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小市民的な自己欺瞞
あれ、なんだか作品考察ばかりになって、哲学解説ブログじゃなくなってきたぞ。そろそろ新しい哲学者も紹介しなければ。
さて、実存主義における「ほんとうのわたし」すなわち非本来性と本来性を、ジャン、アニ、コニーについて考察してきました。
かれらはみな、なにかしら弱さや欠点のある「普通の」人間でありながら、そのことを理由に自分を騙すことをやめ、状況を引き受け、自分が真になすべきことを、つまり本来的な自己を、選び取ったのでした。
とはいえ、これらの主要なサブキャラたちは、感性的には普通だけど、かなりハイスペックだし、まだ若いのに非凡で困難な人生を歩んできました。
つまりかれらは「普通」ではあっても、凡庸ではないのです。
では、ありふれた凡人の生きざま――非本来的であれ本来的であれ――は『進撃』では描かれないのかというと、そうでもありません。
今回は、そういう凡庸な人々にスポットを当ててみましょう。
誰得? という心の声はどうか抑えて。
本作における凡人としては、まず群衆が出てきます。
調査兵団の活動を無意味で無駄だと非難する人々や、エレンの「地鳴らし」発動後にイェーガー派を熱狂的に支持する人々です。
しかし、かれらが個としてスポットライトを当てられるわけではありません。
他方で、顔をもった個としての凡人も、何人か出てきます。
興味深いことに、そういう凡庸な個を作者・諌山は、所帯持ちのオッサンとして肉づけする傾向にあります。
まず、エルヴィンの旧友で憲兵団の師団長、ナイル・ドーク。
かれはもともと調査兵団入りを志していたけれど、恋した女性と家族を作ることを、そのために憲兵団に入ることを選んだのだと語られています(53話)。
望めば憲兵団に入れたということは、ナイルは兵士としてはハイスペックなのでしょう。
現に、憲兵団のなかではトップレベルの地位についていますし(中央憲兵団には逆らえないけど)。
でも、それにもかかわらず、ナイルは凡人です。
巨人と判明したエレンを調べ上げたうえ殺すべきと主張したことにはじまって(19話)、ナイルのふるまいはほぼつねに、気概のなさや、未知のものを恐れる態度や、慎重で型にはまった判断への官僚的な固執といったものを体現しています。
あの腐敗した憲兵団の高官ですから、自分自身が堕落しないまでも、同僚や部下のことはかなりの部分、見て見ぬふりをしているのでしょう。
とはいえ、ナイルは「普通の」人間に相応の良心も見せます。
ヒストリアを「所詮は下賤の身」とけなす同僚には不快感を隠していませんし(108話)、子供を戦場に居させたくないという思いから捕虜にされたフロックを解放したことも(118話)。
この凡人の生きざまは、非本来的です。よかれ悪しかれ、かれは小市民的なのです。
小市民ナイルは、平然と自己欺瞞を使うことができます。
アニやコニーについては、かれらが本来の自己に気づいており、そのために内面的葛藤を経験しつつ自分を騙していたことを指摘しましたが、そういう葛藤はナイルにはありません。
同志を「裏切り」生き延びたことを「後悔はしていない」というナイル。
調査兵として命を散らした仲間への申し訳なさを一応は口にしているものの、しかし家族を守ることが自分の「誇り」だと続けるナイル(53話)。
そんなかれは、同期のエルヴィンと私的に話すことで、調査兵団入りを目指していた自由な存在であったころの自己を思い出させられています。
昔の自分と今の自分は矛盾している。
しかしながら、その矛盾もまた、みずからの自由な選択の結果でしかありません。
ナイルが自分を騙したいのは、この点についてでしょう。
つまり、わたしはこういう風に生きるしかなかったのだと、つまり偶然的だが自由な選択によってではなく、必然性ゆえにわたしはこう在ると、かれは自分に言い聞かせたいのです。
ただしそれは、昔の自分に戻りたい願望を抑制するためでは決してありません。
ただただ今の自分に満足しきっているがゆえに、ナイルはそう自分を騙すにすぎないのです。
他にも所帯持ちのオッサンが出てきましたね。
新聞社の、若い部下のピュレといつもセットのおじさん、名前はロイ。
かれもまた、結婚をきっかけに若いころの理想を放棄したことを語っています。
家族をもって「自分なんかどうでもよく」なり、自分を「偽る」ことで志を失うかわりに「もっと多くの大切な物」を得たと語りながら、かれは「どうだ... かっこ悪いだろ?」と開きなおってみせます。
芝居がかった自嘲を、家族や会社の仲間のために生きるわたしという小市民的な自尊心の表明によって、すぐさま相殺してしまうのです。
