3.1 「オレには今何をすべきかがわかるんだよ」 ~ 本来の自己を選ぶ自由
主演俳優として引きずり出される「その他大勢」
アルミンの実存的選択にかんする考察において、かれが自由になりうるかどうかは、ロマンティックな夢追い人としての自分自身に対する責任を引き受けられるかどうかに左右される、ということを論じました(2.7.b)。
自分自身に責任をもつとは、すなわち、自分自身を首尾一貫させること、自分自身にオトシマエをつけること、代替不可能な「わたし」を生きるのを諦めないこと。
これこそが実存的自由の神髄なのです。
でも、言うは易し、行うは難し。
どのような不運や困難に直面しようとも自分を貫くというのは、なかなか誰にでもできることではありません。
だとすると実存的自由とは、とうてい凡人には実践できないような、ずいぶんとハードルの高い自由なのでしょうか。
運命に選ばれた者、生まれながらに偉人伝や大河小説の主人公であるような者にしか許されない自由なのでしょうか。
あるいは「ノブレス・オブリージュ」を自負する者、生来の貴族(社会的にであれ精神的にであれ)である者にしか許されない自由なのでしょうか。
でも、それは誤解です。
実存主義とは、エリート主義とは本質的に相いれない思想なのです。
実存的自由とは、苛酷でありながらも、万人に開かれた自由なのです。
こういう風にいえば分かりやすいかもしれません。
あなたやわたしが平凡な「その他大勢」の一員であり、そのことに不満もないとします(大体の人はそうでしょう)。
そんなあなたが、ある日突然、気がついたら主演俳優としてスポットライトの前に立たされている。
あなたは否応なく、どうふるまうかを選択せねばならない。
それが実存的自由なのです。
堂々と主役を演じることに挑戦するのも、あなたの自由。
「わたしはこんな重要な役割を引き受けられません」と袖に引っ込むのも、あなたの自由。
でも、この人生という不条理劇の舞台に上がってしまったことを取り消すことだけは、絶対にできません。
すでにあなたは、観客の視線にさらされてしまったのですから。
そういう理不尽で恐ろしい経験なのです、実存的自由というものは。
「人間は自由の刑に処されている」(サルトル)とは、よく言ったもの。
『進撃の巨人』の魅力的な脇役たちもまた、そんな恐ろしい自由に直面します。
まずは取り上げたいのは、ジャン・キルシュタイン。
ジャンは物分かりのよさゆえに、自分を「その他大勢」のなかの優等生に留めておくべきであり、それ以上のことを望んでも損をするだけであることを、よく理解している人物です。
ところが、物分かりのよいジャンは「今何をすべきか」を考えたすえに、調査兵団への加入という、ほとんど人生を棒に振るような選択をしてしまいました。
いったいどうしてか? 実存主義の観点から考察してみましょう。
「その他大勢」から離れるジャン
内地で快適暮らすために憲兵になる。そう宣言してはばからないのが、訓練生時代のジャン。気の合う友人マルコにも、楽な生活がしたいから憲兵団に入ると正直に告白せよと、からかい半分に言い放ちます。
そんな露悪的な利己主義者ジャンは、自分こそが「誰よりも現実を見てる」のだと称します。
巨人に勝つことは不可能だという「現実」を前提として、自分にとって最善な道を選ぶべきだと、そうかれはいうのです(3話)。
ところがマルコは、ジャンの本質に気づいていました。
かれによれば、ジャンは「現状を正しく認識」して、そのうえで「今何をすべきか」を察知するのが得意なのですが、それだけではありません。
ジャンは「強い人ではない」。でも、だからこそ「弱い人の気持ちがよく理解できる」。
そんなかれこそが指揮官向きだと、マルコは言います。
その他大勢の「弱い」人と「同じ視線から放たれた指示」であれば、仲間の心に「切実に届く」はずだからです。
トロスト区防衛戦で死んだマルコが、他の兵士たちの死体もろとも火葬されているのを見ながら、この会話をジャンは思い出します。
