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父殺しの物語
ついにヒストリアは「自分の使命」を「自分で見つけ」ました(68話)。
それは、ただお飾りの王位に就くことではなく、旧「壁の王」の体制と思想をみずからの手で否定し、新しい体制と時代の象徴としての王になることです。
それはまた、一個の実存としてのヒストリアにとっては、かのじょが強いられてきた長い自分探しの旅を終わらせることでもあったはずです。
すなわち、自我形成の試練を最終的に克服するために、自分が始めた「親子喧嘩」(68話)に決着をつけるべしと、かのじょは自分自身に命じたのです。
こうして見ると、ヒストリアの使命または試練は、フロイトのいう「父殺し」(英:patricide、独:Vatertötung)に当てはまることが分かります。
このことには非常に興味をそそられます。
というのも、エディプス・コンプレックスや「去勢不安」の話がそうであったのと同様に、この「父殺し」もまた、男を標準として作られた、男のための自我形成の筋書きであるからです。
つまり、息子ではなく娘が「父殺し」をつうじて自我を確立するというのは、フロイトがまったく想定していなかったプロットなのです。
実際、現代の映画やらマンガやらの大衆向けフィクション作品でも、やはり「父殺し」や「親子喧嘩」をつうじた自我形成のドラマを演じるのは、たいてい父親と息子です。
(そういうことがたくさん書いてあるらしい本、筆者は未読 ↓)
上の文献は、かなり広い意味で、すなわち、象徴的な意味において父親を乗り越えることも込みで「父殺し」と言っているようです。
しかしフロイト自身は、神話や文学作品のような架空の題材においてではあれ、文字通り「父を殺す」ことを問題にしています。
父を殺したから何なのかというと、このできごとが人間を、粗野な暴力と欲望の世界から、文化と法の世界へと引き入れるのだというのです。
フロイトによれば、父親の排除をあきらめた幼い息子は、父親との同一化をつうじて規範を内面化します(超自我としての父親)。
ところが逆に、もし息子がじゅうぶんに強く育って父親の排除に成功したとしても、殺された父親は、こんどは罪悪感の源泉として息子の自我に入り込み、やはり息子の超自我または内なる規範と化すというのです。
つまり、父を殺すことをつうじて、逆説的にも息子は父と同一化します。
『トーテムとタブー』
上記のようなことをフロイトは、たとえばドストエフスキーの小説について論じています。
しかし以下では、有史以前からの古い道徳規範である近親性交タブーに迫った『トーテムとタブー』を取り上げてみましょう。
同書でフロイトは、原始人類の名残りをもつと見られる世界各地の諸民族が、トーテム信仰と近親性交タブーという二つの共通点をもつことに着目します。
トーテム信仰とは、ある親族集団が、なんらかの動物や植物を共通の崇拝対象(トーテム)としてもつことを指します。一般にトーテムは、一族の祖先と結びつけられています。
近親性交タブーは、説明するまでもなく古今東西、普遍的に見られる禁忌です。
共通のトーテムをもつ集団は、近代家族よりも広い親族集団であって、しばしば実際の血のつながりは薄いものの、それでも同族間の性交や結婚はタブーとされます。
トーテム信仰と近親性交タブーには関連性があるという見解を証拠づけたうえで、さらにフロイトは、トーテム動物が通常は神聖不可侵でありながら、周期的に生贄にもされることに注目します。
一族の個人がトーテム動物を屠殺するのはタブーなのに、それを集団で殺害し、食べ尽くすことは祝祭なのです。
このことから、フロイトは想像を飛躍させます。
トーテム動物は、一族の祖先たる「原父」の代替物なのではないかと。
かつて原初の父は、不可侵の存在でありながら、一族の息子たちによって殺されたのではないかと。
ふだんは不可侵であるトーテム動物を生贄とする祝祭は、この原父殺しを象徴的に再現しているのではないかと。
フロイトの想像する原父殺しとは、こういうお話です。
想像上のもっと原始的な共同体において、一人の暴力的な父が、一族における全ての女を独占していた。
成長した息子たちは、同族の女性たちに手をつけることを許されず、一族から追放された。
息子たちは、この暴力的な父を恨むとともに、かれに憧れ、かれに羨望を抱き、かれに取って代わりたいという望むようになった。
こうして、ある日「追放された兄弟たち」は、父親を殺すために「共謀」した。
かれらは「父を殴り殺し、食べ尽くし、父の一族に終焉をもたらした」のである。
トーテム集団の祝祭は、この粗暴かつファンタジックなできごとの象徴的再現にほかならない。
暴力的な原父(げんぷ)は、息子たちにとって羨望されも畏怖されもする模範像であった。そこでかれらは、食べ尽くすという行動によって父との同一化をなしとげ、父の強さの一部を自分たちのものにしたのだった。おそらく人類最初の祝祭であるトーテム饗宴は、この記念すべき犯罪行為の反復であり、記念式典なのであろう。
