進撃の巨人・自由論

半分は哲学の解説ブログ、半分は作品の考察ブログ(最近は3:7くらい)。

5.8.c なぜエレンは過去に干渉するか、または時間の「状況」化 (下) 〜 自由になることと人間であること

 

unfreiefreiheit-aot.hatenablog.com

 

第一の疑問「なぜエレンの過去干渉は過去を改変しないか?」には前記事で答えました。

残る問題は、これです。

なぜエレンは、過去を改変することができないのに、過去をそうあったとおりに決定するためだけに過去に干渉するのか?

そのことに、いったいどんな意味があるのか?

 

「頭がめちゃくちゃに」なったエレン

あの「記憶の旅」においては、エレンはレイス家と対決したグリシャに干渉しましたが、しかしそれは、因果の時間的連鎖には影響を及ぼさないはずの行為でした(5.8.a を参照)。

そして「始祖」掌握後のエレンは、本格的に過去への干渉をはじめたようです。

最終回でエレンは、親友アルミンに吐露しました。

「始祖の力」には「過去も未来も無い」のだと。

そのせいでかれは、ある残酷な決断を迫られ「頭がめちゃくちゃになっちまった」のだと。

すなわち、ライナーたちがウォールマリアを破壊した日、ベルトルトに近づいた無垢の巨人(ダイナ)がかれを喰わないように、エレンがダイナを自分の母親カルラの方に導いたのだというのです (139話)。

 

ご存じのとおり、エレンが干渉したのはこの場面(96話)。

ベルトルトにわき目もふらずに、無垢の巨人(ダイナ)は壁内へ、向かう先はエレンの母カルラのところでした。 

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96話「希望の扉」

 

これをふまえて推測すると、あの「記憶の旅」で起きたことと同じように、エレンは「始祖」を掌握した瞬間、かれが干渉しなければならない過去を見たのでしょう。

すなわち、かれが選択した未来を成立しえないものにしてしまうような、過去の「ルート分岐」を、エレンは見せられたのだと思われます。

その最たるものが、ダイナ巨人にベルトルトが喰われるという「ルート分岐」だったのでしょう。

 

なぜそういう選択を迫られねばならないのかは、もちろん描かれていないので分かりません。

「始祖」の力を完全に掌握した者は、だれでも「そうあったとおりの過去を選ぶかどうか」という試練を突きつけられるのかもしれません。

あるいは、ちょいワル系の天然ジゴロのエレン君に興味を示した始祖ユミルが、悪趣味なしかたでエレンの覚悟のほどを試したのかもしれません。

まあそのへんの事情は、なにか設定があろうがあるまいが、本質的な問題ではないですが。

 

あえて想像をたくましくしてみると、エレンが選択を迫られた過去のできごとは、他にもあったのかもしれません。

たとえば、巨大樹の森で「女型の巨人」に襲われたことは?

もし過去をやりなおす機会が与えられたなら、エレンがやりなおしたいと思うできごとの、それは最有力候補の一つでしょう。

もしそのとき、エレンがリヴァイ班の仲間と戦っていたら、かれらを失わず、アニをより少ない犠牲で捕らえられたかもしれないのですから。

 

それでもエレンは、過去に干渉しませんでした、あるいは干渉できませんでした。

この件を改変してしまえば、その後にどんな不都合が生じるかは明白です。

まず、ストヘス区での大捕り物がなくなります。

そうなると、逃げようとする「女型」が割った壁から巨人の顔が覗く、というあの(当時は)衝撃のできごとも生じません。

ひいては、ハンジさんがニックに壁の秘密を問い質すきっかけそのものがなくなります。つまり調査兵団は、ヒストリアが「壁の王」の血筋だと知る糸口を得られないことになります。

もうしそうなっていたとすれば、王政との対決において、調査兵団はヒストリアを切り札に使うことができなかったでしょう。 ひいては王政に敗北したことでしょう。

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33話「壁」

 

あるいは、ライナーたちにさらわれたエレンを取り戻す戦いのなか、ハンネスさんが無垢の巨人(ダイナ)に喰われてしまったことは?

