4.5.c ヒストリアの鏡 (下) ユミルとフリーダ ~ わたしの内なる声としての自由
unfreiefreiheit-aot.hatenablog.com
フリーダに同一化するヒストリア
幼少のヒストリアに強いられた「クリスタ・レンズ」という第二の人格。
それを規定していたのは、かのじょの異母姉フリーダによって無意識下に植え込まれた「いつも他人を思いやる優しい女の子」という模範であったことが判明しました。
しかし、フリーダ自身もまたそれに服していただろう「女性らしさ」の本質は、自己卑下と引き換えに他者の愛や承認を得ることをよしとする、受動性の美徳なのです。
時は移り、ユミルを失いアイデンティティの危機に陥ったヒストリアは、いつのまにやら「女性らしさ」のくびきにふたたび繋がれそうになっています。
かのじょに「クリスタ」の役割を押しつけた張本人、憎むべき存在であるはずの父ロッド・レイスとの再会の場面。
中央憲兵団によってエレンとともに連れてこられたヒストリアは、かのじょに謝罪の言葉をかけるロッドに抱きしめられました(58話)。
これだけのことで、かのじょの無意識に刷り込まれた「他人を思いやる優しい女の子」が揺さぶり起こされてしまったように見えます――自己卑下と引き換えの愛情だけで自分は満ち足りると思い込む、あの「優しい女の子」が。
そしてこの「女の子」は、あの「思いやり」に満ちた「女性らしい」フリーダの姿で、ヒストリアの潜在記憶から引き出されました。
フリーダがヒストリアに会っていたことを知った父ロッドは、ヒストリアに告げます。
すでにフリーダは殺された。かのじょがもっていた「始祖の巨人」を奪おうとした、エレンの父グリシャの手で。
だが「始祖」をつうじて継承される記憶のなかにフリーダは「生きて」いる、それをお前は取り戻し、かのじょに再会することができるのだ(63話)。
こうしてロッドは、フリーダが生前にヒストリアを気にかけていたことをうまく利用して、かのじょが巨人化してエレンを喰う使命を望んで受け入れるよう、たくみに誘導します。
父の狙いどおりに、フリーダに同一化しようと欲するヒストリア。
自分にとってのもう一つの「鏡」であった、記憶のなかの「姉さん」を取り戻したいと望むヒストリア。
この願望は、かのじょがまたもや「他人を思いやる優しい女の子」になろうとしていることを意味します。
フリーダという「鏡」に映し出された「女性らしい」女性の姿を、そうあるべき自分として、ヒストリアは受け入れようとしているのです――運命に従うことでのみ愛され、認められ、心の満足を得ようとする、あの受動性の美徳を。
父ロッドのもくろみをケニーに単刀直入に告げられても、ヒストリアはひるみません。
巨人になり、エレンを喰って「姉さん」を「取り戻」し、そして「この世から巨人を駆逐する」ことが「私の使命」なのだと、そうかのじょは宣言したのです(65話)。
いくらなんでも、ちょっとチョロすぎませんかね、かのじょ。
自己肯定感が低いと他人に騙されやすいことを、ヒストリアは身をもって示しています。
このヒストリアちょろいよ! さすがフリーダの妹さん!
