進撃の巨人・自由論

半分は哲学の解説ブログ、半分は作品の考察ブログ(最近は3:7くらい)。

目次

0 自由の哲学入門書として読む『進撃の巨人

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1 ニヒリズムと実存的自由

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2 マキャベリズム・ロマン主義・実存的自由

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3 本来の自己を選ぶ自由

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4 わたしの内なる声としての自由

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5 自由になることと人間であること

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結語

 

 

文献一覧

ブログの著者 

 

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自由を望まずにはいられない人間であるために ~ 「進撃の巨人・自由論」結語にかえて (下)

 

unfreiefreiheit-aot.hatenablog.com

 

「理解するのをあきらめない」こと

もう一つの調査兵団スピリットがあります。

これは、とくにその団長に求められる「資質」でした。

すなわち、ハンジさんのいう「理解することをあきらめない姿勢」です(132話)。

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132話「自由の翼

 

たしかに、すくなくとも最後の三代の団長、すなわちエルヴィン、ハンジ、そしてアルミンは、方向性は違えど、みな「理解することをあきらめない」探究心にあふれたリーダーです。

かれらはみな、どんなに困難な状況においてすら、恐怖に対処するために思考を硬直させはしませんでした。

つねに成功したわけではないにせよ、どこかに別の道がないかと、つねに模索することをやめませんでした。

この姿勢、この態度、この意志こそ、調査兵団の「自由の翼」を導くのにふさわしい意志だといえます。

 

大同団結と「壁」を越えることの違い

そのような調査兵団長という大役を引き継いだアルミンは、この「理解することをあきらめない態度」によって、エレンがそう希望を託したとおりに「壁の向こう側」に到達することができました。

まず、始祖ユミルによって引き込まれた「道」の世界で、あきらめずに機転をきかせることにより「始祖の巨人」に逆転勝利する糸口をつかみました(136, 137話)。

そして「始祖」打倒後には、巨人が消滅した世界において、エルディア人が生き残る道を切り拓くことに成功したのです(139話)。

 

ここでは後者、すなわち「始祖」打倒直後、ミュラー長官たちマーレ残兵による生存したエルディア人のみなごろしをアルミンが回避した件を、考察してみます。

これ、さらっと流されているけれど、この作品のテーマにかかわる重要な場面だと筆者は思うのです。

 

まず背景として考えたいのは、このマンガの終盤の展開。

対立していた諸勢力が共通の敵を前に団結するという、少年漫画の王道のような流れ(ラディッツを前にした孫悟空とピッコロみたいな)になったことに、賛否両論ありましたね。

『進撃』らしからぬ、ありがちで安易な展開だという趣旨の反発がよくあったような気がします。

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126話「矜持」

 

まあそうっちゃそうなんですが、でも、そういう表面的なプロットだけで『進撃』の物語構成を評価するのはもったいないんじゃないかな。

この作品では、共通の敵を前に団結することは、あくまできっかけでしかありません。

そのきっかけの先にこそ、登場人物たちが彼我(ひが)のに、隔たりに、あるいは「」にぶちあたる場面が出てきます。

126話以降の流れ、とくにライナーのほしがりジャンとライナーの一件や、コニーたちとイェーガー派との殺し合い、といったできごとのことです。

それを乗り越えていくのがどんなに苦しく辛いことかを、本作はかなりうまく描けているのではないでしょうか。

 

要するに、この作品の最終的な教訓は、大同団結すれば争いは克服できるということではなくて、それがどれほど困難なことであっても「壁の向こう側」をめざすしかないということなのです。

たしかに序盤のエレンは、敵さえ同じなら一丸になれるという発想には「欠伸が出」るとあきれていました(13話を参照)。

しかし終盤の展開は、そういう安易な大同団結は不可能であること、それでもこの不可能を追求するしかない場合があることを、描く試みだったとみるべきでしょう。

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13話「偶像」

 

恐怖という最後の「壁」を越えて

そして、この困難な課題を達成するために必要なのが、調査兵団スピリットのもう一つの表現である「理解することをあきらめない態度」です。

人間どうしの「壁」を越えるためには、理解することをあきらめてはならない

こう要約すると、なんだか誰でもいえそうな凡庸な教訓にみえますね。

でも、これを実践してみせることは、口でいうほど容易ではないのです。

とくに、他者への恐怖不信が善意の人間をすら支配するような状況においては。

 

最終決戦の舞台であるスラトア要塞の司令官ミュラー

かれもまた、愚かしい憎しみの「壁」を乗り越えたいと意志していました(134話)。

レベリオ区から列車で逃れることができた生き残りのエルディア人と遭遇したときには、かれらと協力して事態を打開しようとミュラーは望んだのでした(138話)。

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134話「絶望の淵にて」

 

ところが、そんな善意の人間ミュラー長官をさえも恐怖のとりこにしまう惨劇が、一瞬にして起こります。

エレンの「始祖」から出てきた、うねうねした「有機生物の起源」だかなんだかによって、生き残りのエルディア人がみな巨人にされてしまったのです(138話)。

かれらはマーレ兵には目もくれず、光るうねうねを知性巨人たちから守るために崖を降りていきました。

しかし巨人化の衝撃や、それによる建物の崩壊のせいで、マーレ兵士には負傷者が、ひょっとしたら死者すら出たことでしょう。

 

恐怖のあまりに態度を硬直させたミュラーらマーレ残兵は、巨人から人間に戻ったエルディア人たちに銃を向けます。

憎しみの応酬という愚行の再開を、かれらが望んでいるわけではありません。

「壁」を越えたいという善意を、かれらが忘れてしまったわけでもありません。

ただただ、心の底から怖いのです。

かれらと同じ姿をした眼前の人間たちが、またとつぜん人間を喰う怪物に変身し、襲ってくるかもしれないと、ただただ恐れているのです。

だからこそ、ミュラーは命令でも威嚇でもなく、ひたすらエルディア人たちに懇願したのでしょう。

かれらが巨人ではなく「人」であることを「頼む... 証明してくれ」と。

「今、ここで」それを証明してくれと(139話)。

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139話「あの丘の木に向かって」

 

だれも返答を見つけられない緊張に満ちた沈黙を、アルミンが破ります。

かれは武装を解きながら、臆することなく、穏やかに、かつ堂々と説き起こしました。

こちらがまだ巨人の力を有しているのなら
巨人の力を使って抵抗することでしょう

ですが銃口を向けられた今も無力な人のままであることは
我々が人である何よりの証明です

その言葉に反応し、警戒を解きはじめるミュラー

かれの「君は...?」という問いかけに応えて、アルミンは高らかに名乗り出ました。

自分こそ、パラディ島出身でありながら「進撃の巨人」エレン・イェーガーを殺した者であると。

さりげなくアニをかばう右腕が、かわいいアルミンからイケメン・アルミンへの進化を象徴しています。

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139話「あの丘の木に向かって」

 

この説得で、エルディア人がもう巨人化の能力をもたないことが証明できているのかどうか、よく考えてみれば微妙です。

当人の意図に関係なく、外的要因(光るうねうねとかジークの「叫び」とか)によって、エルディア人たちはとつぜん巨人に変身してしまうことだってあるわけですから。

 

でもあの場面では、厳密な論理性は問題ではなかったのです。

むしろ、ミュラーたちマーレ残兵が囚われている不安と警戒心を解くことが、なによりも重要だったのです。

恐怖と不信こそが最後まで人間たちを隔てる「壁」であるということを、この場面でアルミンは見抜き、理解していたのでしょう。

だからかれは説得の内容だけではなく、その語り口、身振り、そして自分が相手と同じ立場にいると分かりやすく示したことをもって、ミュラーたちの恐怖を和らげることに成功したのです。

つまり、武器を捨て、両腕を開き、警戒心をみせず、穏やかに、かつ堂々と語ることによって。

そして、自分はパラディ島の側でありながら「地鳴らし」阻止を成し遂げたのだと、つまり自分はミュラーたちの側にいるのだと諭すことによって。

 

「始祖」打倒直後、エレンと「会った」記憶を「思い出した」アルミンは、そのおかげで、次になすべきことをはっきりと理解していました。

だからこそ、こうしてアルミンは堂々と「英雄」を演じ、ミュラーたちの警戒を解くことに成功したのです。

それは、あえて悪魔の役を引き受けた親友に報いるためでもあったはず。

 

そして、きっとこのとき、アルミンは悟ったことでしょう。

ミュラーとマーレ残兵に銃撃を思いとどまらせたものは、恐怖にまさる一つの欲求であったのだと。

恐怖という最後の「壁」の「向こう側」に人間を導いてくれるのは、他者を知りたいという欲求にちがいないのだと。

この欲求を、アルミンの言葉とふるまいは、ミュラーたちの心に呼び起こすことができたのです。

 

役割をまっとうした調査兵団

この場面で一番エモいと筆者が感じるのは、アルミンが立体起動装置を外したシーン。

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139話「あの丘の木に向かって」

 

その直前には、ミカサも去り際に立体起動装置を捨てましたね。

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139話「あの丘の木に向かって」

 

このシーンに、筆者はしんみりと感じ入ってしまいました。

ああ、ついに調査兵団は戦いを終えることができたんだなって。

巨人が消滅しただけでなく、調査兵団がついに「理解できないものを理解しにいく」任務を完了したから、もう立体起動装置は必要なくなったんだなって。

だから、謎だらけの怪物と「残酷な世界」に生身の人間が立ち向かう物語は、もうほんとうに終わりなんだなって。

 

見えない「壁」でみずからを囲う島

しかし調査兵団の最後のリーダーは、巨人との戦いのかわりに、世界の命運にかかわる新たな使命を背負うことになりました。

巨人なき世界に残る「壁」を乗り越えることです。

 

三年後。

かれらの故郷パラディ島には、あの失われた三重の壁のかわりに、見えない「壁」がそびえ立っています。

世界への恐怖と不信という、かたちはないのに、かつての壁よりも高くて堅牢かもしれない「壁」です。

 

この新たな障壁に囲われた島で、多くの人々は、憎むこと、戦うことにのみ希望を見出している様子。

ある兵士など、祖国の自由という崇高な大義に、感極まって涙すら流しています。

でもその背後には、いまも変わらず脱力系キャラを貫いている、むかし見た誰かさんも。

自分だけは見失うなと教官に戒められた元新兵の胸には、どんな思いが去来していることでしょうか。

軍事パレードに湧く大通りの脇には、人だかりを横目にどこかへと歩いていく、見たことのある一家族の姿が。

かれらの向かう先であろう港では、島の女王が、国内外の要人を率いて、海からやってくる平和の使者を待っています。

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139話「あの丘の木に向かって」

 

