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今日、考えてみたいのは、わたしの行為の原因が外部にあるとすれば、わたしは自由ではないのか? ということ。
すなわち、決定論や必然論の問題です。
スピノザやホッブズの哲学に手がかりを求めることになるでしょう。
エレンは自由の奴隷?
『進撃の巨人』は「実存的自由の群像劇」である。
いかなる選択の余地もないように見える極限状況のなかで、エレンはみずから選び、登場人物たちもまた自分の選択に従った。
――前記事では、こうカッコよく言い切りましたが、はたしてこの読みかたに問題はないのでしょうか。
地鳴らし前後のころには、ネット掲示板で、よく見かけたものです。
「エレンは自由の奴隷」というコメントを。
一部の読者の揶揄にすぎないと、これを軽く扱うわけにはいきません。
ジークと合流しようとするエレンが、ミカサ、アルミンと話したシーンを思い出しましょう(112話)。
自分が何をしようと「オレの自由意思〔ママ〕が選択したものだ」と宣言したうえで、エレンはアルミンを(彼に喰われた)ベルトルトの意志の奴隷と、ミカサをアッカーマンの本能の奴隷と、急にディスり倒したのです。
怒りにふるえ彼に殴りかかるも、逆にボコされる、フィジカルの弱いアルミン。
彼にエレンはこう言われてしまいます。
「...どっちだよ クソ野郎に屈した奴隷は...」と。
この一言は、ちょっとエレンに刺さったようです。
ここでは作者・諌山自身が、エレン=「自由の奴隷」説をほのめかしているようにも読めます。(なお、このエピソードの題名「無知」はよく覚えておいてください。)
さらに次のシーン。
始祖の力を解放し、地鳴らしをはじめたエレンがマーレに到達。その姿が露わになりました。
まるで巨大な骨のムカデのようですが、本体である進撃の巨人は、糸で吊られることで姿勢を保っているのです。
この造形には、自由を求めるエレンが、本質的には、常軌を逸した目的を達成することに駆り立てられた操り人形である、という皮肉が込められているように見えます。
記憶によれば、ネット掲示板でもそういう感想が散見されました。
しかしながら、どういう意味でエレンは「自由の奴隷」だと言えるのでしょうか?
まず考えられるのは、エレンは自分の意志を貫こうとしているが、そのせいでかえって自由に選択できていないという意味。
自由のためには地鳴らししかない、という考え以外に意識を向けることができず、この考えに縛りつけられているということ。
しかし、すでに述べたとおり(0.6)、実存としての人間は、他の選択肢がないような状況においても、選択することからは逃れられません。
もしエレンが常軌を逸した執念に縛られているとしても、実存的に見れば、彼はそのような自分を選び、そのような自分になったのであって、やはり自由なのです。
自由意志
エレンの意志が自由であることは、哲学的な自由意志論にもとづいて説明することもできます。
この主題をめぐる長い歴史をもつ哲学議論を詳しく見る必要はなく、次の点だけを確認しておけば十分でしょう。
人間は自由意志をもつ。なぜなら(地上の被造物においては)人間だけがみずからの行為に責任をもつことができる存在だから。
古代ギリシアの哲学者アリストテレスは『ニコマコス倫理学』で言います。
ある行為が善いとか悪いとか、それに徳(アレテー)があるとかないとか言えるのは、その行為が、他のものからではなく、行為主みずからの意志から出てくる場合のみであると。
(みずからすすんで行う人助けは善だが、他人に命令されておこなう人助けはとくに善いことではない。)
ストア派の哲人エピクテトスいわく、外的に決定されるものごとに心を動かされず、自己の内的原因すなわち意志を自然の法則のみに従わせることが、人を自由にするのです。
最大の教父哲学者アウグスティヌスによれば、原罪により堕落した人間には、神の恩寵なしに善くあることは困難なのですが、しかし原罪が自由意志を無効にしたわけではないので、やはり悪の責任は行為者自身に帰されねばなりません。
アリストテレス、エピクテトス、アウグスティヌスに共通する観念は、これです。
意志とは、行為主のなかにある行為の原因である。
そして意志が自由であるならば、この意志から発した行為は、その善悪を問われ、その責任を行為主に帰すことが可能な行為として成立するのです。
それをふまえると、自分の行為は「オレの自由意志が選択したもの」だというエレンの宣言は、自分の意志が他人に縛られていないと言いたいだけでなく、行為の責任を自分自身で引き受ける覚悟のほどを表現するものとしても理解できます。
自由意志という概念は、みずからの行為の責任を行為主が自覚することを促すのです。
この点にかんして、意志の自由は「わたしはみずからの責任において選ぶことから逃れられない」という実存的自由とも共鳴すると言えます。
意志の外的原因
しかし「自由の奴隷」説が、自由を欲する執念に囚われたエレンの心という皮肉以上の意味をもっているとすれば、どうでしょうか?
