2.3.b 「特別なわたし」の自由またはファウスト的自由 (下) ~ マキャベリズム・ロマン主義・実存的自由
「上」からお読みください。
unfreiefreiheit-aot.hatenablog.com
ファウスト的自由 ~ 崇高な瞬間を体験するために
この世界に「特別なわたし」が実現される崇高な瞬間を追い求める、ロマン主義的エゴイスト、またはファウスト的自我。
そういうファウスト的な存在にキースはなりそこねた一方で、エレンはそのような自我から解放され、等身大の自己を引き受けられるようになりました。
エルヴィンに戻ると、誰にでも特別な存在として認められているかれは、しかし外面的な名誉のために戦っているのではありません。
エルヴィンを駆り立てるのは、みずからの存在意義そのものに等しい願望、すなわち、壁外に人類が生存していることを王政は隠しているという、かれと父親が考えた仮説の正しさを証明してみせる夢です。
このエゴイスティックかつロマンティックな夢は、ウォールローゼ内での巨人出現事件をきっかけに、にわかに現実味を帯びます(51話)。
突如出現した巨人たちの正体は、事件と同時に無人となったラガコ村の住民たちであるということを、村に残されたあらゆる痕跡が示しています。
だとすれば、壁外をさまよう無垢の巨人たちもまた、もともとは人間であったかもしれない。
だとすればまた、人間を巨人に変える超常的な力が、つまり人類を魔法のように操る力が存在するとしても不思議ではない。
こうしてラガコ村の事件は、この奇妙な壁内文明が、そのような力をもつ者によって計画的に作られたことを示唆している。
並外れた洞察力をもつエルヴィンは、ここまでのことを瞬時に見通しました(この推論を、のちにかれは55話でピクシスに開陳することになります)。
その瞬間、このファウスト的自我の体現者は、無意識に笑みを浮かべていました。
そのさまを目の当たりにしたリヴァイは、このときはじめて、エルヴィンが戦う本当の理由をおぼろげながらに察したのです。
だからリヴァイは、壁内人類の命運をかけたシガンシナ区奪還作戦の直前、エルヴィンを試します。
片腕を失ったかれは壁内で勝報を待つべきであって、何が起きるか分からない決戦の地に居るべきではない。だからエルヴィンの足の骨を折ってでも、かれの作戦参加を断念させる。そうリヴァイは脅したのです。
これに観念したエルヴィンが、ようやく口にした本心。
「この世の真実が明らかになる瞬間には 私が立ち会わなければならない」
そのことが「人類の勝利より」大事だと、あえてエルヴィンは認めました(72話)。
このエピソードから、エルヴィンの「夢」がたんなる真理の発見以上のなにかであることが判明します。
かれにとっては、部下たちが戦いに勝利し、グリシャの地下室から世界の真理を持って帰ってくるのでは意味がありません。
ほかでもない、かれだけが気づいていた真理を、かれ自身の手によって掘り起こしてみせる、その至高の瞬間を、みずから体験しなければならないのです。
したがって、エルヴィンの、このロマン主義的エゴイストの究極目的は、ファウストが「時よ止まれ、汝はなんと美しい」という感嘆の声で言い表した崇高な内的経験に等しいもの、すなわち、究極的充実の瞬間を生きることに違いありません。
崇高な内的体験を追い求め、ファウスト的な渇望に突き動かされて生きること。
このロマンティックかつエゴイスティックな生の様式を、ファウスト的自由と、ためしに呼んでみることにしましょう。
究極の選択を前にしたファウスト的自由
ついに、シガンシナ区を奪い返そうとする調査兵団と、エレンを奪い去ろうとする巨人たちとの、最終決戦の舞台へ。
比較的小型の巨人にすら危なっかしい戦いを迫られる、わずかな熟練兵士の生き残りと大多数の新米兵士たち。調査兵団の明らかな弱体化。この最終局面に至るまでに、どれほど多くの仲間たちが命を散らせたことか。
この気づきがエルヴィンに、みずからのファウスト的渇望の直視を促します。
訓練兵時代、かれは父親から受け継いだ仮説を、仲間に語って聞かせていました。
ところが調査兵団に入ると、かれは「なぜか」その話をしなくなります。
ほんとうは、エルヴィンは知っていました。その理由は、自分の夢が、人類のために命を捧げる仲間たちとは共有できない、ひたすら私的な夢であるからだと。
...イヤ...違う
なぜかではない 私は気付いていた
私だけが自分のために戦っているのだと
他の仲間が人類のために すべてを捧げている中で......
