喜に心を震わせながら。

 

ジークは赦しを得られるか

サルトルの演劇のあらすじが長くてすみません。

でもそれは、ジークの救済と解放を説明するために、ぜひとも必要だったのです。

 

優生学的反出生主義の執行者ジーク。

かれの意識に、ヘーゲルのいう「主人と奴隷の弁証法」は作動しません。

民族的「安楽死」の計画を実現すること以外に、かれは世界になにも作り出そうとしないからです。

世界のなかに客観化された自己意識を見て「わたしは奴隷ではない、わたしは自立した人間である」と確信することができないからです。

「自分なんて生まれなければよかった」と信じる者に、そんなことができるはずはありません。

生まれないことを、存在しないことを、つまり絶望を完成させることを、唯一の希望として抱く者には。

まさに「この世に生まれないこと これ以上の救済は無い」というわけです――これはジークではなく、なかなかの演技派に成長したエレンが、ジークに話を合わせるために使った言葉ではありますが(115話)。

f:id:unfreiefreiheit:20211227082650j:plain

115話「支え」

 

こうしてジークは、とことん純化された「虚無への意志」であり、あの「壁の王」フリーダと同じ種類のニヒリストなのです――かれ自身が記憶の旅で「あのお姉ちゃんとは気が合いそう」と漏らしたことが示しているように(121話)。

フリーダのようにジークもまた「何も欲しないくらいなら、いっそ虚無を欲する」のです。

フリーダよりもはるかに、ジークのほうが能動的、積極的に「虚無」を追い求めている、という違いはありますが。

 

※ 併読がオススメ

unfreiefreiheit-aot.hatenablog.com

 

そんなジークが奴隷的意識から解放されるためは、ひとつの救済、ひとつの赦しが必要でしょう。

どれほど「世界が残酷」であっても、あなたはこの世界で「虚無」「無意味」以外のなにかを欲してもよい――そういう赦しだけが、反出生主義者ジークの魂を解き放てるのでしょう。

 

そして、この赦しは、バルタザール=サルトルの教えが反出生主義者バリオナに与えた赦しと、まさに同じものであることでしょう。

バリオナが反出生主義から解放されるためには、まず、かれ自身が救われることが必要でした。

希望をもってよいという赦しを、かれ自身が得ることが必要でした。

かれ自身が「苦しみの向こう側」となることができたからこそ、かれは自分の子にも「あらゆる苦しみにもかかわらず、お前は生まれてよいのだ」と確信をもつことができたのです。

 

『進撃』の反出生主義者ジークは、どうすれば赦しを得られるのでしょうか?

どうすればかれは、次のように信じることができるのでしょうか?

わたしは苦しみという存在ではないと。

わたしは「苦しみの向こう側」であると。

わたしは世界の「下地」であると。

わたしは自由であると。

f:id:unfreiefreiheit:20211226104837j:plain

137話「巨人」

 

unfreiefreiheit-aot.hatenablog.com

 

 

5.3.a 生まれないことが奴隷の幸福というジークの信念について (上) 〜 自由になることと人間であること

 

unfreiefreiheit-aot.hatenablog.com

 

よっしゃはじまったジョジョアニメ!

もちろん『進撃』アニメ続きも普通に楽しみ。もうすぐね。

 

反出生主義? 裏返しの優生思想?

いきなりなんですが、ちょっと過去記事の訂正をさせてください。

ジークについて、最初のほうの記事で、こう書きました。

ジークの安楽死計画は、多くの読者に反出生主義だと勘違いされているようですが、むしろ「裏返しの優生思想」というべきでしょう」。

「エルディア人という「劣等人種」は生まれないほうがいい。この考えを、エルディア人である彼自身が実行に移す」。

「だとすれば、ジークの「安楽死計画」は「裏返しの優生思想」あるいは「裏返しのジェノサイド」と呼んだほうが正しいでしょう」。

unfreiefreiheit-aot.hatenablog.com

 

ジークの思想は反出生主義ではないと キッパリ言い切ったのに…… スマン ありゃ ウソだった

でも まあ あれはブログ開始直後で 解釈の方向性が固まっていなかった頃だから 良しとするって事でさ…… こらえてくれ

f:id:unfreiefreiheit:20211224115909j:plain

 