この島は、自由を求めて、恐怖からの解放を求めて、拳を高く掲げます。

恐怖は「壁」であるとともに、人を閉じ込める「檻」でもあるのでしょう。

だとすれば、恐怖の対象が理解可能なものになったとき、人は恐怖から自由になれるのでしょう。

でもそのためには、恐怖に囚われた人たちの心に、理解しようとする意欲が生み出されねばなりません。

 

どうやら、島の全員が恐怖のとりこになっているわけではなさそうです。

そうだとすれば、恐怖という「壁=檻」を乗り越えられる可能性は、この島にもきっとあるのでしょう。

 

「自由を望まずにはいられない」人間であるために

実存の哲学者サルトルはいいました。

人間は自由でありたいと望むとき、他人の自由をも望まずにはいられなくなると。

それは、自分の自由を条件づけているのは他人の自由であるということをも、同時に人間は理解するからなのだと。

われわれは自由を欲することによって、自分の自由がまったく他人のそれに依拠していることを、他人の自由が自分のそれに依拠していることを発見する。......状況への参加が行われるやいなや、自分の自由と同時に他人の自由を望まずにはいられなくなる。

サルトル実存主義とはヒューマニズムである」

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でも実際問題として、人間がいつでも他人の自由を尊重するとはいえません。

もしそれが正しいとしたら、どうして戦争が、暴力が、抑圧が、現実の世界からなくならないのでしょうか。

不信と恐怖という「壁」によって、人間は理解できないものから自分たちを隔てようとします。

この不信、この恐怖は、やがて偏見や侮りへと発展することでしょう。

これこそ、文化的、宗教的、人種的、階級的などの、さまざまな差別が社会に根を下ろす理由なのです。

性差別さえも、理解できないものの隔離――「戦う性」が「産む性」に対してとった態度としてボーヴォワールが想定するもの(4.4.a を参照)――に由来するのかもしれません。

こうして人間は、みずからを壁で囲うことを自由だと勘違いするのです。

 

それでも人間は、次のような存在でもあります。

人は、自分を欠如として発見することができる存在です。

みずからの無知を知り、この無知を超え出たいという欲求をもつことができる存在です。

つまり、人間存在とは「自己超出」(サルトル)なのです。

 

人間が理解できないものを恐れる存在であることも、また事実。

それを人間が偏見や憎しみや争いに発展させがちなのも、また事実。

 

しかしながら人間はまた、そのような恐れと憎しみを克服する可能性でも在るのです。

ほかならぬ自分自身を、人間は超え出るべき欠如として発見することができます。

そのとき、人はきっと、理解できなかったものを理解したいと欲するようになるでしょう。

人はきっと「壁の向こう側」が見たくなるでしょう。

人はきっと「自由を望まずにはいられなくなる」でしょう。

 

パラディ島に向かう船で、和平会談の成否を案じる使者たち。

しかし、使者の一人である最後の調査兵団長は知っています。

人間の憎しみとは、究極的には理解できないものへの恐怖だということを。

しかしながら、人間は恐怖にまさる他者への欲求をも抱きうる存在だということを。

 

だから、かれは仲間にいうのです。

人間の「争いはなくならないよ」と。

でも、それにもかかわらず、きっと「みんな知りたくなるはずだ」と。

かれら自身が憎しみという「壁」を乗り越え、他者とともに自分自身をも自由にすることができた、その「物語」を。

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139話「あの丘の木に向かって」

 

「壁」を作り出すのが人間ならば、その「壁」の向こう側に行きたくなるのも人間。

恐怖と憎しみにより反目するだけでなく、欲求と「物語」をつうじて結びつくことができるのも人間。

だとすれば、もし人類のあいだに「争いはなくならない」としても、それでも希望をもつべき理由が、それでも自由をめざすべき理由が、人間にはあるのです。

 

それゆえに読者は、フィクション作品のことではあっても、きっと願わずにはいられないでしょう。

ついに「壁の向こう側」を見ることができた若者たちの「物語」が、さらに多くの人々をして「自由を望まずにはいられな」くさせることを。

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139話「あの丘の木に向かって」

 

壁なき世界の幸せな子供たち

『進撃』最終巻の単行本カバーには、夕陽の射す丘でかけっこするエレンたち幼馴染トリオと、かれらに加わろうと丘を登る104期の仲間たちが描かれました。

みな、まだ罪を知らない子供たちの姿です。

丘の向こうに広がるのは、壁のない世界の光景。

憎しみと争いを象徴する壁など、まるで最初から築かれていなかったかのような、美しい世界の光景。

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この心をうつ光景こそ、自由とは何かという問いに、この『進撃の巨人』という物語が最終的に出した答えではないでしょうか。

そう筆者には思えてなりません。

 

かれらがたたかったのは、大切な人であれ、名も知らぬ誰かであれ、他者のためでもあったでしょう。

でも同時にそれは、ほかのだれでもない、みずからの幸福な子供時代のためであったのです。

自分たちには許されなかった、幸せな幼少期のため。

でもほんとうは、幼い自分にも束の間、訪れたことがあるはずの、生を満たす甘美な瞬間のため。

そして物語の結末において、かれらは幸福な子供でありえた自分自身を救い出すことができたのです。

 

かれらの何人かは、たしかに死にました。

他の者たちも、大切な人を失い、罪に汚れたことで、子供のような無邪気な幸福からは永遠に追放されてしまったのかもしれません。

 

それでもかれらは「壁の向こう側」にたどりつくことができました。

かれらの行為の最終的な結果だけではなく、それに到達するまでの、かれらの意志、そしてかれらの罪さえもが、この結果に貢献したのです――エレンが犯した悪魔のごとき所業でさえも。

そのことによってかれらは、すべての人であり、かつ誰でもない「人間」の解放をなしとげました。

きっとそれは、幸福で自由な子供であったかもしれない自分を取り戻すことでもあったでしょう。

 

幸せな子供時代が、どうか「自由に値するようになる」という意志の源でありつづけますように。

幸せな子供時代が、どうか「自由を望まずにはいられない」という欲求の源でありつづけますように。

かれらにとっても、わたしにとっても。

 

(「進撃の巨人・自由論」おわり)

 

 

自由に値する人間であるために ~ 「進撃の巨人・自由論」結語にかえて (上)

 

マンガ『進撃の巨人』を自由の哲学で読み解いてみようという、誰が得するのかあまり分からない趣旨を、このブログは貫いてきました。

そんな自己満ブログですが、おかげさまで、思ったより多くの方に読んでもらえたようです。

読んでもらえること、そして反応がいただけることが、月並みないいかたですが、心の励みになりました。深謝!

 

しかし、いい加減ネタ切れです。もう書けません。

燃え尽きました、真っ白に。

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アニメ最終クールが始まる前には終わっているかなと思っていたのですが、だらだら続いてしまいました。

こうなったら、アニメ最終回といっしょに終わりかな? と思っていたところ、こんどはアニメのほうが最終回まで進まず、次期におあずけ決定。

こうして本ブログは、けっきょくアニメ派には読まれにくいネタバレサイトのまま終わることになった次第です。(笑)

アニメが全話おわったら、ぜひまた読んでね!

 

『進撃』における自由とは?(おさらい)

けっきょく『進撃』の自由とは、哲学的にみて、どういう自由なのか?

「残酷な世界」に、生の無意味さに、ニヒリズムに立ち向かう自由だと、まずはいえるでしょう。

 

では、どんな種類の自由をもって「残酷な世界」を克服するのか?

それは登場人物や場面ごとに、さまざまでした。

 

無意味な世界に意味を作り出すのはわたしだと、絶望に抗う自由な意志をもって状況と対決する者たちがいました。

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決断の繰り返しを恐れず、無意味を無意味のまま受け入れ、不安が人間の避けがたい条件であることを直視する、実存的自由の極致とよぶべき精神がありました。

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大事なものを捨ててでも、さらには人類すべてを一世一代の大博打に巻き込んででも、崇高な目的を達成することを自由だと信じる者たちもいました。

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自分への言い訳をやめて、状況が浮かび上がらせる「本来のわたし」をあえて選び取ることにより、若き魂たちはみずからを解放しました。

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自分自身にすら不可解な「良心」の声に、他者と共鳴せずにはいられない内的感性に導かれた者たちもまた、みずからの魂を解き放つことができたのでした。

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そして「残酷な世界」に翻弄される奴隷たちですら、みずからを人間として証明しようと意志したとき、すでに自由な存在であったのです。

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かれらがそれぞれに表現してみせた、さまざまな哲学的自由は、とうてい一言では要約できません。

だから本ブログの読者には、各自の推しキャラの生きざまに、「残酷な世界」に立ち向かう自由の哲学を見出してもらえればと望みます。

でも、これで結論を済ませてしまうのは、ちょっと物足りません。

そのかわりに、本作品において最後まで「自由の翼」の理想を追い求めつづけた集団の自由を、すなわち、調査兵団が体現した自由を、結びとして考察してみましょう。

 

理念としての調査兵団・再論

人類のために「心臓を捧げ」ることを誓う調査兵団

かれらの誓いの意味は、同じ宣誓をおこなう他の兵団とは、じつは異なります。

 

誇張なしに命がけの任務を引き受け、壁外調査のたびに多数が命を落としてきた調査兵団

しかしかれらは、王政との戦いより前までは、壁内人類にはほとんど感謝されてきませんでした。

それでも調査兵団は、現実の壁内人類のためだけに命をかけてきたのでしょうか。

かれらのいう「人類」とは、むしろ普遍的な人類を意味していたはず。

すべての人であると同時に特定の誰でもない人類を、意味していたはず。

そして、この「人類」は、お仕着せの大義ではなく、個々の兵士が、みずからの心に問い、みずから選び取った理念であったはず。

 

だから、終盤で団長ハンジさんが、エレンの人類みなごろしを止めなければ命を捧げた仲間に顔向けできないと考えたとき、かのじょは調査兵団の理念にまったく忠実だったのです。

壁外に人類がいるとは知らずに死んだ仲間たちもまた、人類を救うべきと考えるだろうと述べたとき、ハンジさんは仲間たちと共有してきた理念を確認したにすぎないのです。

 

※ 併せ読みがオススメ

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もっといえば、調査兵団は、現時点でそうあるとおりの人類ではなく、いまよりも善いいまよりも価値のある生を実現できるであろう、未来の「人類」のために命を捧げてきたのでした。

だから、より善いもののために命を散らした仲間、この「残酷な世界」に意味を残してくれた仲間は、みな調査兵団同じ理念を共有する仲間なのです。

ハンジさんの言葉に触発されて、ジャンが見出した同期の訓練兵マルコも、ミカサが見出した駐屯兵団精鋭イアン(アニメでは削られてたっぽくて残念)も、かれらにとっては「調査兵団」なのです(127話)。