私だけが... 自分の夢を見ているのだ (76話)
だから「人類に心臓を捧げよ」という兵士の宣誓は、エルヴィンにとっては、仲間や自分を騙す嘘でしかありませんでした。
自分自身の夢のために、仲間の命を「博打」に投げ込むための嘘でしかありませんでした。
そう気づいていながらエルヴィンには、自分の夢が、グリシャの地下室に眠る世界の真実が、どうしても気になって仕方がない。
そうやって 仲間を騙し 自分を騙し
築き上げた屍の山の上に 私は立っている
...それでも 脳裏にチラつくのは 地下室のこと (76話)
こうして、いまやこのファウスト的自我は、究極の選択を迫られつつあります。
調査兵団指揮官としてのわたしと、ロマンティックで孤独な夢追い人としてのわたしとの、どちらのわたしを貫くべきかという選択を。
ところで『進撃』と『ベルセルク』を両方読んだ読者は、このエルヴィンの独白から「蝕」の一場面を連想せずにいられないでしょう。
鷹の団団長グリフィスもまた、似たような選択肢を迫られます。夢に破れた悲劇の人間として終わるか、それとも夢をあきらめないために残る仲間を犠牲に捧げて人間を超越するかという。
そんなグリフィスの精神的自画像は、無数の屍を積み上げたのに、それでも夢の高みには届かない、そういう孤独な少年でした。
仲間の屍を踏みこえて夢に向かう、鷹の団団長と、調査兵団団長。
両者の類似性は言うまでもなく明らかです。
まあ『進撃』の作者・諌山は『ベルセルク』に影響されたことを公言しているようですので、両作品に似ているシーンがあるのは当然なのですが(他にもいくつか類似点がありますし)。
でも、問題はこの先。
二人の団長の、二人のロマン主義的エゴイストの選択は、正反対のものでした。
みずから悪魔になったファウスト
まずは鷹の団団長を見てみましょう。
「自分の国」を手に入れるという夢の実現まであと一歩というところで、グリフィスは失脚し、再起不能の傷を負わされ、絶望の底に沈みました。
まさにそのとき、悪魔とも天使ともつかない奇怪でグロテスクな霊たちが降臨し、グリフィスに選択せよと働きかけます。
かれら「欲望の守護天使」は、運命に弄ばれる人間に、人間を超越するための魔力を与えてくれるというのです。
その代償として「天使」たちが契約相手に要求するのは、その者にとって大事な、かけがえのない他の人間たちの命を「捧げる」という宣言。
こうしてグリフィスは、仲間か夢かの、人でありつづけるか、それとも人ならざる存在と化すかの、二者択一を迫られます。
かれが選んだのは、夢でした。
かれが選んだのは、仲間とともにある人間としてのわたしではなく、孤独なロマンティストとしてのわたし、渇望するエゴイストとしてのわたし、それを満たすためには人間性すら捨てられるほど激しい人間的欲望に狂いもだえるわたしでした。
仲間を「捧げる」と宣言したグリフィスは、悪魔メフィストフェレスと契約したファウストそのもの。
たしかに、契約の相手は悪魔ではなくて「欲望の守護天使」を名乗る妖しい霊たちである、という違いはあります(そもそも『ベルセルク』には、天使も悪魔もなく、人間と超自然的な諸存在とがいるだけなのですが)。
しかしこの「天使」たちは、むしろ「悪魔」メフィストフェレスよりもはるかに狡猾です。
満たされない感性をもて余す知的に早熟な青年をたぶらかすメフィストフェレスは、契約相手の欲望を満たすかわりに、かれを地獄に引き込みたいのですが、しかしその試みには最終的に失敗します。
ところが「欲望の守護天使」たちは、契約相手の青年がその天才的偉業にもかかわらず破滅に至るのを見届けてから、絶望の淵にある青年のもとに降臨したのです。
しかも「天使」たちは、契約相手を騙して陥れたかったのではなく、かれを救済し、仲間に引き込みたかったのです。
そのかぎりで、かれらは契約相手グリフィスにとっては、ほんとうに「天使」だったのです。
