進撃の巨人・自由論

わたしは自由であるか。自由とは何なのか。深堀りすれば自由の謎が解けるマンガもあるかもしれない。

2.7.b みずからの「夢」の責任を引き受けるアルミン (下) ~ マキャベリズム・ロマン主義・実存的自由

 

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アルミンの実存的選択または脱マキャベリズム

善をなすことがどれほど困難だとしても、悪が生じるのは必然ではなく、人間の自由からである。

「夢」と現実との落差がどれほど大きいとしても、現実に屈するか現実を乗り越えるかを選ぶのは人間である。

だとすれば夢追い人は、夢のなかに描かれた、まぼろしのような理想の自己をあきらめてでも、そのような夢を見てしまった自分自身に対して、責任を引き受けねばならない。

そのような実存的選択の構図、すなわち、理想主義者やロマンティシストにおける実存的選択の構図を、サルトルの戯曲『悪魔と神』から引き出すことができました。

 

このことをふまえて、アルミンに戻りましょう。

もはやかれには、マキャベリストとしての素質を活かして「夢」のために戦うことはできません。ロマン主義者アルミンとマキャベリスト・アルミンは、もう決して両立させることができないのです。

だから、選ばねばなりません。エルヴィン団長の影を追う挫折したマキャベリストとして終わるか、さもなくば、何があってもみずからの「夢」を貫く自分であるかを。

アルミンは絶望のすえ、前者を選んだかに見えましたが、しかし最終的には、コニーとともに「世界を救う」決断をすることで、後者を選んだのでした(126話)。

自分自身に誠実であろうとするかぎり、かれは後者を選ぶしかなかったでしょう。

アルミンにとっての「ほんとうの自分」は、ロマンティックな夢追い人としての自分なのですから。

シガンシナ区の決戦で、親友と見た夢のために自分自身の命すら投げ出すことのできるアルミンこそが、かれ本来の姿であったのですから。

 

しかし、サルトルの描くゲッツが、自分自身に戻って「夢」の責任をとろうと決断したとき、冷酷な司令官として行動するしかなかったように、みずからの「夢」を貫こうと決断したアルミンもまた、かつての仲間が多数加わっているイェーガー派との対決を迫られます。

エレンを止めにいくための進路を阻むかれらと戦わずして、先に進むことはできそうにありません。

仲間を殺すというのは、ただの殺人にも増して忌まわしい悪といえましょう。

でもアルミンは、ロマン主義者として戦ってきた自分自身に責任をとるためには、中途半端なことはできないのです。

こうしてアルミンは「手も汚さず 正しくあろうとするなんて」断るといって、作戦を立案したのでした(128話)。

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128話「裏切り者」

 

ロマン主義者としての自己を貫くために、かつての仲間を殺すこともやむなしという、もっとも血なまぐさい道を選んだアルミン。

この道もまた、マキャベリストの道であるように見えるかもしれません。

しかしながら、この道をアルミンが選ぶさいの準則が、マキャベリストのそれとはまったく異なるのです。

マキャベリストの準則は、目的のために手段を選ぶな、です。

その一方で「地鳴らし」発動後にアルミンが迫られた選択は、目的そのものを選びなおすこと、すなわち、自分が何者であるかを選びなおすことです。

そうやって選んだ自分に最後まで責任を負えるかどうかを、ここでアルミンは試されているのです。

だから、かれの「手も汚さず 正しくあろうとするなんて」というセリフは、マキャベリストの準則ではなく、アルミン自身の実存的選択を表明していると解すべきでしょう。

 

みずからの「夢」をまぼろしで終わらせない責任

ここには皮肉があります。

というのもアルミンの「夢」は、かれがマキャベリストの準則に従っていたときのほうがロマンティックな魅力を放っていたのに、かれがエルヴィンの影を追うことをやめた後にかえって残酷で醜い現実性を露わにしたのですから。

それは仕方ありません、現実の世界がそういうものなのですから。

壁外の世界も壁内と同じように「残酷な」世界でしかなかったのですから。

でも、それを思い知らされることなくして、アルミンは実存的選択を引き受けることができなかったでしょう。

自分の「夢」と現実とがどれほどかけ離れているかを、いやというほど痛感したことによって、夢追い人アルミンは、かれの実存をかけた最大の試練に立ち向かう準備が整ったのです。

かれが選んだのは、現実が「夢」とはどれほど違っても、幻滅と挫折のなかに沈むかわりに、その現実にとことん抵抗することでした。

 

だからアルミンは、突如パラディ島を襲った「バケモノ」だったはずのアニに向かって、自分もまた「とっくにバケモノ」なのだと名乗り出たのです。

そんな「バケモノ」としての自分を引き受ける覚悟を決めるまでは、いまだにアルミンは、かつての「夢」を頭の片隅で信じていました。

「エレンと一緒に未知の世界を旅するって約束」が実現するかもしれないという期待を、諦めきれなかったのです。

 

そう吐露するアルミンは、もはや「夢」を、親友との「約束」を、放棄したのでしょうか?

子供のころ見たままの「夢」としては、アルミンはそれを諦めたのでしょう。

壁外の世界は「僕らが夢見た世界とは違ったよ」と、かれは率直に認めます。

でもアルミンは、幻滅の先に、それでも「夢」を追うのだと宣言するのです。

「まだ... 僕らが知らない 壁の向こう側があるはずだと... 信じたいんだ」と(131話)。

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131話「地鳴らし」

 

この希望、この夢、この願望に、もはやロマンティックな魅力はほとんどありません。

それでもアルミンは、夢追い人としての自分を貫くしかないのです。

それこそが、それだけが、アルミンという実存の真理なのですから。

 

いまやアルミンは、みずからの「夢」の責任をとる覚悟を決めています。

だから、もうかれはエルヴィン団長の幻影には縛られません。

そして、このアルミンこそが、ハンジさんによって次の調査兵団団長に指名されたのです(132話)。

エルヴィン団長の代わりではない、かれ自身としてのアルミンこそが。

みずからの責任を引き受け、そのことによってみずからを解放し、自分自身へと戻ってきたアルミンこそが。

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132話「自由の翼

 

(「マキャベリズム・ロマン主義・実存的自由」おわり)

 

 

2.7.a みずからの「夢」の責任を引き受けるアルミン (上) ~ マキャベリズム・ロマン主義・実存的自由

 

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マキャベリストロマン主義者アルミンの挫折

エルヴィンの代わりに蘇ったあと、アルミンは「大事なものを捨てる」決断ができるマキャベリストではなくなってしまったように見えます。なぜでしょうか?

才能が失われてしまったわけではありません。マーレ奇襲作戦など、かれは随所で持ち前の作戦立案能力を発揮しました。

それにもかかわらず、アルミンはつねに、エルヴィン団長の代わりという立場を負い目に感じています。

エルヴィンの代わりは務まらなくても自分自身の特性を活かせ、仲間だけでなく「お前自身」を後悔させるな(大意)というリヴァイの励ましも(85話)、アルミンの重荷を軽減はしてくれなかったようです。

  

でも、それだけがアルミンの挫折の理由ではありません。

こっちの理由のほうが重大でしょう。 

すなわち、シガンシナ区の戦いを境にアルミンは、マキャベリストとしての自己とロマンティシストとしての自己とを両立できなくなったのです。

敵が巨人たちだったと思っていたころは、壁の外の世界を見るというアルミンの夢と、そのために「大事なものを捨て」てでも戦うというかれの決意とは、矛盾なく結びついていました。

ところが、いまやアルミンが知った「壁の外」は、ロマンティックな未踏の地ではなく、無知や偏見に動かされ、パラディ島を敵視する、無数の人間たちに占有された世界だったのです。

それでも、アルミンは夢を見つづけます。いつか海の向こうの人々と「わかり合える」のではないか、いつか世界がパラディ島を祝福のうちに迎える日が訪れるのではないか、という夢を(106話)。

世界との和解を達成するという目的と、マキャベリズムという手段とは、絶対に相容れないものです。

隣国や敵国をうまく操って勢力均衡を作ろうとかではなくて、ほんとうの意味で「わかり合い」たいのであれば、マキャベリズムの出る幕はありません。

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106話「義勇兵

 