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127話「終末の夜」

 

「地鳴らし」発動後の混乱した状況のなかで自分を見失ったコニーとアルミンも、調査兵団の一員としての矜持を忘れ去ることはありませんでした。

みずからの不甲斐なさを見つめなおしたあと、かれらは決意します。

「困っている人を助けにいこう」と(126話)。

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126話「矜持」

 

その一方で(組織崩壊前の)調査兵団からも、フロックをはじめ「イェーガー派」が多く出たことは事実。

かれらは「悪魔」としてのエレンを指導者と仰ぎ、島の安全と自由だけを至上目的としました。

祖国を守るという点において、かれらには大義があります。しかしかれらは、外部から襲ってくる脅威に対抗するために、力と恐怖によって内部を統合しようとする、一種のファシズムに流れてしまいました。

 

※ 併せ読みがオススメ

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かれら「イェーガー派」は、島内から巨人が一掃され、島外の人類との対立が明らかとなった局面で、命をかけることを選択した者たちなのでしょう。

――いまよりも善い未来の「人類」のためにではなく、いまここに存在するとおりのパラディ島の人類のために。

だから、ハンジさんたちと「イェーガー派」の世代とは、同じ組織に属していても、忠誠を捧げる理念が根本的に異なっていたのです。

 

「幸福に値する」人間であるために

上にみた調査兵団の精神、調査兵団の理想には、カントの自由観=道徳観に通ずるものがあります。

 

自由観=道徳観というのは、カントにとって自由と道徳的であることは同義だからです。

かれのいう自由=自律とは、自然的傾向(欲望、情念、気分)に支配されるのではなく、みずからの意志に服従することです。

そのとき、意志決定の根拠は、自分の利益ではなく(それでは欲望に振り回されているのと同じだから)、みずからが正しいと認める道徳法則でなければなりません。

こうして、首尾一貫した道徳規則をみずからに課す者だけが、つまり自己立法する者だけが、自由になれるのです。

 

このことについて、カントは次のようにも述べています。

すなわち、道徳とは幸福になるための教えではなく、幸福に値する者になるための教えなのだと。

最高善の概念のなかには、わたし自身の幸福もまた含まれているにせよ、しかし最高善をめざす意志を決定する根拠は、幸福ではなくて道徳法則である。

だから道徳論とは「どうすれば幸福になれるか」ではなくて「どうして幸福を受けるに値するようになるべきか」についての教えなのである。

カント『実践理性批判

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ここでカントがいいたいのは、欲望を押し殺せとか、私的な幸福を忘れろとか、そういうことではありません。

ただし、自分の欲望にそのまま従うだけでは、人間にふさわしい自由な存在とはいえなくなってしまう。

だから、自己に普遍的な法を与え、この法によって自己を律しながら、自分自身の幸福をも含んだ普遍的な幸福を追求すべきである。

そうすることで人は「幸福を受けるに値する」存在となれるだろう。

そうカントは説いたのです。

 

そしてカントによれば、道徳的であることと自由であることは同義です。

だとすれば、カントとともに、次のようにもいえるでしょう。

自由な人間とは、ただ幸福になろうとする人間ではなく、幸福に値する存在になろうとする人間のことであると。

みずからに誓いを立て、この誓いを実現することによって普遍的な幸福を達成しようと努める者こそが、自由に値する人間なのであると。

 

これは、まさしく「人類」への忠誠を誓い、人類の解放という目的をとことん貫いた、調査兵団に当てはまる自由の定式ではないでしょうか?

かれら調査兵団は、カント的意味において、幸福に値する人間であり、そして自由に値する人間であったのです。

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139話「あの丘の木に向かって」

 

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5.9.c 鳥になった少年 (下) 〜 自由になることと人間であること

 

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エレンは「鳥の自由」をファルコに託した?

自由を奪う世界=自由を奪われた自分自身を超え出るため、エレンは身も心も悪魔になりおおせてしまったのか?

そうではないということは、原作を完読した方々には明らかでしょう。

人類大虐殺という地獄の先に、エレンは「巨人のいない世界」という希望を見ていたのでした。

 

この点をふまえると、前記事でみたエレンの「悪魔への自己超出」についても、違った見方ができそうです。

すなわち、エレンもまた悪魔ではなく、ほんとうは鳥になりたかったのではないでしょうか?

もし状況が許すなら、かれもまた鳥の自由が欲しかったのではないでしょうか?

そして、この自分が達成できない自由を、エレンはファルコに託したのではないでしょうか?

 

飛ぶことを試そうとしたとき、ファルコはいいました。

ジークの脊髄液で巨人になったためか、自分には「顎」だけではなく「獣」の特質もまた発現しているのかもしれないと。

さらにはその影響か、巨人になってからジークの記憶を夢にみるようになったと。

そして「一番よく見る記憶」は「雲の上を飛んでいた記憶」であり、しかもそれが自分にもできるように思えるのだと(133話)。

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133話「罪人達」

 

ここからは筆者の推測です。

これはたしかに過去の「獣」保有者の記憶で、それがジーク経由でファルコにも伝達されたと見るのが妥当でしょう。

でも、ファルコがことさらにこの記憶を想起するようになったのは、たんなる偶然ではないのではないでしょうか?

つまり、エレンが「始祖」の力でもって、ファルコがこの記憶を見るように働きかけているからではないでしょうか?

 

そう推測する根拠を説明するために、いままでは禁じ手にしていましたが、アニメでの改変を考慮に入れます。

アニメのファイナルシーズン第1話(第60話)の冒頭で、倒れていたファルコが救出されたあと、なかば意識もうろうとしたまま、とんでもないことを言い放ちました。

「さっきまで剣持って飛び回ってなかったか?」

「ギューンッ! てさ 巨人を…」

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周知のとおり、これは原作91話には片りんもなかったセリフです。

この物議をかもす改変は、作者・諌山の意向ではないかとか(これは同意)、ファルコがエレンの「進撃」を継承することの伏線ではないかとか(これは原作未読の方の見解でしょうけど)、さまざまな推測を呼んでいますね。

 

実際のところ、これが未来のエレンのしわざであることは多分まちがいないでしょう。というか、それ以外には説明がつきません(この時点でファルコは巨人保有者ではないので)。

「始祖」にはすべてのエルディア人の記憶や身体構造に、しかも時をこえて干渉できる力があります。

この力を掌握したあと、たとえばエレンは、ウォールマリアを破った直後のベルトルトに近づいた、ダイナの巨人を操ったりしました(139話)。

 

この力を使って、エレンは近い過去のファルコに、近い将来のできごと(レベリオ襲撃あたり?)をかいま見せたのではないでしょうか?

それと同じように、エレンは巨人を継承したあとのファルコに「お前は鳥になれるぞー、空を飛べるんだぞー」と毒電波を飛ばした過去の「獣」の記憶を想起させたのではないでしょうか?

 

なんなら、エレンは「始祖」の力をもってすれば、ファルコが同時に受け継いだ「獣」の特質にはたらきかけて、鳥の能力を意図的に発現させることすらできたのでは?

そう考えたほうが、ジークの脊髄液の影響だけでファルコが鳥になった理由を説明するよりは、強引さが少ないかもしれません。

 

そして、もしこの推測が当たっているとすれば、エレンは自分のめざす「巨人のいない世界」という結果を得るために、調査兵団の仲間たちだけでなく、ファルコをも必要としていたのではないでしょうか。

つまり、104期の仲間に自分と戦うよう仕向けたのと同様に(133話)、エレンはファルコをも自分との戦いへと仕向けた、とは考えられないでしょうか。

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138話「長い夢」

 

ファルコに自己投影するエレン?

エレンがファルコに目をかけたのは、たんに自分の計画に都合のいい役を演じてくれると期待したからでは? と思う読者もいるかもしれません(レベリオ区から仲間に手紙を送ってもらったこと、最終決戦で鳥の巨人になってミカサたちを助けたこと)。

でも筆者は、それ以上のものをエレンはファルコに託したのではないかと考えます。

 

ところで、ガビはエレンに似ていると、よく指摘されていました(作中ではアルミンにも)。

でもよく考えると、二人が似ているのって、敵への憎しみが強いことと、殺るか殺られるか的なメンタリティくらいですよね。

しかもガビにはマーレのイデオロギー教育が大きく影響しているはずですが、エレンの場合は、巨人に母親が喰い殺される前から、殺るか殺られるかの精神を素で発揮していました(6話)。

だからまあ、いうほどガビはエレンに似ていないのです。

 

むしろエレンは、ファルコにもう一人の自分を見出したはず。

え、二人のキャラぜんぜん違うじゃん? エレンはヤバい奴だけどファルコは聖人じゃん? 

いやいや、二人の性格の違いにもかかわらず、エレンがファルコに自己投影できる点が二つあるのです。

 

第一に、好きな女の子が自分より強くて劣等感を抱えていること。

はじめてファルコと腰をすえて会話したとき、かれのいう「戦士候補生」が意中の女の子であることを、すぐにエレンは察知しました(97話)。

まったくエレンも成長したものだ。かつての鈍感野郎(マルロと同列)だったころのかれでは、考えられなかったことですね。

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97話「手から手へ」

 

このとき、エレンは自分とミカサとの関係を連想したはず。

すでにエレンは、ミカサにかばわれる自分にコンプレックスをもつ段階は乗り越えているので、むかしの自分をファルコに投影した、といったところでしょう。

その一方で、エレンは自分がめざす未来に到達するため、ミカサを突き放そうと決意していました。

自分とかのじょの恋は叶わないものと、すでに諦めていたのです。

(しかも島を出るまえに勢いでヒストリアとヤッちゃって、ちょっと自己嫌悪だったかもしれない、第4章補論を参照。)

 

そんなエレンは、自分が叶えられない恋物語を、純真な少年ファルコがかわりに叶えてくれればと願ったかもしれません。

それに、その少年の想い人が「サシャを殺したガキ」になることは、エレンは予知していなかったようですし(105話を参照)。

 

そして第二に、ファルコが「鳥の自由」を欲する少年であること。

筆者が鳥の自由と呼んできたのは、自由であるがゆえに争いあう、そんな愚かしい人間性そのものからの解放です。

 

ファルコ自身は、そういう自由への切望を明確に意識していたわけではありませんし、エレンもまた、ファルコについて少しばかりのことを知ったにすぎません。

ただし、次のことをエレンは予知していたはずです。

すなわち、最終決戦まで生き残ったファルコが、鳥の姿になって、ミカサたちを助けるであろうことを。

 

いま自分のことばに感化された、眼前の純真な少年こそ、自分が「地獄の先」に見ている「希望」の鍵である。

それを分かっていたエレンが、この大空に羽ばたくであろう少年について、とくになにも感じ取らなかったとは考えられません。

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97話「手から手へ」

 

