進撃の巨人・自由論

わたしは自由であるか。自由とは何なのか。深堀りすれば自由の謎が解けるマンガもあるかもしれない。

0.8.b エレンに自由意志はあったのか (下) ~ 自由の哲学入門書として読む『進撃の巨人』

 

まず「上」から読んでね!

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やっぱりエレンは「自由の奴隷」だった?

自由意志なんて白昼夢。必然性に従うことが自由。

自由になるためには、自由意志なんて「あげちゃってもいいさ」と考えるんだ。

まさにこのスピノザ流「逆に考えるんだ」理論に立脚するならば、自分自身の自由意志に従っていると思い込むエレンは、ほかでもない「自由の奴隷」ということになります。

しかも、エレンが「自由意志」について語ったエピソードである112話の表題は「無知」です。

まるで、自由意志という信念を、白昼夢として、無知の表れとして見なした、スピノザをなぞるかのよう。

この話でエレンは「無知ほど自由からかけ離れたもんはねぇって話さ」と切り出したあとに、ミカサはアッカーマンの本能の奴隷だと告げました。

でも、ここで彼が言ったことは、あとで嘘だと判明します。

このシーンで「無知」であったのは、つまり「自由からかけ離れ」ていたのは、実はエレンなのです。 

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112話「無知」

 

ただし無知といっても、完全な無知ではありません。

むしろエレンは、ある面では、全てを知っていました。

すでに彼は、必然性を、すなわち、自分が地鳴らしを実行する未来の先にある「あの景色」を見ていたのですから。

でも、別の面では無知でした。

その未来にどうやって到達すればいいのか、彼は知らなかったのですから。 

この無知であった部分においては、エレンは必然性=「あの景色」ではなく、彼自身の「自由意志」に従ったのです。

 

ところで、ホッブズスピノザの自由論からは、次の命題が導き出されました。

必然性と自由は両立する。

必然性に従うことは自由である。

自分は自由意志に従っていると思い込む者は、むしろ自由ではない。

 

この命題にもとづくならばエレンは、必然性を半ばしか理解しておらず、残り半分においては自由意志に従っているのだと思い込んでいる点において、自由ではありません。

まさに「自由の奴隷」なのです。

実際にエレンは、まさに彼が自由意志で行為していると称する場面において、まったく自由ではなかった

だって、みずからの目的に反することをしたのですから。

自分が大切に思っているはずのミカサとアルミンに、ひどい仕打ちをしてしまったのですから。

それが目的を達成するために必要なのかどうか、よく分からないまま、エレンはこのときはその場の勢いで、愚かなふるまいをしてしまったのです(139話も参照)。

  

反必然論としての実存主義

ただし、エレンが「自由の奴隷」だというのは、あくまで必然性としての自由という考え方の内部でのこと。

しかしながら実存的自由は、この考え方と相容れません。

実存主義によれば、人間とは偶然的な存在なのですから。

 

 人間存在の根本的な偶然性を否定する者を、サルトルは「卑怯者」「下劣漢」と呼びます。

こうした人たちは、外的な道徳規範をではなく、人間の条件それ自体を否定するかぎりにおいて、卑怯、下劣なのです。

自分の全面的自由に目を覆う人たち、それを私は卑怯者と呼ぼう。自分の存在は……偶然性にほかならないのに、それが必然であることを証明しようとする人たち、それを私は下劣漢と呼ぶ。しかし卑怯者も下劣漢も、厳密な本来性の面においてのみ裁かれうるのである。

サルトル実存主義とはヒューマニズムである」  

 

実存的自由とは、外的原因が意志や行為を決定することを無視するのか?

そんなことはありません。

サルトルは、社会環境のような要因を無視しませんでしたし、むしろ階級闘争や人種差別の問題を熱く語りました。

ただし彼は、事実問題としては人間が決定されていることを認めたとしても、しかし倫理的問題としては、人間を必然性の産物と見なすことを拒否したのです。

 

決定論は、事物の運動のように、人間の行為もまた、ある種の物理的な因果関係のなかにあるという議論にすぎません。

しかし必然論は、偶然性のなかでなされた行為は無意味であり、必然性のなかにある行為だけに価値があるという、一種の道徳的判断を含んでいると言えます。

この判断が、さらに、偶然的行為であれ必然的行為であれ、人間の行為は事物の進行に影響を与えることができないという判断にまで達すれば、それは宿命論と呼ばれるでしょう。

そして実存主義と相容れないのは、偶然性のなかで行為することは無意味であるという価値判断なのです。

 

人間は偶然的に、たまたま生を享けたにすぎません。

超越的存在が「生きろ」と命じたわけでもないが、逆に「生まれるべきでなかった」などと断罪しているわけでもないのです。

だからこそ、人は自由に生きるしかない。

いや、むしろ「自由に死ぬ」ことも、それ自体として否定はされない。

問題は「仕方なくこう生きる」と言い訳することや、あるいは「仕方なく死を選ぶ」と言い訳すること、つまり必然性という仮定に屈することなのです。

それは、偶然的だが、かけがえのない実存としての自己への裏切りなのです。

 

したがって、実存主義者のスローガンは『もののけ姫』に逆張りしていた頃の富野由悠季と同じものとなります。

「頼まれなくたって、生きてやる!」

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反必然論者ユミル

『進撃』において、反必然論としての実存的自由をもっとも明確に体現しているのは、ユミル(104期生のほうの)でしょう。

ヒストリアに宛てた手記で、彼女は次のように自分の人生を意味づけました。

どうもこの世界ってのは ただの肉の塊が

騒いだり動き回っているだけで

特に意味は無いらしい

そう 何の意味も無い

だから世界は素晴らしいと思う

再び目を覚ますと そこには自由が広がっていた

私は そこから歩きだし 好きに生きた

悔いは無い (89話) 

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89話「会議」

 

ユミルは「意味のない」 世界にたまたま生まれた者として、偶然的であるがゆえに自由な存在として、自分を生き抜きました。

彼女は、世界の必然性を知りません。スピノザのいう自由な「賢者」ではありません。

しかし彼女は「自由の奴隷」でしょうか?

ユミルがそうではないとすれば、やはりエレンも「自由の奴隷」ではないのです。

前回見たように、彼を自由に駆り立てる根本的動機は「生まれてきてしまった」こと、つまり生の根本的な偶然性なのですから(0.7)。

 

それはまた、結局のところ『進撃の巨人』という作品そのものが、スピノザ的な自由を許さないということを意味します。

スピノザにおいて、必然性を知ることが自由なのは、必然性に従う生が真の幸福であるかぎりにおいてでしかありません。

しかし『進撃』の世界で必然性に従うことは、少なくともエルディア人にとっては、幸福の否定でしかありえないのです。

ユミルの対極に位置する必然論者、すなわちフリーダは、他の王位継承者と同様、エルディア人は来たるべき滅亡を消極的に受け入れるしかないと考える、破滅的な宿命論者だったのでした。

 

ユミルとフリーダの対比については、またいつか述べることがあるでしょう。

 

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