進撃の巨人・自由論

半分は哲学の解説ブログ、半分は作品の考察ブログ(最近は3:7くらい)。

5.9.b 鳥になった少年 (中) 〜 自由になることと人間であること

 

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進撃アニメ、やっぱり最終決戦はおあずけですって!?

なにそれやだー(幼児退行)。

 

愚かしい自由からの解放

さて「顎」を継承したファルコですが、かれなぜか鳥のような姿になります(129話)。

ちょうど最近のアニメ放映で、どういう動きをするのかが分かりましたね。

本人いわく、ジークの脊髄液を飲み「獣」の特性が同時に発現したのかもしれません(133話)。

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129話「懐古」

 

そうはいっても「顎」なのに「獣」の特性が混ざったとは、やや強引な設定です。

てか「顎」の特性がぜんぜん生かされないじゃんか。

しかし、作品世界の法則をちょっと強引に解釈してでも、作者がファルコに翼を与えたということは、作品の筋書き上、必要不可欠だったのだろうと納得できます。

ファルコが授かった翼は、たんに「始祖」と戦うための翼ではなく、(前記事で書いたように)憎しみと争いを飛び越えていくための翼にほかなりません。

それはファルコ自身の精神にふさわしい姿であり、かれの物語中の役柄にふさわしい姿であったのです。

 

ファルコの翼が象徴するもの、それは、人間の愚かしさからの解放であると筆者は考えます。

いつまでも「森」から抜け出せないという、人間の愚かしさからの解放。

いつまでも「暗闇」の出口があるか分からないという、人間の愚かしさからの解放。

みずからの主人としての自由を、他の人間との争いのためにしか役立てることができないという、人間の宿業からの自由。

みずからの自由をもって自由を滅ぼしてしまうという、人間の宿業からの自由。

 

このような人間の愚かしい自由からの解放は、ファルコだけでなく、エレンの「地鳴らし」を止める最終決戦へと向かう、アルミンら一行の全員がめざしているものです。

しかし、そんな一行があわや全滅の危機に陥ったとき、かれらを救ったのはファルコでした(135話)。

そんなファルコの翼は、この解放を、この自由を、象徴するものといえるでしょう。

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135話「天と地の戦い」

 

自由への手段としての巨人

ところで、本作において巨人とは、始祖ユミル以来、ひたすら戦争の道具でした。

巨人の驚異的な力は、人間の愚かしい自由に奉仕する力でしかなかったのです――エルディア帝国時代であれ、マーレが巨人を掌握したあとであれ。

 

ファルコの鳥型の巨人(顎)すら、他の巨人と同じく、あいかわらず愚かしい人間的目的のために、戦争の道具として、使われてもおかしくなかったのです。

マガトの前任のマーレ軍元帥殿も「羽根の生えた巨人」をご所望だったことですし......(93話)。

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93話「闇夜の列車」

 

でも、巨人がけっきょくのところ「道具」だというなら、使う人間しだいということにならないでしょうか?

巨人がその本性上、戦争しかできないというわけではないのです。

始祖ユミルの巨人は、当初は土木作業に使われていました(122話)。

104期のほうのユミルも、雪山で瀕死のダズを救うために巨人の力を使いました。(40話)。

硬質化の力を手に入れた段階のエレンの「進撃」も、ハンジさん発明の「巨人伐採しまくりの地獄の処刑人」に応用することで、壁内人類を巨人の脅威から救いました(70話、90話)。

 

まあ「超大型」は、どうみても破壊専用というかんじですけど......。

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95話「嘘つき」

 

しかしそれでも「超大型」の持ち主アルミンは、地鳴らしを止めるため、他の巨人たちとともに「始祖」に挑んだのでした。

世界を踏みつぶそうとするエレンの「始祖」は、自由であるがゆえに争いあうという人間の愚かしさの極致であり、この愚かな自由が行きつく最悪の結果です。

それに対して、最終決戦に臨む巨人たち――アルミンの、アニの、ピークの、ライナーの、そしてファルコの――は、エレンの「始祖」と戦うためのたんなる道具ではありません。