ところが、父を殺し、その力を取り込もうとして父の骸を食い尽くした息子たちは、父と同じように女を独占し、欲望を満たすことができなくなったと考えられます。
なぜか。
憎悪も敬愛もしていた父親を殺したことに、かれらは「後悔」と「罪責」を感じたはずだからです。
あたかも殺された父親が、生前より強力な権威者となったかのよう。
それゆえに息子たちは、神聖不可侵のトーテムを崇拝することで罪悪感の解消を試みるとともに、同族の女性との性交をひきつづき禁忌と定めたのでした。
父を排斥し、自分たちの憎悪を満足させ、父との同一化の欲望を実現してしまったあと......後悔とともに罪責の意識が発生した。死者はいまや、生きていたときよりも強くなったのである。......息子たちは、父の代替物であるトーテムの殺害を不法と公言することにより、自分たちの行為を撤回し、自由に手を出せるようになった女を諦めることで、その行為の果実を断念した。
こうして人類は、原初的な宗教意識(祖先崇拝)と文化的規範(近親性交タブー)とを作り出したのだと、フロイトは想像します。
「原父」への「反抗」と「罪責意識」との葛藤こそが、集団としての人間に対して「超自我」を、すなわち、掟を、禁忌を、善悪の観念を、彼岸の世界における存在への崇拝を、つまるところ文化を、人間に与えたというのです――エディプス・コンプレックスに置かれた幼児に対してと同じように。
娘の父殺し
こうして「父殺し」とは、粗暴な力と欲望に駆り立てられる男たちを、法と文化の世界に導き入れる儀式ということになります。
しかしヒストリアが、そういう儀式としての「親子喧嘩」に挑み、父を殺し、その地位を奪い取ったというのは、明らかに正しくありません。
フロイトの物語における「息子たち」とは違い、ヒストリアは父が独占していた享楽を奪い取ろうとしたわけでもないし、父と自己同一化したわけでもありません。
かのじょが王位に就いたのも、父親の地位を奪ったわけではありません。むしろロッド家は、みせかけの王政を影で操る統治者でしたが、むしろヒストリアの即位は、そのようなレイス家の支配の否定を意味します。
ヒストリアの「親子喧嘩」は、この「娘の父殺し」は、フロイトの物語と何が違うのでしょうか?
第一に、フロイトの筋書きにおいては、父殺しの結果として超自我(掟)が獲得されるのに対して、ヒストリアの父殺しは、超自我(掟)による抑圧を克服することだったのです。
ヒストリアがクリスタをやっていたあいだ、父ロッドはかのじょの超自我でした。
別人を演じることでのみ、お前は生き延びることを許される――闇夜で一度会っただけの父親が与えたこの掟は、その後のヒストリア=クリスタの人格そのものを規定する超自我の命令となりました。
ヒストリアに「優しい女の子」という型を与えたのはフリーダでしたが、この型にかのじょを押し込めたのは父親ロッドだったのです。
フロイトのいう超自我は、弱すぎても強すぎても、人格の健全な発展を妨げます。ヒストリアの場合、かのじょの自我に対する超自我の支配は強すぎたと言えるでしょう。
そして、自分を見失ったヒストリアの前にふたたび現れた父親は、またもやかのじょを「優しい女の子」(この場合は「よい娘」)の型に押し込め、その優しさにつけこもうとしたのでした。
しかしついに、そのような父親のもくろみをヒストリアは拒否しました。
生身の父親の命令を拒否することによって、同時にかのじょは「優しい女の子」という型から自己を解放し、超自我(=内面的な掟としての父親)による抑圧をも克服したのです。
第二に、フロイトによれば父殺しは「息子たち」に罪の意識をもたらすのに対して、ヒストリアの父殺しは、父親自身にはついぞ達成できなかった自己解放の代行でありました。
前の記事(4.5.c)で述べたように、ヒストリアの自己解放は、かのじょの鏡であったユミルやフリーダの解放を代行することでもありましたが、それに留まらずヒストリアは、父ロッドをも解放したのです。
フリーダだけでなく、ロッドもまた運命の囚われ人でした。
かれ自身すら、レイス家の自滅的な平和思想を実現するための道具でしかないということを、ロッドは受け入れていました。
でも、ほんとうはロッドもかれなりに苦しんでいたのです。
「初代王の思想」には屈しないと言っていた娘が、実際に「始祖の巨人」を継承した瞬間、その思想をも引き継いでしまったことを思い出し、一瞬、遠い目をしたロッド(64話)。
当初のフリーダの意志は、もともとはロッド自身の意志でもありました。
かれ自身が「初代王の思想」に疑問を抱いていたのです。それを克服すべく、みずから巨人を継承しようとすらロッドはしていました。
ところが、その役目をかわりに引き受けた、同志であったはずの弟ウーリが、けっきょく「初代王の思想」に屈してしまったのです(66話)。
さらにはウーリから巨人を継いだフリーダもまた「初代王の思想」を共有するのを目の当たりにして(68話参照)、ロッドは運命への抵抗を完全に諦めたのでしょう。
