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ヒストリアの鏡としてのユミル
前記事では、ユミルにとってヒストリアは過去の自分自身だったと指摘しました。
同じように、ヒストリアもまたユミルに自分自身を見出すようになります。
そもそもは、ユミルがヒストリアに過去の自分を投影しただけのはず。
しかしながら、そのことをユミルが雪山で白状した後には(40話参照)、ヒストリアもまたユミルに自分を投影するようになったのです。
ウォールローゼ内に巨人が出現、どこの壁が破られたのか調査に向かう途上のエピソードを見ましょう(37話)。
ヒストリアの身を案じるユミルに、ヒストリア(まだクリスタだけど)が尋ねます。
なぜ調査兵団入りを選んだのか? 自分が調査兵団入りを選んだからではないのか?
そもそも訓練兵の成績上位10番以内に自分が入ったのも、ユミルがなにか細工をしたから、憲兵団入りの権利を自分に渡そうとしたからに違いないが、なぜそこまでするのか?
返答に窮するユミル。でも、ヒストリアが「私の... 生まれた家と関係ある?」と推測を働かせてくれたおかげで、もっともらしい受け答えが見つかりました。
ユミルは言います。「ここにいるのは すべて自分のためなのだ」と。
これは自己欺瞞ではありません。このセリフは、ユミル自身にとっては真実です。ヒストリアにこだわる理由がかのじょにはあるのですから。
でもヒストリアに対しては、これはごまかしです。なにか利己的な動機をも自分はもっているのだとヒストリアには思わせようとしたのです。
ユミルの狙いは図に当たったようですが、むしろそれを聞いたヒストリアは「よかった」と安堵させられたのでした。
このエピソードには、読み流されがちながら、重要な意味が込められています。
かくいう筆者も、これを48話の伏線としか思っていませんでした。
(ユミルはヒストリアを壁外に連れていくことを納得させようとして、自分が助かるために壁内の重要人物ヒストリアを手土産に使うのだと、かのじょに嘘をつきました。これをヒストリアが信じてくれたのは、上の会話が効果を発揮したからだと解釈できます。)
でも再読してみて、それだけではないことに気づいたのです。
この会話は、訓練兵時代における雪山での会話の続きでもあるということに。
あの場面でユミルが述べたことについて、想起されるべき点は二つあります(40話)。
第一に、ヒストリアの境遇が自分のそれと似ているとユミルが告白したこと。
第二に、しかしながら両者の生き方は対極的であり、他人に認められることを求めているヒストリアとは反対に、自分は自分のためだけの生き方を貫いているのだとユミルが指摘したこと。
ヒストリアにとって、これらがどういう意味をもったかを考えてみましょう。
まず、自分と同じように、ユミルは生来、運命がもたらした重荷を背負わされているのだとヒストリアは知りました。
でもそれにもかかわらず、ヒストリアとは違って、ユミルは運命に対する自由を享受しているのです――ヒストリア自身が心の奥底では渇望しているであろう自由を。
だとすれば、この雪山での件以後、ヒストリアにとってのユミルの存在は、そうなりたい自分を、すなわち理想の自我を映し出す鏡となったはずです。
ユミルに同一化するヒストリア
前記事で見たように、ユミルにとってヒストリアは、否定されるべき過去の自分です。
いまやヒストリアもまた、ユミルに自分自身を見出しますが、ただしそれは理想の自分、そうありたい自分です。
似た者同士だけど、どこか食い違っている二人の関係。
この関係を念頭に置きつつ、壁の調査に向かう途上の会話に戻りましょう。
このときヒストリアの心のなかでは、ユミルの言動につねづね抱いていた困惑が大きく膨らんでいました。
自分のためだけに生きていると称するユミルが、なぜ身の危険も顧みず、いつもヒストリアのことを気にかけるのか。言っていることとやっていることが全然違います。
これはヒストリアには困ったことです。
もう一人の自分を、それも、運命に対する自由を謳歌する理想の自我を、せっかくユミルに見出せたと思っていたのに、実はそれとは違う行動原理がユミルを動かしているように見えるのですから。
「推しが解釈違いでツライ」状態を起こしているわけです、ヒストリアは、ユミルに対して。
ここではまだ、ヒストリアは自己欺瞞的です。
みずからの心の願望を、すなわち運命から解放されたいという渇望を、自分自身のものとして認めず、ユミルに投影しているからです。
とはいえ、こうしてユミルを鏡とすることによって、ヒストリアが自分自身を直視し、自己欺瞞から脱するための準備は整いつつあります。
※ 併せ読みがオススメ
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ついにヒストリアが自分を解き放ったのは、ユミルが無垢の巨人と戦うために巨人化したときです。
「顎」の能力があるとはいえ、多数の巨人に囲まれてしまい、窮地に陥るユミル。
それを見て、ヒストリアが突如、弾けたように叫びます。
そんなにかっこよく死にたいのかバカ!!