これらの巨人が表しているのは、人間の自由そのものが内にもつ愚かしさ自体を克服しようとする、もう一つの人間的自由なのです。

 

鳥になった少年と悪魔になった少年

こう述べると、最終的にエレンは、人間のダメな自由の集約的表現になってしまったように見えます。

一面では、そう指摘するのは正しいでしょう。

ただしそれだけが、エレンの最終的選択のもつ意味のすべてだとはいいません。

 

「未来の記憶」を受け取るという、他の知性巨人とは異質な能力をもつ「進撃の巨人」(その能力の考察は 5.5, 5.8 を参照)。

この能力のおかげで「進撃」だけは、戦争の道具になることを(少なくともエルディア帝国崩壊以降は)避けられたのでした。

 

でもだからといって、人間どうしが醜く、愚かしく争いあう「残酷な世界」そのものから、「進撃」の保有者たちが自由になれるわけではありません。

それではどうするか?

エレンが最終的に選んだのは、愚かしい人間たちの世界をまるごと滅ぼす(故郷は除く)という、エクストリームな代替案でした。

まさに悪魔のごとき、鬼気迫る形相で、エレンの「進撃」はこれを実行に移します(123話)。

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123話「島の悪魔」

 

自分が自由を奪われないために、世界中の人間の自由を奪う。

エレンの選択は、つまりそういうことです。

そのかぎりでは、エレンの自由は、人間の愚かしい自由の延長線上にあります。

しかしエレンの選択が同時に意味しているのは、自由であるために互いの自由を否定しあうという、人間の在りかた自体を否定することではないでしょうか?

だとすれば、エレンが欲した自由とは、人間の愚かしい条件そのものからの解放ではないでしょうか?

――そのために、他人の自由を否定する愚かな手段しかとれなかったというのは極めつきの皮肉ですが。

 

こうして、鳥になった少年ファルコと、悪魔になった少年エレンとは、同じ自由をめざしているのだと分かります。

すなわち、人間の愚かしい自由からの解放を。

しかし、この解放を追求するための手段は対照的です。

エレンは人類を滅ぼすことによって、ファルコたちは人類の絶滅を防ぐことによって、愚かしい人間的自由そのものを超え出ようとするのです。

 

個を超え出る全体の自由?

エレンが表現する自由を、さらに掘り下げてみましょう。

かれは世界を滅ぼすと宣言しましたが、自分の故郷だけは例外です。

どうしてもパラディ島と世界が共存できないなら、パラディ島のために世界を滅ぼすことを選ぶというのが、エレンの決意です。

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123話「島の悪魔」

 

だとすれば、エレンの至上目的は、故郷を守ることでしょうか?

わたしというを悪魔に変えてでも、共同体という全体を守ることが、エレンにとっての自由なのでしょうか?

 

これは少なくとも、古代哲学と同じくらい古くからある考え方です。

アリストテレスは紀元前4世紀、人間を生まれながらの「政治的動物 ζῷον πoλιτικόν / zoon politikon」と呼びました。

政治的(ポリティコン)とは、古代ギリシャ都市国家を指すことばで、つまり法や政府をもつ共同体といった意味。

つまり、共同体という全体があるからこそ個人は人間らしく生きられる、という意味です(アリストテレス政治学』)。

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この考え方を近代的な自由論に接続したのが、あのヘーゲルです。

次のようにヘーゲルは論じました。

国家とは「実現された倫理」である。

滅びやすい個々の人間とは対照的な「即かつ対自的に存在する個体性」である。

それゆえに個人は、生命を投げうってでも、祖国のために、全体のために貢献しなければならない。

このことを人間が思い出すのは戦争のときだという意味で、戦争には「倫理的契機」がある。

こうして「倫理の実現態」としての国家に寄与することは、人間の義務であり、さらには、人間が達成しうる最高度の自由なのである(ヘーゲル『法の哲学』)。

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個でなく全体こそが、つまり国家こそが「自由の実現」だと称するヘーゲル

かれの主張は、文脈しだいではアブナイ全体主義に回収されてしまうかもしれませんが、その根底にあるのは、人間は社会においてこそ人間的になれるという真理をつく洞察です。

 

それでは、エレンが選んだ自由とは、こういう種類の自由なのでしょうか?

