unfreiefreiheit-aot.hatenablog.com
なぜヒストリアは女王になったか
王家の巨人を取り戻し、その身に「神」を宿せという、父親ロッド・レイスの要求を拒否したヒストリア。
「女性らしさ」とともに自己犠牲の美徳を受け入れてしまったと思いきや、実際のところヒストリアは、苦しみに苛まれていた先代「壁の王」フリーダとは、異なる道を選びました。
ところがかのじょは、けっきょくは「壁の王」になります。クーデターを成功させた兵団の意向に従い、新たな体制の君主という役割を引き受けたのです。
もちろん読者はみな知っているように、ヒストリアは心の声をふたたび押し殺したのではなく、むしろ自分の心に従ってそうしたのです。
問題は、なぜそうしたのかということ。
自分自身を取り戻したヒストリアは、なぜ女王になることを選んだのでしょうか?
回答: 「自分なんかいらない」と「泣いて」いる人たちを助けたい、という願望を叶えるため。
これが理由の一つであることは確かです。てか、エレンがそう言っていますしね(70話)。
せっかく権力の座に就くんだから、ほんとうにやりたいこと、やるべきことは実現してやろうと。
そういう意気込みでヒストリアは、降って湧いたような新しい役割を、自分自身の心からの願望や信念と一致させたわけです。
しかしながら、女王になって何をするかは、ヒストリアにとって副次的な理由でしかありません。
ヒストリアにとっては、王位に就くこと自体が重要だったと見るべきです。
そのことが、かのじょの実存にかかわる決定的な意味を帯びたのです。
どういうことか?
ヒストリア自身が称するように、それは「初めて」の「親子喧嘩」だったのです。
この「親子喧嘩」を、ヒストリアは長い自分探しの旅の最終目的地に定めたのです。
でも私... これが初めてなんです 親に逆らったの...
私が始めた親子喧嘩なんです (68話)
「親子喧嘩」を、父殺しをつうじた、アイデンティティの獲得。
なんてフロイト的な響きでしょうか。
そう、ヒストリアにとって「壁の王」になることは、フロイト的な自我形成の試練を通過することだったのです――ただし、フロイト自身は想定していなかったようなかたちで。
内なる父親=規範としての超自我
精神分析学の親玉フロイト(1856-1939)は、近代人の精神病の秘密を、幼少期の家族生活のなかに見出しました。
幼児の親との関係は、個人の自我形成に決定的な影響を及ぼしますが、それをフロイトは、リビドー(原初的な性エネルギー)という概念によって説明します。
幼児のリビドーと聞くと、おぞましく感じられるかもしれませんが、思春期以降の人間の明確な性的欲求とは異なる、いまだジェンダー的な意味体系によって加工されていない身体的快楽と考えればいいでしょう。
フロイトによれば、はじめ幼児は、自分の身体の統一的イメージをもたないまま、みずからの諸部位(おもに口、肛門、ペニス)にリビドーを感じています。
この状態から、自分自身の統一されたイメージを、ひいては自他の区別をもつ、より発達した自我への移行は、どのようにして達成されるか?
それは両親の、とくに父親の権威を、幼児が自我に「投影」することによってだと、フロイトは言います。
つまり、自分をしかりつける親のまなざしや声を、自我のなかに取り込むということですね。
この内なる父親、内なる規範、自我における自我を超えるものを、文字通り「超自我」とフロイトは名づけます。
自我に投影された父親または両親の権威は、自我のなかに「超自我」の核を形成する。
フロイト「エディプス・コンプレックスの崩壊」『エロス論集』所収
超自我は、どういう風に確立されるのか?