こうしてアルミンは夢をふくらませます。ミカサも同じ期待を抱いたようです。

でも、そのために二人と、父親の記憶をつうじて世界の残酷さを知ってしまったエレンとのあいだには、認識の落差が生じはじめました。

そして実際、世界がパラディ島に向ける憎悪は、島外の視察に出た調査兵団が目の当たりにしたように、手に負えないほど巨大で根深いものだったのです(123話)。

和解の道を見限り、先に行動を起こした親友エレンに引きずられて、アルミンはやむなくマーレへの先制攻撃を立案、実行し、成功させます――エルヴィンも顔負けの「無茶」な攻撃作戦を(104話)。

マキャベリスト・アルミンの面目躍如ですが、しかし当人の表情に満足感はありません。

それもそのはず、もはやアルミンは自分の持ち味を、自分の夢から遠ざかっていくためにしか役立てられないのですから。

そんなかれに追い打ちをかけるように、ほかならぬ親友エレンが、お前は「敵に肩入れ」したせいで決断力を失い、役立たずになってしまったのだと、アルミンを非難します(112話)。

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112話「無知」

 

アルミンの判断力や機転そのものが失われたわけではありません。   

エレンが「地鳴らし」を発動したときですら、混沌とした状況のなかで、いまどんな危険因子があり、何にどう対処すべきであるかを、アルミンはすぐに見分けることができました(125話)。

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125話「夕焼け」

 

でも、このような頭の回転のよさを、いったいどんな目標に向けて活用すればいいのか? それだけが分からないのです。

ついてミカサに声を荒げてしまったかれは「生き返るべきだったのは 僕じゃなかった」と哀しく悟るのでした(125話)。

 

ダメ押しとなったのは、ファルコを犠牲にして母親を取り戻そうとするコニーを、思いとどまらせられなかったこと。

ついに心折れたアルミンは、ファルコのかわりに自分の身を、コニーの母親である巨人に差し出したのでした。

そんなかれの脳裏に浮かぶのは、やはりエルヴィンの姿(126話)。

マキャベリストとしてのアルミンは、ここにいたって完全に挫折したのです。

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126話「矜持」

  

アルミンにとってのエルヴィンと、実存としてのエルヴィン

マキャベリストとしてのアルミンが挫折することは、ある意味では、かれの復活直後に予言されていたことでした。

この予言を与えたのは、あの率直な凡人、フロックです。

エルヴィンの代わりにアルミンが生かされたのは、幼馴染たちやリヴァイが「私情」に流され「合理性に欠ける判断」を下したから、つまり「大事なものを捨てることができなかった」からではないのか。そうフロックは言い放ったのです(90話)。

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90話「壁の向こう側へ」

 

またもやフロックは、意図せずして相手の痛いところを突きました。

「大事なものを捨てる」覚悟をせよというのは、アルミンのマキャベリスト的信念そのもの。

だとすれば、エルヴィンの代わりにアルミンが生きているという事実そのものが、アルミン自身の信念に反する結果なのです。

そうであればなおさら、アルミンは取り戻された自分の命を、なんとしてもエルヴィンの代わりとして役立てねばならないと考えたでしょう。

しかし、当のエルヴィンは「大事なものを捨てる」ことができる指導者である(とアルミンは信じている)のに、その代役としてのアルミンは、この信念に反して生かされている。

だから、自分はエルヴィンの代役であるという強迫観念に囚われているかぎり、アルミンは挫折するしかなかったのです。

 

でも、思い出してください。

エルヴィンの代わりにアルミンを生かしたのは、ほんとうはリヴァイでも、エレンやミカサでもなく、本質的にはエルヴィン自身の選択であったということを(2.5)。

エルヴィンは最後の戦いで「大事なもの」すなわち世界の真実を知るという宿願を捨てました。

しかしそれは、目的のためには手段を選ばないというマキャベリスト的決断からではありませんでした。

かれは、なにものにも代えがたいエルヴィン・スミスという一存在のすべてをかけた実存的選択を行ったのです。

すなわち、ほんとうに価値のある「わたし」を、仲間の死を意味づけ、自分の死の意味を仲間に託す「わたし」を選び取ったのです。

 

同じようにアルミンもまた、いまや選択を迫られているのです。ロマンティックな夢追い人としての自分と、マキャベリスト的な合理主義者としての自分とに、引き裂かれたまま留まっていてはいけません。

みずからの実存をかけて、ほんとうの自分を選ばねばならないのです。 

 

みずからの選択を「悪」で終わらせない責任

さて、ここでのアルミンにとって、ほんとうの自分を選ぶとは、どういうことになるのでしょうか?

ちょっと前には、ハイデガーのいう「死に臨む自由」を手がかりに、いかにエルヴィンがほんとうの自己を選択したのかを考察しました(2.4)。

でもここでアルミンは、差し迫った死に直面しつつ選択をしているわけではありません。だから、いまは別の解釈枠組が必要でしょう。

 

サルトルの戯曲(劇作)『悪魔と神』が、ここでは役に立つかもしれません。

この戯曲はドイツ農民戦争および中世末期の騎士「鉄腕ゲッツ」を題材としています。

ただしサルトルの物語では、主人公ゲッツは貴族の私生児として蔑まれる傭兵隊長であり、その残虐な悪行によって、みずからの自由が証明できると思い込んでいます。

ところが、悪など誰でも実行できる、だが善を為しえた人間は一人もいないと断言する僧侶ハインリヒに挑発され、ならば自分こそが善を成し遂げてみせようとゲッツは宣言し、農民たちに愛と平等を説く預言者に転身します。

ja.wikipedia.org

 

サルトルの描くゲッツの役柄や性格には、アルミンと似ているところは全然ありません。

それでも、ゲッツが迫られる選択は、アルミンが迫られる選択と同質なのです。まあ見てみましょう。

 

人間にはなしえないはずの善を成し遂げたい。それがゲッツの「夢」です。

そのためにゲッツは、でっちあげの奇跡まで起こして帰依させた農民たちに、ドグマティックな隣人愛の教えを広めます。

しかしその教えのせいで、領主たちに対する戦争への参加を求める他の村とのあつれきが生じ、最終的にゲッツの農民たちは虐殺されてしまいます。

夢破れたゲッツ。失意に沈むかれは、自分のことを疎む他村の武装農民たちに殺されて終わるつもりでした。

しかし、ゲッツが挫折するさまを見届けにきた僧侶ハインリヒとの対決をきっかけに、生きる気力を取り戻します。

突然、ゲッツは悟ったのです。

自分が挫折したのは、人間がみな悪をおこなうよう定められているせい、ではないのだと。

人間はそう決定されているから、人間は自由でないから、悪をなすというのではなく、むしろ自由であるがゆえに人間は悪を実行しうるのだと。

...... おれ一人で悪を決定した。おれ一人で善を発案した。いんちきをしたのはおれ、奇跡をやったのもおれ、今日おれを裁くのはおれ、おれの罪を許しうるのもおれ一人だけだ。おれ、つまり人間だ。

サルトル『悪魔と神』第3幕

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この気づきは、サルトルの描くゲッツをして、自分の「夢」のオトシマエをつける決断へと駆り立てます。すなわち、すなわち農民戦争への参加をかれは決意するのです。

善をなすためと称して、民衆の愛と敬意を獲得するために、ゲッツは民衆のなかに入ることを選びましたが、それは最悪の結果に行き着きました。

だからといって、自分は失敗したと嘆いて死ぬことは、かれには許されません。

善をなすのも悪をなすのも人間の自由である以上、ゲッツがみずからの行いを嘆きつつ死ぬことは、まさにそのような死にかたによって、みずからの行為を悪として確定してしまうことを意味するのです。

それが究極の善であると夢見たのだから、ゲッツはこの選択に、善をなしうる自己を夢見た「わたし」に、オトシマエをつけねばならないのです。

 

だからゲッツは、愛を説く預言者から、自分自身に戻りました。すなわち、もとの傭兵隊長に戻りました。

そのうえで農民の側に立って戦うことを選んだのです。

みずからの夢のなかに描かれた幻のような自己を、ゲッツは放棄しました。

そのかわりに、ほんとうの自分、すなわち、愚かな夢を見てしまった「わたし」に対して、責任を引き受けることにしたのです。

ほんとうのゲッツは、残酷な指揮官です。反逆する部下は処刑し、敵よりも仲間を震え上がらせながら自軍を勝利に導く、悪魔のような将軍です。

そのような本来の自分として、最後まで農民たちとともに戦うことを、サルトルの描くゲッツは選んだのでした。

 