訂正したいのは、ジークを反出生主義者とみなすのが「勘違い」だと断言してしまったことです。

「裏返しの優生思想」というのは、当たっていると今でも思っています。

しかしながらジークの思想において、反出生主義と「裏返しの優生思想」は両立していると見たほうが正しいと、後で気づきました。

 

巨大樹の森でリヴァイに囚われた後、巨人保有者の身体再生能力に命運をかけた自爆攻撃を仕掛けようとするシーンで、次のようにジークは言っていました。

俺は… 救ってやったんだ

そいつらから生まれてくる子供の命を…
この… 残酷な世界から… (114話)

ここをちゃんと読まずに、かつての筆者は、ジークは反出生主義者ではないと断言してしまったのです。

ぱおん。

f:id:unfreiefreiheit:20211205000349j:plain

114話「唯一の救い」

 

毒親育ちのジーク(0.4 参照)は、自分のことを、望んでもいないのに生を享け、親や「残酷な世界」に苦しめられた被害者と考えています。

したがって、ジークの共感の対象は子供です。

自分と同じように苦しむ子供を救いたい。

でも、この不条理な世界を、エルディア人の子供たちにとって苦しみのない世界へと変えることは不可能である。

だとすれば、無数の不幸な子供たちにとって最善の利益は、生まれないこと、これしかない。

 

ジークの生を呪われたものにしているのは、かれをエルディア復権派の道具にした毒親グリシャとダイナの、とくにグリシャにまつわる、忌まわしい記憶。

それにくわえて、マーレの一般市民からの迫害。

幼いころのジークの心にとくに深く刺さったのは、両親に水を浴びせののしった、あの清掃員の言葉でした。

どうしたまた悪魔を産んだ!?」(114話)

かつてクサヴァーさんとの会話をきっかけに「安楽死」の可能性を思いついたとき、ジークはこの言葉を、あの清掃員の姿とともに脳裏に浮かべていたようです。

f:id:unfreiefreiheit:20211218160414j:plain

114話「唯一の救い」

 

生まれないほうが幸せだった子供たち。

ならば、かれらがほんとうに生まれないようにすればいいのだ。

それは「始祖の巨人」の力で実現できる。

この思いつきを聞いて、クサヴァーさん自身も、みずからの生を呪わしく感じてきたのだと告白します。

こうして、見つけたばかりの使命に確信をもつジーク。

「世界の人々を巨人の恐怖から解放」するとともに「エルディア人を苦しみから解放」するのだと、かれは決意を固めました。

それをジークは、かれとクサヴァーさんが二人で考え出した「安楽死計画」と名づけます。

f:id:unfreiefreiheit:20211218160423j:plain

114話「唯一の救い」

 

うん、こりゃもうバッチリ反出生主義ですね。

ただし、救済の対象が「子供」一般ではなく「エルディア人の子供たち」に限定されるという点においては、それは同時に、筆者が名づけたところの「裏返しの優生思想」でもあります。

たんにジークは、生まれること、生きることの価値を否定しているだけではありません。

滅ぼされるべき「悪魔の民」エルディア人という人種主義的な優生思想に、かれの魂は屈しているのです。

 

奴隷的なパターナリズム

エルディア人は奴隷として生まれるしかないと、ジークは諦めきっています。

マーレで生まれれば人種隔離と軍事利用の犠牲者であり、他の国でも例外なく迫害され、パラディ島に生まれても世界中の憎悪の標的としていつか滅ぼされる。

エルディア人に生まれることは、生来の奴隷として生まれること、消えない呪いを生まれながらにかけられること。

 

だとすれば、奴隷の幸福とは生まれないことしかありません。

過去記事(0.5 参照)で述べたとおり、反出生主義とは、いわば「裏返しの功利主義」。

一人でも多くの奴隷が生まれないようにすることが「最大多数の最大幸福」に貢献するのです。

 

