進撃の巨人・自由論

半分は哲学の解説ブログ、半分は作品の考察ブログ(最近は3:7くらい)。

0.9.c わたしは他人とともに自由でありうるか (下) ~ 自由の哲学入門書として読む『進撃の巨人』

 

「上」「中」を先に読んでね!

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調査兵団の自由 

でも、ミカサ一人だけでは、エレンを止め、彼を解放することはできませんでした。

エレンが「地鳴らし」をはじめたとき、これを阻止する責任をみずから引き受けたのは、彼女が属する調査兵団でした。

ただし、ここでいう調査兵団とは、そのときすでに事実上解体した、パラディ島の軍事組織としての調査兵団ではなく、むしろ理念としての調査兵団です。

組織内の規律よりも、国家体制から与えらえた大義よりも、各団員が胸に誓った「人類の自由」という約束をこそ存在理由とする、そのような集団としての調査兵団です。

 

14代団長のハンジさんは、自由のために生命を賭した仲間たちを想起しながら、こう言います。

この島だけに自由をもたらせばそれでいい
そんなケチなこと言う仲間は いないだろう (127話)

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127話「終末の夜」

 

そして調査兵団の象徴と呼ぶべき兵士であるリヴァイもまた、戦いのさなか、巨人なき世界とは「呆れるほどおめでたい理想の世界」でなければならない、そうでなければ「あいつらの心臓(いのち)と見合わない」と、心中で吐露します(136話)。

ハンジさんやリヴァイが体現する、理念としての調査兵団は、なぜ故郷の人々と敵対してまで、全人類の自由を追求したのでしょうか。

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136話「心臓を捧げよ」

   

「仲間の想い」と内なる声

ハンジさんが、壁外人類のみなごろしという結末を死んだ仲間たちは望まないだろうと述べたとき、ネットでずいぶん叩かれていたように記憶します。

生き残った団員はイェーガー派になったかもしれないとか、死者を勝手に代弁するなとか、そういう趣旨の批判でした。

私はとても悲しくなりました。ハンジさんがなぜ「仲間たちに見られている」と感じたのか、その理由が曲解され、彼女がバカにされてるように思えたからです。

 

ハンジさんは、自分の判断を「死んだ仲間」によって美化するために、死者を呼び出したのではありません。

そうでなくて、仲間に顔向けできる自分であるために、いまわたしは何をすべきだろうかと、自分自身の心の奥底から発される内なる声に、問いかけられたのです。

この状況で、どう行動するのが正しいのか。

何をするのが、もっとも自分らしいもっとも自分自身にたいして誠実なおこないだと言えるのか。

それを知るための方法が、彼女にとっては、死んだ仲間ならどう考えるか? と自分に尋ねることだったのです。

 

以前の記事(0.6)にも引用した、サルトルの一節を思い出してください。

彼によれば、もし「汝かくなすべし」という命令が死者の声や天のお告げとして降ってきたように感じられるとしても、それを死者の声や天のお告げとして見なすのは、つねにわたし自身なのです。

〔自分の息子を犠牲にささげよという、天使のアブラハムへの命令について〕それが天使の声であると決定するのはつねに私である。……この行為は悪であるよりもむしろ善であると述べることを選ぶのは私である。

サルトル実存主義とはヒューマニズムである」

 

だとすれば「この島だけに自由をもたらせばそれでいい」という「ケチなこと」を言う仲間などいないと断じたハンジさんは、死者の想いを代弁したのではなく、自分自身にたいして恥じることのない自己を選んだのです。

巨人なき世界が「呆れるほどおめでたい理想の世界」にならなければ「あいつらの心臓(いのち)と見合わない」と独白したリヴァイもまた、死者の想いを代弁したのではなく、自分自身にたいして恥じることのない自己に従っていたのです。

  

ハンジさんやリヴァイの心の奥底から湧き上がる、内なる声。

これを理解するには、他ならぬ調査兵団にとって、人類の自由という理想が、いったい何を意味しているのかを考えてみる必要があります。

  

調査兵団の「心臓」が「人類」に捧げられている理由

調査兵団に入る者は、人類のために「心臓を捧げ」ることを誓います。

この人類とは誰か? 

