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始祖ユミルの苦しみと願望
生まれないことが奴隷の幸福であるという、呪詛のごとき信念から解放されたジーク。
でも、ついぞかれは、始祖ユミルが何を欲していたのか理解できませんでした。
それこそまさに、かれがエレンに敗北した理由だったのですが。
唯一ジークに見当がついたのは、ユミルがなにか「未練」を抱えていたということ。
とはいえ、すでに読者には、手がかりが与えられていました。
少女のころ、奴隷の日課を務めるあいだに足を止め、結婚式の様子に見入っていた始祖ユミル(122話)。
さらに、最終回でエレンが報告したところでは、なんとユミルは、かのじょを奴隷扱いするだけであったフリッツ王を愛していたというのです。
かのじょは自由を求め、苦しんでいながら、それでも同時にフリッツを愛してもいたのだと。
えーそれエグすぎじゃない?
奴隷が主人に向ける一方通行の愛なんて、DV気質のキモ男に好都合な妄想だと非難されても、文句は言えないでしょう。
とはいえ作者・諫山は、この話を考えなしに描いたわけではなさそうです。
なぜ始祖ユミルはフリッツを「愛した」のか?
この問題は、なぜユミルが救われるためにミカサを必要としたのかという、この作品の最終的な謎にも関わってくるものです。
それを解き明かすには、多くの段階をふまねばなりません。
ともあれ、まずは始祖ユミルを考察してみることにしましょう。
戦士の自由と女性の隷従
始祖ユミルについては、ひきつづきヘーゲルの弁証法的構図が、考察の手がかりを与えてくれるはずです。
ヘーゲルによれば、みずからの命をあえて危険にさらす戦士は、奴隷を従え、自由な身分を享受します。
他方で、主人に奉仕する奴隷は、やがてみずからの労働をつうじて自由を知ることになりますが、さしあたりは恐怖に屈し、主人の所有物となっています。
このことは、以前にも紹介したボーヴォワール(4.4.a 参照)によれば、ジェンダー的非対称性、いわゆる男尊女卑の問題にも当てはまります。
男性による女性の支配がいつ、どのようにはじまったのかを解き明かすために、かのじょはヘーゲルの「主人と奴隷の弁証法」を念頭に置いているのです。
男尊女卑の歴史は、ボーヴォワールによれば、女性が戦士の仕事から締め出されたことではじまりました。
命をかけるという特権的な仕事を独占した男たちは、次のことを証明する機会をも独占したというのです。
わたしはこの動物的な生命活動と同じものではなく、それ以上意味をもつ存在であると。
すなわち、わたしは「自己意識」であると。
自分の属する部族や氏族の威信を高めるために、戦士は自分の生命を賭ける。そうやって、人間にとって最高の価値は生命ではないこと、生命は生命それ自体よりもっと重要な目的のために役立てねばならないことを、みごとに証明するのだ。
男女の身体能力の差や、妊娠することなどを理由に、女性は戦争から締め出されてきました。
この点について、ボーヴォワールはいいます。「女に重くのしかかっている最大の不運は、女がこうした戦士たちの遠征から除外されていることである」と。
しかしそれでも、石器時代の原始的な農耕においては、畑仕事にあまり大きな労力は必要ないので、農作業は女の仕事でした。
家内工業も、商業も、女性が担っていました。
そして女性には「産む性」としての、決定的に重要な役割がありました。
これらの役割を担う女たちによって、氏族の生命は維持され、繁殖します。
だから石器時代には、いまだ女性の従属は、完全には成立していなかっただろうとボーヴォワールは推測します。
ついに男性が優位を確立するのは「作る人間(ホモ・ファーベル)の時代」において。
銅や鉄による新技術を覚えた男たちが、戦争のみならず生産労働からも女性を締め出すことに成功します。
かくして男は「自然の征服者」としての「能動的自己」を確立するのです。
かつて自然に支配されていた人間=男(man, homme)は、ここでは財産所有者として現れます。
いまや男は「ひとつの魂とひとかどの土地を所有する」主人であり、この財産を維持するために、女と子孫を支配しようとするのです。
こうしてボーヴォワールによれば、男=「戦う性」が財産所有者としての、つまり主人としての権力を独占するとき、女性の隷従が確立されます。
財産所有者の地位をもって男性が女性を支配することを「家父長制」といいます。
始祖ユミルにおける奴隷状態と女性の隷従
架空の話ではあれ、始祖ユミルの時代においても、ボーヴォワールが説明したような様式において、男性優位が、ひいては家父長制が、成立していると見ていいでしょう。
フリッツ王らの時代には、すでに鉄が利用されています。
そして、奴隷が存在します。
奴隷とは、財産のための存在、すなわち、家族だけでは維持できない大きな家や、家族だけでは耕せない大きな土地で働かせるための存在であり、かつ、その存在自体が財産です。
したがって、奴隷ユミルの背景には、男が戦う性かつ主人としての権力を掌握した社会が存在しているのです。
だとすればユミルは、奴隷制だけでなく、家父長制という鎖にもつながれているのです。
では、どうすれば始祖ユミルは自由になれるか?
