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「クリスタ」の鏡としてのフリーダ=始祖ユミル
精神分析の知見を借りつつ、自我の鏡像的形成という観点から、ヒストリアがユミルとの同一化をつうじて自己を解放する過程を、前記事で考察しました。
ひきつづき以下では、ユミルとの別離によりアイデンティティの危機に陥ったヒストリアが、別の「鏡」によって自己を再認識しようとする過程を見てみましょう。
それはかつて「クリスタ・レンズ」を作り出すことに一役買った「鏡」でもありました。
「鏡」の名はフリーダ・レイス。
当人が鏡に映った姿で最初に(エレンの記憶のなかに)現れた、真の「壁の王」にして「始祖の巨人」保有者であったフリーダです。
作中ですでにフリーダは故人ですが、ヒストリアの回想をつなぎあわせることで、フリーダがヒストリア=クリスタにとってどんな「鏡」だったのかを読み取ることができます。
まず、ユミルと別れた直後、ヒストリアはエレンたち同期生に、もうクリスタは存在しないと、あれは「私が生きるために与えられた役」でしかなかったと宣言します。
重要なのは、その続き。かのじょは曖昧な記憶にもとづいて、こう言います。
クリスタという役の見本になったのは「たしか... 子供の頃読んだ本の女の子――だった... はず」と(51話)。
ちょっと分かりにくいですが、この「子供の頃読んだ本の女の子」とは、クリスタなる人物が登場する童話とかではありません。
あとで判明しますが、それは始祖ユミルについて書かれた本だったのです。
それを幼いヒストリアに読み聞かせたのは、古臭い言い方をすれば「庶子」であるかのじょに忍んで会っていた、レイス家の「嫡子」フリーダです。
始祖ユミルの人物像を、フリーダは「他者への慈しみにあふれる女性」へと単純化しました。「いつも他の人を思いやっている優しい子」というわけです。
世界は「辛くて厳しいことばかり」だから、ヒストリアは「みんなから愛される人になって助け合いながら」生きていかねばならないと、そうかのじょにフリーダは教え諭しました。
幼いヒストリアは、この教えを「おねぇちゃん」すなわちフリーダのようになることだと解釈します。
これは夢のなかで蘇った記憶であり、夢から覚めたヒストリアはすぐにそれを忘れてしまいます(54話)。
でも、この記憶はずっと、かのじょの無意識にしまわれていたのでしょう――フリーダの「始祖」の能力といえども、記憶をまったく消し去るほどの力はなかったのか、あるいはヒストリアの記憶を完全に消すことをフリーダが望まなかったからなのか。
こうして幼いヒストリアの無意識下に、あの「いつも他人を思いやる優しい少女」という理想自我が潜り込みます。
その自我に名を与えたのは、かのじょの父親ロッド・レイスでした。
ことのあらましは次のとおり(52話、63話、65話を参照)。
グリシャにフリーダの「始祖」を奪われ、すべての子を殺されたロッドは、いまや「始祖」を継承できる自分以外で唯一の存在、ヒストリアを取り戻そうとしました。
しかし「妾の子」の存在を不名誉とみなした王政の使者(ケニーら中央憲兵団)によって、ヒストリアは母親もろとも殺されそうになります。
「始祖」を奪われたことを隠しておきたいロッドには、それを止めたい本当の理由が言えず、幼い女の子に情けをかけたいという口ぶりで、別人として生きることを条件に「見逃して」やろうと提案したのでした。
こうしてヒストリアは、クリスタ・レンズという名をロッドに授けられました。
(ところで王政は、レイス家の「妾の子」が不名誉だから消そうとしたのだとは言いますが、たぶんそれ以上の理由があったのでしょう。つまり、ハリボテの権力であるオモテの王政は、ウラの支配者であるレイス家の外部に、秘められた真の権力である「始祖の巨人」を継承可能な存在がいるということ自体を、危険視したのかもしれません。筆者の推測ですが。)
自己犠牲的な「女性らしさ」
幼いヒストリアの鏡であった「いつも他人を思いやる優しい少女」を、いまやかのじょは自分自身の役割として、すなわち「いつも他人を思いやる優しいクリスタ・レンズ」として受け取っています。
とはいえ、フリーダが示した「他者への慈しみにあふれる女性」という模範と、ロッドが与えたクリスタ・レンズなる仮面とが一つになったこと自体は、偶発的な諸事情の結果でしかありません。
だから両者は、切り離し可能です。
つまり、クリスタ・レンズという仮面を放棄しながら、なおかつ「いつも他人を思いやる優しい少女」であろうとすることができるのです。
クリスタの仮面を捨てるかわりに、自分を見失ってしまったヒストリア。
もしかのじょが「子供の頃読んだ本の女の子」=昔会った「おねぇちゃん」を思い出せるならば、この「女の子」=「おねぇちゃん」を新たな「鏡」として、自我をかたどりなおし、アイデンティティを作り直すことができるのです。
