進撃の巨人・自由論

わたしは自由であるか。自由とは何なのか。深堀りすれば自由の謎が解けるマンガもあるかもしれない。

1.1 「世界は残酷だ そして とても美しい」 ~ ニヒリズムと実存的自由

 

ニヒリスト的世界としてのパラディ島

『進撃』の作品世界において、人類は自由ではありません

なぜなのか。人類を無残に喰い殺す巨人たちに、自由を奪われているから?

そうではありません。むしろパラディ島の人類は、自由をみずから放棄しているから、自由ではないのです。

 

物語のはじまりにおいて、人類の大半は、巨人の脅威を忘れ、壁の中の平和に満足しきった存在として描き出されています。

(パラディ島=Paradis Islandという後で判明する島名は、このかりそめの平和を表すアイロニーというわけですね。さんざん指摘されていますけど。)

多くの人々は、壁の外に出て巨人と戦う調査兵団を、ムダな努力をくりかえす厄介者と見なしています。

その一方で、主人公エレン・イェーガーは、このような壁の中の安寧を「まるで家畜」のような生き方と断じます(1話)。

1話「二千年後の君へ」

 

自分たちの弱さ、自分たちの不自由さに甘んじることを善しとする大衆。

かれらにとって調査兵団のような、あえて強くあろうと、あえて自由であろうとする者たちは、不可解な存在であり、非難や嫌悪の対象ですらあるのです。

 

このような自由を求める少数者と安楽な不自由に満足する多数者との対比は、どう見ても作者・諌山が意図的に描き出しているもの。

この対比を見ると、ニヒリズムの哲学者ニーチェが提示した「主人の道徳」と「奴隷的道徳」との対比を、連想せずにはいられません。

 

ニーチェによれば、生まれながらの強者が体現する「主人の道徳」は「良い(優良)/悪い(劣悪)」を尺度とする価値観です。ドイツ語でいうと gut / schlecht (グート/シュレヒト)で、英語では good / bad と訳されます。

ここでいう「良い」とは、優れていること、まさっていることを意味します。

逆に「悪い」とは「弱い」「無力」と同義です。

 

他方で「畜群」である大衆の「奴隷的道徳」においては「善い(善良)/悪い(邪悪)」が価値尺度です。ドイツ語でいうと gut / böse(グート/ベーゼ)で、英語では good / evil と訳されます。

ここでいう「善い」とは、悪をなさないことです。

この価値観においては、弱者を屈服させてはばかることのない強者こそが「邪悪」とされます。

こうして、大衆のいわゆる「ルサンチマン」が、人間のなかの優秀な部類に向けられ、その力を発揮することを妨げてしまうのです(ニーチェ道徳の系譜』第一論文)。

www.chikumashobo.co.jp

 

このような道徳観の克服を、ニーチェは唱えます。

奴隷的な「善悪」の価値観は、人間の人間らしい活力を否定し、そのかわりに「虚無」を価値であるかのように見せかけていると、彼は断じます。

ニーチェはニヒリストと言われますが、実はこのように「虚無」の克服を目指しているので、むしろ反ニヒリストと呼ばれるべきかもしれません。

でもまあ、ニーチェ通俗的な道徳規範を虚無と見なしていることは確かなので、その意味では、やはり彼をニヒリストと称するのは正しいといえましょう。 

 

強者信仰としての自由?

あえて自由な強者であろうとする、勇敢な少数者としての調査兵団と、前者を疎んじ、恨み、その足を引っぱる、凡庸で奴隷的な大衆。

このように図式化すると、この『進撃』という作品は、倫理的にみて非常にアブナイ自由をテーマにしているように見えてくるかもしれません。

ニーチェのいうように、大衆とは「畜群」であり、自由になりえない弱者で、強者を呪うことしかできないのだとすれば、人間の自由は、かれら「畜群」が強者に従うことでしか成立しえないということになってしまうからです。 

 

この作品では、ほかでもない主人公エレンが、ときとして、そのような強者信仰を表現しているように見えます。

彼が壁内人類に投げかける「家畜」という呼称は、ニーチェの「畜群」を強く連想させないでしょうか。

さらには、自分が巨人化できることを知ったばかりのエレンが、巨人になる人間という未知の存在に怖気づく「腰抜け共」に対して「いいから黙って 全部オレに投資しろ!!」とタンカを切ったことも想起してみてください(19話)。