幼児がリビドーを感じるしぐさを、親に咎められることによってです。
「オチンチンをいじるんじゃありません」と。
「お行儀悪いことをしていると、それを切ってしまいますよ」と。
そういう叱り方でなくとも、幼児が男性器をあけっぴろげに、または面白がって扱うことを、親はなんらかの言い方で咎めるもの。
フロイトによれば、このことは幼児に去勢不安を与えます。
いわゆるエディプス・コンプレックスも、この去勢不安をめぐって生じるものと説明されます。
リビドーを満たしてくれる母親との愛着を、父親は断ち切ってしまう。
しかし父親に反抗しても勝つことはできず、逆に制裁を、去勢を受けるかもしれない。
(ここでいう「去勢不安」とは、幼児特有の身体的な全能感を奪われることへの、ばくぜんとした恐れと考えてもいいかもしれません。)
それでは、この居心地悪い去勢不安から脱するために、幼児はどうすればいいのか。
一つの解決は、父親を排除することですが、もちろんそれは不可能です。
もう一つの解決は、父親に同一化すること、すなわち、自分には敵わない去勢されざる権威的存在を、自分自身の鏡とすることです。
かれのように生きれば、きっと自分も去勢されはしないだろう、というわけです。
こうして内なる父親が、つまり超自我が、いつしか幼児の自我に与えられます。
幼児の自我は、同一化をつうじて他者を取り込むことによって、法と掟の世界に、理性と禁忌の世界に、足を踏み入れるのです。
女児の自我形成
以上から分かるように、フロイトによる自我形成の筋書きは、オトコノコを標準とした物語です。
もともと男性器がない女児の自我形成においては、去勢不安のかわりに「男根羨望」が役割を演じるとフロイトは説明します。
つまり、自分にないものをもっている権威的存在としての父親に対して、女児は一定のコンプレックスをもつというのです。
しかしそれはフロイトによれば、去勢不安に襲われる男児のそれほど強力なものではありません。
そして、女児の相対的に微弱なコンプレックスは、権威の象徴としての父親ではなく、権威につき従う存在としての母親に同一化することで解消されるというのです。
女児においては去勢不安が取り除かれているために、超自我の形成と幼児的な性器体制の消滅のための強力な動機が欠けている。......自分を母親の位置に据え、父親に対して女性的な態度を示すという範囲を越える場合はほとんどないようである。
フロイト「エディプス・コンプレックスの崩壊」『エロス論集』所収
要するに、女児が獲得する「女性的な」自我は、男児のそれとは違って、弱い超自我によってしか制御されていないということです。
だから女性は、男性と比較して、情念に対する理性の支配力があまり育たず、自制心や克己心に乏しい、というわけです。
だから女性は、みずからの微弱な超自我の役割を補ってくれる外的権威に、つまり父や夫などの権威に服するのが自然である、というわけです。
このようにフロイトの自我論は、あきらかな偏見を、性差別を含んでいます。
ところがフロイト自身は、この違いは自然の性差にもとづくものであって、フェミニストが男女の平等を謳おうがどうしようもない不動の条件だと考えていました。
もしかれの言うとおりだとすれば、そもそも女性は父親に同一化したり、父親の権威的地位にとって代わろうとしたりする意欲を生来もたない、ということになってしまいます。
あるいは、かりにそういう意欲をもったとしても、権威的存在にふさわしい資質において、すなわち理性や法をつかさどる能力において、かならずや男性に劣るだろう、ということになってしまいます。
ヒストリアの超自我
そういうわけでフロイトの自我論は、科学的観点のみならず、文化的およびジェンダー的な観点からも批判されてきました。
そういう批判や論争の歴史を見る余裕はありません(筆者もよく知らないし、ブログのためだけに調べる気にもなれませんので)。
そのかわりに、二つの問いを立ててみましょう。
第一に、父親との同一化をつうじてしか、自我は十全に形成されないのか?
第二に、超自我(同一化をつうじて自我に取り込まれた他者)とは、リビドーに対する禁忌や、情念に対する理性としてしか、つまり自我の自然的・本能的部分に対する命令者としてしか、考えることはできないのだろうか?
ヒストリアのエピソードは、これらの問いに対する(唯一の、では決してないにせよ)一つの回答を示してくれることでしょう。
ロッド・レイスに丸め込まれそうだったころのヒストリアは、フロイトのいう「女性的」で「弱い」自我を、たしかに体現していたように見えます。
かつて自分を見捨てたくせに、自分に利用価値があると見るや甘い言葉をかけて近づいてくる、そういう利己的で疎遠な父親でしかないロッドに、それでもヒストリアは従順であろうとしました。
フロイト的構図に当てはめれば、こんな風に説明がつくでしょう。
父親が不在で、母親にも親としての役割を果たしてもらえなかったヒストリアは、安定した自我を確立できませんでした。
むしろそれゆえにこそロッドは、遅れて娘のもとに現れたくせに、かのじょの薄弱な自我につけ込んで、温情あふれる命令者としての父親の役割を、たやすく演じることができたのです。
しかもヒストリアは、呼び覚まされた記憶のなかのフリーダに同一化し、受動的美徳としての「女の子らしさ」をふたたび受け入れかけていました。
そのままヒストリアが父に従順な娘になってしまう可能性は、大いにあったわけです。
超自我としての父親が、ヒストリアの自我において不在だったことは確かでしょう。
でもかのじょは、それとは違う「超自我」をもっていました。すなわちユミルです。
遅れて外からやってきた命令者(父ロッド)の言いなりになろうとしていた、その瞬間にヒストリアは、かのじょの自我の一部となっていたユミルに、別のことを命じられたのです。
「お前... 胸張って生きろよ」と。
その意味を、このときヒストリアは完全に理解したのでした。
すなわち、それは自己を解放したいというユミル自身の願望であり、ひいてはフリーダの抑圧された願望、そして自分自身の真の願望であるのだと、ヒストリアは悟ったのです(4.5.c を参照)。
ヒストリアの自我におけるユミルを、かのじょの「超自我」と呼んでいいかどうかは、見解が割れるところでしょう。
超自我を厳密に、自己抑制や自己懲罰をつかさどる部分とするなら、別にユミルはそういう役割をヒストリアの内面において演じたわけではありません。
しかしながら、もし超自我を、もっぱら情念の支配者としてではなく、ルソーが情念から区別した内的感情の守護者や教育者としても理解できるとしたら、どうでしょうか?