まさにこのゲッツと同じように、アルミンもまた実存的選択に、本来の自分自身に責任を負うことを迫る試練に、直面することになるでしょう。

 

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2.6.b マキャベリストと群衆、またはフロックとイェーガー派 (下) ~ マキャベリズム・ロマン主義・実存的自由

 

「上」からお読みを。

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フロックと群衆

さて、なぜ「凡人」フロックが凡人のまま、ここまで徹底的にちゅうちょなく、血も涙もない冷酷なマキャベリズムを実践できるかを考察してみましょう。

ポイントは、すでに述べたとおり、フロック自身の主観において、かれ自身はマキャベリスト的「君主」ではないという点です。

かれにとって、それは「悪魔」エレンなのです。

むしろフロックは、自分自身が凡人であり、弱者であることを受け入れ、そして「悪魔」に「使い捨て」られるべき「雑魚」にすぎないと認めています。

 

フロックの冷酷さは、このような自己評価、というより自己卑下と、無関係ではないでしょう。

みずからの値打ちを低く見積もる凡人が、同じ価値尺度を他の「凡人」にも当てはめるべきと考えるのは、ごく自然のことです。

みずからの価値を「悪魔」の生け贄になることに見出す凡人が、すべての凡人には「悪魔」の生け贄としての価値しかないと考えるのは、ごく自然のことです。

このような自己卑下の普遍化をつうじてこそ、「凡人」フロックはすべての人間にたいして残酷になれるのです。

 

そしてこの自己卑下は、結局のところ「悪魔」の非凡で抜きんでた力のみに価値があるという考え方を前提としています。

力こそすべて。すべては力によってしか決しえない。

この見解はマキャベリズムというより、ほとんどニヒリズムの域に達しています。

ただしフロックのそれは、レイス家のような受動的ニヒリズムとは対極の、能動的だけど攻撃的で排他的なニヒリズムというべきでしょう。

 

このニヒリスト的な力の信仰は、恐怖と表裏一体です。

力のほかに価値尺度がなければ、あらゆる問題は暴力によってしか解決できなくなるでしょうから。

それゆえに、力でことを決する者は、どんな脅威の芽でも潰さねば気が済まなくなり、かえって暴力から抜け出せなくなるのです。

これは、まさにキヨミがフロックに指摘したことですね。イェーガー派の率いるパラディ島は「狭く」なった世間で「殺し合いを繰り返す」だけだろうという(128話)。 

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128話「裏切り者」

 

恐怖こそが、というよりも恐怖だけが、イェーガー派に結束力をもたらします。

かれらが代表しているのは、脅かされる「群れ」です。

イェーガー派やその支持者たちが味方と認めるのは、共通の恐怖に伝染された「群れ」の一員だけです。あえて「群れ」に加わるのを拒む者は、それが敵ではないとしても、消されるべき「脅威」なのです。

たとえばオニャンコポンがそう扱われたように(126話)。

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126話「矜持」

 

この「群れ」の目的は、「群れ」が「群れ」として生き残ることです。

個々人は、生き残る「群れ」の一員になることを欲しますが、そのためには「群れ」と異なる行動をすることができません。「群れ」の一部としての行動しか許されないのです。

だから、自分たちを救うために生け贄を要求する「悪魔」に、ただ「群れ」は奉仕するしかないのです。

こうして「悪魔」の道徳的善悪を顧みない決断への服従を強いる力は、「悪魔」からではなく「群れ」から、すなわち同調圧力として、生じてくることになる。

そこでは、嫌がる羊に他の羊が犠牲を強いるさまが見られることでしょう(125話)。 

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125話「夕焼け」

 

こうしてフロックの自己卑下――「悪魔」に「使い捨て」られる「雑魚」としての――は、いまや「脅かされる群れ」のあいだで、すなわち「イェーガー派」とその支持者たちのあいだで共有されるのです。

フロックもまた、この「群衆」の一員でしかありません。

たしかにかれは「群れ」の統制者の役割を引き受けていますが、それはかれ自身の資格においてではなく、あくまで「悪魔」(エレン)の代理としてなのです――フロック自身、みずからをエレンの「代弁者」と位置づけていますしね(126話)。

 

「群衆的」マキャベリズム

フロックをマキャベリストたらしめている構図は、やや複雑ですが、次のようにいえるでしょう。

すなわち、フロック自身はマキャベリスト的「君主」ではないとしても、かれがその一員であるところの、脅かされた平凡な人間たちの「群れ」こそが、それ全体として、一人のマキャベリスト的「君主」であるのだと。

この構図を「群衆的」マキャベリズムとでも呼んでみましょう。

 

マキャベリスト的「君主」としての群衆は、マキャベリスト的な決意に満ちています。

でも、マキャベリスト的な合理主義を実践するのは、つまり行動のための判断を下すのは、かれら群衆ではないでしょう。

「群れ」を導くのは「悪魔」です。すなわち、脅威への唯一の対抗手段とされる、善悪を超越した指導者です。

この構図のなかで、フロックのような「群れ」の代表が、「悪魔」に従う「群れ」のなかの第一人者として、マキャベリスト的に行動できるようになるのです。

これをマキャベリズムの一種と見なすのが適切かどうか、意見は分かれるかもしれません。

もしそう見なしてよいとすれば、それは本質的に、追従者(ついじゅうしゃ)のマキャベリズムであるといえるでしょう。

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125話「夕焼け」

 

恐怖政治と全体主義

とはいえ、フロックと「イェーガー派」について論じてきたことは、マキャベリズムよりも、むしろ全体主義として解釈したほうがしっくりくるかもしれません。

「イェーガー派」の支配は、ナチズムの域にまでは達していないとしても、その萌芽というべきでしょうから。

とはいえ全体主義とは、マキャベリズムのような政治思想というよりも、一種の社会現象にほかなりません。

それを理解するには、全体主義の本質を定義しようと試みた哲学者、アーレント(1906-75)の考察が頼りになるはずです。

 

アーレントによれば全体主義とは、たんなる専制や暴政とは異なるものであって、その本質は恐怖です。

法をもつことが非専制的支配の本質であり、無法が専制の本質であるとすれば、恐怖(terror)は全体的支配の本質である。

アーレント全体主義の起原』第3部エピローグ(イデオロギーと恐怖政治)

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専制支配においては、無法な権力をふるう統治者と、恐怖に縮こまった従順な人民とがいます。

ところが全体主義においては、指導者も人民も、みなが恐怖に憑かれています。

そして、この恐怖に立ち向かうために「すべての人間の最も切実な利益すら犠牲にして顧みない」ことが是とされるのです。

こうして全体主義は、個人の法的権利には指一本触れることなく、個人の自由を圧殺してしまいます。

このことをアーレントは「空間をなくす」と表現しますが、これはつまり、選択の余地を奪うこと、他の選択肢などないと信じさせることだと理解すべきでしょう。 

人間たちをぎゅうぎゅう締めつけることにより、全体的恐怖は彼らのあいだの空間をなくしてしまう。......全体主義の統治は、すべての自由の欠かすことのできない一つの前提条件を抹殺するのだが、何のことはない、その条件とは、空間なしには存在しえない、動く能力というものでしかない。

アーレント全体主義の起原』第3部エピローグ(イデオロギーと恐怖政治)

www.msz.co.jp

 

フロック率いる「イェーガー派」は、まさにこのことをしているのです。

かれらは「エルディアの自由」という大義を掲げながら、しかし実際には、恐怖を最大限に利用することにより、自由に行動する「空間」を、自由に考える余地を、人々から、そしてかれら自身から奪っているのです。

かれらが直面する「恐怖」は「全体的」なものであり、それゆえに「脅かされた群れ」の一員として考え、行動することを拒む者は、一人も居てはならないのです。

アーレントならば「イェーガー派」について、かれらが人々から「動く能力」を奪っているのだと指摘することでしょう。 

 

実存としてのフロック

自己卑下を徹底した結果、マキャベリストになったフロック。

でもほんとうは、ただひたすらに自分を取るに足らない交換可能な存在へと貶めることは、かれにとっても耐えがたかったはず。

自己卑下を徹底し、だれもかれも「悪魔」の生け贄に捧げながら戦いつづければ、自分自身の価値を世界に向けて証明し、報いを得られるれる瞬間がきっと訪れるだろうと、そうフロックは信じていたはずです。

そうでなければ、エレンを止めようとするアルミンたちとの戦いのなかで「エルディアを救うのは!! 俺だ!!」と、英雄になりたい願望を吐露したりするでしょうか(129話)。