これなど、まさに力こそが正義という見解の率直な表現に見えます。

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19話「まだ目を見れない」

 

もし『進撃』の基調がこのような強者信仰であるとすれば、この作品の自由観は、きわめてニヒリスト的です。

いや、ファシスト的とすら言えるかもしれません。

大衆とは無能な弱者、本質的な奴隷、ルサンチマンを抱く「畜群」であって、みずから自由の状態に達することができない。

それにもかかわらず人間の自由が達成されうるとすれば、それは強者が「畜群」たる大衆を支配する一方で、大衆はルサンチマンの産物でしかない通俗的な善悪を放棄し、有能で英雄的な指導者に、歓呼賛同を捧げることでしか成立しない。

そういう政治的含意が、このニヒリスト的自由観からは引き出されうるのです。

これをさしあたり、強者信仰としての自由と呼ぶことにしましょう。

 

そうだとすれば、この『進撃の巨人』という作品に漂うニヒリスト的ムードに、ある種の政治的反動性を見てとることも、あながち的外れとは言い切れません。

たとえば大塚英志は、この作品が、戦争責任問題を追及する左派や近隣諸国のせいで、日本が外部の脅威に対して武力で対抗できずにいるという、右派のストーリーをなぞっていると指摘しました。

あるいは少なくとも、そういうストーリに賛同する日本の「若者」が、現実の「歴史を代償」するために消費する歴史修正主義的なファンタジーとして、この作品を受容したというのです(『メディアミックス化する日本』2014年)。

www.eastpress.co.jp

  

ちょっと一面的に解釈しすぎじゃないでしょうか、大塚先生?

うーんでも、ファンによる受容のされ方を見ると、実際、大塚が言うように『進撃』を受容する向きがあるというのは、実際そうだと思えます。

作者自身、実際にそういう意図を作品に込めて描いているのかもしれません。

(とくにガビにエルディア人の歴史的な罪について語らせているシーンは、現実の歴史認識問題を強く連想させます。)

 

『進撃』のニヒリスト的ムードは、たしかに「力だけが正義」というメッセージをそこに読み取ろうと思えば読み取れるものです。

「所詮この世は弱肉強食」、だから奴隷道徳を放棄しろ、敵を打ち倒すことをためらうな、という某人斬りのそれと同じ教訓を、この作品から引き出すことは可能なのです。

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でも『進撃』は、ニヒリスト的ムードのなかで自己完結してしまっているでしょうか?

このムードが作品の本質そのものを規定しているわけでははないと、筆者は考えます。

『進撃』はニヒリズムを教えるための物語ではなく、ニヒリズムの先にあるものを見つけ出すための物語であるように思えるのです。

 

ニヒリズムの先へ ~ 残酷だけど美しい世界 

いかにしてニヒリズムを潜り抜けるか、その先に何を見出すか、というテーマをよく表しているのが、この作品のキャッチフレーズともいうべき、ミカサのセリフです

この世界は残酷だ そして とても美しい

このセリフは、単独で切り抜いてみると、世界の不条理さに直面し、価値判断を放棄して、それをただ耽美的に眺めている、ある種のデカダンス主義にも見えます。

はたしてミカサは退廃的な耽美主義者なのでしょうか?

さもなくば、このセリフは何を表現しているのでしょうか?

作品の筋書きのなかに文脈づけながら、解釈してみる必要があります。

 

ふたたび、本作における英雄的少数者と奴隷的多数者とのコントラストを想起してみましょう。

このニーチェ風の対比は、少数の気高い「強者」と同一化したいという欲望を読者に掻き立てがちなものです。

でも『進撃』のこの側面だけを強調するのは、フェアではない。

むしろ、そのような「強者」への同一化の欲望を突き放す場面が、本作の随所にちりばめられいるのですから。

 

巨人と戦い、人類の自由を体現する役柄であるはずの調査兵団

しかしかれらは、物語の冒頭から、無益な敗北に打ちひしがれた姿で登場します(1話)。

その「不屈の精神」には読者は自己同一化できるかもしれませんが、しかしかれらを強者として称えることは、とてもできない相談でしょう。

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1話「二千年後の君へ」

 

あえて強くあろうとする者にとって、この世界はあまりに「残酷」である

あえて自由であろうとする者は、無残に引き裂かれ、身をもって挫折を味あわされるしかない

このマンガは「そういう作品ですよ」ということを、まざまざと読者に見せつけるために、調査兵団は冒頭で無残な姿をさらしたのです。

 