それは当初、すべての壁内人類を指していました。

実際には「パラディ島のエルディア人」のことでしかなかったといえば、それは確かにそうでしょう。

しかし筆者は、壁外世界を知らなかった頃から、すでに調査兵団の誓いは、壁内人類だけには限定されない、普遍的な誓いであったと考えます。

 

そもそも「公のために心臓を捧げよ」のポーズは、憲兵団であれ駐屯兵団であれ、すべての兵士が、壁内人類とその体制への忠誠を表明するためにおこなう、よくある軍隊式敬礼です。

それでは、兵団組織はその誓いのとおり、人類の自由という理想の体現として評価されていたでしょうか?

まったく逆です。

憲兵団は腐敗し、いばりくさっていて、中層や下層の人民に嫌われていました。

駐屯兵団も、少なくともウォールマリアが破られるまでは、昼間から飲んだくれていても許されるような弛緩した組織でした。

 

それでは調査兵団は?

「心臓を捧げよ」という誓いをもっとも忠実に実践しているのは、かれらです。

ところが、彼らの誓いが向けられた相手である壁内人類の大部分は、調査兵団をよく思っていません。

人民に支持されていたかというと、むしろ必要のない危険を無理やり買って出て、無駄死にし、税金を無駄遣いする集団として、非難され、厄介者扱いされ、あるいはバカにされていたのです。

ウォールマリア破壊前はおろか、人類が後のないところまで巨人に追い詰められた状況になっても、調査兵団をめぐる世評は、本質的にはさほど変わっていませんでした(30話)。

あげくのはてには、世界の真実を人民に知らせないことに利益をもつ権力の中枢(宮廷の貴族たちと中央憲兵団)により、調査兵団は一時、お尋ね者にされてしまう始末(57-61話)。

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30話「敗者達」

 

人類のために命を投げうっているけれど、現実の人類にはほとんど感謝されていない、調査兵団

誇張なしに命がけの任務を課され、壁外調査のたびに多数が命を落とす、調査兵団

苛酷なのにほとんど見返りもないような条件にもかかわらず、なぜ調査兵団に加わる人たちがいるのか?

かれらを駆り立てたのは、他者の意向ではありません。

たとえば総力戦体制下のように、国家的大義への献身を煽り、自己犠牲を美化するプロパガンダによって、彼らは「心臓を捧げ」る決意を促されたわけではないのです。

むしろ、かれらの誓い、かれらの献身は、現実の「人類」の大部分には評価されてこなかったのですから。

 

調査兵団のメンバーたちが誓いを捧げている相手は、壁内の人類というよりも、誰でもない「人類」、すべての人であると同時に特定の誰でもない「人類」だというべきでしょう。

誰でもない「誰か」のために、調査兵団に加入する者は「心臓を捧げ」ることを決めるのです。

そのように命を投げうつことが、人間にはできるのか?

すくなくとも、ほかならぬ自分自身の深い決意、確信、納得からでなければ、そのような選択を人はおこなわないでしょう。

しかし、調査兵団に加わった兵士たちは、ほかならぬ自分自身の内なる声に従って、そうしたのです。

調査兵団への加入が、大義への献身や自己犠牲といった美談からは、どれほどかけはなれた決断であるのかということを、作者・諌山は意識的に描いています(たとえば21話)。

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21話「開門」

 

だからこそ、調査兵団の成員たちは、かれらが引き受けた「人類のために」という約束が、かれら一人ひとりにとって、どれほど重く、どれほど大きな価値をもっているのかを、他の誰よりもよく理解しています。

だからこそ、かれらの指導者エルヴィンは、自分の夢のためにすべてを犠牲に投げうつことができるマキャベリストにはなりきれなかった。

かれはためらいながら、それでも夢をあきらめて、仲間に、調査兵団の誓いに、忠実であることを選んだのです。

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76話「雷槍」

  

調査兵団の忠誠の対象は、当初から一貫して「人類」だった

すべての人であると同時に、特定の誰でもない「人類」。

そのために、かれらは戦ってきたのです。

この「人類」は、お仕着せの大義ではありえません。

個々の兵士が、周囲の人々や体制に求められてではなく、みずからの心に問い、みずから選び取った理念なのですから。

だから、かれらの「心臓を捧げよ」は、たんなる儀礼的な宣誓ではなく、個々の兵士が「人類」と、そして自分自身と結んだ約束なのです。

 

でも、壁外人類がパラディ島の自由を否定しているのに、なんでパラディ島の調査兵団が、全人類のために戦わねばならないのか? そうしてあげる義理なんか、調査兵団にはないではないか?