まさにユミルは、そのような内面的守護者として、父に利用されるところだったヒストリアを救ったのだと言えます。
(そう考えると「超自我」よりも「自我理想」という用語のほうがふさわしいかもしれません。でもそうすると「超自我」と「自我理想」とは関連性があるのか、それともまったく別の精神的機能なのか――どっちの説もある――という、別の面倒な問題を扱うハメに陥るので、脱線は避けます。)
こうして自分を取り戻したヒストリア。
エレンがもつ「力」を巨人化したロッドに返してはならないとハンジさんたちに進言したあと、かのじょはエレンに言います。
あのとき自分は、ほんとうにエレンを喰おうと思っていたのだと。
しかもそれは使命感からではなく、父は正しい、ほかならない自分自身を父は愛し、認めてくれるはずだと、そう信じたかったからにすぎないのだと。
そんな愛も承認も、あの父親から得られるはずはなかったと悟り、一瞬、悲しみに表情を歪めるヒストリア。
しかしすぐに、力のこもったまなざしで、かのじょは言葉を継ぎます。
「でも もう... お別れしないと」と(67話)。
みずからの使命を見つけたヒストリア
あの自滅的な承認願望をもった「女の子」は、もはやどこにもいません。
そこにあるのは、フロイトのいう男性よりも弱い自我しかもたない女性とは、似ても似つかないヒストリアの姿です。
かのじょは「自分の運命に決着をつけ」るため、上官の命令に逆らい、父ロッドの巨人との戦いに加わることを決断しました――あのこわーいリヴァイ兵士長にすら逆らって(67話)。
さらには、かのじょを思いとどまらせようとするエルヴィン団長をも、ヒストリアは「自分の果たすべき使命を自分で見つけた」という理由で、逆に説き伏せようとします。
かのじょの使命とは、たんにお飾りの「壁の王」に担ぎ上げられるのではなく、旧い「壁の王」を、その思想とともにみずからの手で葬り、そのうえで自分が新たな王位に就くことです。
そのような決意に突き動かされるヒストリアの姿は、むしろそれを見た男の子(エレン)に、自分の弱さをまざまざと自覚させたのでした(68話)。
もはやヒストリアに怖いものなし!
生前のリーブス会長の冗談に乗っかって、兵長をぶん殴ることだって朝飯前だッ!
さすがヒストリア! おれたちにできない事を平然とやってのけるッ! そこにシビれる! あこがれるゥ!
こうして、みずからの使命を見つけたヒストリア。
かのじょに「自我の弱い女」とマウントをとることは、もはやどんな男にもできません(もちろん誰に対してであれ、そんなマウントをとるのは軽蔑すべきことですが)。
フロイトの想定とは異なるしかたで、つまり「去勢不安」をつうじた「男児」の自我形成とは異なるかたちで、ヒストリアは確たる自我を作り出し、自己の運命の主人になることができたのです。
そんなヒストリアとともに、われわれは上に立てた問いに対して、いまや次のように答えることができるでしょう。
回答1: 同一化の対象が父親であろうがなかろうが、自我は十全に形成されうる。
回答2: 同一化をつうじて確立される超自我とは、つねにもっぱら自我に対する命令者であるとはかぎらない。自我に取り込まれた他者は、わたしが何者であるかを告げ知らせるわたしの内的感情を守り、育むことにも寄与しうる。
unfreiefreiheit-aot.hatenablog.com