性根が腐り切っているのに今更天国に行けるとでも思ってるのか このアホが!!
自分のために生きろよ!!
こんな塔を守って死ぬくらいなら もう こんなもんぶっ壊せ!! (41話)
清々しいまでに口汚い罵詈雑言と、クレイジーな提案。それまでかのじょが演じてきた「クリスタ」には、まるで似つかわしくありません。
ユミルの「胸張って生きろよ」という言葉に呼応して、いまやヒストリアは心の声を、運命を恐れず自由に生きたいという願望を、解き放ったのです。
ヒストリアがユミルという他者に入れ込み、ユミルという他者に深く同一化していることは確かです。
でも、まさにこの同一化は、他者=ユミルという鏡に映った「ほんとうのわたし」を、ほかならぬ自分自身の姿として引き受けることを意味します。
そうしてヒストリアは「クリスタ」を演じる自己を放棄し、自分自身になったのです。
自我の鏡像的形成
自己の「鏡」としてのユミルへの同一化をつうじて、ヒストリア「ほんとうのわたし」を引き受けることができました。
この構図、人が他者を鏡として自我を作り出すという構図は、じつは普遍的なものです。
これを自我形成における「鏡像段階」として説明したのは、精神分析家ラカン(1901-81)でした。
言うこと書くこと、すべてワケワカランとの定評のあるラカン先生ですが、比較的若いころ思いついた概念だからか、かれの「鏡像段階」の考察は、まだ分かりやすいほうなので取りあげてみましょう。
ラカンのいう鏡像段階とは、他人が鏡の役割を果たすことによってのみ自我は作り出される、ということ。
人はみな赤ちゃんのころを思い出せませんので推論してみると(「わたし前世の記憶あるよ」とかいう話は、ここではやめときましょうね)、赤ちゃんの意識においては、どうやら自分と世界の境界線が不分明であるようです。
だから自分の足をつかんでムシャムシャしゃぶりついたりしちゃうわけですよね、赤ちゃんって。
それが自分の一部とは分からない、だってそもそも「自分」という観念がないから。
では、どうやって自我が幼児の意識に与えられるかというと、なんとなく自然にそうなるように見えるけど、じつは眼前に映る他人を鏡にして、外界から区別されるべき自分の身体の観念をしだいに形成していくのではないか。
かんたんに言えば、これが鏡像段階論です。
重要な点は、ラカンいわく「この形態〔他者が鏡となる構図〕が自我を、それが社会的に決定されるより前から、ただの個人にはいつまでも還元しえない虚像の系列のなかに位置づける」という点。
つまり、鏡の像がわたしの虚像でしかないように、わたしは「ほんとうのわたし」を、つねに他者の姿=「虚像」を介してしか認識しえないのです。
自己の発見とは、つねに他者を媒介してしか可能ではありません。
逆にいえば、他者との「同一化」は「ほんとうのわたし」を発見する機会となりうるのです。
さらにラカンは、自我の鏡像的形成を「弁証法的綜合」(弁証法とは「わたし」が「非わたし」を通じて作り出されるということね)とも呼びますが、しかしこの「綜合」はいつまでも完成に達することはない、とつけ加えてもいます。
つまり、他者という鏡をつうじて自己を認識するプロセスは、幼児のうちに自我が形成されれば完了というものではなく、人生においてずっと続くのだというわけです。
(ラカン『エクリ 1』所収の「《わたし》の機能を形成するものとしての鏡像段階」を参照。)
鏡を失ったヒストリア
自我の鏡像的形成。
ヒストリアが本名を名乗るにいたる自己確認の過程に、この構図はぴったりきます。
そして逆に、ユミルとの別離によって、ヒストリアがアイデンティティの危機に陥ってしまったことも、それは説明してくれます。
ヒストリアが「ほんとうのわたし」を見るためには、ユミルという「鏡」が必要でした。他のどんな「鏡」でも、そうはいかなかったでしょう。
ユミルこそが「私も知らない本当の私を見てくれた」のだと、ヒストリアは述懐します。
ところが、おたがいの真の理解者になれたとヒストリアが思った矢先に、ユミルはまったく理解できない行動をとりました。自分の意志でベルトルトとライナーを助けにいき、そのまま戻らなかったのです。
ようやく見つけた「ほんとうのわたし」を、すなわちユミルという鏡に映る「わたし」の姿を、ユミル=鏡の喪失によって見失ってしまったヒストリア。
こうしてかのじょは、もはや「自分が何者なのか」すら分からなくなってしまったのです(54話)。
とはいえ、かのじょはクリスタを演じる自分に逆戻りしてしまったわけではありません。
エレンはかのじょに率直に伝えました。かつての「クリスタ」はどこか不自然だったけど、いまのヒストリアは「ただバカ正直な普通のヤツだ」し、そっちのほうがいいと(54話)。
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