悪魔の自由を行使しようと決意しているエレンは、ひょっとしたらこの少年に、自分が達成できない自由の象徴を見出したのではないでしょうか。

すなわち、人間を縛りつける大地から解放され、人間どうしを隔てる壁を自由に飛び越える、そんな鳥の自由を。

というのも、エレンにとってのファルコは、かれ自身には叶わない希望の担い手であり、かれ自身に許されない自由の体現者であるからです。

その初々しい恋を、ファルコが成就すること。

その精神にふさわしい鳥の姿になって、ファルコが憎しみという壁を飛び越えていくこと。

それはエレンにとって、かれ自身には実現不可能な自己解放の代償として映ったのではないでしょうか。

 

「籠のなかの鳥」としてのエレン

エレンのめざしたものが本質的には鳥の自由であったということは、実際に、作中で何度も、シンボリックに描き出されています。

かれが「始祖」の力を掌握するあたりから、何度も意味ありげに挿入される、大空をはばたく鳥のシーンに注目してください。

 

まず、シガンシナ区でエレンとジークが接触をはたす瞬間。

人間どうしが殺し合い、あるいは巨人が兵士たちを喰っている地上を、壁のはるか上空から見下ろす鳥の群れ(120話)。

この鳥たちはまさしく、おたがいを分け隔て、滅ぼしあうためにしか自由を行使できないという、人間の宿命的な愚かしさからの解放を象徴しています――そしておそらく、エレンが真に欲しているのはそのような解放だということをも。

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120話「刹那」

 

もっと分かりやすくエレンの願望を代理表象しているのは、エレンと超大型巨人の群れを先導するかのように、世界連合艦隊を見下ろしつつ洋上をはばたく、一羽の白い鳥(130話)。

先のシーンとは対照的に、ここでは一羽だけで描かれている鳥は、エレンの自由への願望を、その一身に表していると見るべきでしょう

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130話「人類の夜明け」

 

そして、船上でアニと話すアルミンを見つめる、一羽のかもめ(131話)。

この場面の直前では、エレンはアルミンに「会いに」来ていました(139話を参照)。

そのことをふまえると、このかもめは、アルミンたちの様子を窺おうとしているエレン自身の眼の代わりではないのか、とさえ思えてしまいます(設定上はありえないですが)。

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131話「地鳴らし」

 

ミカサの意識に干渉したときにも、エレンが逢瀬を終わらせようとする瞬間、鳥がかれらの頭上を過ぎていきました(138話)。

この鳥は、エレンがミカサに告げた別れと、かのじょに自由になってほしいという願いとの表現といったところでしょうか。

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138話「長い夢」

 

そして、いちばん大事なことを忘れてはいけません。

巨人にすべてを奪われる前の少年時代、すでにエレンは「籠のなかの鳥」だったのです。

かれの精神は、みずからを閉じ込めるものを憎みつつ、大空にはばたきたいと檻のなかでもがく翼であったのです。

オレはずっと鳥籠の中で暮らしていたんだって気付いたんだ

広い世界の小さな籠で わけのわかんねぇ奴らから自由を奪われてる

それがわかった時 許せないと思った(73話)

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73話「はじまりの街

 

だとすればエレンは、人類世界を滅ぼす「地鳴らし」の発動によって、ついに「鳥籠」から解き放たれたというべきでしょう。

かれは悪魔の自由をもって、籠から放たれた鳥になろうとしたのです。

 

エレンは欲していた自由を得られたのか?

でも、そうすることによってエレンは、求めていた自由を味わうことができたのでしょうか?

「地鳴らし」が作り出す地獄絵図を見下ろしながら、かれは自由を胸いっぱいに感じているように見えます。

ただし、幼児退行しながら。

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131話「地鳴らし」

 

つまりエレンは、無知な少年に戻ることでしか、自由を実感できなかったのです。

世界を、人間たちを踏みつぶしながら、ずっと渇望してきた自由を呼吸することは、成長した姿のままでは到底、不可能だったのです。

 

世界そのものを否定する自由を、エレンは欲していました。

それにもかかわらず、もはや自分はそのような自由に満足できる無邪気な悪魔ではないことにも、かれは同時に気づいていたのです。

こうしてエレンの精神は、耐えがたい矛盾に引き裂かれています。

 

「この世に生まれてきてしまった」者たちの自由

どうしてわたしは、これほどにも狂おしく自由に恋焦がれるのか?

それは「オレが!! この世に生まれたからだ!!」(14話)

――これこそが少年エレンの原点をなす確信でありました。

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14話「原初的欲求」

 

この信念は、わたしの内なる声、抑えきれない渇望にこそ、わたしの生の真理があるのだと告げます。

この真理は、わたしにとって何よりも価値があるもの。

そのために、わたしの命すら賭けるに値するもの。

またしたがって、わたしが世界のすべてに逆らってでも勝ち取るべきもの。

 

しかし、わたしには何よりも輝いてみえるこの自由は、ほんとうに価値のある自由でしょうか?

わたしがそう信じるものが、真に尊い自由であるかどうかを、何によって確かめればいいのでしょうか?

結局のところ、それは他の実存をつうじてしかを知ることができません。

望むと望まざるとにかかわらず、同じ「世界」または「状況」をわたしと共有している、他の実存たちをつうじてしか。

望むと望まざるとにかかわらず、同じ「わたしは人間である」という条件を存在する、他の実存たちをつうじてしか。

 

このこと、すなわち、わたしの自由の価値を確証してくれるのは他者の自由でしかないことは、サルトルが論じるように、実存としての人間にとって、自由の刑に処された人間にとって、逃れられない条件なのです。

われわれは自由を欲することによって、自分の自由がまったく他人のそれに依拠していることを、他人の自由が自分のそれに依拠していることを発見する。......状況への参加〔アンガジュマン engagement〕が行われるやいなや、自分の自由と同時に他人の自由を望まないではいられなくなる。

サルトル実存主義とはヒューマニズムである」

 

向こう見ずな少年は、無知であるだけ、わたしの自由にこそ何よりも価値があると信じていられます。

しかし、成熟した人間精神は、他者がわたしと同じ自由な実存であることに、そして、わたしの自由の価値は他の実存をつうじてしか確認しえないということに、目を背けてはいられません。

 

「地鳴らし」実行を決意したエレンは、まさにそのような成熟した精神の域に達しています。

他の実存が、しかも故郷を滅ぼそうとする敵の主導者にほかならないヴィリー・タイバーが、生存と自由を欲するのは「私がこの世に生まれてきてしまったから」と述べたとき、エレンの心はそれに共鳴せずにはいられませんでした(100話)。

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100話「宣戦布告」

 

わたしは「この世に生まれてきてしまった」。つまり偶然的な存在でしかない。

このことから、次のような結論を引き出すことは可能です。

不条理な世界がわたしに強いる滅亡を、受け入れるべき必然性など存在しない。

したがって、わたしを否定する人類世界を逆に否定することが、人間で満たされた地表を無人の荒野に変えてしまうことが、わたしの自由の実現である。

こうしてエレンは、悪魔の自由を実行に移しました。

 

しかし、わたしが偶然的存在であることを突き詰めれば、世界を滅ぼしてしまうことで自由になれるという信念が、どれほど誤っているかは明白となります。

わたしが「わたし」であるのは偶然の結果でしかないとすれば、わたしはこの人であったかもしれないし、あの人として生まれていたかもしれません。

だとすれば、わたしが世界を滅ぼすことは、この人であったかもしれないわたし自身や、あの人であったかもしれないわたし自身を、滅ぼすことに等しいのです。

それに、この愚かしい自由は、わたしが否定したいと欲する不条理な世界を超え出る自由であるどころか、この世界におけるありふれた自由と同種でしかないのです。

つまり、わたしは悪魔の自由をもって人類世界の愚かしさから解放されるどころか、この愚かさをくりかえすだけに終わるのです。

 

だから、悪魔の自由を手段とするかぎり、ついぞエレンは人間の愚かしさから解放されませんでした。

しかし同時にかれは「地獄の先」の「希望」をめざしていました。

すなわち、ファルコの翼によって運ばれたミカサが自分を断つことによって、世界が巨人から解き放たれるという未来を。

この「希望」をめざしたかぎりにおいて、エレンは人間の愚かしさから自由になろうと欲し、実際にそう企てたといえるのです。

鳥の自由をもって「壁の向こう側」に到達し、そこでほんとうに人間らしい自由を呼吸することを、エレンは欲していたといえるです。

 

とはいえ、自分自身では「壁の向こう側」の空気を吸えないであろうことを、エレンは知っていました。

それでもかれは、自分の代わりに親友アルミンがそこに到達してくれるだろうと信じたのです(139話)。

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139話「あの丘の木に向かって」

 

人に戻った少年と鳥になった少年

いわばエレンは、かれ自身が実現することは許されなかった鳥の自由を、二人の幼馴染と、そしてファルコとをつうじて達成したのでした。

または次のようにもいえるでしょう。

すなわち、自分自身が断たれることをもって、ようやくエレンはみずからを「鳥籠」から、あるいは人間の愚かしさから、解き放ちえたのだと。

 

その瞬間、エレンの願望の投影である少年の翼は、崩れ去っていきました。

少年は、ほかの巨人たちとともに、人間に戻ることができたのです。

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139話「あの丘の木に向かって」

 

人間に戻った少年は、悪魔になった少年が諦めた恋を、かわりに別の少女と成就させることができそうです。

それは悪魔になった少年の魂を慰めることでしょう。

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139話「あの丘の木に向かって」

 

そして、鳥になりたかったけど悪魔になるしかなかった少年は、その身を仲間たちに滅ぼされたあと、ほんとうに鳥になったのです。

 

「壁の向こう側」をめざして故郷との和平交渉に向かう友人を、鳥になった少年は、一枚の羽根で励ましました。

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139話「あの丘の木に向かって」

 

そして少年は、もはや傍にいてあげることのできない最愛の女性に、マフラーを巻いてあげます。

狂おしく自由を求めた少年は、こうしてついに鳥の自由を享受しながら、人間らしい自由にも復帰することができたのです。

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139話「あの丘の木に向かって」

 

(「自由になることと人間であること」おわり)

 

 

5.9.b 鳥になった少年 (中) 〜 自由になることと人間であること

 

unfreiefreiheit-aot.hatenablog.com

 

進撃アニメ、やっぱり最終決戦はおあずけですって!?