ウォールマリア破壊のときにダイナの「無垢」を操作したように、ここでもエレンは、ダイナの「無垢」が過去の自分のところに近づいてこないように操作できたでしょう。

そうすれば、ハンネスさん(かれも「さん」づけにしてしまうなあ)が単身、ダイナの「無垢」に挑むこともなかったでしょう。

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50話「叫び」

 

でも、このときダイナの「無垢」と遭遇しなければ、エレンは自分が「座標」をもつと知ることができなかったはずです(この呼び方いつのまにかフェイドアウトしましたね、つまり「始祖」の力ですが)。

というより、この件の報告を受けることで、ロッド・レイスはエレンが「始祖」をもっていると確信し、行動を開始したわけです。

だとすれば、ダイナの「無垢」との遭遇がなければ、兵団が王政を打倒する未来は成立しなかったかもしれないのです。

したがって、このできごとはエレンにとって必要でした。

ひょっとしたら作中で描写されていないだけで、このできごとにおいても、実は「始祖」掌握後にエレンは、ダイナの「無垢」がそう動くように干渉したのかもしれません。

 

(とはいえ、エレンは過去の自分に「始祖」の能力や、その発動条件を、あらかじめ知らせることはできなかったのでしょうか? でも、もしそのように過去干渉するなら、エレンは当初から「始祖」や「進撃」の能力を完全に理解していることになり、いわゆる強くてニューゲーム状態が成立してしまいます。それもまた、予測不可能な歴史の変化をもたらす可能性が高いといえましょう。未来の予測不能な変化のリスクを避けるにためには、やはり過去を改変すべきではないのです。)

 

こうしてエレンは、掌握した「始祖」の力をもってしても、次のように思い知るしかなかったのでしょう。

すなわち、過去をどう改変しても、より悪い結果がもたらされることはあれど、未来がより善いものになることはないと。

かれが決意した「地鳴らし」遂行よりも望ましい結果があるとすれば、それはもちろんパラディ島と世界との和解でしょうけれど、そういう結果にたどり着くルート分岐を作り出すなんて、とうてい不可能なのです。

 

むしろ、エレンが「始祖」の力を掌握するという結果すら、数えきれないほどの残酷な偶然の積み重ねの上に、かろうじて成立しえたもの。

そうなるまえにエレンが敗北し、王政なりマーレなりに「始祖」を奪われていた可能性だって、大いにあったでしょう。

そう心から納得したからこそ、エレンは過去に干渉する能力を得たのに、過去を改変しないどころか、むしろ過去をそうあったとおりに選び、決定したのです――そのことによって、かれの「頭がめちゃくちゃに」なってしまったとしても。

 

「残酷な偶然」と「創造的意志」

そう、かくも残酷な「現在」をなすのは、無限に生じてくる「残酷な偶然」あるいは「過去」の、とほうもない集積なのです。

そして「過去」とは、無数の諸行為の、それらの因果関係の、無限に複雑な連鎖をなしており、その環のたったひとつに手を加えるだけで、すべてを台無しにしてしまうかもしれません。

だからこそ過去は、そうあったとおりにしかありえないのです。

だからこそ現在を、この「残酷な偶然」の集積を、無力な人間は「必然」やら「宿命」やらと呼びならわしてきたのです。

 

しかし、思い出してください。

あの「力への意志」の哲学者、ニーチェ箴言を。

すなわち、必然性と呼ばれるものが「残酷な偶然」の集積にすぎないという認識は、人間の意志を力づけてくれるということを。

 

※ 併せ読みがオススメ

unfreiefreiheit-aot.hatenablog.com

 

ニーチェによれば、さしあたり人間は「残酷な偶然」を、ただ「そうであった」こととして、ひとつの「謎」として、受け入れるしかありません。

このトラウマ的経験に耐えられない者は、それに「必然」という名を与えることをつうじて、あの「何も欲しないよりはいっそ無を欲する」ニヒリストになりおおせるでしょう。

 