やはり過去記事(0.5 参照)で述べたとおり、このことをジークは深く確信してしまったので、かれが救済の対象としているはずのエルディア人を殺すことに、ちゅうちょがありません。

大部分のエルディア人たちが生きたがっているとしても、ジークに言わせれば、生まれないのが「真の」解放であることを、かれらは知らないのです。

だから、当人たちの意志に関係なくジークはエルディア人を無価値と断定し、その生命を奪ってしまうのです。

f:id:unfreiefreiheit:20211224130908j:plain

119話「兄と弟」

 

これこそ最悪の保護者主義(パターナリズム

それは、何が幸福かを「知らない」と見なされた他人のために、他人に代わって決定し、それを他人に強制すること。

この強制が悪意よりも善意から、利己主義よりも利他主義から発するものだとしても、かえってそれゆえにこそ、パターナリズムは人間の自由を根本から否定するのです。

 

※ 併せ読みがオススメ

unfreiefreiheit-aot.hatenablog.com

 

みずからの生を呪いつづける、悲しい奴隷としてのジーク。

そのかれは同時に、どんな暴君よりも人間の生命と自由を軽んじる、最悪のパターナリストでもあるのです。

 

優生学的な反出生主義

奴隷的パターナリストとしてのジーク。

このような二面性をかれが帯びるのは、その思想が、反出生主義かつ優生思想である(あるいは優生学的な反出生主義である)からに違いありません。

反出生主義者は、かならずしもパターナリストとはかぎりません。

言論のレベルで反出生主義を支持する人は、子を産むべきではないという考えを広めるだけであり、同意しない相手に反出生主義を実践せよと強要することはないでしょう。

 

それとは対照的に、優生思想とは、実践的思想または政策思想です。

つまり、劣った人間が生まれるのを阻止すべきという考え方です。

そのもっともマイルドなものは産児制限の奨励でしょうけど、しかし日本でも旧優生保護法のもとでおこなわれたように、それは強制不妊強制中絶というかたちで実践されてきたもの。その極限が、ナチスガス室です。

したがって、少しもパターナリズムを含まない優生思想なるものは、想定不可能です。

 

優生思想は、ある意味で、奴隷制よりも徹底的に人間性を否定するものです。

そのことをうまく説明してくれるのは「構造主義」の思想史家フーコー(1926-84)でしょう。

f:id:unfreiefreiheit:20211218142352j:plain

 

フーコーによれば、伝統的な身分社会における支配者は「死なせるか生きるままにしておくという古い権利」もつのに対して、近代国家の権力とは「生きさせるか死の中へ廃棄するという権力」であります(『知への意志』第5章)。

「生きるままにしておく」ではなく「生きさせる」というというのは、人間を有用な、役立つ存在として活用することを意味します。

古い権力者にとっては、臣民は、反抗せず、従順にしていればよく、そうしない反逆者を「死なせる」ときに権力をふるえばいい。

ところが近代国家は、国民を活用するため、かれらをより生産的にするために、社会生活のさまざまな方面において行政的な権力を行使します(経済、健康、出生、教育、等々)。

しかしその一方で、どうしても有効活用できない生命を、近代国家は「死の中へ廃棄する」のです。

つまり死刑であり、優生学的な「断種」です。

 

身分制権力と近代国家権力との区別はさておいて、この「死の中への廃棄」という発想は、ジークの考え方を克明に表現しているといえるでしょう。

エルディア人は生まれるべきではないとジークが信じるのは、かれがエルディア人への優生学的なまなざしを内面化してしまったからです。

だとすればジークが目指しているのは、子供がエルディア人として生まれないようにすることだけでなく、より積極的に、エルディア人を民族全体として「死の中へ廃棄する」ことではないでしょうか。

当の諸個人が自分をどう価値づけているかは関係ない。

かれら巨人に変身する民は「死の中へ廃棄」しなければならない。

このような信念から、ジークの奴隷的パターナリストという人物像が作り出されるのです。

 

ジークの奴隷的意識に弁証法が働かない理由

そんなジークの奴隷的意識のなかに、自由への欲求は、自己解放への希求は、生じてこないのでしょうか?