なにそれやだー(幼児退行)。

 

愚かしい自由からの解放

さて「顎」を継承したファルコですが、かれなぜか鳥のような姿になります(129話)。

ちょうど最近のアニメ放映で、どういう動きをするのかが分かりましたね。

本人いわく、ジークの脊髄液を飲み「獣」の特性が同時に発現したのかもしれません(133話)。

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129話「懐古」

 

そうはいっても「顎」なのに「獣」の特性が混ざったとは、やや強引な設定です。

てか「顎」の特性がぜんぜん生かされないじゃんか。

しかし、作品世界の法則をちょっと強引に解釈してでも、作者がファルコに翼を与えたということは、作品の筋書き上、必要不可欠だったのだろうと納得できます。

ファルコが授かった翼は、たんに「始祖」と戦うための翼ではなく、(前記事で書いたように)憎しみと争いを飛び越えていくための翼にほかなりません。

それはファルコ自身の精神にふさわしい姿であり、かれの物語中の役柄にふさわしい姿であったのです。

 

ファルコの翼が象徴するもの、それは、人間の愚かしさからの解放であると筆者は考えます。

いつまでも「森」から抜け出せないという、人間の愚かしさからの解放。

いつまでも「暗闇」の出口があるか分からないという、人間の愚かしさからの解放。

みずからの主人としての自由を、他の人間との争いのためにしか役立てることができないという、人間の宿業からの自由。

みずからの自由をもって自由を滅ぼしてしまうという、人間の宿業からの自由。

 

このような人間の愚かしい自由からの解放は、ファルコだけでなく、エレンの「地鳴らし」を止める最終決戦へと向かう、アルミンら一行の全員がめざしているものです。

しかし、そんな一行があわや全滅の危機に陥ったとき、かれらを救ったのはファルコでした(135話)。

そんなファルコの翼は、この解放を、この自由を、象徴するものといえるでしょう。

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135話「天と地の戦い」

 

自由への手段としての巨人

ところで、本作において巨人とは、始祖ユミル以来、ひたすら戦争の道具でした。

巨人の驚異的な力は、人間の愚かしい自由に奉仕する力でしかなかったのです――エルディア帝国時代であれ、マーレが巨人を掌握したあとであれ。

 

ファルコの鳥型の巨人(顎)すら、他の巨人と同じく、あいかわらず愚かしい人間的目的のために、戦争の道具として、使われてもおかしくなかったのです。

マガトの前任のマーレ軍元帥殿も「羽根の生えた巨人」をご所望だったことですし......(93話)。

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93話「闇夜の列車」

 

でも、巨人がけっきょくのところ「道具」だというなら、使う人間しだいということにならないでしょうか?

巨人がその本性上、戦争しかできないというわけではないのです。

始祖ユミルの巨人は、当初は土木作業に使われていました(122話)。

104期のほうのユミルも、雪山で瀕死のダズを救うために巨人の力を使いました。(40話)。

硬質化の力を手に入れた段階のエレンの「進撃」も、ハンジさん発明の「巨人伐採しまくりの地獄の処刑人」に応用することで、壁内人類を巨人の脅威から救いました(70話、90話)。

 

まあ「超大型」は、どうみても破壊専用というかんじですけど......。

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95話「嘘つき」

 

しかしそれでも「超大型」の持ち主アルミンは、地鳴らしを止めるため、他の巨人たちとともに「始祖」に挑んだのでした。

世界を踏みつぶそうとするエレンの「始祖」は、自由であるがゆえに争いあうという人間の愚かしさの極致であり、この愚かな自由が行きつく最悪の結果です。

それに対して、最終決戦に臨む巨人たち――アルミンの、アニの、ピークの、ライナーの、そしてファルコの――は、エレンの「始祖」と戦うためのたんなる道具ではありません。

これらの巨人が表しているのは、人間の自由そのものが内にもつ愚かしさ自体を克服しようとする、もう一つの人間的自由なのです。

 

鳥になった少年と悪魔になった少年

こう述べると、最終的にエレンは、人間のダメな自由の集約的表現になってしまったように見えます。

一面では、そう指摘するのは正しいでしょう。

ただしそれだけが、エレンの最終的選択のもつ意味のすべてだとはいいません。

 

「未来の記憶」を受け取るという、他の知性巨人とは異質な能力をもつ「進撃の巨人」(その能力の考察は 5.5, 5.8 を参照)。

この能力のおかげで「進撃」だけは、戦争の道具になることを(少なくともエルディア帝国崩壊以降は)避けられたのでした。

 

でもだからといって、人間どうしが醜く、愚かしく争いあう「残酷な世界」そのものから、「進撃」の保有者たちが自由になれるわけではありません。

それではどうするか?

エレンが最終的に選んだのは、愚かしい人間たちの世界をまるごと滅ぼす(故郷は除く)という、エクストリームな代替案でした。

まさに悪魔のごとき、鬼気迫る形相で、エレンの「進撃」はこれを実行に移します(123話)。

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123話「島の悪魔」

 

自分が自由を奪われないために、世界中の人間の自由を奪う。

エレンの選択は、つまりそういうことです。

そのかぎりでは、エレンの自由は、人間の愚かしい自由の延長線上にあります。

しかしエレンの選択が同時に意味しているのは、自由であるために互いの自由を否定しあうという、人間の在りかた自体を否定することではないでしょうか?

だとすれば、エレンが欲した自由とは、人間の愚かしい条件そのものからの解放ではないでしょうか?

――そのために、他人の自由を否定する愚かな手段しかとれなかったというのは極めつきの皮肉ですが。

 

こうして、鳥になった少年ファルコと、悪魔になった少年エレンとは、同じ自由をめざしているのだと分かります。

すなわち、人間の愚かしい自由からの解放を。

しかし、この解放を追求するための手段は対照的です。

エレンは人類を滅ぼすことによって、ファルコたちは人類の絶滅を防ぐことによって、愚かしい人間的自由そのものを超え出ようとするのです。

 

個を超え出る全体の自由?

エレンが表現する自由を、さらに掘り下げてみましょう。

かれは世界を滅ぼすと宣言しましたが、自分の故郷だけは例外です。

どうしてもパラディ島と世界が共存できないなら、パラディ島のために世界を滅ぼすことを選ぶというのが、エレンの決意です。

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123話「島の悪魔」

 

だとすれば、エレンの至上目的は、故郷を守ることでしょうか?

わたしというを悪魔に変えてでも、共同体という全体を守ることが、エレンにとっての自由なのでしょうか?

 

これは少なくとも、古代哲学と同じくらい古くからある考え方です。

アリストテレスは紀元前4世紀、人間を生まれながらの「政治的動物 ζῷον πoλιτικόν / zoon politikon」と呼びました。

政治的(ポリティコン)とは、古代ギリシャ都市国家を指すことばで、つまり法や政府をもつ共同体といった意味。

つまり、共同体という全体があるからこそ個人は人間らしく生きられる、という意味です(アリストテレス政治学』)。

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この考え方を近代的な自由論に接続したのが、あのヘーゲルです。

次のようにヘーゲルは論じました。

国家とは「実現された倫理」である。

滅びやすい個々の人間とは対照的な「即かつ対自的に存在する個体性」である。

それゆえに個人は、生命を投げうってでも、祖国のために、全体のために貢献しなければならない。

このことを人間が思い出すのは戦争のときだという意味で、戦争には「倫理的契機」がある。

こうして「倫理の実現態」としての国家に寄与することは、人間の義務であり、さらには、人間が達成しうる最高度の自由なのである(ヘーゲル『法の哲学』)。

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個でなく全体こそが、つまり国家こそが「自由の実現」だと称するヘーゲル

かれの主張は、文脈しだいではアブナイ全体主義に回収されてしまうかもしれませんが、その根底にあるのは、人間は社会においてこそ人間的になれるという真理をつく洞察です。

 

それでは、エレンが選んだ自由とは、こういう種類の自由なのでしょうか?

ある意味ではそうかもしれません。

しかし同時にエレンは、ヘーゲルが無視している重要な問題からも、目を逸らしていないのです。

ヘーゲルは「戦争の倫理的契機」といいますが、しかし戦争とは、個人が命を投げ出すだけでなく、他人の命を破壊することをも意味します。

祖国のために貢献するだけでなく、そのために他人の自由を滅ぼすことをも意味するのです。

それがどんなに惨たらしいことか、人間らしさの対極であることか、そのこともまた作中ではじっくりと描き出されたのでした。

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131話「地鳴らし」

 

こうして「全体に奉仕する」ことは、個にとって「最高度の自由」かもしれませんが、同時に他者の自由の完全な否定でもあるのです。

そして、エレンはこのことを分かっていました。

他者の自由を奪うという考えを嫌悪する、人間らしい道徳的感覚をそなえてもいました。

しかしそれでも、かれはそれを実行したのです。

この点を考慮すると、全体への奉仕=個の自由というアリストテレス的・ヘーゲル的観念は、みずからを悪魔と化したエレンの自由を、適切に表現するものではないように思われます。

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131話「地鳴らし」

 

エレンの倫理的信念

パラディ島のために世界を滅亡させようというエレンの決意の根本的理由は、別にあると考えるべきでしょう。

 

第一に、エレン自身の倫理的信念。

パラディ島は滅ぶべしという世界の意志に屈することは、エレンの信念、正義感、倫理観と根本的に衝突します。

それは、祖国が倫理の実現態かどうかという点とは、ほとんど無関係でしょう。

むしろ、エレンにとって故郷の滅亡を受け入れることは、すなわち自己否定や自滅と同義なのです。

それは自分自身の自由をあきらめることと同義なのです。

 

まさにこの理由で、自分や故郷の滅びを受け入れるという態度は、エレンにとっては根本悪に違いありません。

このことは、過去のグリシャを介した「壁の王」一族との対決の場面で、はっきりと描かれています。

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121話「未来の記憶」

 

(まあヘーゲルなら「そういうエレンくんの信念は、祖国が倫理の実現態だって分かってるってことなんだよ」っていうでしょうね。でも、ここでの物語の展開はそういうことをテーマにしているわけではないのです。)

 

世界を滅ぼしたいと欲する自由

第二に、自由への欲求。

エレンはみずからそう語ったように、故郷を守るためにやむをえず世界を滅ぼしたというだけではなく、同時にそうすることを心の底では欲していたのでした。

「何でかわかんねぇけど」どうしても人類世界を踏みつぶし、平らにしてしまいたかったというのです(139話)。

 

ここで見逃してはならないのは、そう白状しながらエレンが、自分の出生を新たな自由の誕生として祝福する父親グリシャの記憶(知性巨人の能力によって伝えられたものでしょう)を、想い出していたことです。

この点を考慮すると、自由を絶対にあきらめてはならないという倫理的信念と、世界を滅ぼしたいという欲求とは、エレンのなかでは分かちがたく結びついていたのでしょう。

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139話「あの丘の木に向かって」

 

ところで、この破局的な自由への渇望を、哲学は説明できるでしょうか?