ある意味ではそうかもしれません。

しかし同時にエレンは、ヘーゲルが無視している重要な問題からも、目を逸らしていないのです。

ヘーゲルは「戦争の倫理的契機」といいますが、しかし戦争とは、個人が命を投げ出すだけでなく、他人の命を破壊することをも意味します。

祖国のために貢献するだけでなく、そのために他人の自由を滅ぼすことをも意味するのです。

それがどんなに惨たらしいことか、人間らしさの対極であることか、そのこともまた作中ではじっくりと描き出されたのでした。

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131話「地鳴らし」

 

こうして「全体に奉仕する」ことは、個にとって「最高度の自由」かもしれませんが、同時に他者の自由の完全な否定でもあるのです。

そして、エレンはこのことを分かっていました。

他者の自由を奪うという考えを嫌悪する、人間らしい道徳的感覚をそなえてもいました。

しかしそれでも、かれはそれを実行したのです。

この点を考慮すると、全体への奉仕=個の自由というアリストテレス的・ヘーゲル的観念は、みずからを悪魔と化したエレンの自由を、適切に表現するものではないように思われます。

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131話「地鳴らし」

 

エレンの倫理的信念

パラディ島のために世界を滅亡させようというエレンの決意の根本的理由は、別にあると考えるべきでしょう。

 

第一に、エレン自身の倫理的信念。

パラディ島は滅ぶべしという世界の意志に屈することは、エレンの信念、正義感、倫理観と根本的に衝突します。

それは、祖国が倫理の実現態かどうかという点とは、ほとんど無関係でしょう。

むしろ、エレンにとって故郷の滅亡を受け入れることは、すなわち自己否定や自滅と同義なのです。

それは自分自身の自由をあきらめることと同義なのです。

 

まさにこの理由で、自分や故郷の滅びを受け入れるという態度は、エレンにとっては根本悪に違いありません。

このことは、過去のグリシャを介した「壁の王」一族との対決の場面で、はっきりと描かれています。

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121話「未来の記憶」

 

(まあヘーゲルなら「そういうエレンくんの信念は、祖国が倫理の実現態だって分かってるってことなんだよ」っていうでしょうね。でも、ここでの物語の展開はそういうことをテーマにしているわけではないのです。)

 

世界を滅ぼしたいと欲する自由

第二に、自由への欲求。

エレンはみずからそう語ったように、故郷を守るためにやむをえず世界を滅ぼしたというだけではなく、同時にそうすることを心の底では欲していたのでした。

「何でかわかんねぇけど」どうしても人類世界を踏みつぶし、平らにしてしまいたかったというのです(139話)。

 

ここで見逃してはならないのは、そう白状しながらエレンが、自分の出生を新たな自由の誕生として祝福する父親グリシャの記憶(知性巨人の能力によって伝えられたものでしょう)を、想い出していたことです。

この点を考慮すると、自由を絶対にあきらめてはならないという倫理的信念と、世界を滅ぼしたいという欲求とは、エレンのなかでは分かちがたく結びついていたのでしょう。

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139話「あの丘の木に向かって」

 

ところで、この破局的な自由への渇望を、哲学は説明できるでしょうか?

哲学者たちによれば、自由であればこそ人間は人間らしく在ることができるし、そして人間は人間らしく生きるからこそ自由であるのです。

ところが、エレンが欲する自由とは、究極の非人道的大量殺戮を実行すること。

そんなもの、自由と呼べるはずがない! 