だとすれば、フロックが自己卑下を普遍化し、自分にも他人にも「使い捨ての雑魚」であることを強いたのは、逆説的にも、フロックという実存に固有の価値を証明する試みだったのです。 

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129話「懐古」

  

このことはまた、かれが他の新兵とともに「使い捨て」にされたシガンシナ区の戦いが、フロックという存在そのものを規定するほどに根深いトラウマ的出来事であったということも意味します。

このトラウマから解放されたいという願望もまた、たとえ無意識的なものとしてであれ、マキャベリスト・フロックの心を捉えていたのでしょう。

そういう心情が垣間見えるのは、フロックがジャンに「自由だよ!! もうお前らは戦わなくていい」「昔のジャンに戻れよ」と声をかけた一幕(125話)。 

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125話「夕焼け」

 

さっきまで血も涙もない義勇兵の粛清に勤しんでいた人物とは思えない、無防備で打ち解けた表情を、フロックはジャンに見せているのです。

その筋の方の妄想が捗る場面かと拝察します。

このシーンにかぎらず、かれはジャンに対しては、対決する直前まで「同期の友だち」として接しているんですよね。

ジャンとそのようなつながりを保とうとするフロックのふるまいは、変わってしまう前の自分に、屈託なく「同期の友だち」と接していたころの自分に戻りたいという願望の表れなのでしょう。 

「だからもう昔のジャンに戻れよ いい加減でムカつく生意気なヤローに」というセリフにも、むしろ昔のかれ自身を、すなわち「悪魔」の「使い捨て」の道具になってしまう前の無邪気だった自分を、懐かしむ気持ちがにじみ出ているように見えます。

 

しかしながら、力によってことを決するクーデター指導者としてふるまうかぎり、フロックがかつての自分に戻る道は失われているのです。

キヨミに指摘されてしまったように、ものごとを力と恐怖という尺度によってしか判断できない者は、すべての問題を暴力によってしか解決不可能にしてしまうのですから。 

(つづく)

2.6.a マキャベリストと群衆、またはフロックとイェーガー派 (上) ~ マキャベリズム・ロマン主義・実存的自由

 

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凡人フロックが欲する「悪魔」

今回は、エルヴィンを「地獄」に蘇らせようとしたフロックに光を当ててみます。

マーレ編以降、まるでエルヴィンやアルミンのかわりに、フロックがマキャベリストの役回りを引き受けたかのように物語が進んでいったからです。

 

フロックは当初、巨人からの領土奪還への希望に背中を押されて調査兵団に中途加入した、凡庸な一新兵にすぎませんでした。

でも、そんなかれには、思ったことを思ったとおりに口にできる率直さがありました。

対「獣の巨人」戦では、フロックのセリフは仲間の士気にガッツリ悪影響を及ぼしたものの、しかしかれを叱咤したマルロ含め、その場にいる新兵たち全員の実感を、非常にうまく言語化してみせたのです。

「そうやって死んでいくことが ...こんなに何の意味もないことだなんて 思いもしなかったんだ...」(80話)。

迫りくる死の恐怖に取り乱すモブが発したとは思えないほど冴えたセリフですが、ここでも問題は、死ぬこと自体ではなく、無意味に死ぬことです。

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80話「名も無き兵士」

 

持ち前の率直さを活かして、その後もフロックは、ただのモブではないことを見せつけます。

エルヴィンの代わりにアルミンを生かした選択について、あえて受勲式で蒸し返すフロック。

あの選択は正しかったのか? エルヴィン団長無しでどうするのか? 自分のような「使い捨てるくらいしか使い道もねぇ」「雑魚」にだって「値踏みする権利くらいはあるだろ!?」と(90話)。

こうしてフロックは、かつてジャンがエレンに投げかけたセリフを、図らずして再現してみせました。

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90話「壁の向こう側へ」

 

とはいえ、このセリフには重要な違いもあります。

かつてジャンが凡人代表として、この「値踏み」する権利を主張したのは、壁内人類にとってまだ希望とも災厄ともつかない存在としてのエレンに対してでした(22話)。

つまり、ほんとうはエレンの真価は分からないけど、でも大層高価なものだと信じることにするから、どうか期待を裏切らないでくれよと、そうジャンはエレンに伝えたのです。

 

その一方で、凡人フロックが、そのために自己の命を投げ打してもよいと「値踏み」するのは、かれのいう「悪魔」に対してです。

「獣」との決戦後、死にかけのエルヴィンを連れてきたフロックは、こういう意味のことをいいました。 

「悪魔」すなわち非情だが非凡な能力をもつ指導者に奉仕するためならば、自分のような凡人が「雑魚」として「使い捨て」られることにも意味を見出せると。

悪魔を再び蘇らせる... それが俺の使命だったんだ!!

それがおめおめと生き残っちまった... 俺の意味なんだよ!! (84話) 

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84話「白夜」

 

フロックのいう「悪魔」は、エルヴィンの人格分析のために参照した、ゲーテの『ファウスト』の悪魔とは、ずいぶんと違っています。

ファウストと契約したメフィストフェレスは、人をロマンティックなエゴイズムへといざなう誘惑者でした。

それに対してフロックの「悪魔」は、人に犠牲を強いる超常者です。

フロックがそれを欲するのは、かれ自身のためというより、そのような超常者に導かれることでしか、かれを含む凡人は救済を得られないと考えるからです。

さて問題は、このような信念から、なぜあのマキャベリストが、すなわち「イェーガー派」の指導者としてのフロックが出てきたのかということです。

 

『進撃』のマキャベリストたち

マキャベリズムとは、これまで説明してきたように、自由と道徳が両立しがたい状況において自由を達成するために採用される非モラリズムです。

しかし道徳とは、善悪とは、その真価が何であれ、人にどう行動すべきかを教えてくれる指針なのです。

それに頼れないからといって、何の指針もなく、でたらめに行動することでは、運命の暴力にはとうてい太刀打ちできないでしょう。

では、何を指針とすべきか? それを説いたのが、マキャヴェリの『君主論』です。

同書は、あえて悪をなせとか、獅子と狐を使い分けよとか、さまざまな指針を与えていますが、その精髄をなすのは、慎重さよりも大胆さが必要となる局面を読み誤るな、という教えです(2.1, 2.2 も参照)。

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『進撃』のマキャベリストたちは、どんな指針に従っているでしょうか。

エルヴィンは、あえて「大胆」になるべき時、あえて「博打」に打って出る時を、本能的に見抜くことができる、天然のマキャベリストです。

エルヴィンの指針は、かれ自身の才能であるというべきでしょう。

とはいえ、エルヴィンの本質はマキャベリストというよりもエゴイスト。

かれはマキャベリズムをみずからの指針や信念として選んでいるわけではなく、エゴイズムを貫こうとして、おのずとマキャベリストになるにすぎないのです。

 

それに対してアルミンは、意識的、自覚的なマキャベリストです。

エルヴィンが素でやっていることを、アルミンは信念にもとづいて実践します。

だから、アルミンには正真正銘の、つまり指針としてのマキャベリズムがあります。すなわち、状況を変えるためなら「大事なものを捨てる」ことを恐れるな、という格率です。

この格率に従って、アルミンは自覚的に「大胆」にふるまうのです。

 

フロックは、いずれとも違います。

かれの指針とは、ずばり「悪魔」に奉仕することです。

この場合、かれのかわりに「大胆」に決断するのは「悪魔」です。

いや、フロック自身もまた悪魔への奉仕者として、もはや善悪など顧慮せず「大胆」に行動できるでしょう。

しかし、フロックの「大胆」さは「悪魔」のものではあっても、かれ自身のものではないということには、留意しなければなりません。

マキャベリスト的「君主」は、フロックではなく、かれが仕える「悪魔」であるはずなのです。すくなくともフロック自身の主観においては、そういうことになります。

これはどういうことか? それを考察するまえに、かれによるマキャベリズムの実践ぶりを見ておきましょう。

 

マキャベリストとなったフロック

「悪魔」エルヴィンはけっきょく甦らず、フロックの使命感は宙ぶらりんになってしまいました。

かれはずいぶんと長いあいだ、虚無感のなかにいたようです。

エレンが壁外人類みなごろしの「地鳴らし」を決意したと知り、心の底にくすぶっていた使命感がふたたび燃え上がるまでは。

そもそもエレンの決意にきっかけを与えたのは、 当のフロックでした。ジークの安楽死計画をエレンに伝えたいイェレナに、エレンとの密会をセッティングしたのです。

フロックがあらかじめ安楽死計画についてどこまで聞いていたのかは分かりませんが、かれ自身はそれにあまり大きな希望を見ていたわけではなさそうです。他に選択肢がないから仕方なく検討してみる、といったところでしょう。