哲学者たちによれば、自由であればこそ人間は人間らしく在ることができるし、そして人間は人間らしく生きるからこそ自由であるのです。

ところが、エレンが欲する自由とは、究極の非人道的大量殺戮を実行すること。

そんなもの、自由と呼べるはずがない! 

――そう怒って反論する哲学者が、大多数であることでしょう。

 

とはいえ、人類絶滅すら、ある種の人間的自由だと認める哲学者は、少数であれいることでしょう。

まあニーチェなんかはそう認めそうなイメージですよね。筆者はニーチェをあまりよく理解していないので断言できませんが。

 

しかし筆者は少なくとも一人だけ、この人ならエレンの破滅的自由を人間的な自由として認めるであろう、という哲学者を挙げることができます。

それはサルトルです。かれは「非人間的状況などというものは存在しない」と断言しているからです。

もっとも残虐な戦争の状況や、もっとも残忍な拷問ですら、非人間的な状態を作り出すことはない。非人間的状況などというものは存在しない。ただ恐怖によって、逃亡によって、まじないめいた行為に頼ることによって、わたしは非人間的なものを決定するだろう。だがそう決定するのは、わたしの自由と責任においてでしかないのである。

サルトル存在と無

 

だからといって、サルトルは善も悪も存在しないとうそぶくニヒリストの仲間なのだとは、勘違いしないでください。

ほんとうに善いもの、ほんとうに価値のあるもの、真に人間的なものは、きっと存在するだろう。

ただし人間存在は、それが何かということを各人の自由のもとで判断するしかない

――そうサルトルはいいたいのです。

だからサルトルは、世界を滅ぼしたいというエレンの欲求に決して賛同はしないでしょうけど、それでもこの欲求が人間的自由の一表現であることは認めるはずです。

 

悪魔への自己超出

こうして、世界を滅ぼしたいというエレンの欲求を、人間的自由の表現として認めることは可能です。

そうだとすれば、これはどんな種類の自由でしょうか?

 

ここでもサルトルを参照することが役に立つでしょう。

かれによれば人間存在とは、自分自身を超え出る存在です。

人間存在は、いまの自分に欠如している十全性へと向かう、自分自身の超出である。

サルトル存在と無

 

十全性、すなわち完全であること、これが人間的自由の目的です。

しかしサルトルは、この十全性という状態そのものではなく、それに向かって人間が自分自身を超え出ることが、この運動こそが自由だと考えるのです。

いまのわたしは完全ではない、いまのわたしには欠如がある。

――そう気づくことが、自己超出という自由な運動のはじまりなのです。

 

それでは、エレンにとっての欠如とは何か。

かれの自由が否定されていることです。

しかもこの欠如は、パラディ島の滅亡を望む世界が存在するかぎり、解決不可能なもの。

 

だとすれば、エレンが自分自身の欠如を克服するためには、人類世界そのものを滅ぼさねばならない、ということにはならないでしょうか?

世界の滅亡 = 自己超出 = 自由 という等式が成立してしまうのではないでしょうか?

こうしてエレンの自己超出は、いわば悪魔への自己超出として成し遂げられてしまったのです。

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131話「地鳴らし」

 

この悪魔への自己超出が、作中人類によって絶望的な状況に追い詰められたエレンの、やむをえない選択として理解できることはたしか。

でも、それだけでしょうか?

よく考えると、もともとエレンはこういうヤツでもあったような......。

 

エレンは幼少のころから、欠如感を抱えていました。

日常にうんざりしていました。

そびえる壁と、何もない空を見上げながら「何か起きねぇかなあ…」とつぶやくだけの、退屈な日々を過ごす少年でした。

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94話「壁の中の少年」

 

とらえどころがないけれど打ち消しがたい、この欠如の感覚を満たすためには、どうしたらいいのか。

とほうもなく退屈な日常に閉じ込められた、このちっぽけな自分自身を超え出るためには、どうしたらいいのか。

そのためには、世界そのものを全否定するしかないのではないのか。

 

......と、こんな具合に、もともとエレンには「世界の滅亡=自由」と信じ、それを実行に移してしまう、ヤバい素質があったのではないでしょうか?

おまけマンガのスクカでも、そういうふうにエレンは思い詰めていましたしね。

「まだ親に食わせてもらってる身で一丁前に絶望してトボトボ歩く視野狭窄且つ愚かな高校生」(笑)

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30巻のスクカ

 

こうしてエレンにおいて、悪魔になるしかない状況と、悪魔になれる資質とが出会い、最悪の結果を引き起こしました。

でもこのことは、同時にエレンが人間らしいまっとうな倫理観や共感能力をそなえていた、ということを否定しません。

 

自己=世界を超出し、悪魔になりおおせたとき、エレンはみずからの人間性をも滅ぼしてしまったのでしょうか?

それとも?

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138話「長い夢」

 

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5.9.a 鳥になった少年 (上) 〜 自由になることと人間であること

 

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人間的な、あまりに人間的な

哲学者たちは教えます。

人間らしく在ることと、自由であることは不可分だと。

ところが、哲学者たちは次のようにも教えます。

自分を自由だと思い込む者ですら、実は奴隷なのだと。

 

一体どっちやねん!?

でも読者のみなさん、どうか怒らないでください。

哲学者たちはでたらめをいっているわけでも、逆説をもてあそんでいるわけでもないのです。

むしろ、人間の矛盾に満ちたありかたを鋭く見抜いているのです。

 

このブログで使ってきたフレーズでいえば、こういうこと。

人間賛歌は「自由」の賛歌ッ!! 人間らしく在るとは「自分自身の主人」として自由に生きること(0.2 を参照)。

ところが人間は、いつのまにか運命に弄ばれ、選択肢を、そして尊厳を奪われたあげく、自分自身が「罪の奴隷」や「哀れな役者」になっていたと気づくかもしれません――ひょっとしたら「生まれるべきではなかった」者だったとすら(5.2, 5.3 を参照)。

 

この「残酷な世界」によって、自由を否定されてしまった人間。

状況のせいで、まるで奴隷のように自己決定を失ってしまった人間。

そんな人間は、心のなかに一片の自由でも残されているとすれば、いったい何を望むでしょうか?

ある者は、人間の域を超えた、悪魔のごとき強大な力そのものとなって、すべてを壊してしまいたいと夢想するかもしれません。

別の者は、いっそ人間なんてやめて、鳥のように空を飛び、すべてから解き放たれたいと憧れるかもしれません。

どちらにも共通するのは、もう人間なんてものにはうんざりだという厭わしさ。

あるいは、人間の条件そのものから自由になりたいという願望です。

おれは人間をやめるぞ! ジョジョーーッ!!

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この願いは、人間にとって意味のあるものでしょうか?

人間が人間であるかぎり、人間の条件から解放されるなんて不可能なはず。

でも、犬が犬をやめたいと思うでしょうか? ネズミが猫になりたいと憧れるでしょうか?

だとすれば、人間なんてやめたいという衝動ですら、ある種の人間らしさを――またしたがって、ある種の自由を――表現しているのです。

 

ところで『進撃の巨人』には、まさにそのような、人間の条件から自由になりたいという人間的願望を表現する人物たちが登場します。

鳥になった二人の少年に、本ブログの最終節を捧げることにしましょう。

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天を舞う鳥と天を仰ぐ少年

鳥になった少年の一人目は、マーレ編の冒頭で、天を舞う鳥に語りかけた、まだ幼い兵士ファルコ・グライス。

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91話「海の向こう側」

 

かれの人物像にかんして注目したい要素は、三つです。

第一に、善意、または言い換えれば、憎しみからの自由。

戦況が覆ったあと、負傷した敵兵をファルコが捕虜として助けた場面を見ましょう。

戦果を作れないかわりにそうやって評価を得たいのかと皮肉る戦士候補生ガビに、ファルコは「知るかよ」と答えました。

その敵兵にすら、かれはエルディア人への蔑視と敵意を突きつけられてしまったのですが(92話)。

ともあれ、これはガビの揶揄とは裏腹に、ファルコの二心のない行為とみるべきでしょう。そういうふるまいは、その後のかれにおいても一貫していることですし。

ファルコがマーレの大義に従順でありながら、心を憎しみに染めているわけではなく、他人の痛みに共感する人間らしさを保っていることを、このエピソードは表現しています。

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92話「マーレの戦士」

 

第二に、鳥のように自由でありたいという、心の底の願望。

ファルコが知性巨人を継承する「戦士」の一候補生となったのは、そうするしかないからです。

マーレのエルディア人として戦争の矢面に立たされることも、一族のために体制に忠誠を示すことも(かれは兄コルトとともにエルディア復権派メンバーの親せきでしたね)、かれにとっては受け入れざるをえない運命です。

その一方で上記のとおり、かれの心は憎しみに屈折しておらず、人間らしい感性を保っています。

そうだとすれば、ファルコがはばたく翼に自分の願望を投影するのは、当然ではないでしょうか?

残酷な世界から脱したいと願うのは、あたりまえではないでしょうか?

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91話「海の向こう側」

 

第三の要素は、意中の少女への、劣等感が混じりつつも初々しい恋心。

「鎧の巨人」継承の最有力候補である戦士候補生の少女ガビに、かれは特別な好意を抱いています。

その想いの強さたるや、戦功をあげるための騙し討ちに成功したあと、敵の追撃のマシンガンから逃れるかのじょを、思わず身を挺してかばおうとするほど(91話)。

だからこそファルコは、ガビが巨人継承により余命を縮めることを望みません。

自分自身を残酷な目にあわせる世界を耐えしのぶことはできても、恋慕の情を寄せる少女にさえも命を投げうつよう強制する世界は、ファルコには受け入れがたいのです。

それにファルコは、否(いな)を突きつけざるをえないのです。

 

したがって この恋心は、少年ファルコの積極的動機、かれの行動原理、かれの能動性に違いありません。

あるいはルソー風にいえば、これこそがかれの「良心」あるいは「魂の声」なのです。

鳥のように天空へと飛び去ることが人間には許されないのだとすれば、ファルコはこの恋心=良心に導かれながら、残酷な運命にあらがい、あがいてみせるしかありません。

良心とは魂の声である。......良心に従う者は自然に従い、決して道に迷うことはない。

ルソー『エミール』第4巻「サヴォワ生まれの助任司祭の信仰告白

 

※ 併読がオススメ

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「良心の声」と反ニヒリズム

少年ファルコの運命への抵抗は、しかしながら当初は、ごく微細なもの、心情的な抵抗にすぎませんでした。

ガビの「鎧」継承は覆せそうにない、そうすればかのじょの人生は長くて27歳までだと、ファルコは愚痴をこぼすことしかできませんでした。

しかしかれの内心を、ライナーは目ざとく察知します。

 