――そう怒って反論する哲学者が、大多数であることでしょう。

 

とはいえ、人類絶滅すら、ある種の人間的自由だと認める哲学者は、少数であれいることでしょう。

まあニーチェなんかはそう認めそうなイメージですよね。筆者はニーチェをあまりよく理解していないので断言できませんが。

 

しかし筆者は少なくとも一人だけ、この人ならエレンの破滅的自由を人間的な自由として認めるであろう、という哲学者を挙げることができます。

それはサルトルです。かれは「非人間的状況などというものは存在しない」と断言しているからです。

もっとも残虐な戦争の状況や、もっとも残忍な拷問ですら、非人間的な状態を作り出すことはない。非人間的状況などというものは存在しない。ただ恐怖によって、逃亡によって、まじないめいた行為に頼ることによって、わたしは非人間的なものを決定するだろう。だがそう決定するのは、わたしの自由と責任においてでしかないのである。

サルトル存在と無

 

だからといって、サルトルは善も悪も存在しないとうそぶくニヒリストの仲間なのだとは、勘違いしないでください。

ほんとうに善いもの、ほんとうに価値のあるもの、真に人間的なものは、きっと存在するだろう。

ただし人間存在は、それが何かということを各人の自由のもとで判断するしかない

――そうサルトルはいいたいのです。

だからサルトルは、世界を滅ぼしたいというエレンの欲求に決して賛同はしないでしょうけど、それでもこの欲求が人間的自由の一表現であることは認めるはずです。

 

悪魔への自己超出

こうして、世界を滅ぼしたいというエレンの欲求を、人間的自由の表現として認めることは可能です。

そうだとすれば、これはどんな種類の自由でしょうか?

 

ここでもサルトルを参照することが役に立つでしょう。

かれによれば人間存在とは、自分自身を超え出る存在です。

人間存在は、いまの自分に欠如している十全性へと向かう、自分自身の超出である。

サルトル存在と無

 

十全性、すなわち完全であること、これが人間的自由の目的です。

しかしサルトルは、この十全性という状態そのものではなく、それに向かって人間が自分自身を超え出ることが、この運動こそが自由だと考えるのです。

いまのわたしは完全ではない、いまのわたしには欠如がある。

――そう気づくことが、自己超出という自由な運動のはじまりなのです。

 

それでは、エレンにとっての欠如とは何か。

かれの自由が否定されていることです。

しかもこの欠如は、パラディ島の滅亡を望む世界が存在するかぎり、解決不可能なもの。

 

だとすれば、エレンが自分自身の欠如を克服するためには、人類世界そのものを滅ぼさねばならない、ということにはならないでしょうか?

世界の滅亡 = 自己超出 = 自由 という等式が成立してしまうのではないでしょうか?

こうしてエレンの自己超出は、いわば悪魔への自己超出として成し遂げられてしまったのです。

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131話「地鳴らし」

 

この悪魔への自己超出が、作中人類によって絶望的な状況に追い詰められたエレンの、やむをえない選択として理解できることはたしか。

でも、それだけでしょうか?

よく考えると、もともとエレンはこういうヤツでもあったような......。

 

エレンは幼少のころから、欠如感を抱えていました。

日常にうんざりしていました。

そびえる壁と、何もない空を見上げながら「何か起きねぇかなあ…」とつぶやくだけの、退屈な日々を過ごす少年でした。

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94話「壁の中の少年」

 

とらえどころがないけれど打ち消しがたい、この欠如の感覚を満たすためには、どうしたらいいのか。

とほうもなく退屈な日常に閉じ込められた、このちっぽけな自分自身を超え出るためには、どうしたらいいのか。

そのためには、世界そのものを全否定するしかないのではないのか。

 

......と、こんな具合に、もともとエレンには「世界の滅亡=自由」と信じ、それを実行に移してしまう、ヤバい素質があったのではないでしょうか?

おまけマンガのスクカでも、そういうふうにエレンは思い詰めていましたしね。

「まだ親に食わせてもらってる身で一丁前に絶望してトボトボ歩く視野狭窄且つ愚かな高校生」(笑)

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30巻のスクカ

 

こうしてエレンにおいて、悪魔になるしかない状況と、悪魔になれる資質とが出会い、最悪の結果を引き起こしました。

でもこのことは、同時にエレンが人間らしいまっとうな倫理観や共感能力をそなえていた、ということを否定しません。

 

自己=世界を超出し、悪魔になりおおせたとき、エレンはみずからの人間性をも滅ぼしてしまったのでしょうか?

それとも?

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138話「長い夢」

 

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