たしかにそうでしょう。

しかし調査兵団にとって、壁外人類を滅ぼすという選択は、かれら自身の「人類のために」という誓いを裏切ることを意味したのではないでしょうか。

 

意味づけとしての自由と「地獄」としての他者

さらに深堀りしていくために、ここでふたたび、実存的自由の考え方に立ち返ってみましょう。

人間はその本質においてではなく、自分自身を意味づけることができる存在として、自由です。

自由とは、意味づけなのです。

 

でも、わたしたちは、自分の思いどおりに自分を意味づけることなんて、現実にできているでしょうか?

他人に「あいつは嫌な奴」「無能」「怖い人」などと意味づけられてしまい、周囲の自分への評価を変えようとがんばってもうまくいかない。

人生はそんなことばかりです。

わたしたちは、自由であること、自分を意味づけることに失敗してばかり。

そして、わたしにそのような挫折を味あわせるのは、他の人間たちなのです。

 

このことを、サルトル相克(conflit)という語で言い表します。

かれによれば、実存としての「わたし」は、わたし自身だけではなく、わたしが関与する世界そのものを同時に意味づけることができる存在です。

でも、そのような人間たちが複数並存している世界において、何が起きるか?

わたしをわたし自身が意味づける前に、他人によって意味づけられてしまうのです。

人間たちのあいだのもっとも根本的な争いとは、意味づけをめぐる争いなのです。

 

ただし、自分を意味づける自由が他人によって制約されるということは、人間の相互的な条件でしかありません。

つまりお互いさまです。

だからサルトルは、彼が書いた『出口なし』という戯曲を、次のようなセリフで結びました。

地獄とは他人のことだ」と。

三人の登場人物は、そろって地獄に落とされたのですが、彼らを地獄行きの罪人として決定したのは、お互いのお互いに対するまなざし、お互いのお互いに対する意味づけの行為だったのです。

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「状況」の変革としての自由

この世界においては、わたしが他者に意味づけられてしまうように、わたしも他者を意味づけている

このことをふまえて、エレンの決断をどう解釈できるか?

彼が「地鳴らし」を実行したのは、他者による、つまり世界人類による「パラディ島のエルディア人は世界の脅威であり生きる価値がない」という意味づけを拒むためでした。

この意味づけを拒み、パラディ島が生き残るためでした。

でも、そのためにエレンは、島外人類によって意味づけられたとおりに、全人類を踏み潰す「島の悪魔」として自己実現してしまったのです。 

要するに、他者による意味づけを拒むための行為によって、他者による意味づけを引き受けてしまった

この点において、エレンは自由に行為しながら、しかし自由たりえていないのです。

 

このことの教訓は何か。

結局のところ、わたしの自由は、わたしと他の人間たちとが共有する「状況」そのものに依拠しているということです。

たとえ他者を物理的に滅ぼしたとしても、他者による意味づけから逃れられるとはかぎらないのですから。

ならば、どうすればいいのか。

他者が自由な存在として、わたしがそう認めて欲しいと望むように、わたしを認めること。そうなるように他者に働きかけること。

つまり「状況」を変革すること

それしかないのです。

 

だからこそ、サルトルは言います。

自分の自由が「状況」に依存していると知るとき、わたしは「自分の自由と同時に他人の自由を望まないではいられなくなる」と。

われわれは自由を欲することによって、まったく他人の自由に依拠していること、他人の自由はわれわれの自由に依拠していることを発見する。もちろん、人間の定義としての自由は他人に依拠するものではないが、しかも状況への参加〔アンガジュマンengagement〕が行われるやいなや、自分の自由と同時に他人の自由を望まないではいられなくなる。

サルトル実存主義とはヒューマニズムである」

 

このような他者の自由をめぐるサルトルの見解と共鳴するのは、アルミンの最終回のセリフです。

争いはなくならないよ

でも...こうやって一緒にいる僕たちを見たら

みんな知りたくなるはずだ

僕たちの物語を (139話)