ヒストリアに自分自身を見たフリーダとユミル
ところが、ヒストリアをこんなチョロい性格にした元凶であるロッド・レイスは、まだ娘に対して隠しごとをしていました。
王家の手から「始祖の巨人」が離れていなければ、壁内に侵入してきた巨人を「駆逐」することもできただろうと言っておきながら(64話)、実際はそうなりません。
その理由は、初代「壁の王」の思想です。
人類が「巨人に支配される」ことが「真の平和」であるという初代の見解に、フリーダら「始祖」の継承者は、みな同意してきた。
いわば「始祖」を継承した王家の者は、世界の真実と、そして人類が生き延びるか滅ぶかを「定め」る権限とを委ねられた、さながら「神」のような存在になるのだ。
そう説明したうえで、ロッドは「神をこの世界に呼び戻」すことが「私の使命」だと打ち明けたのです(66話)。
ロッドが隠しごとを弁明せざるをえなかったのは、ヒストリアが大事なことを思い出し、すんでのところで巨人化の注射を打つのをためらったからです。
まず、これから喰われようとしているエレンが抵抗しないさまを見て、ヒストリアは一抹のちゅうちょを感じました。
父グリシャが「始祖」を奪い、そのせいで人類は巨人に支配されていると嘘の混ざった情報を吹き込まれたため、エレンは自分の存在そのものが「いらなかった」のだと絶望し、ヒストリアに喰われる末路を受け入れてしまったのです。
そんなかれをヒストリアは、母親にネグレクトされていた幼少期の自分と重ね合わせます(65話)。
こうしてかのじょは、まずは自分の原体験、存在価値を否定される苦しさを思い出しました。
それでもヒストリアは、ついに与えらえた自分の「使命」を果たそうとします。
しかし、腕に刺した注射針のかすかな痛みに触発されて、さらに別の記憶が蘇ります。
自分を見守ってくれた「姉さん」が、深い苦悩を抱えていたことを思い出したのです。
生前のフリーダには、ときおり「人が変わったみたいに」なって「私達は罪人だ」などと言い出し、それから「ひどく落ち込む」ということがあった。
それを思い出すとともに、フリーダの苦しみの意味すら、ばくぜんとヒストリアは察知しました。
「すべての巨人を支配する力」を、すなわち「始祖」をもちながら、フリーダや歴代の継承者たちが巨人と戦わなかった理由と、それは関係があるのではないかと――それでロッドは隠しごとを打ち明けざるを得なくなったわけです(66話)。
初代「壁の王」の思想にかんする父の説明と照らし合わせることで、ヒストリアには推測がついたでしょう。
あのフリーダの苦悩もまた、幼少期の自分や、眼前の絶望したエレンがこうむったのと同じ、存在意義を否定される苦しみだったのではないかと。
いやむしろ、父の説明をまたずして、ヒストリアはフリーダの苦しみの本質を直観的に悟ったように思われます。
そのことは、かのじょの意識がフリーダをユミルとかぶらせている描写から読み取れます――「子供の頃読んだ本の女の子」ではなく、ヒストリアの半身としてのユミルと。
幼いヒストリアに「柵の外に出るな」と、すさまじい形相で𠮟りつけたフリーダ。
自分に似た境遇をもつ少女が「優しい女の子」を演じているのを見て、苛立ちを隠せなかったユミル。
これらの場面は、なぜヒストリアの意識においてオーバーラップしたのでしょうか?
フリーダとユミルに共通するのは、自己犠牲のみじめさ、自分の存在意義をみずから否定することの苦しみを、身にしみて知っているという点です。
初代「壁の王」のニヒリズムに納得していたはずのフリーダは、しかしその核心をなす徹底的な自己卑下に、ほんとうは苦しみ悩んでいたのです。
他方のユミルは、過去の自分がそのために人生を無益に終わらせた、あの自己犠牲の精神を初対面のヒストリアに見出し、苛立たされたのでした。
これらの場面には、もう一つの共通点があります。
どちらにおいても、相手がヒストリアを自分の鏡として見ていることです。
フリーダは、言いつけを守らず「柵の外」に出ようとしたヒストリアに、かのじょと同じように心の底では「柵の外」に出たいと望んでいる自分自身を見出し、その自分をやっきになって否定したのでしょう。
ユミルは、自己犠牲のほかに自分の存在意義を証明するすべをもたなかった過去の自分を、他人のために「いいこと」をしようとするヒストリアに見出し、その自分に苛立ちを覚えたのでしょう。
自己犠牲の運命を背負いつづけたフリーダと、それに逆らいつづけたユミル。
かのじょらは対極的でありながら、どちらもヒストリアを鏡として、苦悩する自分自身の姿を見たのです――存在意義を否定され、苦しんでいる自分自身を。
フリーダもユミルも、それまでのヒストリアにとっては、自分の「鏡」――鏡像的な自我形成における同一化の対象――でした。
しかしいまや、ヒストリアは悟ったのです。
かのじょたちもまた、ヒストリアの姿にかのじょたち自身を見たということに。
かのじょたちもまた、みずからの存在意義を、そうありたい自分の姿を見つけ出せず、苦しんでいたということに。