 

ちょっと前の記事で、ヘーゲルの「主人と奴隷の弁証法」を紹介しました(5.1 を参照)。

ヘーゲルによれば「命をかけること」のできる自由な自己意識に対して、死を恐れる意識は奴隷として服従せざるをえない。

しかし奴隷は、労働をつうじて、みずからの自立性が客観化されるのを見ることができる。

だから「真に自立的意識であるのは奴隷の意識」であって、奴隷の「労働する意識は、自立的存在を自分自身として直観するに至る」というわけです(ヘーゲル精神現象学』「自己意識の自立性と非自立性――主人と奴隷」)。

f:id:unfreiefreiheit:20211218101347j:plain

 

他方でジークは、計画を実現するために命をかけることができます。

リヴァイに捕まったときには、かれは「クサヴァーさん見ててくれよ!!」と自爆攻撃を敢行したのでした(114話)。

だとすればジークは、ヘーゲル風にいえば、自分の命を投げだすことができる「自由な自己意識」ではないのか。

ところが、そうではないのです。

マーレのエルディア人として奴隷的境遇にあるというだけでなく、ジークはその精神そのものにおいて、その実存そのものにおいて奴隷なのです。

 

ジークが自分の生命を軽んじるのは、他人の生命を軽んじる理由と同じ。

かれが優生学的な反出生主義に染まり切っているからです。

だとすれば、ジークが命をかけることは、かれの意識が自由であることではなく、かれが自分を無価値と呪っていることをしか証明しません。

他方でジークは、ヘーゲルにおける奴隷のように、みずからの自立性を外界において客観的に実現することもできません。

かれは他人に奉仕するどころか、どんな暴君よりも最悪のパターナリストであり、なにか価値あるものを作り出すどころか、かれが無価値と見なした生命を滅ぼすばかりなのですから。

 

以上が、ジークの奴隷的意識には弁証法が働かないことの理由です。

優生学的な反出生主義に囚われつづけるかぎり、ジークはいつまでも奴隷的パターナリストでありつづけるでしょう。

ジークの魂が解放されるのは、民族的「安楽死」というかたちでエルディア人の否定=自己否定を達成するときのみです。

つまり皮肉にも、かれが自分の奴隷らしさを完全に実現するときだけなのです。

 

「道」でのエレンとの対決におけるジークの敗因も、かれが奴隷的パターナリズムを脱却できなかったことにあります。

始祖ユミルに対して、ジークは王としてふるまいました。

かれ自身の魂が奴隷的であるのに、終わりのない奴隷労働を課された始祖ユミルの苦しみを、ジークは理解できませんでした。

かのじょが「奴隷でも神でもなく人間」だと告げたエレンとは対照的に、この奴隷的パターナリストは、始祖ユミルに「俺の命令に従え!!」「今すぐやれ!!」と怒鳴りつけることしかできませんでした。

f:id:unfreiefreiheit:20211204221721j:plain

122話「二千年前の君から」

 

みずからを奴隷として完成させることが、真の自己解放である。

そのようなジークのニヒリスティックな信念を、自由になりたかった奴隷ユミルは、最終的には拒絶したのです。

 

unfreiefreiheit-aot.hatenablog.com

 

5.2.b 罪の奴隷となったハンジの自己解放 (下) 〜 自由になることと人間であること

 

unfreiefreiheit-aot.hatenablog.com

 

正義は我にありと信じたいハンジ

王政との戦いに勝利し、壁と人類の真実を知るための道を切り拓いた、調査兵団とハンジさん。 

シガンシナ区の決戦の結果、数多くの仲間とともに調査兵団長エルヴィンを失い、重責を感じつつ団長をひきついだハンジさん。

 

サネスが発した「呪いの言葉」は、この時点ではまだ、ハンジさんに影響を及ぼしているようには見えません。

まだここでは、次のように信じることができるからです。

人類を無知に閉じ込め、自滅するに任せようとした王政と比べて、自分たち兵政権のもとで、人類は真実に向かって進んでいると。

たとえ未来には暗雲が立ち込めていても、兵政権は少なくとも、真実を欲し、真実を意志し、真実に一歩一歩近づいていると。

無知に居直る者に正義はなく、真実を目指す者にこそ正義があり、自由があるのだと。

大切なのは「真実に向かおうとする意志」だと思っている ……違うかい?