「昔は世を正す理想に燃えていた」なんていうものの、そんな自分に戻りたいという気持ちは、ロイの口ぶりからはみじんも感じられません(60話)。
こういう種類の小市民的な自己欺瞞が、現実においても、もっともありふれた、ごく「当たり前」に見られるものなのでしょう。
サルトルも、こう言っています。
大多数の人々にとって、それは人生の当たり前の姿であるともいえる。われわれは自己欺瞞のうちにあって生きることもできる。
所有と服従、そしてストイックな自由
さて、本作において凡庸さを体現する役割を与えられた、所帯持ちのオッサンという人物像について、考察を深めてみましょう。
所帯持ちのオッサンは、所有主として世界に存在しています。
かれらは自分自身のほかに、なにか大事なものを所有しています。
すなわち、家や会社です。そして、家や会社に属する親密な人間たちです。
もちろん人間は所有物ではありませんが、かれら所有主の家族や従業員との結びつきは、家や会社といった財産を媒介しています。
そういう意味で、人は家族や従業員を「もつ」のです。
この所有主という在りかたは、人間の自由を基礎づける一方で、それを妨げもします。
生業を営むための財産を持つ者は、誰も頼りにする必要なく、独立して生きていくことができます。
ところがその一方で、財産や、面倒をみるべき人間は、他人に握られる弱みになるかもしれません。
現に、ナイルもロイも、家族や従業員を守るために、体制に対してすすんで従順にふるまっています。
所有することが弱みに、束縛になるとすれば、人間はどうすべきでしょうか。
この問題について、ヘレニズム哲学の一潮流であるストア派、ストイック(禁欲的)の語源であるストア派は、こう答えます。
所有に固執するのをやめればよい、と。
ほんとうに必要でないものは捨ててしまえばよい、と。
ところで以前、スピノザの自由論を、一種の「逆に考えるんだ」理論として紹介しました(0.8)。
それに似て、ストア派もまた、あなたが自由になるためには「逆に考えるんだ あげちゃってもいいさと考えるんだ」と、つまり、独立した生活の基盤をなす所有物への執着を捨て去るべしと教えるのです。
実はスピノザも、古代のストア派に大きく影響された哲学者ですので、両者が「逆に考えるんだ」という共通の思考法をもっているのも、当然といえば当然なのですが。
この「逆に考えるんだ」式思考法を、もっとも極端に徹底するのは、奴隷出身の哲学者エピクテトスです。
かれは断言します。あらゆる束縛から解放されたいなら、あなたは外面的なものを、すなわち、みずからの身体とその所有物を、まったく「無価値」であると悟ればよいのだと。
この世に「盗賊」や「暴君」がいるのは「この小さな肉体と、その所有があるせい」です。
でも、エピクテトスに言わせれば、かれらに自分がどんなに酷い不正義をおこなっているか理解させるのは徒労であって、真の問題は、自分自身が身体と所有物への執着を捨てられるかどうかなのです。
......肉体とその所有を無価値と悟った者にとって、どんな暴君が、どんな泥棒が......なお恐ろしいものであろうか。待つのだ、そして軽率に世を去ってはならない。
エピクテトス『語録』第1巻第9章
こんなことを言われて、誰が納得できるでしょうか?
財産はおろか、自分の身体すら気づかわないことは、自分の生き死にをどうでもいいと投げ出すも同然です。
ところが、まさにエピクテトスが要請するのは、死への恐れから解放されることなのです。
そうやって自由のために不要なすべてを捨てた後に残るのは、わたしの言動の純粋に内面的な原因、すなわち意志です。
「わたしの意志はゼウスだって支配できない」のだから、自分の意志だけは譲らないと覚悟を決めるとき、わたしは誰にも束縛されないのです。
「秘密を話せ」
わたしは話さない。それはわたしの力の及ぶことだから。
「それじゃあ、お前を縛るよ」
......きみはわたしの脚を縛るだろう。だが、わたしの意志はゼウスだって支配できない。
「お前を牢獄にぶち込むよ」
このちっぽけな肉体をだね。
「お前の首を切り落とすぞ」
わたしの首だけは切れないなんて、いつ君に言ったか。
これらのことを哲学する者は心がけ、毎日書き記し、これらによって自分を鍛えねばならない。
エピクテトス『語録』第1巻第1章
禁欲主義か自己欺瞞か
外面的な事物への執着を捨て、自分の意志だけに従うべしという、ストイックな自由観。
たしかにそれは、誰にも支配されないための一方法であるとはいえます。
それにこの自由観は、実存主義的な自由観、どんな苛酷な状況ですら自己の責任において引き受けようとする自由観にも、通ずるように見えなくもありません。