というのも、イェレナと話したあと、エレン自身の真意をかれから聞くまでは、フロックの目つきは、力なく、うつろで、なげやりであったように見えるからです(130話)。 

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130話「人類の夜明け」

 

うってかわって、マーレ奇襲作戦以降のフロックの、なんて生き生きとしていることでしょうか。

目的のためなら善悪を顧みるな、手段を選ぶなというマキャベリストの教えを、清々しいほどちゅうちょなく実践してくれます。

かれの率いる「イェーガ派」が、兵団幹部にジークの脊髄液入りワインを密かに飲ませる計画に加担していたと気づかれたときなんか、こーんな悪そうな表情だってしちゃうんだもんね(112話)。 

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112話「無知」

 

かつて訓練兵だった自分たちをイビリ倒した鬼教官は「とりあえず足でも撃って」黙らせておくのがジャスティス(113話)。  

そして、エレンが「地鳴らし」発動に成功したのを見届ければ、即、粛清モードに切り替える判断の迅速さ。

かつての協力者、しかもジークとイェレナの安楽死計画など知らず、本気でパラディ島といっしょにマーレと戦うつもりだった義勇兵たちに、服従か死かの二択を容赦なく突きつけます(125話)。 

 

冷酷で残忍な行動力を見せつけるフロック。

かれの描写で興味をひくのは、マキャベリズムを実践しはじめたからといって、フロックは別人に変わったということでは全然なくて、むしろ本質的には凡人のままとして描写されているという点です。

キース教官を黙らすための狙撃は外すわ(113話)、エレンが「地鳴らし」を発動したときには壁の崩壊に巻き込まれて死にかけるわ(124話)。

あげくのはてには、(恐らく)中年の女性事業家でしかないキヨミに、隙をつかれ極め技でねじふせられる始末(128話)。

まあキヨミに護身術の心得はあるということでしょうが、それにしたってフロック君は軍人ですよ。兵士としての地の力は、やっぱりポンコツなわけです。

 

そうなると、次のような疑問が浮かびます。

なぜ「凡人」フロックは、凡人のまま、ここまで徹底的にちゅうちょなく、血も涙もない冷酷なマキャベリズムを実践できるようになったのでしょうか。

これこそが、フロックと「イェーガー派」をめぐる核心的な問題なのです。

 

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2.5 なぜリヴァイはエルヴィンではなくアルミンを選んだか ~ マキャベリズム・ロマン主義・実存的自由

 

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ほんとうにリヴァイの選択だったのか

ずいぶんとエルヴィンの話が長くなってしまいました。

でもようやくここで、次の問題を、哲学的考察のために俎上に上げることができるというもの。

なぜリヴァイはエルヴィンではなく、アルミンを生き残らせることを選んだのか?

ロマン主義的エゴイスト、ファウスト的自我たるエルヴィンのことを、もう「休ませて」やるべきだとリヴァイが感じたのは、一体どうしてか?

エルヴィンの苦難に満ちた「夢」のかわりに、際立った才知をもつが未熟な少年の「夢」を、なぜリヴァイは選んだのか?

 

しかしながら、リヴァイはこの選択肢を、選ぶべくして選んだのではないでしょうか。

アルミンに巨人化の注射を打とうと決めたのはリヴァイですが、しかしかれにそう選択させたのは、エルヴィンその人だったのではないでしょうか。

かれの選択を、リヴァイはただ理解し、実行に移しただけではないでしょうか。

その点に着目することが、このエピソードを読み解く鍵なのです。

 

エルヴィンの最期がケニーの最期とダブった理由

アルミンに注射を打てと食い下がるエレンとミカサを引き離し、ようやくエルヴィンに注射を打つ準備が整ったリヴァイ(84話)。 

かれの脳裏に浮かぶ、みずからの「夢」について語るエルヴィンの声は、絶体絶命の窮地における「このまま地下室に行きたい」というかれのうめきは、なぜかケニーの最期の言葉とダブります。

当時、リヴァイには意味が汲み取れなかった「みんな... 何かの奴隷だった... あいつでさえも...」というケニーの言葉と。 

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84話「白夜」

 

これは明らかに、エルヴィンの「夢」が、ケニーのいう「酔っぱらって」いるために必要な「何か」に等しいことを示しています。

世界がまったく無意味であるよりは、わたしの生に意味を与えてくれるものがあったほうがよい。

そういう、わたしにとって価値あるものさえあれば、わたしは残酷で無価値な世界を生き抜くことができる。

そのような、わたしがどうにか生きるための手段としての「酔っぱらうための何か」です(1.5 も参照)。

たとえエルヴィン自身がそういうものとしては理解していなかったとしても、このときリヴァイは、エルヴィンの「夢」がそういうものだと悟ったのです。

 

それでもエルヴィンの腕に注射針を当てるリヴァイ。かわりに見捨てようとしている、死にゆくアルミンを気にかけながら。

そのとき突如、腕を持ち上げるエルヴィン。

このとき、エルヴィンの死にゆく脳は、かれの生きる意味そのものを決定した、世界の真実にかんする疑問を父にぶつけた幼き日の記憶を想起していたのでしょう。

しかし同時に、かれの無意識の動作は、リヴァイにはあたかも、エルヴィンが自分に注射を打つことを拒んだかのように、代わりにアルミンに打てと伝えようとしているかのように見えたことでしょう。 

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84話「白夜」

 

もちろんリヴァイには、エルヴィンの動作が無意識のものでしかないと分かるはずです。

でも実は、エルヴィンが注射を拒んだと理解することは正しいのです。

自分の「夢」をあきらめ、仲間に希望を託して死ぬことを、すでにエルヴィンは選んでいたのですから。

わたしにとって価値あるものを諦めてでも、ほんとうに価値のあるものを、エルヴィンは選び取っていたのですから。

そしてそれは、真に欲すべき「何か」を見つけてほしいという願いをリヴァイに託して死んだ、ケニーの選択と同じものでした。

 

実際、エルヴィンの無意識の挙手をきっかけに、リヴァイは直観するのです。

おとり作戦の実行を迫ったリヴァイに、なぜエルヴィンが「ありがとう」と言ったのかを。

なぜあのときケニーが、巨人化の注射薬を自分に使わず、リヴァイに託したのかを。

そして、感謝を伝えたエルヴィンの瞳、死に際のケニーの瞳、そして「海を見に行こう」と夢を語っていたアルミンの瞳が、同じ光をたたえていたことを。

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84話「白夜」

 

このことの意味は明白です。

アルミンの瞳を輝かせる「夢」が、ケニーやエルヴィンがみずからの「夢」と引き換えに託すことを選んだ、真に価値のある「なにか」と等価であることを、リヴァイは直観したのです。

したがって、エルヴィンの選択を尊重するならば、かれではなくアルミンを生き残らせるべき、ということになります。

このことはまた、エルヴィンの選択とアルミンの夢をつうじて、育ての親ケニーの死に際の真意をリヴァイが理解したということも示しているのです。

こうしてリヴァイは、アルミンに巨人化の注射を使うことを選びました。

しかしそれは、玉砕的なおとり作戦を実行する選択と同様に、すでにエルヴィンが心で済ませていた選択なのであって、それをリヴァイは言葉や行為に移したにすぎないのです。

* 併せ読みがオススメ

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良心の呼び声

そうなると、なぜリヴァイはエルヴィンの代わりにアルミンを選んだかという問いは、結局のところ、なぜエルヴィンが自分の夢を捨てる選択をしたのかという問いに還元されることになります。

この選択においてエルヴィンは、みずからの自由を諦めたのではなくて、ファウスト的でエゴイスト的な自由を放棄するかわりにほんとうに価値のある自由を行使しようとしたのだということは、すでに論じてきました。

 

では、なぜエルヴィンは、どんな種類の自由を選ぶことだって自由であったはずなのに、みずからのロマン主義的エゴイズムを貫くこと(どんなかたちであれ地下室に眠る真実を発見しに行くこと)ではなく、より価値のある自由を選んだのでしょうか?

そこに、なにか必然性はあるのでしょうか?