マルコの言葉に背を押され、だれの骨の燃えかすとも知れない灰を震える手で握りしめながら、ジャンは仲間に決意表明しました。
「オレは... 調査兵団になる」と(18話)。
こうしてジャンは、その他大勢の一員としての立場から引きずり出されたのでした。
ジャンが「弱い人」の一員であるとはいっても、104期のなかでは第6位の成績優秀者なのだから、もちろん兵士として「弱い」わけではありません。
でも、ジャンの「視線」すなわち感受性や考え方は、悪い意味ではなく「その他大勢」の域内に留まっているのです。
ところが、いまやジャンは、その他大勢の「弱い人」と同じ立場に甘んじてはいられなくなりました。
あっけなく死んだ親友マルコに発見してもらった自分、すなわち「弱い人の気持ち」を理解しつつ「今何をすべきか」を認識することに長けている自分を、本来の自己として選び取りたいと思ったからです。
もともとジャンは、自分自身を偽ることを嫌う人間、たとえ周囲の反感を買ってでも、自分の思ったことを言わずにはいられない人間でした。
だから調査兵団加入のさいも、かれは自分自身にこう語りかけます。
「頼むからこれ以上... 自分(オレ)のことを嫌いにさせないでくれ...」と(21話)。
自分のなかに湧き起こった決意を、ジャンは自分に対してごまかすことができないのでしょう。たとえその決意が、高い確率での死を意味するとしても。
上のシーンは、絵面としても興味深いものです。「その他大勢」と、舞台上に立たされた「弱い人」との対比が、鮮明に描き出されているからです。
「クソ...」のコマの右上に描かれたボウズ頭の訓練兵を見てください。
さもなにかを思案しているように片手を頭にあて、周囲を窺っています。
でも、かれは実際にどうすべきか迷っているのではなく、迷っているフリをしているだけでしょう。
危険だが人類の希望につながるかもしれない壁外調査は、だれかがやるべき仕事。
それを「その他大勢」の一人でしかない自分が引き受ける気はさらさらないのに、でも命がけの仕事にあえて挑む人には一抹の負い目を感じてしまう。
だから、ちょっと申し訳なさそうに、逡巡するフリをしているのです。
他方で、この命がけの仕事を引き受けようとするジャンは、かれ自身のままで、つまり、マルコのいう「弱い人」のままで、この困難に立ち向かおうとしています。
「強い人ではない」ジャンは、心底、恐怖しています。
巨人に喰われて死ぬとはどういうことかを、その目で見てきたばかりなのですから。
でも、ジャンは嘘偽りのない自分自身でありたい。
マルコが教えてくれた、ほんとうのわたしでありたい。
「強い人ではない」けれど「今何をすべきか」がわかる自分を選びたい。
そう願うジャンは、いまだ決意と恐怖との葛藤に苦しんでいるにもかかわらず、その立ち姿は、舞台を退いていく「その他大勢」とは逆を向いているのです。
「あたかも命令を下されたかのように」
ところで、ほんとうのわたしとは何でしょうか。
人間がつねに自由であるとすれば、なにが「本来の自己」であるかを、わたしは気の向くまま、好きに選んでいいということにはならないでしょうか。
もし「本来の自己」はそういう風に気まぐれには選べないとすれば、この自己を、わたしはどう見分ければいいのでしょうか。
こうした問いの立て方では、問題は解決できないでしょう。
実存主義によれば、本来の自己なるものは、内面的にのみ決定されるものではありません。
わたしの能力、わたしの好み、わたしの性格、等々は、わたしの人生経験を枠づけてきた諸状況、諸環境において作られたものです。
では、本来の自己とは、状況や環境の受動的産物なのか? それも違います。
むしろ状況のなかでのみ、自由な存在としてのわたしは、何が本来の自己であるかを発見することができるのです。
いかにして本来のわたしに到達するかという問題について、実存的自由の哲学者サルトルは、次のように述べます。
本来の自己とは「外からと同時に、内からもやってくる義務」であると。
自分自身を「状況内存在」として「余すところなく実現する」とき、わたしは「本来性」に到達するのだと。