でも実際には、実存的自由の哲学者サルトルは、ストイックな禁欲主義を批判しています。
かれに言わせれば、ストア派の態度には一種の自己欺瞞が含まれているのです。
「美しい禁欲主義」とは、実のところ「苦しむことへの恐れ」以外の何物でもないと、サルトルは喝破します。
本来性は、自己への忠実さ、世界への忠実さから、苦しむことを受け入れよと要求する。......無我夢中になることはたやすい――禁欲的になることもまた。しかし、本来性をつかんで離さずにおくことはほとんど不可能だと、わたしはずっと感じている。
サルトル『奇妙な戦争』1939/11/27
責め苦を受ければ、わたしの身体は悲鳴をあげるでしょう。
それを避けられるなら、わたしは喜んで拷問者に屈服してしまうことでしょう。
大切な人を殺されれば、わたしは平静を保ってはいられず、悲しみに暮れるでしょう。
それを避けられるなら、わたしは喜んで脅迫者に屈服してしまうことでしょう。
それはたしかに自由の喪失です。
でも、そうした苦しみや悲しみは、わたしがいかなる存在であるのかを、わたし自身に告げ知らせるサインかもしれないのです――すなわち、わたしの本来性を。
だとすれば、ストイックになること、苦しまないふりをすることによって、わたしを騙してはならない。
苦しみながら、苦しみを乗り越えることでしか、わたしはわたしに到達しえない。
だから、本来性はわたしに「すこしは泣き虫になれ」と要求するのだと、サルトルはいうのです――ジャンの「弱さ」の分析も参照(3.2)。
「状況内存在」としての所有主
わたしの所有(財産および身体)は、他の外面的な事物と並んで、わたしの状況を形成しています。
だとすれば問題は、所有(財産および身体)への執着を捨てることではなくて、みずからの所有を状況の一部として捉えなおし、それにどう責任を負うべきかを決めなおすことにあるといえないでしょうか。
ナイルはエルヴィンに警告されました。組織内で地位を守ることが「必ずしも家族を守ることに繋がるわけではない」と(53話)。
ロイは部下に詰め寄られました。王政は「民衆を救う気がまったく無い」のに「まだわからないんですか!?」と(61話)。
かれらが状況を理解し、認識を改めるまでには時間がかかりましたが、それでも最後の最後には、受動的態度を放棄し、体制に逆らう決心をつけたのです。
それは、ストア派の教えに従って所有への執着を捨てたからではなく、家族を守るために何をすべきかという判断を改めたからです。
他方で、かれらと同じく「所帯持ちのオッサン」でありながら、状況に応じた判断力においてはるかに秀でた登場人物もいます。
リーブス商会の会長ディモ・リーブスです。
かれは中央憲兵団からエレンとヒストリアの誘拐の仕事を請け負いました。中央憲兵の依頼を断ることは、商会と、それが辛うじて支えているトロスト区との破滅を意味したからです。
しかし、リヴァイ班のおとり作戦にひっかかったディモ。
もはや後なしのかれは、リヴァイの提案に乗り、王政・中央憲兵団と対決する調査兵団に協力する覚悟を決めました(54話)。
ここでリヴァイの誘いを断れば、仕事に失敗したディモと商会には破滅の道しかなかったので、かれに選択の余地がなかったのは事実。
しかし、ディモが諦めたわけでもヤケを起こしたわけでもないことは、かれの目つきと、リヴァイの手を固く握ったことに表れています。
ナイルやロイのような体制に従順な小市民とは違って、ディモは非合法スレスレの商売も辞さない利己主義者です。かれは巨人侵入のさいにも、売り物をたんまり詰めた荷馬車に固執し、他の市民の避難を妨害しました(6話)。
しかし、そういう際どい立場にいるからこそ、つまり成功も失敗もすべて自分の責任として引き受けてきたからこそ、ディモは「所帯持ちのオッサン」でありながら、他の小市民たちよりも大胆な決断ができたのでしょう。
けっきょくディモはケニーに殺されてしまいますが、商会を引き継ぐ覚悟を決めた息子フレーゲルに、その意志は受け継がれたのでした(61話)。
そんなディモの生きざまもまた、次のことを示しています。
すなわち、所有への執着を捨てられるかどうか、禁欲的になれるかどうかは、実存的自由にとって真の問題ではないということを。
「大切なもの」を自分が行動しないことの言い訳にせず、眼前の状況を我がこととして引き受け、そのなかで自分が真になすべきは何かを見極め、恐れずに実行すること。
凡庸な小市民たちもまた、究極的にはそうやって「自由の刑」(サルトル)を生き延びるしかないのです。
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