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「残酷」な世界のなかで、価値ある自由を求めて
強者をかせにはめようとする奴隷的大衆と、それでもあえて強者であろうとする自由で勇敢な少数者。
そんなニーチェ的構図で読み解ける側面を『進撃』はもっています。
ただし、この作品世界において強者であることは、ことのほか難しい。
ちょっとやそっとの秀でた能力をもっていたところで、巨人が襲いかかってくれば喰われて終わりなのですから。
弱い者は喰われて死ぬだけ。善も悪も無意味。
この作品にたびたび現れる「世界は残酷」というフレーズは、そういうニヒリズムを意味するのだと理解する人が多いのは当然のことです。
でも『進撃』は、ニヒリズムにはじまるとしても、ニヒリズムに終わる物語ではないと筆者は考えます。
本作の登場人物たちはみな、この「残酷」な世界をただ生き抜くだけではなく、その先に虚無ではないなにかを見つけだせるかどうか、という試練を課されているのです。
理不尽な世界のなかで自由に生きられるかということだけでなく、なにか価値ある自由をそこで達成できるのかということが、登場人物の行動には賭けられているのです。
前記事で見たように、早くも物語の冒頭で、エレンを失った(と思った)ミカサやアルミンは、そのような試練に直面したのでした。
ニヒリズムの根源に迫るニーチェ
『進撃』の作品世界のムードはニヒリズムを基調としていますが、本作のテーマとなる自由は、むしろニヒリズムの克服です。
これら両方の側面を考察するために、俗にニヒリズムの哲学者と呼ばれるフリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)は、導きの糸となるでしょう。
前記事では、ニーチェによる奴隷的道徳の批判を見ました。
彼にいわせれば、善悪とは畢竟(ひっきょう)、強者に対する「畜群」の「ルサンチマン」にすぎません。
ところで「ニーチェといえばルサンチマン」ってくらいよく知られたルサンチマンという語ですが、なかなか扱いの難しい用語であります。
この言葉を好んで使う人は「道徳なんて弱者のルサンチマン」「大衆は有能な少数者の偉業を称えよ」といった類の見解を、喜んで支持しがちでしょう。
逆に、この言葉に反感をもつ人は、善悪を弱者の怨恨に還元し、道徳や倫理を無価値にしてしまうとき、人間は弱肉強食の世界かファシスト的独裁のもとでしか生きられないのではないかと懸念することでしょう。
でも、ほんとうにニーチェが言いたかったのは、弱者を見下して傲慢に生きればよいということでも、凡庸な人間は有能な独裁者に従えということでも、きっとなかっただろうと思います。
彼は世にいう善悪をたんに否定すればよかったのではなく、この善悪という価値判断それ自体がもつ価値または意味を知りたかったのです。
......人間はいかなる条件のもとに善悪というあの価値判断を考え出したか?
しかして、これら価値判断それ自体はいかなる価値を有するか?
こうしてニーチェは、世のならいを無意味と蔑むだけの単なるひねくれたニヒリストに留まっているわけではなく、むしろ、世にいう善悪の真の意味を暴き出そうとして、ニヒリズムの正体に迫ろうとしているのです。
道徳的良心の極限としてのニヒリズム
ニーチェは言います。
善悪という色眼鏡を外して人類の歴史を眺めてみれば、国家の起源とはつねに強者による弱者の征服であったと。
征服者たちは奴隷的道徳を知らず、つまり「負い目の何たるか、顧慮の何たるか、責任の何たるか」を知る由もないのだと。
では善悪は、善悪を感じ取る「良心」は、自分には罪があるという「負い目」の感情は、一体どこから出てくるか?
屈服させられ、自己の支配者であることを放棄させられた、被征服者たちの「自由の本能」からでしかないと、ニーチェは断言します。
暴力によって潜在的なものとさせられた、この自由の本能......。これが、これだけが良心のやましさの始まりなのだ。
挫折した自由に起源をもつ「良心」。
この良心は、ニーチェによれば、敗北者であるわたしの死を免除してくれた征服者への「負債」の感情から、祖先に対する負い目へ、さらには神的な存在に対する負い目へと、歴史のなかで発展していきました。
征服者であれ、祖先であれ、神であれ、人間を生かす権力をもった上位者に、わたしは生を貸し与えられているのだという観念。
わたしは「債権者」に対する「債務者」として生を許されているのだという観念。
これこそが「良心」の起源なのです。
そして「良心のやましさ」を永遠化したのは、キリスト教でした。
聖書の物語によれば、われわれが背負うべきであった「罪」を、債権者である神(イエスとしての)が肩代わりしてくれたのです。
これによって、永遠に報いることのできないほど無限に大きな恩義を、人間は神から受けたのです。
かくして人類のなかに「おのれ自身を救いがたいほどに罪ある者、呪われるべき者として見ようとする意志」が確立された。そうニーチェは喝破します。
つまり善とは、良心とは、みずからの生の無価値を自覚することなのです。
このことをニーチェは「僧侶的」または「禁欲主義的」理想と名づけました。
彼いわく、この理想は「畜群」が蓄積するルサンチマンの「危険な爆薬」の着火を防ぐためにあります。
この不満を人間自身の罪深さに差し向け、もって「ルサンチマンの方向転換」を達成し、世を平和に保つこと。それこそが良心の、あるいは「禁欲主義的理想」の、ほんとうの「価値」なのです。
なぜニヒリズムはこれを達成することができたのか?
