進撃の巨人・自由論

半分は哲学の解説ブログ、半分は作品の考察ブログ(最近は3:7くらい)。

0.9.a わたしは他人とともに自由でありうるか (上) ~ 自由の哲学入門書として読む『進撃の巨人』

 

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一応、いままで書いてきたのは「進撃の巨人・自由論」のたんなる導入部のつもりだったんですよ。長くなりすぎて、我ながら呆れます。

でも、今回が導入の最後です(分割するけど)。

 

わたしの自由と、他人の自由とは、つねに両立させることができるのか? というのが今回のテーマ。

作中では、エレンの望む自由は、島外の人類とは両立しないということになってしまった。だからエレンは「地鳴らし」を遂行した。

エレンには、本当にこの結末しかなかったのでしょうか? 哲学的に考えてみましょう。

 

自分自身の立法者になること

今回、手がかりとしたいのは、イマヌエル・カント(1724-1804)の自由論です。

彼の考える自由は、普遍性への、またしたがって他者への、強い志向をもっているからです。

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ただしカントにおいて、他者を志向することと、他者に従うこととは、厳密に区別されます。

カントの自由観は独特です。

彼の『実践理性批判』にいわく、自由とは「自分自身に対して立法する」ことを意味します。

自分に立法するとは、つまり自分の意志をみずから立てた掟に従わせることです。

これをカントは Autonomie すなわち自律と呼びます。

その一方で、自分の意志であれ他人の意志であれ、法則ではなく意志そのものに従うことを、彼は他律(Heteronomie)と呼びます。

 

カントのカプ厨批判

自律とは、自分自身に立てる「法則」とは、自分自身の掟とは、何でしょうか?

「~が俺のジャスティス」みたいな? 

でもそれだと、たんに自分の趣味や嗜好や性癖を唾飛ばしながら熱弁しているだけのキモオタですよね。本人にとっては、自分自身の心から湧き上がる掟なのかもしれないけど......。

 

なぜ「俺のジャスティス」が、カント的意味での「ジャスティス」=自律にならないのかを説明します。

われらがカプ厨は言います。「○○と○○のカップリングが好きで好きでたまらない! だから○○×○○が俺のジャスティスだ! ○○×○○を推すべきだ!」 と。

あー、この人やっちゃったよ。カントにNGワード、出しちゃったよ。

巨人の実験についてエレンがハンジさんに質問したときみたく、カントの長話、止まらなくなるよ? オルオに「オイ! やめろ」と小突かれるよ? 

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20話「特別作戦班」

  

いまこのカプ厨が口にした、言ってはならない言葉は「だから」です。

カントは「AだからBせよ」を自由の法則とは認めません。

なぜか? 「AだからBせよ」では、Bは目的ではなく、Aという目的のための手段でしかないからです。

したがって「○リ○リが好きだから○リ○リがジャスティス」は、○リ○リを推す自由な意志では決してありません

考えてもみてください、われらがカプ厨が、○リ○リよりもハマってしまうカプに出会ってしまったら、どうなるでしょうか?

この人の「ジャスティス」は替わるでしょう。

東○のことは忘れて、エレヒス派となり、エレミカ派と熾烈な戦いを繰り広げるかもしれません。

したがって、このカプ厨はカントに「あなたの○リ○リを推す意志は、全然自由じゃないですよ」ということを、滔々と説明されてしまうでしょう。

 

仮言命法定言命法カップリング推しは自由な意志になりうるか

なぜカップリング推しは自由な意志ではないのか?

「○○×○○萌え」「○○×○○尊い」は、たんなる感情または情念でしかないからです。

感情または情念は、自然法、つまり因果関係のなかにあります。

○○×○○のカラミが原因であり「尊い」という感情がその結果です。

そして、感情=自然法則=因果関係に左右される意志を、カントは自由な意志とは認めません。

それは他律的な意志にすぎないのです。

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それでは自由な意志とは? 自律的な意志とは?

感情=自然法則=因果関係には左右されない意志、ということになります。

「AだからBせよ」「AならばBせよ」という条件つきの掟(格率)ではなく、ただただ「Bせよ」という無条件の掟(格率)に従う意志こそが、カントによれば自由なのです。 

この意志は、現象の自然法則にはすこしも関わりがないと考えられねばならない。……格率のたんなる立法形式だけを自分の従うべき法則にしうる意志は、すなわち自由な意志である。

カント『実践理性批判

「格率のたんなる立法形式だけを自分の従うべき法則にしうる意志」などと、小難しい言い回しをカントはしていますが、ビビるこたぁありません。

ただただ「Bせよ」という無条件の掟(格率)に従う意志、という意味に解せばオーライです。

よくカント哲学の解説で、仮言命法定言命法という専門用語が出てきますが、それはこのことです。

つまり「AならばBせよ」という条件つきの掟(格率)が、仮言命法

これにたいして「Bせよ」という無条件の掟(格率)が、定言命法ということです。

 

これらの違いを、具体例にもとづいて考えましょう。

「エレヒス尊いと思うなら、エレヒスを推せ」。

これは条件つきの掟(格率)、すなわち仮言命法です。

この掟(格率)に従うことは、結局のところ「エレヒス尊い」という感情(欲望?)に従うことを意味します。

では、このカプ厨が『進撃』の結末を読んで「やっぱエレミカ尊いわ、ユミルちゃんの気持ち分かるわ」となったら、どうでしょう?