こうしてグリフィスは、メフィストフェレスよりはるかに狡猾な悪魔あるいは天使と契約して、自分の「夢」のために、みずからを悪魔あるいは天使(第五の天使フェムト)に変えたのでした。
......脇道にそれすぎましたね。『ベルセルク』の考察ブログじゃないんだぞっていう。
ポイントは、グリフィスはみずから悪魔となったファウストである、ということです。
かれはファウスト的自由を貫き、みずからを崇高さへの意志と化した結果、人類の一員であることを放棄し、文字通り人ならざる存在へと姿を変えたのでした。
ファウスト的自由を諦めたファウスト
調査兵団の団長は、悪魔となったファウストたる鷹の団団長とは、反対の選択肢をとりました。
夢なかばにして終わる人間としてのわたしを選んだのです。
「獣の巨人」の投石により、全滅の危機に立たされた調査兵団。
せめてエレンとともに退却するよう迫るリヴァイに対してエルヴィンは、どうせ死ぬなら任務を放棄し、最期にグリシャの地下室を見に行きたいという願望を、正直に吐露します。
弱音を吐くエルヴィンの表情に、あのクレイジーな博打打ちの冷静沈着な覇気は、みじんも見られません。
すぐ目の前にある「夢」を諦められないと、腕をわなつかせるエルヴィン。
でも、そんなかれの背中には、無数の視線が注がれています。死んだ調査兵団の仲間たちの、両の瞳から。
かれらは「捧げた心臓がどうなったか知りたいんだ」――そのように感じるわたしは「子供じみた妄想」を頭のなかで描いているだけなのだろうか。
そうエルヴィンは自問し、リヴァイの様子を窺います(80話)。
一見すると、ここでエルヴィンは何も選んでいません。ただ逡巡しているだけです。
しかし、ほんとうはすでに選び終えていたのでしょう。あとは、それを口にするだけだったのでしょう。
代わりにそれを言葉にしてくれたのはリヴァイでした。
「俺は選ぶぞ」。そう宣言したうえで、かれはエルヴィンに伝えます。
「夢を諦めて死んでくれ」と。「獣の巨人」は「俺が仕留める」と。
それがエルヴィン自身の選択であったことは、かれの心のつかえが取れたような、諦めと安堵が相半ばする表情から見てとれます。
この場面には、メフィストフェレスはいません。
リヴァイはエルヴィン(=ファウスト)をたぶらかす悪魔ではなく、かれ自身の決意をかわりに言葉にする役を演じただけです。
かれらの周囲に現れた仲間たちもまた、エルヴィン(=ファウスト)の意志を操る力などもたない、もの言わぬ死者にすぎません。
エルヴィン自身は、究極的充足の瞬間を追い求めるファウストですが、かれはとっくの昔に「メフィストフェレス」との契約を済ませていたはずです。
かれにとってのメフィストフェレスは、おそらく自分自身だったのでしょう。その孤独な夢を実現することに自己の全存在意義を見出す、そのような自分自身だったのでしょう。
ゲーテの描いたファウストは、究極的充実を体験するために悪魔の助けを借りたにもかかわらず、最期は神と、かつての恋人グレートヒェンの霊とによって許され、救われます。
しかし『進撃の巨人』版ファウストたるエルヴィンにとっては、悪魔メフィストフェレスもまた自分自身であり、したがって、かれに最終的にもたらされるべき救済もまた、神でも悪魔でもない自分自身から受け取るしかないのです。
地下室に隠された真理を見ることを、みずからの存在意義の究極的実現の瞬間を、あの「時よ止まれ、汝はなんと美しい」という感嘆をもらす瞬間を、みずから諦めたエルヴィン。
夢とともに、ファウスト的自由をも放棄したエルヴィン。
でも、この自由をエルヴィンは、諦めと屈服のなかで放棄したのではなく、もっと価値のある自由のために、かれが人間としてそう認めざるをえない自由のために放棄したのでした。
ファウストの魂は救済されましたが、エルヴィンの魂はどうなったでしょうか。それはもうすこし後で考察することにしましょう。
unfreiefreiheit-aot.hatenablog.com