無意味な世界に翻弄され、なにも自由に成し遂げることができない、無価値な存在でしかない大多数の人間たちにとって、それだけは自由に成し遂げることが可能だから。
すなわち、みずから虚無たらんと欲し、自分自身を虚無たらしめることは、無力な人間が、その内面において自由に成し遂げることが可能であったからです。
このようにして、虚無ですら「人類に一つの意味を与え」ることができてしまうのです。
それ以来、人間はもはや、風にもてあそばれる木の葉のごときものではなくなった。もはや、無意味、没意味の手毬ではなくなった。いまや人間は何かを意欲することができるようになった。......要するに、意志そのものが救われたのである。
こうして無力な人間は、それでも自分の奴隷的状態に意味を見出すことにより、ある種の内面的な自由を行使することができるのです。
ニーチェいわく「人間は何も欲しないくらいなら、いっそ虚無を欲する」。
ニヒリストとしての「壁の王」
ニーチェのいうニヒリズムとは、要するに道徳的良心の極限、善くあろうとする意志の極限なのです。
人間の生を虚無、無意味、無価値と見なすことにより、挫折した自由を贖うこと。
そうやってルサンチマン(奴隷的道徳)を飼いならすこと。
それこそが道徳的良心=ニヒリズムの本質的役割なのです。
だとすれば、ニーチェのいうニヒリストとは、奴隷的道徳に甘んじる「畜群」のことでも、世にいう善悪などものともしない強者のことでもありません。
そうではなくて、むきだしの暴力のかわりに「良心」によって「畜群」を支配する者たち、ルサンチマンを虚無への意志に昇華させ、無力さそのものを人生の意味と信じさせようとする者たちこそが、ニヒリストと呼ばれるべきなのです。
あれ、こんな人たち『進撃』に出てこなかったかな?
そう、ほかならぬ真の「壁の王」たるレイス家の人々です。
そして、レイス家の思想にもとづく「ウォール教」の信仰を説く人々です。
作者・諌山はさいしょ、宗教を信じる人々を非常にシニカルに描き出しました。
神聖な「壁」に祈りをささげる信者たちは、女型の巨人が倒れてきたせいで、がれきに潰されてしまいます(33話)。
このシーンは、自力で困難を克服しようと努力することもなく、天に身をゆだねることのバカバカしさを皮肉っているように見えます。
「祈るな!! 祈れば手が塞がる!!」
でもこのエピソードは、宗教の信者を皮肉って終わりではないんですよね。
信仰と受動性の徳を唱えるウォール教の司祭ニックは、実はどうやら、なにか深い考えにもとづいて教義を広め、そしてなにか深刻な理由のために「壁の秘密」を守っているようなのです。
ニックを脅して秘密を吐かせようとしたハンジさんも、あとで彼を「まっとうな判断力を持った人間に見える」と評しています(37話)。
この秘密、つまり「始祖の巨人」が操ることのできる無数の超大型巨人が壁に隠れていることは、物語が進むにつれてしだいに判明していきます。
とはいえ、この真実を秘密にしておくことの意図が明らかにされたのは、王家最後の「始祖の巨人」継承者であるフリーダの口からでした。
いわく、人間は「あまりにも弱い」ので、強大な巨人の力を正しく用いることはできない。だからむしろ「人の手から巨人の力を守らねばならない」のです(121話)。
ここでいう人間とは、エルディア人にかぎらない人間一般でしょう(マーレも巨人を自国の戦力として活用していましたし)。
弱く、罪深い人間は、だれも巨人の力を行使すべきではない。
このことは突き詰めると、人類全体の幸福を考えるなら、巨人の力をもつエルディア人は滅びたほうがいいという結論になります。
「不戦の契り」に縛られるレイス家の目的は、運命のなすがままに、この結論が実現される日にはそれを受動的に受け入れることだったのです。
人間は弱く、罪深い。
そのような弱者たちに、巨人の力はまったく不相応である。
したがって、罪深き人間をさらに罪深くする「力」そのものとしてのエルディア人には、生きる価値がない。
これこそが、ウォール教や「不戦の契り」を下支えする根本思想なのです。
まさしくこれは、ニーチェの言う「禁欲主義的理想」そのものではないでしょうか――人類一般とエルディア人の区別という、ちょっとした捻りが入っているにせよ。
「壁の王」の思想においては、エルディア人の生のみならず、人間一般の生そのものが、罪深く、無意味で、無価値です。
でも、人類がもつべきでない巨人な力そのものであるエルディア人が滅びるならば、人類はその罪深さから少しは救済されるのです。
こうして、罪の象徴でしかなかったエルディア人は、その自己犠牲によって、人類に意味を、価値をもたらすことができるのです。
このことへと、エルディア人が達成できる唯一の価値へと壁内人類を導いていくことが、レイス家の責務だったのでした。
ニーチェのニヒリズム論は、まさにそのようなレイス家の思想の本質を、的確に突くものだと言えるでしょう。
「人間は何も欲しないくらいなら、いっそ虚無を欲する。」
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