この掟はあっさり放棄されてしまいますね。

これが条件つきの掟(格率)の問題点です。つまり、それは普遍的ではないのです。この掟を立てた人の気まぐれに応じて、いつでも変化してしまうのです。

 

では、カップリング推しを無条件の掟(格率)として、定言命法として立てることはできるのか?

理論上は可能です。

「エレヒスを推せ」。

作品の結末も顧みず、ファンの評価の推移も顧みず、ただひたすらにエレヒス推しを徹底する。

もし自分自身の心に「エレミカ尊い」が湧き上がってきたとしても、あるいはリヴァエレに自分の脳を乗っ取られつつあるとしても、ひたすらエレヒス推しを貫く。

エレヒスは「ジャスティス」であり、真理であり、普遍的な格率なので、何が起きてもエレヒスという掟に殉じる。ジークを崇拝するイェレナのように。

 

定言命法とは、無条件の掟に意志を従わせるとは、こういうことです。

超強硬派の、原理主義の、ゴリゴリのエレヒス派(いや逆にエレミカ派でもいいんですが)になることです。

でも、そんなのバカバカしいですよね。カップリングなんて趣味の話でしかないのに、自分の好みの変化に気づかないふりをしてまで、特定のカップリングを推すなんて。 

 

なぜ定言命法により自己立法することが自由か

きっとあなたはこう思うでしょう。

おまえの次のセリフは「定言命法って、なんだか融通がきかないな」という!

定言命法に従うなんて、ぜんぜん自由じゃなさそう」という!

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言いたいことはよく分かります。

でもカントによれば、定言命法だけが、無条件の掟だけが、人を自由=自律的にするのです。

条件つきの掟=仮言命法は、場合によって出したり引っ込めたりできる掟です。

そのような掟しかもたない人は、結局、掟ではなくて、自分の情念に従っているにすぎません。

自分の情念に振り回される人は、暴君の命令に振り回される人民と同じく、自分をコントロールしていないのです。他律的なのです。 

逆に、いつでも、どこでも、誰にたいしても実践できるような無条件の掟=定言命法にしたがって行動する人は、自分をコントロールできている人です。

 

もちろん、どんな掟でもいいから定言命法として実践せよ、というのはバカバカしい話です。「○○×○○を推せ」を無条件の掟とするなんてナンセンスです。

だから、いつでもどこでも無条件に実践されるべき、普遍性のある掟を、みずから見つけ出さねばなりません。

たとえば「友人を大事にせよ」とか「自分が納得できないことに同意するな」とか、そういう掟であれば、それをどんな状況においても貫くことには、とくにそれを実践するのが難しい状況においてもそれを貫くことには、意義があるでしょう。

そのような普遍性をもつ掟を、カントは「普遍的立法の原理」と呼びます。

君の意志の格率が、いつでも同時に普遍的立法の原理として妥当するように行為せよ。

カント『実践理性批判

つまり、いつでも、どこでも、どんな状況でもそれを実践すべきと信じられる掟を、自分自身に立て、実践せよ、ということです。

 

解説が長くなりましたので、まとめます。

どうすれば、あなたはカントのいう意味で自由=自律的になれるのか?

第一に、自分自身に立法すること。ある掟に自分を従わせようと、みずからの意志によって決めること。

第二に、この掟を、いかなる状況においても実践されるべき「普遍的立法の原理」として引き受け、つねにこの掟によって自分を律すること。

これができれば、あなたもカント主義者!

 

みずからに「立法」するエレン

カント的意味においても、エレン・イェーガーは自由=自律的な存在です。

エレンはエレン自身にたいする立法者でした。

戦わなければ勝てない 戦え」というのが、エレンの自己立法です。 

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6話「少女が見た世界」

 

戦わなければ勝てない 戦え」。

これは形式的には「AならばB」という仮言命法=条件つきの掟であるように見えます。

しかし、幼きエレンが心に抱いた掟は、人間の自由を奪う存在は許せない、許してはならない、それがどれほど強大な存在であっても、というものでした。

人間の自由を奪う存在は、それがどれほど強大でも、つまり無条件に、エレンは許さない。

そして、どれほど力の差があっても、戦う前から勝負を放棄してはならない。

そういう意味で、彼は「戦わなければ勝てない 戦え」と言っているのです。

だからエレンの掟は、その含意を考慮すれば、定言命法=無条件の掟なのだと判明します。

 