しかし人間の意志は、残酷でトラウマ的な偶然を「わたしがそう意志した」ことへと逆転させることができます。

「そうあったこと」を「わたしが意志すること」に変える「創造的意志」は、不条理な世界に意味を与えるのです。

すべての「そうであった」は、一つの断片であり、謎であり、残酷な偶然である――「だがそう意志したのはわたしだ!」と創造的意志が言うまでは。

「だがそう意志するのはわたしだ! だからわたしはそう意志するであろう!」と創造的意志が言うまでは。

ニーチェツァラトゥストラはこう語った』 第2編「救済について」

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「始祖」掌握後のエレンの意志、すなわち、過去をそうあったとおりに決定するエレンの意志は、まさにこのような「創造的意志」の極致といえます。

かれが「始祖」の能力をもっておこなったのは、まさに「残酷な偶然」を「わたしが意志したこと」に、そして「わたしが意志するであろうこと」に置き換えることでした。

しかしそれは、決して無意味なことではありません。

ニーチェがいうように、それは「残酷な偶然」に意味を与える「創造的意志」の行為だったのです。

この創造的行為をつうじてのみ、人間は「残酷な偶然」――ニヒリストが「必然」と呼ぶもの――に振り回される奴隷であることをやめ、自由になることができるのです。

「そう意志するのはわたしだ!」

 

時間の「状況」化

結論を引き出しましょう。

過去に干渉する力を手に入れたエレンは、次のことを明らかにしたのでした。

過去干渉の能力が人間に許す自由とは、過去をそうあったとおりに決定する自由でしかないことを。

時間すら飛び越えてみせる、全能の神のごとき力を手にしたところで、人間には、神のそれには遠く及ばぬほど狭く限界づけられた自由しかもたないことを。

諸行為の因果の無限に複雑な連鎖を、思いどおりに改変できるほど広大な知恵なんて、人間にはもちえないことを。

 

むしろ、こう述べるべきでしょう。

時間を超越する人間は、ひきつづき通常の人間と同じ程度に自由であると。

すなわち、実存としての人間と同じ程度に自由であると。

時間超越者としてのエレンが行使した自由とは、過去と呼ばれる「残酷な偶然」の集積を「わたしがそう意志したこと」として引き受け、意味づけなおす自由でした。

この自由は、実存的自由と、すなわち「状況内存在」としての自己を引き受け、意味づけなおすという、すべての人間に委ねられた自由と、本質的に同じものというべきでしょう。

状況とは、無数の他人により決定されたものとして、わたしに対して現れます。

それと同じように「残酷な偶然」としての過去もまた、わたしの行為と、無数の他人による無数の行為との集積として、わたしに対して与えられるのです。

 

このことを、エレンが掌握した「始祖」の力は、いわば時間を「状況」化することによってかれに示しました。

「始祖」の能力は、その保有者の眼前において、過去や未来のできごとを、ひとつの「現在」という同じ平面に並べるものです。

別言すれば、通時的な行為の連鎖を、共時的な状況として置きなおすのです。

 

もしあなたが時間を飛び越えられるとしても、あなたに時間を支配することはできません。

むしろ、過去に干渉する能力は、時間を「状況」として引き受けなおすことを、あなたに迫ることでしょう。

それでもあなたは、時間を旅行したいなんて、あるいは過去をやりなおしたいなんて、空想にふけっていられるでしょうか?

 

時間を超越したいと欲する資格をもつのは、残酷な偶然の集積でしかない過去に向かって、あえて次のように宣言できる者だけです。

「そう意志するのはわたしだ!」と。

ニーチェとともに、あるいはエレン・イェーガーとともに。

その結果として、どれほど苦い涙を飲み込まねばならないとしても。

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139話「あの丘の木に向かって」

 

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