もしそれに必然性が働いていたとして、それでもエルヴィンの最期の選択は自由なものと言えるのでしょうか?

これこそエルヴィンの自由をめぐる最終的な問題です。

それを解くためには、ふたたびハイデガーによる現存在の分析が手がかりとなるでしょう。

www.degruyter.com

 

ここでは「良心」をめぐるハイデガーの考察を参照してみます。

良心とは、ニーチェによれば、無力な人間たちに、みずからの無価値そのものを価値あるものと信じ込ませる手段でしかありませんでした。

しかしハイデガーにとっては、良心をもつこと、みずからを「負い目ある存在」として発見することは、自分自身の在りかたに「つねにすでに」含まれている存在可能性を直視することを意味します。

つまり、かれのいう負い目とは、外的事実を原因とする心的な結果ではなくて、むしろ外的事実に先立つ人間の態度あるいは気構えです。

この意味において負い目または良心をもつことは、過ちを後悔することではなく、自己を未来に向かって開くことだと言えるでしょう。

このような人間の在りかたを、ハイデガーは「本来的」と呼びます。

......負い目ある存在へと〔自己を〕呼び起こすことは、わたしが現存在としてつねにすでに存在してきた「存在しうる」へとあらためて呼び出すことを意味する。この存在者は、ことさら過誤や不作為によって「負い目」を背負い込むまでもなく、ただたんに...…「負い目ある」ことを本来的に存在すればよい。

ハイデガー存在と時間』第58節

 

別な言いかたをすれば、負い目をもつことは、自由に選択される態度なのです。 

良心に従うことは、そうありうるかもしれない自分を実現しようとする、能動的、積極的な態度なのです。

この態度は、むしろ「自負」と言い表したほうがぴったりくるかもしれませんね。

ハイデガーによれば、良心を自負することは「良心の呼び声へと開かれた自由」であります。

この「呼び声」に「了解づくで呼び出される」とき、現存在=人間は自由にそうしているというのです。

......この可能性へと了解づくで呼び出されることが内包するのは、良心の呼び声へと開かれた自由を現存在が得ることであり、呼びかけられうることへの備えである。.....

ハイデガー存在と時間』第58節

 

「良心の呼び声」って何やねん? 頭の中に天使が語りかけてくるんかいな?

そういう神がかり的な話をハイデガーはしているように聞こえるかもしれませんが、でも実際は違います。 

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良心の働きを、人はしばしば「負い目を感じる」とか「後悔に襲われる」とか、受動的な経験として言い表しますね。

でも、そうして人間が良心をさいなまれるのは、あらかじめ良心をもつ存在として自分自身を作り上げているかぎりにおいてでしかありません。

みずからの利益のために他人を利用することに慣れてしまった人は、他人を騙すことに良心の痛みを感じるふりはできるとしても、実際にそれを感じることは不可能でしょう。 

だとすれば、ある種のことがらについてわたしが感じる「負い目」とは、わたしが何者であるかを告げ知らせる、この存在に固有の事態ということになります。

 

そもそも良心とは、他人に対して、自分の在りかたの善し悪しの評価尺度としての他者に対してもつもの。

したがって良心的とは、ある意味では他人本位、あるいは他律的であることと同義なのです。

しかしハイデガーによれば、むしろ良心のやましさを感じるときにこそ、わたしは「ひとごとでない自己」に直面し、この自己に従って行為することができます。つまり自律的になるのです。

なぜなら、みずからの良心を「呼び声」として聞き取ることは、存在論的に見れば、良心をもとうと「意志する」ことに等しいからです。

.....選び取られるのは、良心をもつことであり、ひとごとでない自己の負い目ある存在に向けて開かれている自由存在である。すなわち、呼びかけを了解することは、良心をもとうと意志することなのである。

ハイデガー存在と時間』第58節

 

良心の呼び声を聞くことは、人を能動的に、自由にする。

このことは、現存在=人間が「本来的に存在しうること」の証である、とハイデガーは言い加えています(同上)。 

人間が「本来的」であるとは、人間がほんとうに価値のある自由を生きていることだと理解していいでしょう。

本来的な、ほんとうの自由とは、外から与えられるのではなく、みずからの内から湧き出る「良心の呼び声」によって示されるのです。

 

ファウストを救済するのは誰か

良心の存在論的構造がこういうものだと分かれば、エルヴィンの最期の選択が必然的かつ自由な選択であったということもまた理解可能となるでしょう。

エルヴィンの選択が必然的なものだと言えるのは、かれには「捧げた心臓がどうなったか」を知りたがっている死んだ仲間たちが見えてしまうからです(80話)。

死んだ仲間たちの願いが、かれには「良心の呼び声」として聞こえてしまうからです。

同時にエルヴィンが自由な選択をおこなったと言えるのは、かれには死んだ仲間の願いを「良心の呼び声」として聞き取ることができるからです。

それを聞き取ることが可能な存在としてかれが自分自身を作り上げてきたこと、まさにその意味においてかれが自由な存在であることを、この「呼び声」こそが証明しているからです。

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80話「名も無き兵士」

 

エルヴィンは自分を悪魔だと認めていました。

あるいは、みずからを悪魔にすることに徹しました。 

かれは悪魔メフィストフェレスとしての自分自身と契約したファウストだったのです(2.3.b を参照)。

しかしながら、かれはみずからの魂の真実を、内から湧きあがる「良心の呼び声」によって知ったのです。

このことは、あえて悪魔たろうとしてきたエルヴィンの自由の本質が、決して非モラリズムではなく、その根底において人間的な、倫理的な自由であった、ということを証明しています。

 

でも、かれに捨て石にされた新兵たち、その唯一の生存者であるフロックにとっては、やはりエルヴィンが悪魔に見えたのでした。

死を免れたフロックは思い至ります。エルヴィンには「まだ地獄が必要なんじゃないか」と。

そして、自分が「おめおめと生き残っちまった」ことの意味は、巨人に対抗するため、この悪魔を「再び蘇らせる」ことにあるのではないかと(84話)。 

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84話「白夜」

 

でも、エルヴィンは悪魔ではありません。

悪魔としての自分自身と契約した人間だったのです。

だからこそリヴァイは、真に価値のある自由をエルヴィンは最期に選んだのだと気づいたとき、かれを「悪魔」として蘇らせてはならないと考えたのです。

かれにふたたび重荷を背負わせることは、ひきつづき「悪魔」として巨人と闘ってほしいという「人類」の都合を、かれに押しつけることを意味したでしょうから。

それは、悪魔ではなく人間としてのエルヴィンがおこなった最期の選択を、否定することを意味したでしょうから。

そのようなエルヴィンの選択に報いるためには、かれを「休ませて」やる以外になかったのです。

...こいつを許してやってくれないか?

こいつは悪魔になるしかなかった

それを望んだのは俺たちだ...

その上... 一度は地獄から解放されたこいつを...

再び地獄に呼び戻そうとした... お前と同じだ

だがもう... 休ませてやらねぇと... (84話) 

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84話「白夜」

 

こうしてリヴァイは、エルヴィンに「救済」を与えました。

いな、メフィストフェレスでありファウストであったエルヴィンを救済したのは、神でも天使でも、盟友リヴァイでもなく、みずからの内から湧きおこる「良心の呼び声」に応答することを選んだ人間エルヴィン自身であった、というべきでしょう。

この自己救済を完結させるために、リヴァイはエルヴィン自身の代行者を務めたにすぎないのです。

 

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2.4.b 「かけがえのないわたしの死」を生きる (下) ~ マキャベリズム・ロマン主義・実存的自由

 

「上」から読んでください。

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「我々はここで死に 次の生者に意味を託す」

絶対的な死を前にしては、どんな人生も等しく無意味。

そう認めながらも、エルヴィンは叫びます(80話)。

仲間たちの惨たらしい死に意味を与えることができるのは、生者であると。

だから「我々はここで死に 次の生者に意味を託す」のだと。

「それこそ唯一!! この残酷な世界に抗う術なのだ!!」

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80話「名も無き兵士」

 

エルヴィンはここでも、正気のままでは実行できない突撃作戦のため、部下や自分自身を「騙し」ているにすぎないのでしょうか(76話を参照)。

一面ではそうかもしれません。

でも、エルヴィンの言葉はまったくの出まかせではなく、かれが最終的に確信するにいたった、ある真理を言い表してもいると理解すべきでしょう。

すなわち、わたしの生に究極的な意味を与えるためには他者が必要であるという真理を。

 