f:id:unfreiefreiheit:20211224080824j:plain

 

兵政権が王政と、ハンジさんがサネスと、同じ「役割」を演じることになるという呪いの予言を、かのじょはたやすく否定することができます。

かのじょたちがぼう大な犠牲を払って発見したものが、たとえ希望とはかけ離れた苦い真実だったとしても。

巨人の正体はエルディア人という一民族であり、壁外の人類の大多数はエルディア人を恐れ、憎み、滅ぼしたいと望んでいる。

この絶望的な真実を、それでも兵政権は公表しました。それをふたたび隠すなら、やっていることは王政と変わらないからです。

 

真実の公表後、新聞記者のロイとピュレに再会したハンジさんは言います。

「調査報告が我々の飯代だ」「情報は納税者に委ねられる」「そこが前の王様よりイケてる所さ」と。

あなたがたは「誇り」だとロイにほめられたものだから照れてしまう、根が素直なハンジさん(90話)。

f:id:unfreiefreiheit:20211224071135j:plain

90話「壁の向こう側へ」

 

ここで面白いのは、ロイが心から表明したであろう賛辞に対して「今度は調査兵団を担いで記事を書くといい」と皮肉で返した、リヴァイの冷めっぷりとの落差です。

リヴァイは徹底した実存主義者であり、人は不安を耐え抜かねばならない、無数の不確かで残酷な決断を耐え抜かねばならないという、ほとんど倫理観の域に達した覚悟をもっています。

兵政権が、そしてかれ自身が、今後も無数の残酷な決断を耐え抜かねばならないだろうことを、リヴァイはいつでも予期しているのでしょう。

だからかれは、他人の評価によってブレることがない。逆に、かつて体制に追従していたブン屋には真実を追う覚悟がどれほどあるのかと、皮肉の一つでも言って涼しい顔をするのです。

 

他方のハンジさんは、やはり心の底では評価を欲しているのでしょう。

兵政権が、そしてかのじょ自身が、正しい道を歩んでいると他人に同意してほしいのでしょう。

だからといって、ハンジさんの信念を脆いと非難できる人がいるでしょうか。

人間みな、そんなものです。むしろハンジさんは、平凡な人間よりもはるかに強い信念をそなえています。

覚悟ガンギマリすぎるリヴァイと比べてみると、ハンジさんの秘められた願望が見えやすくなる、というだけの話です。

 

呪われたハンジ

壁外人類との共存の道を探るも、ジークの提案以外に打開の糸口が見つからずに時間だけが過ぎていくなか、それでもハンジさんは希望を失いません。

かのじょの提案は、アズマビト家に交渉を頼るのではなく、調査兵団がみずから派遣団として交渉の場に出ていこうというもの。

それこそが調査兵団の精神ではないかと、かつてのエルヴィンの言葉を借りながら、ハンジさんは仲間に訴えかけます(108話、および72話も参照)。

だから… 会いに行こう

わからないものがあれば理解しに行けばいい

それが調査兵団だろ?

108話「正論」

 

しかし、この最後の希望を託した試みにも失敗してしまった調査兵団

派遣中に姿を消したエレンは、単独でマーレに侵入し、ジークの計画実行のためにかれを連れ出すから支援しろと、どこからか一方的に手紙をよこします。

ハンジさん自身があとで言うように、エレンが「自らを人質にする強硬策」をとったことで、かれがもつ「始祖」の力だけが最終手段であるパラディ島には「選択の余地なし」でした(105話)。

 

こうしてエレンとジークを連れ帰ったものの、五里霧中の兵政権。

ジークの真意にも、かれの計画に乗ったように見えるエレンにも信用がもてず、かといって、遠からず壁外世界が総攻撃を仕掛けてくるのを待っているわけにはいきません。

ハンジさんはエレンの真意を聞き出そうと試みるも「他のやり方があったら!! 教えてくださいよ!!」と詰め寄られるだけで、かれの心を開けませんでした(107話)。

そうこうしているうちに、兵団のなかからエレン拘束などの情報を漏らし、エレンに従うべきと上層部をつき上げる分子が出てくる始末。

もはや兵政権は、かつてのように公開性を保つことができません。混乱を嫌って、公衆には秘密のままことを進めるようになったのです。

 