つまり、エレンは自分自身の意志に従っていると信じているけれど、しかし彼の意志そのものが、実は外的に決定されているのではないか、という問題です。
物体のあらゆる運動に原因があるように、「~したい」「~しよう」という欲求や意志にも、原因があります。
エレンの「地鳴らしするぞ」という意志も、例外ではありません。
進撃の巨人の継承者は、過去の継承者に、時間を超えて記憶を共有できます(121話)。
くわえて、すべての知性巨人の継承者は、巨人化の能力とともに、先の継承者から記憶をも引き継ぎます(それを自由に思い出せるわけではないにせよ)。
このような、巨人継承者たちのあいだに生じる記憶の伝達作用によって、エレンは父親グリシャの記憶をつうじて「未来の自分の記憶」を見ました。
この複雑な記憶伝達の作用をつうじて垣間見た「あの景色」 が、エレンの「地鳴らしするぞ」という意志の原因だったのです。
この原因は、内的と言えるでしょうか、それとも外的でしょうか?
それは「未来の自分の記憶」ではあるにせよ、自分の意志とは無関係に(ヒストリアとの接触をきっかけに)降ってきた、まったく外的な原因だというべきでしょう。
しかしながら、意志が外的原因に決定されているというのは、考えてみれば当たり前のことです。
昼ご飯に松屋のカレーを食べるぞというわたしの意志は、空腹という生理的要因や、松屋が近隣にある環境に住んでいることなど、意志以外のさまざまな要因に規定されています。
いかなる外的要因もなしに作られる意志なんて、ありえません。
でも、そうだとすれば、自由意志なんて存在しないという結論になってしまう。
エレンは「自由の奴隷」だったということになってしまう。
はたしてそうなのか?
必然性としての自由 ~ ホッブズの巻
意志が、つまり行為が、それに先行する外的原因によって決定されるという考え方は、決定論と呼ばれます。
決定論と自由の関係をめぐって、哲学者たちの意見は分かれます。ここでは二系統の意見を取り上げましょう。
第一に、外的原因により意志が決定されることと、人が自由に行為することは、両立するよ派。これはホッブズ(1588-1679)の見解です。
第二に、自由意志なんて存在しないし、そんなものないと考えたほうが自由になれるよ派。スピノザ(1632-1677)の見解が、これに当たります。
第一の、いわゆる両立論の立場をとるホッブズによれば、人間の心はつねに、さまざまな対象へのさまざまな欲望と嫌悪とに動かされています。外的な対象が原因となって意志を決定するのです。
ただし、同一の対象について、それを欲し、かつ避けようとするという、矛盾した情念が生じることは珍しくありません。たとえば、好きな人にコクるかどうか悩んでいる人の心がそうです。
こういうとき、人間は熟慮します。熟慮のうえで、ある対象への最終的な意志を決定するのです。コクってうまくいったらどうなるか、振られたらどうなるか、二つの結果を予想しながら、どうするかを慎重に選びます。
このような熟慮にこそ人間の自由はあるとホッブズは考えるのです(『リヴァイアサン』6章)。
そしてホッブズの定義によれば、自由とは、行為を妨げられないことでしかありません。それゆえに、ホッブズは断言します。「自由と必然は両立する」と。
自由と必然は両立する。水において、それが水路によって下る自由だけでなく、その必然性があるように、人間が意志しておこなうことにおいても同じなのである。
この線で考えるならば、エレンの地鳴らしは、外的に決定された意志の結果であり、偶然的ではなく必然的な行為なのですが、それでもやはり自由な行為なのです。
彼はそれをおこなうかどうか熟慮できたし、いろいろな妨げを排除してそれを現に実行できたのですから。
必然性としての自由 ~ スピノザの巻
第二の考え方は、必然性について、もっと強い主張をおこないます。
すなわち、必然性に従うことこそが自由であるというのです。
スピノザは、自由意志、自由な決定という観念を、白昼夢と変わらないものと見なします。
わたし自分の心の自由な決定にしたがって、何かをしゃべったり、黙っていたりと、さまざまなことをしているのだと信じている者は、目を開けながら夢を見ているに違いない。
スピノザ『エチカ』3部
しかし人は、この自由意志という夢から覚めて、真の自由を得ることができる。
無知の者たちは、外的な原因に振り回されるだけ。
それにたいして、精神の自由に達した「賢者」は、世界を「永遠の必然性」において知ることで、精神の「真の満足」に達するのです。
無知の者は、外部の諸原因に揺り動かされ、決して精神の真の満足を享受しない......。これに反して賢者は......ほとんど心を乱されることがなく、自己、神、および事物を、ある永遠の必然性によって意識し、決して存在することをやめず、つねに精神の真の満足を享受している。
スピノザ『エチカ』5部
わたしは自分自身の意志に従っている、だからわたしは自由だ、じゃと?
何を抜かしよるか、たわけもんがー!
世界のすべては必然的にこうなっていると理解するのじゃ。
さすればおぬしは、もう何にも惑わされぬ。
それが本当の自由なのじゃ。
――こんなかんじです、スピノザの言っていることは。
(ジイさん口調はノリです。ほんとはスピノザは若死にです。)
前回取り上げた「真理があなたがたを自由にする」(0.7)も思い出されます。
ただしスピノザにおいては、その「真理」が必然性として把握されている点が、もっとも重要です。
自由になるためには、むしろ自由意志にこだわらず、必然性を受け入れろと、スピノザはいうのです。
「逆に考えるんだ 〔自由意志なんて〕「あげちゃってもいいさ」と考えるんだ」
(つづく)
ついでに一言。
最終巻「スクールカースト」のギーク・アルミン、ネットの議論をエミュってて草ァッ!
作者もいろんなネットの評判は気にしてたんだろうな。
へたにぶれずに、よく描いたなあと思います。
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