一つは、逃げること。
ただし、逃亡奴隷が逃げきるのは難しかったでしょう。
逃げた先に、その奴隷を自由な仲間として迎えてくれる共同体があればいいのですが(せいぜい故郷くらい)、そうでなければ森の中でサバイバル生活(それが可能だとして)くらいしか自由に生きる方法はありません。
つまり逃亡は、居場所を失うことと同義であり、さらには、死とさえ隣り合わせなのです。
豚を逃がした罪を咎められたユミルの身に、何が起きたかを思い出してみてください(122話)。
かのじょをフリッツは「自由」にしてやりましたが、しかしそれは、つまるところ死と同義でした。
ここでの奴隷解放宣言は、奴隷ユミルを、誰にも属していないが、同時に、どこにも居場所のない存在に、またしたがって、動物のように狩りの標的にされても構わない存在にされることを意味したのです。
この場合、奴隷ユミルは逃亡を企てたわけではありませんが、その結果は逃亡とほぼ同じです。
居場所を失うこと、そして、死の脅威のなかに放り出されること。
こうして逃亡が不可能だとすれば、ユミルがフリッツらとともに属する社会のなかで、かのじょは自由になるしかありません。
フリッツらが財産主としての権力を、家父長的権力を握っているのは、かれらが「戦う性」であるからこそ。
でも、巨人の力を手に入れたユミルは、戦争に参加したではありませんか?
「産む性」でありながら、戦士にもなったのではないでしょうか?
巨人の力を手に入れた奴隷ユミルを、はじめフリッツ王は生産力としてしか活用しませんでしたが、後には軍事力としても利用しました(122話)。
でも、だからといってユミルは「戦士」になったわけではありません。
命をかけることをつうじて、みずからの自由を他者に証明する機会を、かのじょが獲得できたわけでないのです。
戦士が命がけで自分の自由を証明できるのは、かれらが人間としての生命を危険にさらすからこそ。
圧倒的な力で敵国を蹂躙する巨人ユミルは、ほとんど生命を危険にさらしていません。
そもそもかのじょは、人間あるいは女として戦争に参加しているわけではないのです。
むしろ、相変わらずユミルは、フリッツ王への奴隷的奉仕の一環として、巨人の力で敵軍を叩き潰すという労働をしているにすぎません。
巨人ユミルにとって戦争は、みずからの自由を証明する行為とはなりえないのです。
巨人になれる始祖ユミルが、力づくでフリッツの支配から脱することはできたでしょう。
しかしその場合にかのじょは、人間としての自由ではなく、まるで神話や伝承における怪物がもつような自由しか得られなかったでしょう。
そもそもユミルは、そのような考えが頭に浮かぶことすらなかったのだと思われます。
かのじょの願望は、人間として、女性として、自由になることだったようです。
でも、どうやって?
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