かのじょたちもまた、苦しんでいる自分自身を見るためには、それを映し出す「鏡」が必要だったということに。
フリーダ=ユミルに同一化するヒストリア
いまやヒストリアにとってフリーダやユミルは、かつてと同じ意味における「鏡」ではありません。
かつてヒストリアはユミルに、運命の重荷から自己を解放している、そうありたい自分を見出していました。
そして、たった今ヒストリアは、誰にも代われない使命を引き受け、みなに愛されていたフリーダのようになろうとして、父の言いなりになっていました。
しかしながら、そういう理想の自我として、なにも欠けるところのない自分として、ユミルやフリーダを思い浮かべることは、もうヒストリアにはできません。
かのじょたちの苦しみ、かのじょたちの欠如を理解し、かのじょたち心の叫びを聴き取ったからです。
かのじょたちの苦しみが、いまここにいる「わたし」の苦しみと同じであることに、この「わたし」の「内なる声」と同じであることに、気づいてしまったからです。
しかしながら、この気づきこそがヒストリアに真の解放をもたらします。
あわれみと共感の作用をつうじて、ヒストリアはフリーダ=ユミルに同一化するのです――「理想のわたし」としてではなく、ありのままの人間=ありのままの「わたし」としてのかのじょたちに。
この共感、この同一化こそが、ヒストリアの「自然の声」「良心の声」なのです。
いまや選択の時。
ヒストリアに与えられた一つの選択肢は「お父さんが望む私の姿」を引き受けることです。
他者の期待に応えることによって自分の欠如を埋めようとする、自己犠牲的な、自己卑下的な「わたし」を演じ続けることです。
もう一つの選択肢は、ありのままの自分を、自分を見失っている自分を、それでも心の奥でなにかを叫んでいる自分を、引き受けることです。
いままさに発されようとしているヒストリアの心の叫びは、ユミルの心からの「願い」の共鳴にほかなりません。
「わたし」と同じ欠如に苦しんでいたユミル。
運命に復讐するため自由に生きると称しながら、自分のほんとうの存在意義を見出せずにいたユミル。
そのユミルは、かのじょが自分の似姿として見出した「わたし」=ヒストリアの心の解放を、それがユミル自身の救済であるかのように望んでくれたのでした。
「お前... 胸張って生きろよ」と、ユミルは心から願ってくれたのでした。
それを思い出すことによりヒストリアは、ふたたびユミルによって解放されたのです――ただし今回は、そうなりたい「わたし」を映すユミルではなく、ありのままの「わたし」を映し出すユミルによって。
父親の「望み」ではなくユミルの「願い」に、ヒストリアは応えました。
注射器を払い落とし、父を投げ飛ばして、かのじょは「これ以上... 私を殺してたまるか!!」と叫びました。
それはもちろん、ユミルの「願い」こそが、ヒストリアのほんとうの願望、ヒストリアの心の叫び、ヒストリアの「自然の声」でもあったからです。
みずからの心の声に従おうとするヒストリアの勇気と能動性は、たんにかのじょの内からのみ湧きあがってきたのではありません。
「わたし」の心が自由でありたいと叫ぶように、ユミルの心もそう叫んでいたし、そしてフリーダも心の底では同じ願望を抱いていたはず。
だとすれば「わたし」の解放は、ユミルの、そしてフリーダの解放でもある。
このような共感の作用をつうじて、ヒストリアはユミルやフリーダに同一化しました。
それによってヒストリアの「内なる声」「自然の声」は大きくなり、ついには自己犠牲と受動性を拒否する叫びとなったのです。
この叫びに突き動かされて、ヒストリアはエレンを救いにかけつけます。
「私は人類の敵だけど... エレンの味方」と言いながら。
「自分なんかいらないなんて言って 泣いてる人」がいれば「誰だって」助けに行くのだと言いながら。
フリーダを、そしてユミルを、心に浮かべながら。
共感と自由
こうしてヒストリアの共感は、普遍的に拡張されました。
それは、あの自己犠牲的な「女らしさ」ではありません。
自己卑下を代償として与えられる愛や承認を目当てにした、あの受動的な利他主義ではありません。
なぜなら、それはルソー的なあわれみ、すなわち、自分が苦しむのと同じように苦しむ他の存在に対する自然の共感であるからです。
いまやヒストリアは、自分と同じように「自分なんかいらない」と「泣いて」いる他の人間たちを、自由に、自分の心にしたがって、助けたいと欲しているのです。
ウルストンクラフトが「偽りの洗練」との対比で示した「能動的感性」や「肯定的美徳」と、それは呼ぶに値するでしょう。
ついにヒストリアが解き放ったかのじょの願望、かのじょの心の声は、あの「徳性の基礎」をなす「真実」を、すなわち、自己を気づかうのと同じように他者にも共感せずにいられない、かのじょの内的感性という「真実」を、源泉としているからです。
「ほんとうの正直さと純粋な感情をそなえた人に、あなたにはなってほしい」
「ただ真実だけが徳性の基礎なのです」
unfreiefreiheit-aot.hatenablog.com