「誰かの死」を意味づける自由

ハイデガーが論じた死の存在論的意味を手がかりに、考察を進めてみましょう。

わたしの死は、わたしのかけがえなさ(各自性)をわたしに教えてくれます。

わたしの死にざま=生きざまは、他人にその代役を務めさせることができない固有のものです。

でも、かけがえのないわたしが存在することの意味は、ほかでもないわたし自身にとっては、永遠に無でありつづけるでしょう。

現存在=人間は、自己の在りかたをみずから決定する存在なので、その固有の意味は、存在することを終えるまで確定されません。

ところが現存在=人間は、みずからの死にだけは意味を与えられません。死を経験するとき、意味づけをおこなうわたしは、もはや存在しないのですから。

こういう理由で、わたしは、自分の存在意義を自分自身の手で完結させようと望んでも、この願望を絶対に達成できないのです。

「人生なんて無意味」という通俗的な訓言は、存在論的には、こういうことを意味しています。

 

ところが、わたしは自由な存在であり、わたしではない誰かの死を意味づけることができます。

同じように、わたしの死は、自由な存在である誰かにとっては、それに意味を付与することができる「誰かの死」であります。

ならばわたしは、わたし自身の存在意義を完結させる自由をもたないとしても、他人の自由をつうじて、間接的に、みずからの存在意義を一定の方向に完結させることができるかもしれないのです。 

 

他者に証明してもらうしかない、わたしの存在意義

ここまで来れば、エルヴィンの最後の檄がもつ意味も、おのずと明らかになってくるでしょう。

再び引用します。

あの兵士に意味を与えるのは我々だ!!

あの勇敢な死者を!! 哀れな死者を!!

想うことができるのは!! 生者である我々だ!!

我々はここで死に 次の生者に意味を託す!!

それこそ唯一!! この残酷な世界に抗う術なのだ!!

この呼びかけは、次のような意味に解されるべきです。

われわれは運命の奴隷として死ぬのではなく、自由な存在として死なねばならない。

死んだ仲間たちの存在意義を証明することが、そして後に生き残る仲間たちにわれわれの存在意義を証明してもらうことが、われわれには可能なのだから。

死んだ仲間を自由な存在として意味づけることは、そして死にゆくわれわれを自由な存在として意味づけてもらえるよう仲間に希望を託すことは、われわれの自由に委ねられているのだから。

 

こうしてエルヴィンは、もはやかれが独りでは実現できない自由を、他者との共同性において実現するために、あえて死を選んだのです。 

みずからの自由が、みずからの存在意義が、このように他者を媒介して証明されるだろうと信じたからこそ、エルヴィンは「獣」の石つぶてを受ける瞬間まで、勇敢な指揮官のままでありつづけられたのでしょう。

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80話「名も無き兵士」

  

こうして最期にエルヴィンは、ファウスト的渇望をあきらめ、かれの心を捉えて離さなかったロマン主義的エゴイズムから脱しました。

しかし、ファウスト的な渇望と自由を諦めたことで、エルヴィンは自由そのものを放棄したのではなく、絶体絶命の状況のなかで、それでも価値ある自由を選び取ろうとしたのだということは、もはや説明不要でありましょう。

 

この結末は、よく考えてみれば、むしろゲーテファウストが迎えた結末に似ています。

さいしょファウストは、生の究極的充足の瞬間を、自分に対して価値がある瞬間として、かれ自身のどうしようもない渇望がついに満たされる経験として夢見ていました。

しかし最期には、そのエゴイスティックな渇望から解き放たれ、ほんとうに価値がある瞬間が何であるかを、かれは知ったのです。

自分の領土が、人間のたゆまぬ努力によってこそ「自由の土地」となるのだと確信し、そのような自由がついに築き上げられる将来の瞬間を、ファウストは「時よ止まれ、汝はなんと美しい」と称えて息絶えたのです。

こうしてみずからを自由にしたファウスト。かれの魂は、悪魔によって地獄に運び去られるのではなく、神に許され天上へと召されたのでした。

苦難と試練に満ちたエゴイズムの道をつうじて、人間性という終着地に至る、ファウスト的自我の旅。

エルヴィンの人生の旅もまた、結末がより悲劇的であるとはいえ、同じ道を辿ったように見えます。

 

「死に臨む」ことの困難

付言するならば、エルヴィンが部下に命じた突撃作戦も、やぶれかぶれのカミカゼ的特攻として評価されるべきではありません――これに対峙した「獣の巨人」ジークにはそう見えたのでしょうが。

第一に、これはいわゆるスーサイドアタック、自爆攻撃ではありません。

あくまで死の可能性の高いおとり作戦をおこなっているだけで、兵を死なせること自体を攻撃の手段としているわけではないのです。

第二に、従来のエルヴィンの作戦と同様、この作戦もまた、どれほど手段はクレイジーでも、目的達成の合理的な見込みをもって実行されているのです。

現にリヴァイの刃が「獣」に届いたとき、かれは最大のポテンシャルを発揮して「獣」を圧倒しました。

第三に、エルヴィンがみずからの希望を託したのは、互いの顔を知りあっている親密な仲間たちに対してであって、なにやら宗教的あるいはイデオロギー的な大義に対してではありませんでした。

大日本帝国ナチスから現代の宗教的過激主義者たちまで、自己犠牲的手段による戦闘や破壊行為を是とする集団は、疑似宗教的に意味づけられた「民族」や「英霊」、原理主義的に解釈された「神の命令」等々をもちいて、仲間に死を強いるために都合のよい大義を構築してきたのです。

でもエルヴィンが飛ばした檄は、疑似宗教的な大義に類するものでは決してありませんでした。

  

とはいえ、次のことはやはり同時に確認しておくべきでしょう。

みずからの死を価値ある死に高めようする意志は、指揮官エルヴィンにとっては真剣な、嘘偽りないものであったでしょう。

しかし、かれの部下たちにとっては、少なくとも同じ程度の確信をもって支持することのできない、外から与えられた大義でしかなかったと言わねばなりません。

 

最後まで仲間を鼓舞しつづけた、もと憲兵団所属の新兵マルロ。

「獣」の一発目の投石に当たって先頭のエルヴィンが脱落したあと、かれは残った仲間を指揮することで、最期まで立派に役目を果たしていました。

しかし死が迫るその刹那、マルロの心は残酷な現実から逃避し、今頃まだ眠っているであろうヒッチ(実際は、次話で起きてたけど)を羨ましがらずにはいられなかったのです(81話)。 

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81話「約束」

 

死の存在論的意味。

「死に臨む」という在りかただけが、人間を自分自身のかけがえなさにおいて存在させ、ほんとうの自由に導くということ。

しかしながら、どれほど困難で、どれほど惨たらしい経験であることでしょうか。

そのような存在論的意味=自由を、人間が引き受けようとすることは。

 

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2.4.a 「かけがえのないわたしの死」を生きる (上) ~ マキャベリズム・ロマン主義・実存的自由

 

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死の存在論的意味

世界の真実を明らかにするという宿願を、ファウスト的自由を、諦めたエルヴィン。

かれの選択は、状況に迫られて仕方なく選んだ自己放棄でしかないのでしょうか?

それとも、たんなる諦めや自己放棄とは異なる、なにか意味のある自由と呼べるのでしょうか?