少年のうかつな発言を咎めつつ、かれの意志を聞き出すライナー。

最初は動揺しつつも、このときばかりは力のこもった目つきで、ファルコは宣言します。「鎧」を継承するのは自分だと。

ところが少年には意外なことに、体制に忠実な「鎧」の戦士ライナーは、こう返したのです。

「お前がガビを救い出すんだ この真っ暗な俺達の未来から...」(93話)

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93話「闇夜の列車

 

ここでライナーがファルコを励ましたのは、次のことを痛感しているからでしょう。

すなわち、マーレのエルディア人は、体制への忠誠を示し、外部の敵に憎しみを投影したところで「真っ暗な未来」からは抜け出せないということを。

かといって、そのかわりに何を目指せばいいのかを、ライナーが知っているわけではありません。

かれがファルコに示したかったのは、もっとばくぜんとした指針というべきでしょう。

すなわち、暗闇のなかで「良心の声」だけは見失ってはならないということです。

そのことをファルコは理解できると見て、ライナーはファルコを励ましたのでしょう。

 

他方のガビには、ライナーは決してそのような内心を吐露しません。

かれが本心を隠していると、ガビに察知されたときにすら(95話)。

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95話「嘘つき」

 

ガビを突き動かす「善意」は、マーレの大義に照らして「善いエルディア人」でありたいとする意志。

しかしそれは「内なる良心」ではありません。「敵国の人間」や「島の悪魔」を、人間らしい共感の対象外に放逐してしまうからです。

 

ファルコに戻ると、かれはライナーに励ましを受けて、ガビを越えようと一念発起。

それでも努力が実る兆しは見えてきません。

心が折れそうになる少年に声をかけた、心的外傷のふりをする兵士クルーガー。

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97話「手から手へ」

 

「クルーガーさん」=マーレに潜りこんだエレンがファルコに伝えたのは、「地獄の先」に掴みとるべき目標を見出そうとする、反ニヒリスト的な不屈の意志。

あらゆるニヒリスティックな諦念を克服せんとする、ニーチェ的な力への意志です。

エレンの真意を知るよしはなかったにせよ「クルーガーさん」の言葉に励まされて、ファルコの迷いは晴れたのでした。

 

鳥の眼と「良心の声」

とはいえ、ライナーのいう「暗闇」とは、本質的には何なのか?

そして「クルーガーさん」があえて「地獄」に飛び込もうとしているのは、どうしてなのか?

それをファルコが真に理解したのは、かれの仲介で二人の恩人が再開を果たした、その場面においてです。

「クルーガーさん」の正体と目的を知ったことで、そしてライナーの深い罪責の念を知ったことで、ファルコの視点は、鳥の目の高さにまで引き上げられたのでした(98-100話)。

 

このあらたな視点をファルコに自覚させたのは、狭い視野に閉じ込められたままの想い人の言葉。

エレンとパラディ島の兵士たちに故郷を破壊され、親しい人々を殺されたガビは、どうして敵はこんな酷いことをするのか理解できないと、怒りを燃やします。

敵には敵の動機があると知っているファルコがそう伝えても、ガビはそれを理解しようとしません。

「ちゃんと習ったでしょ?」「奴らは(......)残酷な悪魔」「私達とは違う」(105話)

 

この反応を見た瞬間、ファルコは悟ったのです。

「敵は私達とは違う」――この理解を拒む決めつけこそが、ライナーのいう暗闇の本質なのだと。

人類みなごろしを企てている最悪の敵すら、自分たちと「同じ」人間であり、わたしと同じように喜び、苦しみ、恐怖する人間なのであって、そう理解しないことが争い以外の道を閉ざすのだと。(註)

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105話「凶弾」

 

しかしファルコは、自分自身だけがそう達観して、満足するわけにはいきません。

いま想い人は、ついぞ「暗闇」から抜け出せないまま、それどころか「暗闇」のさらに奥深くへと迷い込んみながら、命を散らそうとしているのです。

だから、ファルコの目的は、かれ自身に「良心の声」が命じることは、まったく変わりません。

ガビを救いたいなら、そして、かのじょを無意味で無価値な殺し合いへと仕向ける「残酷な世界」に抗いたいなら、かのじょとともに「暗闇」から脱出しなければならない

 

エルディアの飛行船に乗り込もうとするガビに、むりやりついていくファルコ。

かれは叫びます――「鎧の巨人」を継承するのは「オレだ!!」と。

ファルコが、かれの「良心」が自由であるためには、ガビを救い、そのことによってかれ自身を救わねばならないのです。

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105話「凶弾」

 

「暗闇」のなかの良心

それにしても、どうすればファルコやガビは「暗闇」から抜け出すことができるのでしょうか。

というのも、良心的な人間がかならず救われる保証も、かならず問題を克服できる保証も、存在しないのですから。

 

ファルコの先輩である、マーレの「戦士」たちを見てみましょう。

かれらはもっともマーレに忠誠を示していると評されていますが、だからといって体制に心から服従しているわけではありません。

かれら自身の意志があり、判断力があり、そして良心があります。

 

たとえば「顎」のポルコ。

上官の非合理あるいは筋違いな命令にたいして違和感を抱ける程度には、かれは自分の意見と意志をもっています。

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95話「嘘つき」

 

かれよりも「戦士」の経験の長い「車力」のピークは、もっと冷静です。

マーレにたいして「善良さ」を証明しつづけてもエルディア人は救われないだろうと、かのじょは達観しています。

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116話「天地」

 

とはいえ、かれらの良心にはせいぜい、課された責務とのあいだに折り合いをつける事由くらいしか許されていません。

ピークはいいます。自分はマーレを信じていないが「一緒に戦ってきた 仲間を信じてる」と(116話)。

では、この信頼関係が、マーレのエルディア人の存続の保証になるのか?

そういう確信がピークにあるようには見えません。

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116話「天地」

 

ポルコの亡き兄マルセルの「良心」もまた、自分の責務とぎりぎり折り合いがつく範囲で実現されたものでした。

エレンとの戦いのさなか、ライナーとの接触をきっかけに、ポルコはついにマルセルの想いを知ります。

かれとライナーの最後の会話の記憶がよみがえったのです。 

兄は弟を「戦士」の重荷から自由にしてやりたくて、ひそかに一計を講じたのでした(95話、119話)。

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119話「兄と弟」

 

しかし良心は、いかなる外的強制すらないところでも、かれら「戦士」の意志を決定し、人間的なもののための行動にかれらを駆り立てます。

兄の想いを知った弟は、エレンとの戦いが終わったと見えたとき、巨人にされてしまった仲間の弟のために、自分の命を投げ出します。

そうやってポルコは、兄マルセルが遺した「暗闇」のなかの良心に、かれ自身の良心をもって報いたのです。

 

ピークもまた、みずからの良心に導かれながら「暗闇」のなかで歩みを止めませんでした。

地鳴らし発動により、マーレの壊滅が確実となったあとでも、かのじょは戦いを放棄しなかったのです。

マーレの体制は、いまや壊滅したも同然。

それどころか自分の故郷すら、もはや救うには手遅れ。

それでもピークは「死んだ仲間達に報い」るために「戦士の務めを果た」すと宣言し、地鳴らしを止める戦いに赴いたのです(132話)。

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132話「自由の翼

 

マルセルやポルコの、そしてピークの良心は、かれらをマーレのエルディア人の奴隷状態から解放したわけではありません。

しかしそれでも、かれらが「暗闇」のなかで途方に暮れて膝を屈することはありませんでした。

奴隷状態のなかで、それでもかれらは人間の尊厳を追求しつづけることができたのです。

「暗闇」のなかの良心は、少なくとも、人間であろうとする意志を見失わないための導き手、方位計なのです。

「良心に従う者は自然に従い、決して道に迷うことはない」(ルソー)

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「暗闇」にはばたく翼

しかしファルコの良心は、かれ自身の方位計というより、それ以上の役割を果たしているように見えます。

すでに見たように、かれ自身の精神は鳥の視点を獲得しました。

だからかれは、少なくとも向かうべき場所を、すなわち憎みあいという「暗闇」の出口がどこにあるかを眺望することはできます。

そうだとすればファルコは、かれの良心は、他の人々を「暗闇」の外へと導く方位計になることができるのです。

 

暗闇の出口があることを、ファルコは想い人ガビに気づかせることができました(118話)。

パラディ島の人々との出会いと衝突をつうじて、自分のなかの「悪魔」に気づいたガビですが、ファルコの助けがなければ、せいぜい自分が殺されるまでに島の人間を殺して回ることしかできなかったでしょう。

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118話「騙し討ち」

 

ガビを少なくとも内面的には救うことができたファルコは、ジークの脊髄液を飲み、無残にも巨人にされてしまいました。

かれの役割は終わってしまったのかと思いきや、しかしポルコに「顎」を託されてファルコは生還します。

 

しかもファルコの巨人は、翼をもった鳥のよう。

かれの精神にふさわしい形態が、ファルコの巨人に与えられたというべきでしょう。

鳥になった少年ファルコが体現するのは、人間のもっとも愚かしい条件を、すなわち憎しみと争いという条件を、飛び越えていくための翼です。

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136話「心臓を捧げよ」

 

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たったいま、現実世界において、ファルコのような視点に立って戦争を理解している被人が、少なくともそうしようという意志をもつ人が、いったいどれほどいるのかと問わずにはいられません。

敵はわたしたちとは違う、少なくとも敵の主導者はわたしたちとは違う、敵を理解しようとすることは敵に弱みをみせることだ。

――このような偏見に囚われることなく、殺し合いを真に回避し、解決するために、発言したり、交渉したり、報道したりする人たちの、なんと少ないことでしょうか。

それにこのことは、2022年にはじめて起きた事態というわけでもありません。たとえば2003年にだって、2011年にだって生じたことなのです。

 

とりあえず、次のような教訓だけを引き出しておきましょう。

21世紀の現在において「暗闇」から抜け出せていないのは、一部の「遅れた」人たちだけではありません。

グローバル化したといわれる現代世界に生きるわたしたち全員が、まだ「暗闇」から抜け出せていないのです。

 

 

5.8.c なぜエレンは過去に干渉するか、または時間の「状況」化 (下) 〜 自由になることと人間であること

 

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第一の疑問「なぜエレンの過去干渉は過去を改変しないか?」には前記事で答えました。

残る問題は、これです。

なぜエレンは、過去を改変することができないのに、過去をそうあったとおりに決定するためだけに過去に干渉するのか?

そのことに、いったいどんな意味があるのか?