記者に囲まれ、あのピュレとロイには「姿勢に変化が」あったのかと詰め寄られるハンジさん。

立派な商人となったフレーゲル・リーブスに、辛い立場なのは分かるから、せめて「目を見て」「信じていい」と言ってくれと懇願されるハンジさん。

かれに顔を向けなおし「みんなのためだ」と答えるかのじょは、伏し目がちで自信のない表情です(109話)。

f:id:unfreiefreiheit:20211218131307j:plain

f:id:unfreiefreiheit:20211224085001j:plain

109話「導く者」

 

情報漏洩の犯人であるフロックらに懲罰の決定を下したあと、ハンジさんの脳裏に浮かんだのは、まさにあのサネスの言葉でした。

汚れ役には「順番」がある。「誰かがすぐに代わりを演じ始める」。

「がんばれよ… ハンジ…」。

f:id:unfreiefreiheit:20211218131219j:plain

109話「導く者」

 

この呪いの言葉は、いまやずっしりと重く、ハンジさんの背中にのしかかります。

もはやモノに八つ当たりする気力すら湧かず、かのじょは「疲れた」と、がっくりうなだれてしまったのです。

f:id:unfreiefreiheit:20211218132350j:plain

109話「導く者」

 

それでも粘り強くジークの真意をつきとめようとするも、一足遅く、行動を開始したイェーガー派にハンジさんたちは拘束されてしまいました(112話)。

そしてついには、ハンジさんはリヴァイとともにイェーガー派に追われる身となり、未熟な追っ手を返り討ちにしながらも、身を隠さざるをえなくなります。

f:id:unfreiefreiheit:20211223094011j:plain

126話「矜持」

 

意識の戻らないリヴァイを脇目に、ハンジさんは失意に打ちひしがれます。

あの呪いが、ついに実現したのではないかと。

自分にも、ついに「順番」が訪れてしまったのではないかと。

…たぶん順番が来たんだ

自分じゃ正しいことをやってきたつもりでも…
時代が変われば牢屋の中(126話)

 

状況を意味づけなおす奴隷

この絶望的な状況において、ハンジさんは自問したことでしょう。

真実へと向かっていたつもりなのに、いつのまに自分は真実から離れてしまったのかと。

人類解放のために働いているつもりが、いつのまに自分は排除されるべき敗北者の役目を演じさせられたのかと。

けっきょくかのじょも、無知ゆえに自由から遠ざかるよう運命づけられた「罪の奴隷」にすぎなかったのでしょうか。

けっきょくかのじょも、マクベスが人間みなそうだと嘆いたところの「哀れな役者」でしかなかったのでしょうか。

 

この諦念に、それでも抗おうとする人に拠りどころを提供するのは、やはり実存的自由の哲学でしょう。   

実存主義者なら、こう考えます。

わたしを「哀れな役者」として決定するのは、運命ではなく、けっきょく自分自身なのだと。

わたしを「罪の奴隷」として決定するのは、無知ではなく、けっきょく自分自身なのだと。

だから、わたしを不可解な運命から解放できるかどうかも、けっきょく自分次第なのだと。

 

もちろん、状況はわたしの思い通りにはなりません。

しかし状況を決定しているのは、運命でも、神の意志でもなく、つまるところ「他人の自由」なのです。

この悟りによって、わたしの自由を制限する外的限界が、消えてなくなるわけではありません。

しかし少なくとも、わたし自身を「哀れな役者」や「罪の奴隷」としてではなく、他者の自由に直面した、一個の自由な実存として、意味づけなおすことはできるのです。

そして状況を、わたしを操る不可解な力としてではなく、わたしの行為しだいで様相を変えるかもしれない不確定な状況として、引き受けることが可能になるのです。

サルトルがいう「状況=限界」とは、ざっくりいえば、そういうことを指します。

......自由は、他人の自由によって限界づけられた自由であることをみずから選ぶことによって、実感されえない限界を、自分の責任において取り戻し、これを状況のうちに復帰させる。その結果、状況の外的諸限界は「状況=限界」となる。