この掟にしたがってエレンは、ミカサをさらった誘拐犯を、二人も殺してみせました。

ところで『進撃』はファンタジー作品ながら、ストーリーのもっともらしさを巧みに演出しています。しかしどうも、この誘拐犯刺殺のエピソードだけは真実味が感じにくい。

アッカーマンという一種の改造人間の一族で、特殊能力もちという設定のミカサはまだいい。でもエレンには、自由の敵にたいする常軌を逸した怒り以外に、特別な能力はありません。 

10歳にも満たない子供が、自己防衛のためでもなしに、こんなに強固な目的意識をもって、大人を殺すことなんてできるだろうか? どうしても無理がある話に感じられます。

まあ、それほどにもエレンの人格は常軌を逸しているんだよ、と読者に示すための演出として理解しておきましょう。

 

で、この掟をエレンは、物語の最後まで貫く。

いまや彼は「自由を奪う敵は許せない」という怒りに身を焦がす「死に急ぎ野郎」ではありません。

進撃の巨人」の能力により(父グリシャから間接的に)未来の自分の記憶を見たエレンは、自問します。

もはや「地鳴らし」による壁外人類みなごろし以外に手段が残されていないとしても、それを実行することが倫理的に許されるのか、と。

そんなことをしたら、亡き母親にはどう思われるだろうか、と。

しかしエレンは、自分たちエルディア人が絶滅を受け入れるという選択肢を想像したうえで「でも...そんな結末 納得できない」と、鬼の形相になります。

その根本において実存主義者であるエレンには、わたしが生まれてしまったという偶然性を、エルディア人は死ぬべきであるという必然性によって否定することは、とうてい納得できなかったのです(0.7.b も参照)。

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131話「地鳴らし」

   

こうしてエレンは「戦わなければ勝てない 戦え」という掟を、壁外人類みなごろしという形で貫くことを決意しました。

エレンにとって「地鳴らし」は、カント的意味での自由=自律を貫徹することを意味したのです。

 

他者の自由を認めつつ、他者を否定するエレン

おそらくカントは困惑するでしょう。

自由な意志がみずからに立てる普遍的な掟は、かならずや他者を目的とする掟になるはずだと、そのようにカントは考えていたからです。

カントは次のような命法を、みずから考え出しています。

君の人格にも他者の人格にもそなわる人間性を、つねに同時に目的として用い、決してただの手段としてのみ用いることのないように行為せよ。

カント『人倫の形而上学の基礎づけ』 

 

この命法はカントによれば、先の「君の意志の格率が、いつでも同時に普遍的立法の原理として妥当するように行為せよ」 という同じ命法を、別の言葉で述べたものでしかありません。

自分の掟を、どんな状況においても従うべき「普遍的立法の原理」として実践せよ。これが第一の命法です。

他人を「ただの手段として」用いるな、つまり、自分が自由な存在としてこう扱われたいと思えるのと同じ程度に、他人をも尊重せよ。これが第二の命法です。

これらは、どうして同じ意味だと言えるのか?

第一の命法は、状況に応じて変化する情念から自分を解き放つことを含んでいるからです。

自分の利己心から離れて、自分の利害関心から自由に立てられた掟(第一の命法)は、自分のみならず、誰が実践してもよい掟ということになります。

したがって、この掟は、他人を同じように自由な存在として尊重せねばならないという掟(第二の命法)を、同時に満たすのです。

 

でも、エレンは自分自身に立てた「戦え」という法を徹底した結果、地鳴らしに行きついた

それは壁外人類のみなごろしであり、恐るべき規模における他者の自由の否定です。

エレンにおいては、普遍的な法をみずからに立てよという掟(第一の命法)と、自分と他人を同じように自由な存在として扱えという掟(第二の命法)とは、両立しないのです。

少なくともエレン自身は、この「戦え」という掟を、普遍的なものとして、つまり、いつでも、どこでも、誰が実践してもよい掟として考えています。

自分と同じ状況に置かれた者は、それがどんなに惨たらしい結果をもたらすとしても、戦いつづけねば、自由でありつづけねばならないと、エレンは考えているのです。

だからエレンは、ウォールマリア破壊の責任をみずから引き受けるライナーを、みずからの意志でそうしたのだと吐露するライナーを見て、「やっぱりオレは... お前と同じだ」と言ったのでした。 

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100話「宣戦布告」

 

こうしてエレンは、定言命法にしたがって、他者の自由を完全否定することを決断しました。

カントの信念、すなわち、わたしの自由は他者の自由と両立するという信念は、エレンの決断により裏切られてしまいました。 

わたしが利己心から離れ、普遍的な自由だけを追求し、それが他者の自由でもあることを認めたとしても、それが実際にも他者の自由の尊重につながるとは限らないことを、エレンは証明したのです。 

たしかに、この話はフィクションでしかありません。

しかしながら、巨人になる民族という非現実的な仮定がなければ、カントの構想する普遍的自由には例外は生じえないと、はたして言い切れるでしょうか?

(つづく)

 

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