 

この問題を考えてみるためには、死の存在論的意味なるものに光を照射した哲学者、ハイデガー(1889-1976)を参照してみるべきでしょう。

かれを実存主義者として紹介すると、ハイデゲリアン(プロまたはアマのハイデガー・ガチ勢)たちに「ハイデガー先生は自分が実存主義者ではないと仰せであろうがー!」とボコボコにされそうで怖いのですが(偏見?)、しかし少なくとも、サルトルの実存的自由の哲学は、ハイデガー存在論がなければ成立していなかったことは確かでしょう。

だから実存的自由の考察を深めるために、ハイデガーは避けてとおれないのです。

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代替可能なわたし

ハイデガーは人間を「現存在 Dasein」と呼びます。 

この世のあらゆる「存在者」(動物、植物、無機物、人工物等々、とにかく存在するすべてのもの)の在りかたと比べて、人間の在りかたは特別です。人間だけが、自分を人間という存在として知っています。

だから人間の場合、自分が自分自身の在りかたをどう理解し、行為においてどう意図しているかを見ずに、それがどういう存在であるかを一義的に決めることはできません。

だから、この特殊な存在者は「現存在/そこにあるもの」としか名づけられないとハイデガーは考えます。

このことを独自に解釈して、人間の「実存は本質に先立つ」とサルトルは宣言したわけです。

 

しかし社会において、現存在=人間の在りかたは、さしあたりは大部分、社会のなかの役割によって決められています。 

「ひと」は、その従事するところのもの「である」というわけです。

この在りかたにおいて、現存在=人間は「世人/ひと das Man」として、すなわち、匿名の誰か、誰でもよい誰か、のっぺらぼうのような誰かとして現れています。

そのような「ひと」の在りかたは「代替可能性」を特徴とします。

この存在についていえば......代替可能性は......相互存在を成立させている構成的契機である。ここでは、ある現存在がほかの現存在「である」ことが可能だ、というよりも、ある程度までは必然的だ。

ハイデガー存在と時間』第47節

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社会における役割としてのわたしは、わたしではない誰かに代わってもらえるでしょう。どんな役割においてであれ、例外なく。

あなたがビヨンセだったとしたら、きっと「わたしに代わる歌手なんているわけないじゃん」って思うでしょう。でも、ビヨンセほど高い歌唱力や高い人気を誇る歌手はいないかもしれませんが、ともかくも歌手は他にいるし、テレビのスターも他にいるわけです。

あなたほどうまくはやれないとしても、あなたの役割をそれなりに務められる代役は、かならず存在します。

つまり、あなたは代替可能な存在なのです

 

代替不可能なわたしの死

でも、たった一つだけ、あなたが他の誰にも代わってもらえない役割があります。

さあ何でしょう?

それは、死ぬことです。

あなたが、ほかでもないあなたとして、終わりを迎えることです。

山田さんの死にざまを、田中さんが代わりに演じることはできないのです。

 

え、誰かのためにあえて命を捨てる人はいるじゃないか、だとすれば死すら代替可能ではないか、ですって?

たとえば『走れメロス』のセリヌンティウスは、暴君に死罪を言い渡された友人メロスが、妹の結婚式を完了するまでの猶予を得るために、かわりに囚われの身になったではありませんか。メロスが裏切るか、時間に遅れれば、セリヌンティウスは殺されていたではありませんか。

でも、親友メロスの身代わりを引き受けたセリヌンティウスの死は、暴君に強いられたメロスの死と同じものではありません。

セリヌンティウスは、もしメロスのかわりに殺されていたとしても、この世に二つとないセリヌンティウスという存在の死を死ぬことしかできなかったのです。

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このことを存在論的に説明すれば、次のようになります。

現存在=人間とは「各自性」をそなえた存在です。

つまり、自分を他の人間と区別する存在なのです。 

たしかに、社会において現存在は、代替可能な存在者になってしまう。

だがそれでも、わたしが死ぬことだけは他の誰にも代わってもらえない。

死だけは「いずれは各自で引き受けねばならない」のです。

ハイデガー先生、どうぞ。

しかしながら、現存在が終末に至ることをなす存在可能性……が問題となる場合には、この代替可能性は全面的に挫折する。だれも相手からその人の死を引き取ることができない。......死ぬことは、それぞれの現存在がいずれは各自で引き受けねばならないことである。

ハイデガー存在と時間』第47節

 

わたしの生きざまとしての死にざま

「ひとが死ぬ」のは当たり前であり、ありふれたこと。

でも「わたしが死ぬ」ことを考えると、誰もが不安になります。

このことについて、ハイデガーは言います。ひとは「わたしの死」を予感することの不安を避けるために、むしろ死をもたらしうる「できごと」を――つまり、ガンの発覚、交通事故、高所に立つこと、COVID-19の流行、等々を――恐れるのだと。

世間は、死に臨む不安を引き受ける勇気がわくのを抑える。......世間はこの不安を逆転して、襲ってくるできごとへの恐れとすりかえるように工夫する。......

ハイデガー存在と時間』第51節

 

死とは、何もできなくなること、つまり存在不可能を意味します。

しかし同時に「わたしの死」は、わたし自身の可能性です。というのも、わたしの死は他人に代わってもらえないのだから。 

それゆえに、わたしが真に自分自身を生きることができる可能性は、ただ次の一事のみに、すなわち、わたしがみずからの死=不可能性に向き合うことにかかっています。

このようなありかたを、ハイデガーは「無に臨む自己」や「死に臨む自由」という用語で表現します。

現存在は、おのれの現前そのものから発するたえまない脅威にむけて自己を開く。......現存在それ自身のひとごとでない孤独化された存在のなかから立ちのぼる......自分自身の脅威を開いたままにしておくことのできる心境は、不安である。この不安のなかで現存在は、おのれの実存の可能的〔潜在的〕な不可能性という無に臨む自己を見出す。

ハイデガー存在と時間』第53節

 

死に臨むことが「自由」だなんて、なんだかアブナイ話にも聞こえます。

生きるのが困難な状況に追い詰められでもしなければ、誰が死を選ぶでしょうか?

死を選ぶことを「自由」と呼ぶことは、倫理的に間違っていないでしょうか?

しかし、ここでハイデガーは、自殺とか自爆とかハラキリとかを奨励しているわけではありません。

現存在=人間の、ある特別な在りかた、生きかたを提示しているのです。

 

人間は、ある日突然、死ぬかもしれないし、逆にガンを宣告され死を意識しながら長生きするかもしれません。

それは「死にかた」「死にざま」の違いと言われるでしょう。

でも裏を返せば、それは「生きかた」「生きざま」でもあります。

ある日突然死ぬまでの生きかたや、差し迫る死を意識しながら一日一日を生きる生きざまです。

同様にして「無に臨む自己」や「死に臨む自由」という術語も、現存在の死にざま=生きざまのことを指すのです。

そして「死に臨む」死にざま=生きざまだけが、わたしという存在のかけがえなさを示してくれることでしょう。

わたしの死だけは、誰にも代役を務められない、わたし自身の役割なのですから。

 

おっと、ただの哲学解説ブログになっちゃってるぞ。

進撃の巨人』にもどりましょう。

 

「死に臨む」ことに意味はあるのか 

さて、巨人と戦う兵士たちは、死にざまと生きざまとは表裏一体であると知ったところで、さあ「死に臨む」決意をもとう、なんて気持ちになれるものでしょうか?

かれらにとって死とは、いつか確実に訪れる死というものですらなく、差し迫った、次の瞬間にまちがいなく自分が経験するであろう死であるというのに。

 

「獣の巨人」に決死の突撃作戦をしかけようとするエルヴィンと新兵たちは、まさにそのような、眼前の確実な死に直面していました(80話)。

たしかに、リヴァイが接近するまでかれらが「獣」の気を引きつけておくことができれば、「獣」は倒せるでしょう。

でも、おとりの兵士は間違いなく死にます。

「死中に活を求める」どころの話ではありません。

作戦が成功しようがしまいが死ぬというなら、自殺行為に等しい命令に従わねばならない義理なんてない。そう感じるのが普通でしょう。

現に、思ったことを正直に言える新米兵士フロックは、率直にそう漏らしたのでした。


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80話「名も無き兵士」

 

これに対してエルヴィンは、そのとおりだとフロックの言い分を肯定します。

人間はどんな風に死のうが無意味。

どんな「夢や希望」をもっていても、死の前では無意味。

そう言い放つエルヴィンは、おそらくかれ自身の実感を言葉に込めているのでしょう。

まったくもって無意味だ

どんなに夢や希望を持っていても

幸福な人生を送ることができたとしても

岩で体を打ち砕かれても 同じだ

人は いずれ死ぬ (80話) 

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80話「名も無き兵士」

 

しかしエルヴィンは続けます。

先に死んでいった調査兵団の仲間たちを思い出せと。

かれらが巨人との戦いで惨たらしく死んでいったことには、何の意味もなかったのか? いや、そうではないのだ、と。

いや違う!! あの兵士に意味を与えるのは我々だ!!

あの勇敢な死者を!! 哀れな死者を!!

想うことができるのは!! 生者である我々だ!!

我々はここで死に 次の生者に意味を託す!!

それこそ唯一!! この残酷な世界に抗う術なのだ!! (80話)  

 

エルヴィンはここでも、正気のままでは実行できない突撃作戦のため、部下や自分自身を「騙し」ているにすぎないのでしょうか。

それとも?

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80話「名も無き兵士」

  

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