サルトル存在と無』第4部第1章

www.kinokuniya.co.jp

 

この事情は、文字通りの奴隷においてすら変わりません。

サルトルは断言します。「鎖につながれた奴隷ですら、その主人と同等に自由である」と。

奴隷は奴隷なりに人生のささいな楽しみを見つければよいという意味では、もちろんありません。そういう諦めの態度を、サルトルがよしとするはずはありません。

自分の境遇を不動の運命として嘆くか、自分しだいで変更可能なものと捉えるかは、当の奴隷しだいだと、かれはいいたいのです。

自分を実存的にも奴隷にしてしまうか、それとも実存的に自由であるか、その決定権を奴隷はみずからに対してもつといいたいのです。

奴隷の自由とは、鎖を断つ自由である。奴隷が選び取る目的は、かれを縛る鎖の意味そのものを照らし出すだろうということである。すなわち、奴隷のままでいるか、それとも最悪の危険を冒してでもみずからを解き放とうと試みるか。

サルトル存在と無』第4部第1章

 

自分の役割をあきらめないハンジ

「哀れな役者」のまま終わりたくない――この意地を、どんな絶望もハンジさんに捨てさせることはできなかったようです。

「始祖」の力を掌握したエレンによる、全エルディア人宛ての「地鳴らし」発動宣言。

それを聞いて、ハンジさんはある決意を抱いたようです。

覚醒したリヴァイの意志が揺るがないのを見て、その決意をかのじょは実行に移すことに決めました。

人類虐殺という空前絶後の大惨劇に、介入しようという決意を。

「蚊帳の外でお前が大人しくできる... ハズがねぇ...」というリヴァイのセリフは、よく言ったもの(126話)。

状況に強いられた役柄ではなく、状況のなかでみずから選び取った役柄を演じることが、ハンジさんにとっての自己解放なのです。

 

では、ハンジさんがあらためて選びなおした役割とは何か?

エレンの「地鳴らし」を止めること。

調査兵団長として、すなわち、各員が胸に誓った「人類の自由」という約束を存在理由とする、そのような集団を率いる者として、ハンジさんはそれをみずからの役割に選んだのでした(127話)。

f:id:unfreiefreiheit:20211218131349j:plain

127話「終末の夜」

 

前にも述べたことですが、ここでハンジさんは「自分の判断を「死んだ仲間」によって美化するために、死者を呼び出したのではありません」。

この状況で、自分が引き受けるべき真の役割は何か?

「それを知るための方法が、彼女にとっては、死んだ仲間ならどう考えるか? と自分に尋ねることだったのです」。

 

そして、これも過去記事で論じたことですが、調査兵団の「心臓を捧げ」るという誓いは、自己犠牲を美化する国家的プロパガンダへの順応とは区別されねばなりません。

調査兵団のメンバーたちが誓いを捧げている相手は、むしろ誰でもない「人類」、すべての人であると同時に特定の誰でもない「人類」である。

かれらの「心臓を捧げよ」は、たんなる儀礼的な宣誓ではなく、個々の兵士が「人類」と、そして自分自身と結んだ約束にほかならない。

 

※ 併読がオススメ

unfreiefreiheit-aot.hatenablog.com

 

この約束の実現をあきらめないこと、それがハンジさんの選びなおした役割なのです。

この選択は、言うまでもなく倫理的な選択であり、かつ実存的な選択です。

つまり、別の観点から「正しい選択肢」が導き出されたとしても、それにもかかわらず選ぶべきであり、また選ばないことができない、そのような選択肢なのです。

 