そして実際、礼拝堂地下の神秘的空間で、父ロッドに促され「始祖」をもつエレンに触れたことをきっかけに、ヒストリアは意識下に眠っていたフリーダの記憶を取り戻しました(63話)。
ヒストリアはふたたび「鏡」を手に入れたのです。
なんということでしょう。
あのユミルと同じようにヒストリアもまた、始祖ユミルを自我のモデルとして与えられていたことがあったのです――この一致にヒストリアは気づきえないにせよ。
始祖ユミルという人物像をもって両者に示されたのは、他者に恵みや救いを与える女性という模範です。
そして、この模範が「女性らしさ」なるものを、すなわち、すべての女がそうあるべきところの理想を表象しているというならば、かのじょらの思いやりを受けるべき「人間」とは、すなわち男ということになります。
ユミルやヒストリアもまた、そういう種類の「女性らしさ」を体現するよう求められました。
すなわち、他の人間たち(究極的には男)のためにあることを自己の存在意義とする、そういう自己犠牲的な「女性らしさ」を。
(念のため、あらゆる種類の「女性らしさ」がそうであるとは言っていません。)
その一方で、両者に模範として与えられた始祖ユミルの人物像には、微妙だけど重要な違いもあります。
みなし児ユミルに与えられた「鏡」としての始祖ユミルは、奇跡の力によってエルディア人に恵みを与えたとされる、あの神話的少女そのものでした。
そしてユミルは、そういう神秘的な存在としての自己を犠牲に捧げたのです(89話)。
それに対して、フリーダが幼いヒストリアに「鏡」として示した始祖ユミルは、神話的というよりも訓話的な人物像、つまり道徳の授業で選ばれる素材のような人物像といえます。
その「女の子らしい」少女は「いつも他の人を思いや」る「優しい子」だったので「みんなから愛され」ましたとさ、めでたしめでたし。
......という具合に、フリーダにおける始祖ユミルは、みなし児ユミルにおけるそれと比べても、あからさまに「女性らしさ」の形象として描き出されています(54話)。
「女性らしい」女性として、すなわち、みずからを「愛される」べき受動的存在たらしめることに価値を見出す女性として。
まさにそういう「女性的」規範に、かつてのクリスタ・レンズは忠実でした――男たちに「女神」とか「結婚したい」とか思わせる(24話)、まさに「みんなから愛される優しい女の子」としてのクリスタは。
フリーダ自身もまた「女性的」な思いやりに満ちた女性であろうと努めていたようです。
そのことは、レイス家所領の農民たちの評判から窺い知れます――調査兵団の報告によれば、フリーダは「よく農地まで赴いては領民の労をねぎらって回」り、それゆえに「誰からも好かれ」たので、領民はみな口をそろえて、かのじょを「この領地の自慢」と述懐したとのこと(62話)。
ただし、かのじょの「優しさ」「思いやり」は、ニーチェのいうニヒリスティックな「奴隷道徳」と両立するものでもあります。
それゆえに、同じ自己犠牲的な「女性らしさ」とはいっても、フリーダのそれは、かつてのみなし児ユミルのそれよりも、はるかに徹底的なものでありました。
思い出してください、フリーダを含む「壁の王」たちが「始祖」とともに受け継いできた虚無主義を。
自分は無価値であると自己卑下し、他者のために自己をどこまでも貶めてみせることにのみ価値を見出そうとする、あの破滅的なニヒリズムを。
そんなフリーダの「女性らしさ」は、かのじょが「罪深きエルディア人」に唯一許されたものと考える生き方と重なりあっています。
自己卑下をつうじて世界に許しを乞うべきエルディア人としての「わたし」。
自己犠牲をつうじて他者に愛されるべき女性としての「わたし」。
これらを同一の「わたし」として受け入れたフリーダは、徹底的な自己卑下をともなう自己犠牲的な利他主義を信念とすることでしか、自己確認を得られなかったのです。
そのような生き方を、あの「クリスタ」もまた無自覚に再演していたといえるでしょう。
自己犠牲をつうじて他者に愛されるべき「優しい女の子」と、自己卑下をつうじて世界(ただし壁内世界)に許しを乞うべき「妾の子」とを、同一の「わたし」として受け入れていたのが、クリスタという人格だったのです。
※ 併せ読みがオススメ
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「自然の声」と女性の内面的解放
フリーダの自己犠牲的な「女性らしさ」は、それ自体としては、現実世界に存在するものと変わりません――かのじょは貴族の長女としての生い立ちゆえに、それをより深く内面化したのかもしれませんが。
それはすなわち、女性の本来的美徳は、勇気や忍耐や決断力よりも感情の繊細さに、つまり他者(ほぼもっぱら男性)への気づかいや心配りに長けている、という観念です。