 

「頭がめちゃくちゃに」なったエレン

あの「記憶の旅」においては、エレンはレイス家と対決したグリシャに干渉しましたが、しかしそれは、因果の時間的連鎖には影響を及ぼさないはずの行為でした(5.8.a を参照)。

そして「始祖」掌握後のエレンは、本格的に過去への干渉をはじめたようです。

最終回でエレンは、親友アルミンに吐露しました。

「始祖の力」には「過去も未来も無い」のだと。

そのせいでかれは、ある残酷な決断を迫られ「頭がめちゃくちゃになっちまった」のだと。

すなわち、ライナーたちがウォールマリアを破壊した日、ベルトルトに近づいた無垢の巨人(ダイナ)がかれを喰わないように、エレンがダイナを自分の母親カルラの方に導いたのだというのです (139話)。

 

ご存じのとおり、エレンが干渉したのはこの場面(96話)。

ベルトルトにわき目もふらずに、無垢の巨人(ダイナ)は壁内へ、向かう先はエレンの母カルラのところでした。 

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96話「希望の扉」

 

これをふまえて推測すると、あの「記憶の旅」で起きたことと同じように、エレンは「始祖」を掌握した瞬間、かれが干渉しなければならない過去を見たのでしょう。

すなわち、かれが選択した未来を成立しえないものにしてしまうような、過去の「ルート分岐」を、エレンは見せられたのだと思われます。

その最たるものが、ダイナ巨人にベルトルトが喰われるという「ルート分岐」だったのでしょう。

 

なぜそういう選択を迫られねばならないのかは、もちろん描かれていないので分かりません。

「始祖」の力を完全に掌握した者は、だれでも「そうあったとおりの過去を選ぶかどうか」という試練を突きつけられるのかもしれません。

あるいは、ちょいワル系の天然ジゴロのエレン君に興味を示した始祖ユミルが、悪趣味なしかたでエレンの覚悟のほどを試したのかもしれません。

まあそのへんの事情は、なにか設定があろうがあるまいが、本質的な問題ではないですが。

 

あえて想像をたくましくしてみると、エレンが選択を迫られた過去のできごとは、他にもあったのかもしれません。

たとえば、巨大樹の森で「女型の巨人」に襲われたことは?

もし過去をやりなおす機会が与えられたなら、エレンがやりなおしたいと思うできごとの、それは最有力候補の一つでしょう。

もしそのとき、エレンがリヴァイ班の仲間と戦っていたら、かれらを失わず、アニをより少ない犠牲で捕らえられたかもしれないのですから。

 

それでもエレンは、過去に干渉しませんでした、あるいは干渉できませんでした。

この件を改変してしまえば、その後にどんな不都合が生じるかは明白です。

まず、ストヘス区での大捕り物がなくなります。

そうなると、逃げようとする「女型」が割った壁から巨人の顔が覗く、というあの(当時は)衝撃のできごとも生じません。

ひいては、ハンジさんがニックに壁の秘密を問い質すきっかけそのものがなくなります。つまり調査兵団は、ヒストリアが「壁の王」の血筋だと知る糸口を得られないことになります。

もうしそうなっていたとすれば、王政との対決において、調査兵団はヒストリアを切り札に使うことができなかったでしょう。 ひいては王政に敗北したことでしょう。

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33話「壁」

 

あるいは、ライナーたちにさらわれたエレンを取り戻す戦いのなか、ハンネスさんが無垢の巨人(ダイナ)に喰われてしまったことは?

ウォールマリア破壊のときにダイナの「無垢」を操作したように、ここでもエレンは、ダイナの「無垢」が過去の自分のところに近づいてこないように操作できたでしょう。

そうすれば、ハンネスさん(かれも「さん」づけにしてしまうなあ)が単身、ダイナの「無垢」に挑むこともなかったでしょう。

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50話「叫び」

 

でも、このときダイナの「無垢」と遭遇しなければ、エレンは自分が「座標」をもつと知ることができなかったはずです(この呼び方いつのまにかフェイドアウトしましたね、つまり「始祖」の力ですが)。

というより、この件の報告を受けることで、ロッド・レイスはエレンが「始祖」をもっていると確信し、行動を開始したわけです。

だとすれば、ダイナの「無垢」との遭遇がなければ、兵団が王政を打倒する未来は成立しなかったかもしれないのです。

したがって、このできごとはエレンにとって必要でした。

ひょっとしたら作中で描写されていないだけで、このできごとにおいても、実は「始祖」掌握後にエレンは、ダイナの「無垢」がそう動くように干渉したのかもしれません。

 

(とはいえ、エレンは過去の自分に「始祖」の能力や、その発動条件を、あらかじめ知らせることはできなかったのでしょうか? でも、もしそのように過去干渉するなら、エレンは当初から「始祖」や「進撃」の能力を完全に理解していることになり、いわゆる強くてニューゲーム状態が成立してしまいます。それもまた、予測不可能な歴史の変化をもたらす可能性が高いといえましょう。未来の予測不能な変化のリスクを避けるにためには、やはり過去を改変すべきではないのです。)

 

こうしてエレンは、掌握した「始祖」の力をもってしても、次のように思い知るしかなかったのでしょう。

すなわち、過去をどう改変しても、より悪い結果がもたらされることはあれど、未来がより善いものになることはないと。

かれが決意した「地鳴らし」遂行よりも望ましい結果があるとすれば、それはもちろんパラディ島と世界との和解でしょうけれど、そういう結果にたどり着くルート分岐を作り出すなんて、とうてい不可能なのです。

 

むしろ、エレンが「始祖」の力を掌握するという結果すら、数えきれないほどの残酷な偶然の積み重ねの上に、かろうじて成立しえたもの。

そうなるまえにエレンが敗北し、王政なりマーレなりに「始祖」を奪われていた可能性だって、大いにあったでしょう。

そう心から納得したからこそ、エレンは過去に干渉する能力を得たのに、過去を改変しないどころか、むしろ過去をそうあったとおりに選び、決定したのです――そのことによって、かれの「頭がめちゃくちゃに」なってしまったとしても。

 

「残酷な偶然」と「創造的意志」

そう、かくも残酷な「現在」をなすのは、無限に生じてくる「残酷な偶然」あるいは「過去」の、とほうもない集積なのです。

そして「過去」とは、無数の諸行為の、それらの因果関係の、無限に複雑な連鎖をなしており、その環のたったひとつに手を加えるだけで、すべてを台無しにしてしまうかもしれません。

だからこそ過去は、そうあったとおりにしかありえないのです。

だからこそ現在を、この「残酷な偶然」の集積を、無力な人間は「必然」やら「宿命」やらと呼びならわしてきたのです。

 

しかし、思い出してください。

あの「力への意志」の哲学者、ニーチェ箴言を。

すなわち、必然性と呼ばれるものが「残酷な偶然」の集積にすぎないという認識は、人間の意志を力づけてくれるということを。

 

※ 併せ読みがオススメ

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ニーチェによれば、さしあたり人間は「残酷な偶然」を、ただ「そうであった」こととして、ひとつの「謎」として、受け入れるしかありません。

このトラウマ的経験に耐えられない者は、それに「必然」という名を与えることをつうじて、あの「何も欲しないよりはいっそ無を欲する」ニヒリストになりおおせるでしょう。

 

しかし人間の意志は、残酷でトラウマ的な偶然を「わたしがそう意志した」ことへと逆転させることができます。

「そうあったこと」を「わたしが意志すること」に変える「創造的意志」は、不条理な世界に意味を与えるのです。

すべての「そうであった」は、一つの断片であり、謎であり、残酷な偶然である――「だがそう意志したのはわたしだ!」と創造的意志が言うまでは。

「だがそう意志するのはわたしだ! だからわたしはそう意志するであろう!」と創造的意志が言うまでは。

ニーチェツァラトゥストラはこう語った』 第2編「救済について」

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「始祖」掌握後のエレンの意志、すなわち、過去をそうあったとおりに決定するエレンの意志は、まさにこのような「創造的意志」の極致といえます。

かれが「始祖」の能力をもっておこなったのは、まさに「残酷な偶然」を「わたしが意志したこと」に、そして「わたしが意志するであろうこと」に置き換えることでした。

しかしそれは、決して無意味なことではありません。

ニーチェがいうように、それは「残酷な偶然」に意味を与える「創造的意志」の行為だったのです。

この創造的行為をつうじてのみ、人間は「残酷な偶然」――ニヒリストが「必然」と呼ぶもの――に振り回される奴隷であることをやめ、自由になることができるのです。

「そう意志するのはわたしだ!」

 

時間の「状況」化

結論を引き出しましょう。

過去に干渉する力を手に入れたエレンは、次のことを明らかにしたのでした。

過去干渉の能力が人間に許す自由とは、過去をそうあったとおりに決定する自由でしかないことを。

時間すら飛び越えてみせる、全能の神のごとき力を手にしたところで、人間には、神のそれには遠く及ばぬほど狭く限界づけられた自由しかもたないことを。

諸行為の因果の無限に複雑な連鎖を、思いどおりに改変できるほど広大な知恵なんて、人間にはもちえないことを。

 

むしろ、こう述べるべきでしょう。

時間を超越する人間は、ひきつづき通常の人間と同じ程度に自由であると。

すなわち、実存としての人間と同じ程度に自由であると。

時間超越者としてのエレンが行使した自由とは、過去と呼ばれる「残酷な偶然」の集積を「わたしがそう意志したこと」として引き受け、意味づけなおす自由でした。

この自由は、実存的自由と、すなわち「状況内存在」としての自己を引き受け、意味づけなおすという、すべての人間に委ねられた自由と、本質的に同じものというべきでしょう。

状況とは、無数の他人により決定されたものとして、わたしに対して現れます。

それと同じように「残酷な偶然」としての過去もまた、わたしの行為と、無数の他人による無数の行為との集積として、わたしに対して与えられるのです。

 

このことを、エレンが掌握した「始祖」の力は、いわば時間を「状況」化することによってかれに示しました。

「始祖」の能力は、その保有者の眼前において、過去や未来のできごとを、ひとつの「現在」という同じ平面に並べるものです。

別言すれば、通時的な行為の連鎖を、共時的な状況として置きなおすのです。

 

もしあなたが時間を飛び越えられるとしても、あなたに時間を支配することはできません。

むしろ、過去に干渉する能力は、時間を「状況」として引き受けなおすことを、あなたに迫ることでしょう。

それでもあなたは、時間を旅行したいなんて、あるいは過去をやりなおしたいなんて、空想にふけっていられるでしょうか?

 

時間を超越したいと欲する資格をもつのは、残酷な偶然の集積でしかない過去に向かって、あえて次のように宣言できる者だけです。

「そう意志するのはわたしだ!」と。

ニーチェとともに、あるいはエレン・イェーガーとともに。

その結果として、どれほど苦い涙を飲み込まねばならないとしても。

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139話「あの丘の木に向かって」

 

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