エレンだけが、人知を超える力をそなえた「悪魔」としてのエレンだけがパラディ島の希望だという、死に際のフロックの弁に、ハンジさんは反論しません(132話)。

かのじょを突き動かすのは、それでも「あきらめられない」という一念だけです。

人類の自由という約束を「いつの日か」実現するという希望を。

この約束を存在理由とする調査兵団の指導者として、その役割をまっとうすることを。

f:id:unfreiefreiheit:20211218131446j:plain

132話「自由の翼

 

ハンジ最期の大舞台

フロックの銃撃による飛行艇の穴をふさごうとしたちょうどそのとき、山の向こうから押し寄せてきた「地鳴らし」。

修理の時間を稼がねば、一行はエレンのもとに向かう手段を絶たれてしまいます。

この決死の役割を買って出たのは、ハンジさん。

「大勢の仲間を殺してまで」「皆をここまで率いてきた」「そのけじめをつける」。

そう言い残し、そしてアルミンに団長の役目を引き継いで、ハンジさんはひとり、超大型巨人の群れに立ち向かいます。

 

しかし「けじめをつける」というのは、ハンジさん自身のもっとも深い動機ではないと、筆者は考えています。むしろ、自分が捨て駒になることを仲間に納得させるための理由づけでしょう。

その直後、盟友リヴァイに伝えたことが、かのじょの一番の動機であったはずです。

ようやく来たって感じだ… 私の番が

今 最高にかっこつけたい気分なんだよ このまま行かせてくれ

f:id:unfreiefreiheit:20211218131555j:plain

132話「自由の翼

 

私の番」が来た。

それはもちろん、あのサネスが予言した「順番」のことではありません。

これこそ、わたしが選ぶべき役割だ。

これこそ、わたしが自由であることを証明する最期の大舞台だ。

そうハンジさんは確信したのでしょう。

 

かのじょの決意は、大衆動員のために作り出された大義やら、俗世には自由も幸福もないというニヒリズムの教えを刷り込むための信仰やら、そういうものに乗せられて自己犠牲を選ぶ者の決意ではありません。

どれほどの苦難と絶望に打ちひしがれても、ハンジさんは自己を「哀れな役者」や「罪の奴隷」としては終わらせたくなかったのです。

どれほど世界が不条理で残酷だとしても、ハンジさんは背中を丸めて世界から退場したくはなかったのです。

この世界のなかで、ハンジさんは「かっこつけ」たかったのです。

つまり、自由でありたかったのです。

 

ハンジさんにとって自分自身とは何者か。

巨人博士の役割を引き受けた、一個の実存。

団長という役割を引き受けた、一個の実存。

人類の解放という約束を引き受けた、一個の実存。

そして背中にはためく「自由の翼」を引き受けた、一個の実存。

それこそが、何にも代えがたい一個の自由な実存としてのハンジ・ゾエなのです。

 

だからハンジさんは、生きて還ってはこられないと知りつつ「私の番」を引き受けました。

最期の大舞台に向かって、かのじょは飛び立ちました。

調査兵団を率いてきた者としての責任において。

超大型巨人が列をなす圧巻の光景に、巨人博士らしい感嘆の念をもらしながら。

人類救済への戦いに仲間たちを送り出すために。

自由の翼」があしらわれたマントをはためかせて。

こうしてハンジさんは、自分自身になったのです。

あらゆる残酷な試練にもかかわらず、運命の鎖を断ち切る、解き放たれた奴隷となったのです。

f:id:unfreiefreiheit:20211218131542j:plain

132話「自由の翼

 

最期の役目を堂々と演じ終え、仲間たちの魂と再会したハンジさん。

かのじょが死に際に見た夢だったのでしょうか。

それとも「道」をつうじて魂がつながる的な設定がはたらいたのでしょうか(137話も参照)。

どちらに解釈してもいいし、どっちだって同じことだと、筆者は考えます。

ハンジさんは、ついにあの呪いから解放されました。

ハンジさんは、ついに自分自身になれたのでした。

だからハンジさんの魂は、ハンジ・ゾエが何者であるかをよく知る仲間たちと、再会することができたのです。

「奴隷の自由とは、鎖を断つ自由である」

f:id:unfreiefreiheit:20211227063604j:plain

132話「自由の翼

 

unfreiefreiheit-aot.hatenablog.com