あるいは、自然の女性らしさとは受動性である、つまり男性に愛されることに女性の本来的価値がある、という観念です。
それは男尊女卑的な古臭い女性観ではありますが、いまでも珍しいものではなく、むしろ多くの人が程度の差はあれ受け入れているものです――男性はおろか、少なからぬ女性すらも。
このような女性観は、ある一点において「壁の王」の虚無主義や自己卑下とも共鳴します――すなわち、自己卑下と引き換えにしか他者の承認を期待することが許されない、という構図において。
この古臭い女性観によれば、女性の優越性が認められるのは「自然に女性らしい」美点においてのみです。
他方で、勇気や決断力など「男性らしさ」と同一視されがちな美点にかんしては、女性は白旗をあげて男性の権威に服さなければなりません。
あえて男たちの「自然的」権威に挑戦しようとする女は、男に疎まれ、憎む、さらには攻撃されるでしょう――男性の優位を否定する女性を嫌う、いわゆるミソジニーの制裁を受けるのです。
こうして女性は、自己卑下と引き換えに他者(男性)の承認を得ることを強いられます――たとえば客のおっさんに説教されるキャバ嬢がそう強いられているように。
結果として、女性は「女性らしさ」だけを、男性に好まれる資質としてのそれだけを、追求するようになるでしょう。
さらには「女性らしさ」に挑む女性を、みずからも嫌悪するようになるかもしれません。
ところで、本章のテーマである「内なる声としての自由」を唱える哲学者ルソーですが、かれは相当ねじくれた性格をしていただけでなく、かなり歪んだ女性観、現代でいえばモラハラ男がもっていそうな女性観に囚われていました。
「内なる声」「自然の声」に耳を傾けよと唱えたルソーは、女性に対しては「自然の声」にしたがって女らしくあれ、男に愛される女であれ、男を立てて男の美点を引き立てることが女の美点だと知れ、といった趣旨のことを言い連ねたのです(とくに『エミール』第5巻=日本語版下巻で)。
それでは、自己犠牲的な「女性らしさ」を克服するために、女性はルソーのいう「自然の声」など無視すべきなのでしょうか?
そうではないと示した哲学者・文学者がいます。
女性解放思想の一先駆者にして、小説『フランケンシュタイン』の作者の母、ウルストンクラフト(1759-97)です。
ルソーの教育論に含まれる女性蔑視を、ウルストンクラフトは正面切って批判しました。
かのじょいわく、ルソーとその支持者たちは、女子教育の目的を「男性を喜ばせる女性」を作ることに還元したのです(ウルストンクラフト『女性の権利の擁護』未来社)。
それにもかかわらずウルストンクラフトは、ルソーの哲学そのものは非常に高く買っていたのです。
ある文学作品において、かのじょはルソーを「感情という主題における真のプロメテウス」とさえ評しました(ウルストンクラフト『女性の虐待あるいはマライア』第2章)。
同じ文学作品の主人公が離ればなれになった娘に宛てた手紙の記述というていで、ウルストンクラフトは次のように書いています。
「俗にいう善良な女性」とは「偽りの洗練」を施された女性にすぎない。
かのじょたちがそなえる「優しさ」は「想像力の炎」を欠いており、そのせいで「能動的な感性」や「肯定的な美徳」を生み出しえない。
そう述べたうえで、ちょうどルソーが文明に対して自然の感情を擁護したのと同じ仕方で、ウルストンクラフトは「偽りの洗練」「心をもたない品のよさ」に対して、女性の「ほんとうの正直さ」「純粋な感情」を擁護したのです。
ほんとうの正直さと純粋な感情をそなえた人に、あなたにはなってほしい。心をもたない品のよさなど、徳性に反するものだと言わねばなりません。ただ真実だけが徳性の基礎なのです。
ウルストンクラフト『女性の虐待あるいはマライア』第10章
ここでウルストンクラフトは、いわばルソー主義をもってルソーの女性観に反駁(はんばく)しています。
本質的には受動性と自己卑下でしかないような「女性らしさ」を、ルソーのような男たちは自然的なものとして歓迎するが、それは実は人為的なもの、すなわち「偽りの洗練」の産物でしかないのだと。
そういう「心をもたない品のよさ」とは異なる、女性の「純粋な感情」は、きっと女性たちの「能動的感性」や「肯定的美徳」を基礎づけるはずであるのだと。
こうしてウルストンクラフトによれば、女性がみずからを自由にするには、自然なものと誤解された人為的な「女性らしさ」とは異なる、みずからの真に「純粋な感情」を解き放つ必要があります。
さて、ユミルという「鏡」を失ったヒストリアは、自己犠牲的な「女性らしさ」から、どうすれば自己自身を解き放つことができるのでしょうか。
ウルストンクラフトのいう「肯定的美徳」を、どうやったらヒストリアは獲得できるのでしょうか。
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