本来性は......主観的な熱意なるものとは、いくぶん異なる。人間の条件から、状況へと投げ込まれている存在の条件から出発してしか、本来性は理解されない。本来性とは、外からと同時に、内からもやってくる義務である。なぜなら、われわれの「内面」とは外面なのだから。本来性とは、みずからの「状況内存在」(l'être-en-situation)を......余すところなく実現することである......。
サルトル 『奇妙な戦争』1939/11/27
まず、状況を引き受けることが、たんなる受動的態度とは反対であると理解することが重要です。
この点をサルトルは、事態を「受け入れる accepter」ことと「引き受ける assumer」こととの違いとして説明しています。
前者が現実と妥協する受け身の姿勢であるとすれば、後者は一種の自己決定です。
すなわち、自分自身のせいで生じたわけではない状況に対して「責任をとる」こと、それを「あたかもみずからに命令を下したかのように」引き受けることを意味します。
わが身にふりかかる事態を引き受けること(なにごとも自分自身によってしか起こりえないと理解したときに)、すなわち、あたかもみずからに命令を下したかのようにその責任をとり、この責任を引き受けつつ新たな進歩の機会とすること。あたかも、そうしたのはこの進歩のためであったかのように。
サルトル『奇妙な戦争』1939/12/4
状況とは、つねに両義的なものです。いかなる状況も、個人のコントロールを超えています。
しかし同時に、各人による行為に、各人による意味づけに先だって、あらかじめ不動の意味をもつ状況など、存在しません。
「できごと」は客観的に起こるのではなく、いつだって、だれかにとって起きた「できごと」であるのです。
この「あたかも」は嘘ではない。このことは、自己原因でありながら同時に根拠を欠くという、許しがたい人間の条件に由来する。みずからに起きることについて判断がつかないにもかかわらず、このできごとは人間によってしか、人間の責任のもとでしか起こりえないということもまた、この条件のせいなのである。
サルトル『奇妙な戦争』1939/12/4
だとすれば、外から降りかかってくる「できごと」をみずからの責任で引き受けることは、状況をわがものにする能動的行為です。
そしてサルトルによれば、この行為こそが、状況を自分自身の「人生」として引き受ける行為こそが、わたしの「本来性」に到達することに等しいのです。
もっとシンプルにいえば、ままならない自分の人生を、ぶつくさ不平や言い訳をいいながら生きるのではなく、かけがえのないわたしの人生として生きてみせるとき、わたしはほんとうの自分を存在するのです。
みずからの人生を引き受ける者の形而上学的価値、または本来性。それが唯一の絶対だ。
サルトル 『奇妙な戦争』1939/12/4
「状況内存在」としてのジャン
ジャンを「状況内存在」として、すなわち、状況の囚われ人であり、かつ状況の意味の創出者であるような存在として見てみましょう。
この観点はまず、訓練兵時代のかれが、これみよがしの利己主義者であったことの意味を明らかにしてくれます。
ジャンの利己主義は、自分自身のためだけのものではなく、状況を意味づける利己主義だったと言えます。
人類が巨人に勝てないことは、ウォールマリアが破られた後の経緯を見れば明らか。ならばわたしは、壁内において望みうるかぎり安全で安楽な地位を得る努力をしたほうが合理的である。
こういう状況理解から、ジャンは利己主義を信念として引き出したのです。
別言すれば、倫理的な立場表明として、みながそうあるべきと考える人間像(サルトル)として、かれは利己主義を実践していたのです。以下、再度引用しておきましょう。
各人はみずからを選ぶことによって、全人類を選択するということをも意味している。
人はこうあろうと望む人間を作ることによって、同時に、人間はまさにこうあるべきだと考えるような、そういう人間像を作らない行為は、一つとしてない。