自由であることを免れず、それゆえにまた意味づけをめぐる争いを免れないのが、人間という存在。

だからこそ人間であるわたしは、他の人間たちを、わたし自身と同じように自由な存在として意味づけることによって、わたしが他者とともに価値ある自由を生きられるように試みずにはいられないのです。

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139話「あの丘の木に向かって」

 

エレンを自由にした調査兵団

エレンがみずからの選択を実行に移すまで、調査兵団が「人類」の自由のために行動を起こすことはできませんでした。

しかし、逆のこともまた言えるでしょう。

エレンが自由を実現するためには、ほかならぬ調査兵団の自由が、すなわち、誰でもないがすべての人間であるような「人類」に誓いを立てた、調査兵団の理念を体現する仲間たちの自由が、彼には必要だったのです。

 

エレンは、世界によって意味づけられたとおりの「島の悪魔」として終わったのではありません。

彼が自己と世界を意味づけることができる自由な存在であることを、エレンは最後の最後で証明しえたのです。

エレンは知っていました。

「始祖の巨人」の力を行使する彼が、調査兵団に、ミカサに殺されることにより、エルディア人の巨人化の能力がこの世からなくなるという結末が待っているのだと。

しかしながら、この結末に到達するためには、エレンは自分を「島の悪魔」にするしかありませんでした。

彼を止めに来た同期の仲間だけが、戦いの終わりとともに、エレンの真意を知ることができたのです。

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139話「あの丘の木に向かって」

  

こうしてエレンの真意は、すくなくとも部分的には、たんに他者を滅ぼすことではなく、状況を変革し、世界を意味づけなおすことに向けられていたのです。

そのかぎりで、エレンは「島の悪魔」では終わらなかった。

エレンの自由は、最後の最後で、価値ある自由として、「状況」を変革する自由として実現されたのです。

人類の8割を踏みつぶした大殺戮が、そのことによって帳消しにはならないにせよ......。

 

そして、この企てが成功するには、彼みずから選択した「島の悪魔」としてのエレンが、「人類の自由」をあきらめまいとする調査兵団によって、打ち破られることが必要だったのです。 

 

実現されるか分からない次回予告

ようやく、導入部で論じるべきことは論じ尽くしました。

言いたかったのは、この『進撃の巨人』のテーマになっている自由は、通俗的な自由観ではなく「積極的自由」や「実存的自由」といった哲学的な自由観がなければ解読できないよ、ということです。

このマンガを「実存的自由の群像劇」として深堀りするのは、これからが本番です。

 

しかし問題は、こんな哲学マニアしか喜ばない? ような深堀りを読みたがる『進撃』ファンがどれくらいいるのかということ。

まあこれは、ちょっとでも読者がいれば、それでよしとしましょう。

もう一つの問題は、筆者がいつネタ切れになるか、あるいは実生活で時間の余裕を失うか、ということ。

こればかりは、なるようにしかなりません。

途中で「俺たちの戦いはこれからだ!」と放り投げても、それはまあ、ご愛嬌ということで。

 

実現するかどうかは保証できない構想を、いちおう予告しておきますね。 

  1. 「世界は残酷だ そして とても美しい」 ~ ニヒリズムと実存的自由 【エレン、ミカサ、ベルトルト、リヴァイ】
  2. 「何を捨て去れば変えられる?」 ~ マキャベリズム・ニヒリズム・実存的自由 【アルミン、エルヴィン、フロック、エレン】
  3. 「オレには今何をすべきかがわかるんだよ」 ~ わたしを選ぶことの自由と責任 【ジャン、ライナー、アニ、コニー】
  4. 「お前... 胸張って生きろよ」 ~ 内なる声としての自由 【ユミル、ヒストリア、サシャ】
  5. 「エルディア人を 苦しみから解放する」 ~ パターナリズムと自由 【エレン vs. ジーク】
  6. 「待っていたんだろ 二千年前から 誰かを」 ~ 自由を求める奴隷 【始祖ユミル、ミカサ】
  7. 「僕らが知らない 壁の向こう側があるはず」 ~ だれかの自由であるわたしの自由 【調査兵団 vs. エレン】

  

(つづく)

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