この「残酷さ」をダメ押しで示してみせるのは、ほかでもない主人公エレン。

壁を破壊し侵入してきた巨人に対して、人類による反撃の口火を切ろうと意気込む彼は、ふたたび現れた巨人たちに勇んで挑みかかるも、あっさり喰われてしまうのです(4話)。

 

読者からすると、ここで主役がホントに死んだわけはないだろうと推測がつくところ。

しかし、そういうメタ視点でツッコミを入れるのはグッと我慢して、このできごとが物語にもたらした効果に注目してください。

エレンの死の報せに対する他の登場人物の反応の描かれ方が、この作品のテーマを浮き彫りにするためにきわめて重要なのです。

 

ニヒリズムに抗するアルミン

まずはアルミン。

彼はエレンの死に直面し、彼らが置かれている状況を地獄のようだと感じますが、すぐに思い直します。

この世界は「最初から」残酷であったと。

もともと「強い者が弱い者を食らう 親切なくらい分かりやすい」残酷な世界だったのだと(5話)。

5話「絶望の中で鈍く光る」

 

でも、ここでアルミンは、ニヒリズムに襲われたのではありません。

けっきょく世界は弱肉強食なのだと、虚無感に陥っているわけではありません。

むしろアルミンは虚無主義に屈せず、残酷な世界のなかでも強くあろうとしたのに、それに成功しなかったことを悔やんでいるのです。

もともといじめられっ子だったアルミン。

そんな彼は、強い者には逆らわないという世のならいを受け入れずに、彼を助けてくれるエレンに感化され、彼の助けを必要としないほど強くなり、彼と対等な友でありたいと願っていたのでした。

この悔恨は、虚無感への屈服と見なされるべきではないでしょう。

 

ニヒリズムに抗するミカサ

そしてミカサ。

彼女は戦闘能力としては、予測できない動きをする「奇行種」の巨人すらものともしない圧倒的強者で、上官にも「逸材」と驚かれています(5話)。

そんな彼女は、幼少期、人さらいの大人をちゅうちょなく刺殺するエレンと出会い、彼が人さらいの仲間に絞殺されそうになるのを目の当たりにしたとき、突如、もともと世界は残酷ではないかという悟りの境地に達し、人並み外れた身体能力を開花させたのでした(6話)。 

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6話「少女が見た世界」

 

しかし、すでに「世界は残酷」と悟っているミカサですら、エレンの死の報せに動揺し、その結果、立体起動装置が使えないのに巨人にはさみうちにされるという、絶体絶命の窮地に。

ここでようやく出てくるのが「この世界は残酷だ そして とても美しい」というセリフ(7話)。 

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7話「小さな刃」

 

ここでミカサが世界の「美しい」面として想起するのは、弱肉強食の残酷さとは対照的な、帰る場所を失った彼女にマフラーを巻いてくれたエレンの思い出です。

強いものが生きるが弱い者は死ぬだけだと悟っていながら、それでもミカサは別種の力に、すなわち、たがいを慈しみ助け合う人間的感情の力に価値を見出します。

そして彼女は、最後まであきらめずに巨人に抵抗しようと刃を構えるのでした。

 

作品の序盤において、ニヒリズムもっとも鮮明に体現しているのはミカサです。

彼女は兵士になるまえから、強くなければ「残酷な」世界を生き残れないと達観していました。

(そう彼女に悟らせたきっかけはエレンですが、序盤の彼はむしろ、自由への渇望を原動力とする、実力の伴わない英雄主義者であって、ニヒリストとは対極的というべきでしょう。)

そしてミカサは、戦闘能力としては、この残酷な世界を生き残るじゅうぶんな強さをそなえていました。

つまりニヒリストとして生きる素質があったのです。

 

でも、そんな彼女ですら、エレンを失ったショックで、絶体絶命の窮地に陥り、自分の強さの限界に直面したのでした。

まさにここでミカサは、いかにして強者への屈服を拒むか、いかにしてニヒリズムを乗り越えるか、という試練に対峙したのです。

ここで彼女を勇気づけたのは、この世界の「美しさ」を象徴する、マフラーを巻いてくれたエレンの思い出でした。

かけがえのない思い出に支えられて、いままさにニヒリスト的諦念を突き抜けようとするミカサ。

だからこそ彼女のセリフは、世界は「残酷だ でも美しい」ではなく「残酷だ そして美しい」なのでしょう。

 

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