このことから、ジャンの「弱さ」は「巨人に対して人間は弱い」という認識と結びついていたのだと分かります。
他人が弱いように自分もまた弱く、自分が弱いように他人もまた弱いという在りかたで、かれはみずからの「弱さ」を存在しているのです。
この認識によって、ジャンは人類の状況を意味づけつつ、この自分が意味づけた状況に縛られていたのでした。
ところが逆説的にも、ジャンの状況理解は、かれが実際に巨人を、人間が巨人に喰われるということを、目の当たりにすることで覆されます。
トロスト区襲撃における、訓練生たちが立体起動装置のガス補給施設を巨人から奪還するシーン(8話)。
持ち前の状況把握能力を発揮して、ジャンは仲間が巨人に喰われている隙に「今だッ!!!」と、他の仲間がいっせいに施設に飛び込むよう号令をかけました。
でも、からくも施設に到着できたあと、かれは「オレの合図で何人...死んだ?」と、みずからの責任を問わずにはいられませんでした。
このときのかれは、いまだあの露悪的な利己主義者だったはず。
もともと素のジャンは、他人の痛みに敏感な人間だったのです。
みずからの恐怖に、みずからの「弱さ」に目を釘づけにされても、他人の恐怖や痛みから、他人の「弱さ」から目を逸らすことはできない人間だったのです。
場面は移り、死んだ兵士たちを火葬した夜。
自分の選択を、つまり兵士になろうと思ったこと自体を、つくづく後悔しているジャン。
でも、かれの視野はここでも、自分の弱さだけには限られていません。
かれは同時に思い至ってしまうのです。訓練生の仲間たちが、自分と同じ「弱い人」である「その他大勢」が、同じ運命を共有しているということにも。
だからジャンは「お前らなんかに会わなければ... 次は誰の番かなんて考えずに済んだのに...」と心のなかでつぶやいたのです(18話)。
(まあそのシーンに、壁を破った張本人が3人もいるのは皮肉ですけれど......。)
みずからの「弱さ」を、かれ一人の孤立した弱さではなく、他の「弱い人」たちと共通の「弱さ」として生きることができるジャン。
ただし、ここでかれが「弱さ」を共有する相手は、巨人に屈服している人類一般ではなくて、親密な他者、顔をもった他者、すなわち訓練兵として苦楽を共にした同期の仲間たちです。
一方では、わたしの恐怖、わたしの後悔を、親しいかれや親しいかのじょの、親しい仲間たちの恐怖や後悔としても、ジャンは経験します。
他方では、顔をもった他者の痛みを、ジャンは自分自身の痛みとして受け止めます。
あっけなく巨人に喰われて果てた親友マルコの痛みや、次に「順番」が回ってくるかもしれない親しい誰かの痛みを、かれは感じ取るのです。
わたしの後悔は、顔をもった誰かの後悔。
顔をもった誰かの痛みは、わたし自身の痛み。
そのことを実感してしまった以上、もはやジャンは、かつてのように状況を意味づけることができません。
顔をもった誰かが恐怖から救われなければ、わたし自身が恐怖から救われない。
このことが、状況の新たな意味として、ジャンの前に浮かび上がったのです。
そのことに気づいているジャンは、なかば決断を済ませています。あとはそれを宣言するだけ。
かれの背中を押したのは、思い出のなかの親友マルコでした。
あるいは、マルコに教えてもらった自分、すなわち「弱い人の気持ちがよく理解できる」がゆえに「今何をすべきか」がわかる本来の自分でした。
ジャンは足を踏み出します。「オレには今何をすべきかがわかるんだよ!」と自負し、困難に挑むことができる自己に向かって。
こうしてジャンは「外からも内からもやってくる義務」を引き受けました。
かれの内面は、自分が感じている痛みが、他人の痛みでもあることを教えています。
かれの状況は、自分が避けたがっている苦しみを、親密な、顔をもった誰かが代わりに受けるだろうことを、かれに突きつけます。
みずからの状況を、そして心の奥で感じていることを、ジャンは理解できてしまう。
だからジャンは、この状況を、そしてこの自己を、選ぶしかないのです。
unfreiefreiheit-aot.hatenablog.com