自分の役割は「祈りを捧げる」ことのみ――そうロッドはヒストリアに告げました。
自分自身がそうしたように、ロッドはヒストリアに対しても、運命への忍従を強いようとしたのです。
これを拒否し、自分を運命から解放したヒストリア。
それに対して、もはや後戻りできないロッドはみずから巨人になるしかありませんでした(66話)。
エレンを食べるどころか、壁内を破壊しながら彷徨うしかない、無意味な怪物になり果ててしまったロッド。
もはや人間には戻れない父親と「お別れ」することを、ヒストリアは決意します(67話)。
父殺しを決意した娘は、この戦いを「自分の運命に決着をつけ」る戦い(67話)と、自分がはじめた「親子喧嘩」(68話)と意味づけました。
でもそれだけではありません。
それを娘はあらかじめ知っていたわけではありませんが、それは父親を運命から解き放ち、救済することでもあったのです。
父親をその自滅的な平和思想とともに葬り去ることによって、娘は父親がなしとげられなかった務めを代わりに引き受けたのです――壁内人類の解放という務めを。
父親を斬った瞬間、娘の意識に流れ込んだ父親の記憶(68話)。
これを知ることで娘は、父親自身により放棄された父親の志をも、かのじょ自身の解き放たれた願望のなかに取り込んだのです。
だからヒストリアは、自分の意志で動いているのかどうか分からないまま「この壁の真の王」として名乗りを挙げました。
「本当に...自分の意志で動いているの?」
でも「こうやって流されやすいのは間違いなく私...」
そう心のなかで独りごつものの、ヒストリアは決して「流されて」いるのでも、自分を見失っているのでもありません。
かのじょ自身の心からの願望と、父親が心の奥底に押し殺してしまおうとした願望とが、一つに混ざり合ったのです。
運命に屈したくないという心の叫びを、ヒストリアは自分自身のみならず、フリーダやロッドのものでもあった心の叫びとして実行に移したのです。
自分自身を救った「女神様」
こうしてヒストリアは「父殺し」をなしとげ「壁の王」になりました。
しかしかのじょは、自滅への道を「運命」として強いる、壁内人類の「掟=超自我」ではありません。
尊厳を否定されて苦しむ人々への共感に突き動かされる、ヒストリアはそんなルソー的「良心」を象徴する存在になったのです。
そのことを「牛飼いの女神様」という愛称は表しています。
この「女神様」は、ユミルがクリスタを揶揄して呼んだような「女神様」ではありません。
後者の「女神様」は、かつてユミル自身もまたそうであったような、自己犠牲的な存在でした。
しかし、いまやヒストリアが達成したのは、自己犠牲ではなく自己解放です。
本質的に「男の意識」によって形成された「女神様」。
それは近代のさまざまなフィクション作品において現れる、典型的な女性像です。
物語世界においてかのじょたちは、特別な魅力を付与され、あるいは人知をこえた特殊な能力をそなえています。
ところが、その特別な魅力、その特殊な能力のせいで、かのじょたちは身を滅ぼしてしまうのです。
そういう「女神様」たちが、悲劇的結末を回避し、ただの人間に戻ることもあります。
でもその場合には、男の助けを借りねばなりません。さもなくば破滅です。
かのじょたちは、自分で自分を救済できないのです。
たとえば、以前の記事(2.3.a および 2.3.b を参照)で取り上げた『ファウスト』のグレートヒェンなんか、まさに典型的ですね。
ファウストが無力なせいで、グレートヒェンは発狂し、身を滅ぼしてしまいます。
ファンタジーやSF系のアニメ・マンガ作品においても、そういう「女神様」的な女性が出てくるのは定番ですね。
某ニュータイプとか。
某、空から降ってくるジブリアニメのヒロインとか。
やはり何度か取り上げた某ダークファンタジーのヒロインも、本質的には同じ役回りといえます。
自滅か、他者(=男)による救済か、どちらかしかない「女神様」。
しかしヒストリアは自力で、そんな役回りから自己を解放しました。
いや、まったく独力でそうしたのではないって?
たしかにそのとおり。
でも、かのじょに精神的な励ましを与えたのもまた、女性でした(ユミル)。
主役で男のエレンなど、むしろヒストリアに助けてもらったくらいですしね、命だけでなく精神的意味でも。
男に助けられなくても、自分で自分を解放できる、ヒストリアはそういう「女神様」になれたのです。
自己を解き放ち、みずからの自由な良心にしたがう「牛飼いの女神様」。
「父殺し」を成し遂げ、自分自身の両脚で王位に立つ娘。
そんなヒストリアは、あの「男の意識」が形成した「女神様」とは異なる、新たなヒロイン像を表現していると言えるでしょう――これが男の作者が考えたキャラというのも、また面白いところですが。
(「わたしの内なる声としての自由」おわり)
以下はネタなのであまり真に受けずに読んでもらえれば。
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